第八章 にわか勇者、大人になる
8-all
「なーんか、変なことになってるよねー」
勇者一行と別れ、雪の入ってこない広い岩屋で野営の準備をしながら、クレシュが眉間にしわを寄せて言った。
「太陽の女神とやらは、人を見る目がないのう……いや、我が神は別として」
「俺はオリヴィオと神殿のじじいにはめられただけで、女神に指名されたわけじゃないぞ。夢のお告げって、そんな簡単に信じられるものなのか?」
「さてのう。あやつらが、とくに信心深いか、騙されやすいか、あるいは両方か。三人ともそろって同じ夢を見たなら、信じてもおかしくないかもしれん。──それよりも、そんな夢を見せた意図のほうが問題じゃ」
「百年も魔王封印に成功してないから、別動隊を用意したとか?」
「それにしては人選がお粗末すぎる。むしろ、こちらを邪魔しようという目論見では?」
「バルデルトみたいな?」
「ううむ。それにしても、やっぱり人選がのう……」
「気になるのは、お告げの内容なんだよねー」
クレシュが言う。
「鍵のありかは、あたしの一族しか知らないはず。なのに場所が一致してるってことはー、お告げが本物か、もっとたちの悪い裏があるかー」
「たちの悪い裏?」
「一族のだれかが、関わってるとかー?」
「なるほど」
信心深くないゼノには、その説のほうが納得できる。
「なんにしても、わからないのはその目的だよなあ」
「つぎの町で、村に連絡をとってみるよー」
村からの返信は早かった。
「勇者様を村にお招きするってさー」
広げた小さな巻物に目を通して、クレシュが言った。
彼女の連絡手段がどういうものなのか、いまだにゼノは知らない。あちこちに密使でもいるのか、あるいは魔法の鳥でも飛ばしているのか。気づけばいつのまにか書簡を手にしている。
「ほほう、クレシュの生まれ故郷か」
興味津々のユァンが、うきうきと言った。
「わしも連れていってもらえるのじゃろうな?」
「うん、もちろんー」
「そうか、そうか。楽しみじゃのう」
ゼノは尻込みした。
「クレシュの村って、たしか……弱いやつはすぐ死んじゃうとかいう、すごいところだったような……」
「数日なら大丈夫だよー。みんなで守るしー」
「…………」
さらりと返されて、なおさら不安が募る。それにもう一つ懸念があった。
クレシュの村は、すなわち鍵の監視と勇者の案内を代々務めている一族の村だ。勇者として招かれるということは、それなりに期待もされているだろうし、好奇の目で見られたり、品定めされたりもするだろう。そんなところにのこのこ出かけていくのは、魔物の巣窟に踏み込むのとはまた別の恐ろしさがある。
「俺……厳密には勇者じゃないし……」
「ちゃんと勇者の仕事してるよー。おにーさんにしかできないって、あの無能魔法使いも言ってたじゃんー」
「無能……?」
一瞬、あの勇者三人組のことかと首をひねったが、すぐにオリヴィオのことだと気がついた。鼬村の呪いの塚攻略に失敗したせいで、クレシュのなかではオリヴィオは無能認定されているらしい。希代の大魔法使いも形無しだ。
「神は、妙なところで臆病じゃのう」
さっそく荷物をまとめながら、ユァンが言った。
「闇の王子たちも平気なのに、人族ふぜいに何をびくついておる」
「いや、全然平気じゃない! バルデルトは怖いから! それに人族だって、たいていは俺より強いだろ!?」
「わしらがついておれば、人族程度どうということはない」
カーネフたちに一杯食わされたことは、忘れているか棚に上げているようだ。
「そうかもしれないけど、そういう問題とも違うんだよ。なんか、目立ったり注目されたりするのが、どうもその……」
「何をいまさら。もう充分すぎるほど目立っておるわ」
「……え?」
