10-7
ぴちゃん。
かすかな水音に、ゼノは意識を取り戻した。
湿っぽい、ひんやりした空気。暗がりにぼんやり浮かび上がる石壁。壁面はところどころ苔むし、石材と石材の隙間から、白っぽい茸のようなものが生えている。
何があったかを思い出しながら、そろそろと身を起こす。
見覚えのない狭い空間。石畳の敷かれた床は円形で、筒状の壁には扉も窓もない。見上げれば、はるか上方に円く切り取られたような開口部があり、灯火のものらしい橙色の明かりがにじんでいる。
──枯れ井戸? いや、塔の地下牢か?
座ろうとして足を引くと、金属のこすれる音が響いた。右足首が長い鎖で床につながれている。その向こうに、厠代わりと思われる穴があるのを見て、思わず渋面になる。
──そうだ、喉……。
痛みがないので忘れていた。手を上げて恐るおそる触れてみたが、表面に傷はなく、呼吸にも支障はない。
いや、痛みがなさすぎる……舌に感覚がない……?
「…………」
声が出なかった。
「……。…………!!」
それどころか、舌も動かない。囁き声でしゃべることさえできない。
──そんな……!!
精神的な衝撃で一気に全身が熱くなり、ついで血の気が引いた。
切り札の呪文は、もちろん万能ではない。使えない状況も多いし、役に立たない場面も多々ある。仮にいま唱えることができたとしても、鎖をはずすことは可能だが、壁を登りきる体力がないだろう。
それでも。
呪文は唯一の特技であり、物心ついて以来、ずっと自分の一部だった。猿轡などで一時的に封じられることはあっても、このような形で失うことになるとは夢にも思わなかった。
いや、その危険性は、頭では理解していたはずだ。死ぬまで無傷でいられる保証はない。喉を傷めたり、舌を切られたりすれば終わり。ただ、それが現実になったとき、これほどまでに大きな打撃を受けるとは……本当の意味でわかっていなかったのだ。
──俺の声は……? もう、戻らないのか……?
膝を抱えて放心したまま、どれくらいたったのか──。
薄暗い床にさらに影がかかり、どさりと何かが投げ落とされた。中身の入った麻袋だ。
「食い物だ」
声が聞こえて頭上に顔を向けると、開口部の円い明かりを切り取るように、ヴァランのものと思われる黒い輪郭が見えた。
「妙な真似をすれば、カイエたちが危ない。おとなしくしていろ」
その言葉にかすかな懇願を感じ取って、ゼノは目をすがめる。
ヴァランの立ち位置がよくわからない。内通を告白したときには、明らかにリテラストスの味方だった。当初の予定では、クレシュとカイエには手を引かせるだけで、巻き込むつもりはなかったということか。それがいまは、ヴァラン自身が、二人を人質に取られたような形になっている……?
ヴァランの影はすぐに消え、巨躯に似合わないひそやかな足音が遠ざかっていった。
足元の麻袋を引き寄せ、口を縛ってあった紐をほどくと、硬いパンと干し肉、水の入った革袋が出てきた。
水を飲み、パンを口に入れる。舌が麻痺しているせいか味がわからなかったが、体は食物を必要としていたらしく、たやすく喉を通過していく。
──トアルを置いてきてよかった。
ユァンがいっしょにいる。少なくとも二人は安全だ。
先ほどのヴァランの口ぶりからすれば、クレシュとカイエも、いまのところ無事のようだ。
──問題は、俺だな。
リテラストスは自分をどうするつもりなのか。まだ生かしているのは、何か目的があるからか。いずれにしても、ありがたくない結末が待っているのは確実だろう。
まだ半分放心状態で干し肉を噛んでいると、床に落ちた自分の影が急に揺らいだ。
影の表面が波紋のようにうごめき、中心がぬうっと盛り上がる。
──ぎゃあっ!?