「考えてもみよ。神自身の見た目が凡庸としても、だれもが振り返る麗しいクレシュに、愛くるしいトアル、そしていかにも百戦錬磨のわしが、四六時中行動を共にしておるのじゃ。これでは人目につかないほうが無理というもの」
「…………!!」
うかつだった。というより、これまでその事実に思い至らなかった自分の愚かさに愕然とした。クレシュが目立つことは当初からわかっていたが、それによって同行者の自分も注目されることにまでは、まったく頭が回っていなかったのだ。
──そうか……俺……どんなふうに思われていたんだろう……。
間違っても、恋人同士や夫婦には見えない。まったく似ていないので、血縁者と思われることもまずない。従者らしくもないし、雇い主などもってのほか。旅慣れた様子のクレシュとユァンの間では、明らかに浮いている。どういう一行なのかと、行く先々で好奇の視線にさらされていただろうことは想像に難くない。
トアルの参加は、逆に救いだった。少なくとも、子供の父親という役柄は得られたということだ。
──これじゃ、カーネフが楽に追跡できたのも当然だよな。
知らないうちに裸で外を歩いていたような恥ずかしい気持ちになり、赤面していると、トアルがすり寄ってきて膝の上に座りこんだ。小さな温もりのおかげで、すうっと気が楽になる。
トアルは、敵の気配だけでなく、ゼノの気分にも敏感だった。不安なときや、沈んでいるときなど、黙って近づいてきて体に触れる。触れ合いのもたらす効果なのか、擬態竜のなにがしかの力によるものなのか、トアルに触れられると、ゼノは決まって穏やかな気持ちになった。
「クレシュのおうち?」
「ああ、そうだよ」
「ぼくもいく?」
「ああ、行くときはいっしょだ」
「行くときは、じゃなくて、行くんだよー」
クレシュが口を挟んだ。
「決定なのか……」
「だって、情報が漏れた原因も調べないとだしー」
「うう……」
かくして一行は、クレシュの郷里へと進路を変えた。
道中は平和だった。
野生動物も、魔物も、山賊も、クレシュとユァンの敵ではない。トアルは疲れ知らずで、最近ではゼノも、多少の難所ならなんとかついていくことができるようになっていた。
人里離れた大自然の中を移動しているときのほうが、街道や町にいるときより安心できるというのも妙な話だが、考えてみれば、四人中二人は人外だし、クレシュは特殊な家系だし、ゼノ自身もはみ出し者だ。最初から人族社会に属していないようなものだから、当然といえば当然かもしれない。実際問題、カーネフといい、勇者三人組といい、人族のほうが障害になっている。
文字通り野を越え山を越え、道なき道を進んでいくと、急に視界がぼやけてきた。
霧だ。
手を伸ばせば触れそうなほど濃い乳白色の霧が、行く手を阻むように押し寄せてくる。いや、実際はこちらから近づいているのだが、まるで意思のある霧に取り囲まれ、呑みこまれようとしているかのような錯覚に襲われ、ゼノは首筋の毛がちりちりした。
「みんな手をつないでー。はぐれたら永久に迷子だよー」
呑みこまれそうな感覚は、冗談ごとではなかったようだ。クレシュ、ゼノ、トアル、ユァンの順に手をつなぎ、傍から見たらいささか滑稽な陣形で、乳白色の帳の奥へと足を踏み入れる。
肌に霧が絡みつき、体の穴という穴から中に侵入してくるような気がした。ねっとりと重い霧をかきわけ、何があるのかまったく見えないまま、無理やり足を運んだ。下は岩場らしく、足の裏にごつごつした感触が伝わってくる。気をつけないとつまずきそうだ。あたりは静まり返り、聞こえるのは互いの息遣いだけ。
いや、隣にいるのは、本当に仲間たちだろうか。握っているのは、本当にクレシュの、トアルの手なのか? ふとそんなことを考えてしまい、ぞくりとして身震いする。
星一つない夜の闇も恐ろしいが、真昼の霧もそれに劣らず恐ろしいものだと知った。夜ならいつか朝になるが、この霧は──いつか晴れるのか?
ふいに耳元で唸り声が聞こえた気がして、ゼノは飛び上がった。
「うわっ! 何かいる!?」
「あー、たぶん、迷った魔物か何かじゃないかなー」
クレシュの声が、思ったより遠くから聞こえた。
「……魔物でも迷うのか?」
「迷うよー。この霧は、方向感覚がおかしくなるからねー」
「お、俺たちは大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫―。あたしが、足で道を覚えてるからー」
足で覚えているとは、つまり、踏んだ足場の状態で位置がわかるということだろうか。つくづく人間離れ──いや、魔物の上をいくのだから、まったくもって恐れ入る。
トアルの手をしっかり握り直すと、ゼノを安心させるように、トアルもそっと力をこめてきた。
「ユァン、ちゃんとそこにいるか?」
「阿呆、いなかったらトアルが気づくわ。それに、わしには耳と鼻があるから、少しぐらい離れたとしても大丈夫じゃ」
いつもどおり、呆れた声が返ってきた。
──結局、大丈夫じゃないのは俺だけか。
会話をしたことで心細さが薄らいだ。どうせ見えないのなら、と目を閉じてみると、そのほうがましだということに気づいた。目を開けているのに見えないつらさに比べれば、見えなくて当然の状況のほうが心にやさしい。
クレシュに手を引かれるまま歩きつづけ、時間の感覚も失いかけたころ、ふいにあたりの空気が変わったような気がした。
「神よ、寝ておるのか?」
はっと目を開けると、霧は晴れ、自分たちが急峻な谷間にいることがわかった。
右も左も、ほとんど垂直に近い断崖絶壁。足元には霧の名残が漂っており、振り返れば、背後に乳白色の霧が壁のように立ちふさがっている。霧が晴れたのではなく、分厚い霧の層を抜けたのだ。
「ここをまっすぐ歩いていけば、村だよー」
ほっとしたそのとき、またあの唸り声が聞こえた。
こんどは全員に聞こえたらしい。ゼノが三人の視線をたどると、切り立った岩壁の中ほどに、大きな黒い影が見えた。
──あれは……!!
その正体を視認したとたん、全身から汗が噴き出した。
豹に似ているが熊の数倍もある巨体、装甲のような皮膚、滴る強酸の唾液──先日、白装束の行進の途中で出くわした、あの魔物だ。あのときは白装束たちの恐るべき力で瞬殺されたが、本来ならそんな生易しい相手ではないだろう。
だがクレシュは事もなげに言った。
「あー、あいつの肉、けっこううまいんだよー」
「なに? では、ひとつ手土産に」
食い道楽のユァンがすぐさま反応した。
「涎に気をつけてー。顎の後ろにある鎧の隙間を狙えば、簡単に倒せるよー」
「なるほど。それじゃわしが囮になろう。とどめは任せた」
ユァンは鼬の姿に戻ると、左右の絶壁に交互に飛び移りながら、釣り餌よろしく魔獣に近づいていった。
相手はすぐに食いついてきた。うまそうな餌が自分から飛びこんできたとばかりに舌なめずりし、頭を下げて身構える。
猫族特有のすばやい跳躍。だがユァンはさらに速かった。飛び散る唾液を機敏にかわして相手の眼前に飛びこむや、鼻面をひと噛みして即座に離れる。
豹の魔物は悲鳴を上げて一瞬怯み、猛り狂ってユァンに突進しようとした。
だがつぎの瞬間、その首は胴から離れ、岩壁にぶつかって転がり落ちた。胴体は地響きを立ててその場に崩れた。遅れて、両方の切り口から赤い血がどろりと流れ出した。
クレシュがひと太刀で魔物の首を刎ねたのだ。
──ひーっ!!