ゼノは座ったまま跳びのこうとして床に倒れこんだ。
盛り上がった影がみるみる人の形をとる。闇の王子バルデルトだ。
驚きと恐怖が一転、安堵で気が遠くなりかけた。一対一ではいまだに恐ろしい漆黒の魔物が、神の使いのようにきらきらと輝いて見える。
「こんなところにおったか。さあ、帰るぞ」
バルデルトがゼノに向かって手を差し出したそのとき──。
「うおおお!?」
──ああああああっ!!
爆発するような光の放射がバルデルトを呑みこんだ。
ゼノもまぶしさに耐えられず、目をつぶって両腕で顔をかばう。
やがて強い光がおさまり、こわごわ目を開けると、まだ明るい牢内のどこにもバルデルトの姿はなかった。
──まさか……。
一瞬最悪の想像をしてしまったが、さすがに死んではいないだろうと思い直す。だが、影のほとんどないこの明るさでは、光に弱い闇の王子の再登場は望み薄だ。
いったい何が起こったのかと、光源をたどろうとしたゼノの視線が、自分の左手の上でとまった。
左手の甲に刻みつけられたアルテーシュの印──それが青白く輝いて周囲を照らしている。
──………………。
守護のためにつけられたはずの印が、あろうことか救いの手を撃退したようだ。カイエの話が本当なら、アルテーシュは神々の血筋。魔物である闇の王子を危険とみなして反応したというわけか。
ゼノは壁によりかかって目を閉じた。
一度は助かったと思っただけに、落胆が大きかった。だが絶望とは違う。呆れ果てたというのが近い。腹が立っているような気もする。
「わが救済者よ」
だからアルテーシュに話しかけられたときにも、聞こえないふりをした。
「このようなところに囚われているとは。いったい何があったのですか?」
──いや、おまえのせいだからな?
とはいえ、約束どおりみずから出向いてくれたことには感謝すべきだろうか。
しぶしぶ目を開けると、予想外の姿が見えた。
全身埃まみれで、結い上げた髪もあちこちほつれ、崩れかかっている。中途半端に畳まれた翼は、羽が乱れまくり、風切り羽の先端がすり減っている有様。顔も憔悴の色が濃い。
「ここには瘴気のようなものが充満しています。一刻も早く離れましょう」
アルテーシュはかがみこむと、鎖につながれたゼノの足首を左手でつかみ、右手で短剣を振りかざした。
──えっ!? まさか足を切断!?
一瞬ひやりとしたが、ナイフは足首を拘束する鉄環のほうに振り下ろされた。
何度も力任せに突き立てられ、ようやく鉄環の継ぎ目にひびが入って、足が自由になる。すごい力だが、アルテーシュ本来の力は発揮できていないようだ。瘴気とやらの影響か。
「はあ、はあ……しっかりつかまってください」
荒い息遣いのアルテーシュに抱えられ、おっかなびっくり両手を背に回すと、一瞬で目の前の景色が変わった。
だが屋外ではない。井戸のような牢獄の上に出ただけだ。
思ったとおり塔の地下らしく、窓のない筒状の石壁に沿って、手すりのない螺旋階段が上へと続いている。
「急ぎましょう」
アルテーシュが先に立ち、いっしょに階段を上りはじめる。
ゼノ自身は何も感じないが、アルテーシュのほうは見るからにつらそうだ。壁に片手をつき、もう片手で長衣の裾を持ち上げながら、やっとのことで足を運んでいる。こんな状態になりながらも助けに来てくれたのかと思うと、先ほどまでの腹立ちは嘘のように鎮まり、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。
どうにかこうにか一階にたどり着いた。
外側から閂がかけられているらしい木製の扉を、アルテーシュが両手を叩きつけて破壊する。
慌てて顔を出した二人の衛兵は、アルテーシュに見つめられたとたん、ふにゃふにゃと崩れ落ち、寝息を立てはじめた。
扉の外は霧に包まれていた。
はたしてここは、先ほどと同じ街の中なのだろうか。
ねっとりと絡みつくような霧を前にためらっていると、かすかな衣擦れの音とともに、前方からリテラストスが姿を現した。
「──まさか」
アルテーシュの体が、衝撃を受けたようにびくんと震えた。
「リテル様……? そのお姿は、いったい……!?」
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