ゼノは危うく腰を抜かすところだった。
怖い。白装束たちよりも、この二人のほうが、いやクレシュが、断然怖い。
血抜きのため、高所から張り出した木の枝に獲物を吊るす間、ゼノは後ろを向いて鮮血から目をそらしていた。クレシュとユァンは縄を使って巧みに作業をすませた。唾液の処理が面倒とのことで、頭部は放置して野生の生き物に任せることにする。
ユァンは鼬姿のまま、クレシュを見張りに残して周囲から太い枝を集めてくると、こんどはそれを筏のように組んで巨大な橇をこしらえはじめた。さすが、大蜘蛛に涎を垂らすだけのことはある。大きな獲物の扱いも慣れたもので、吊るしていた獲物を完成した橇の上に直接下ろし、馬車用の馬具に似た革帯を自分の両肩に装着した。
「ミヤゲ。ゴハン」
嬉々として言い、四本の足を踏ん張って一歩踏み出す。
動いた。
──こんなでかいものを、一人で運べるのかよ……!
かわいい見た目にだまされてつい忘れがちだが、ユァンの一族は、魔物たちの間でも一目置かれているという。それもそのはず、戦闘能力以前に、基礎体力が違いすぎた。人間の勇者ごときが敵うはずもない。
「ユァン、すごーい」
クレシュは素直に称賛し、後ろから橇を押して手伝った。ゼノもこわごわ真似しようとしたが、ユァンに止められた。
「カミ、フヨウ。アルイテ」
ふだん、ついて歩くだけで精一杯なのだから、ごもっともだ。ゼノはおとなしく従い、トアルの手を引いてユァンの隣に並んだ。
雷鳴のような音を轟かせて橇が進む。血の匂いにつられて猛獣たちが近づいてくるかと思いきや、獲物の正体に恐れをなしたか、邪魔立てするものは出てこなかった。
やがて遠くに物見やぐらが見え、その向こうに集落が現れた。
一見、穏やかなふつうの村だった。
谷底がそこだけ広く緩やかな平地となっており、中央を流れる小川に沿って木組みの平屋が並んでいる。畑があり、家畜のための囲いもある。
少し様子が違うのは、建物のすべてが妙に新しいことと、畑の作物や囲いの中の家畜が、見たことのない種類ばかりだということだ。
「クレシュが帰ってきた」
「勇者様だ」
外にいた何人かが声を上げ、それを聞いて一人、また一人と、村人たちが集まってくる。
「ドーチャだ!」
「大きいドーチャ!」
「すごい! ひっぱってるのは何?」
子供たちも出てきて、興奮した様子でこちらを指さす。ドーチャというのは、どうやらこの手土産になった魔物の呼び名らしい。
「ようこそ、おいでくださいました」
壮齢の女が進み出て挨拶した。燃えるような赤い髪と緑の目に、引き締まった小柄な体躯。美しく年をとったその顔は、髪色のせいもあってクレシュとよく似ている。
「村長のエイシャです。みなさま、お疲れでしょう。まずは宿舎へ」
ユァンが橇の革帯をはずしてから言った。
「ハジメマシテ、ワタシ、ユァン。ニク、ダレカ、リョウリ」
「お初にお目にかかります、ユァン様。お話はうかがっております。お持ちいただいた肉は、今夜の宴に出させましょう」
宴と聞いて、ユァンのひげがぴんと立った。うきうきと村長に従い、人々の好奇の視線を一身に受けながら、村の中心部へと向かう。
おかげですっかり影の薄くなったゼノは、ほっとして二人のあとに続いた。トアルも警戒する様子はなく、ゼノと手をつないで歩きながら、物珍しそうに周囲を眺めている。
宿舎もやはり木組みの平屋で、ほかの家々より大きく、真新しく見えた。すぐそばに独立した厠もある。中は靴を脱いで上がるようになっており、床には柔らかな織物が敷かれ、左右の壁には、戸板の下部を外へ押し出して開ける大きな突き出し窓がある。奥の衝立の向こうには、すでに四人分の寝床が整えられていた。
「いい部屋──」
思わず感嘆の声を上げかけたそのとき、地面がぐらりと揺れてゼノはたたらを踏んだ。
「地震!?」
「いえ、これは」
エイシャが平然と説明した。
「近くを巨獣の群れが通過しただけです。村の中を通ることはめったにありませんから、ご心配なく。万が一通ったとしても、動きが遅いので充分に避けられます。最悪、家が壊れる程度です」
さすがはクレシュが生まれ育った村だ。建物が古びていないのは、そういう事故でよく建て直しされているせいなのか、と腑に落ちた。
勧められるまま中に上がり、荷物を下ろして一息つこうとしていると、こんどは轟音とともに家が揺れた。
「こ、これは……?」
「いまのはおそらく、上空を古代鳥が飛んでいったのでしょう。実害はありません」
「そ、そうですか……」
気を緩める間もなく、また揺れる。
「これは、大モグラが地中を掘り進んでいる振動です」
エイシャが言った。
「なにかと揺れますが、村の中はほぼ安全ですので、どうぞおくつろぎください。宴の用意ができたら、お呼びいたしますね」
「は、はあ……」
──くつろげる……のか……?
ゼノが呆然と立ち尽くしている間に、エイシャは優雅に向きを変えて立ち去った。
「まだ時間もあるしー」
クレシュが伸びをして言った。
「湯浴みはどうー? 温泉があるよー」
「オンセンって?」
「熱いお湯がしぜんに湧いてるのー。いつでも入れるよー」
「イク、イク」
ユァンは、ここでは取り繕うつもりがないようだ。鼬姿のまますっかりくつろいでいる。
入浴の用意をした四人は、クレシュを先頭にぞろぞろと宿舎を出た。
日はまだ高い。到着時には緊張して周りを見る余裕がなかったが、改めて見渡すと、なんとも違和感のある光景だった。畑の作物はくねくねと動いているように見えるし、囲いの中の家畜たちは、足が六本あったり、頭の後ろに触手が生えていたりと、明らかにふつうではない。
「なあ、ここで育ててるのって……」
「うん、魔物だよー」
予想どおりの答えが返ってきた。
「このへんに、ふつうの生き物はいないからねー。まー、あたしらにとっては、これがふつうなんだけどー」
「そ、そうか……」
農作業をしているだけで人死にが出そうだ。
「危ないから、近寄らないようにねー」
頼まれても近寄りたくない。奇怪な動植物からなるべく離れて歩いていると、轟音とともに日が翳った。
振り仰げば、空を覆うばかりに巨大な鳥が、恐ろしい速さで滑空していく。
ゼノが思わず身をすくめたのを見て、クレシュが笑った。
「大丈夫ー。あいつは、あたしらなんか見ちゃいないよー。いつもただ飛んでくだけー」
「……すごい環境だな」
「いまの時季はまだ平和だよー。発情期には魔物の気が荒くなるしー、雨季には鉄砲水、乾季には水枯れ、冬は豪雪で村から出られなくなるしねー。餌が足りないと魔物の群れが襲ってくることもあるしー、本当の地震も多いしー……」
「なんでわざわざ、そんなたいへんな場所に住みつづけるんだよ」
「それはあれだよー。鍵の監視があるからー」
「ここじゃないといけない理由でも?」
「うんー。それについてはたぶん、明日ぐらいに村長が案内してくれると思うー」
「案内?」
「あとは見てのお楽しみー」
鍵の監視とこの場所が関係しているとは、いったい何があるのだろうか。好奇心が頭をもたげる一方、一族の使命がそれほど大事なのかと、いまひとつ腑に落ちない。
するとクレシュが付け加えた。
「まー、あたしは、いまさらふつうの人里で暮らしても、飽きちゃいそうだけどねー」
「なるほど」
これには納得できた。クレシュの実力や性格では、一般社会になじむほうが難しそうだ。
村の端の絶壁に沿って石段を登っていくと、岩に囲まれた泉があった。いちどに十人ぐらい浸かれそうな広さだ。水面に靄がたちこめていて、近づくと熱気が伝わってきた。
「ほら、お湯だよー」
「オンセン! スバラシイ!」
ユァンは手を入れて温度を確認すると、用意されていた手桶でかけ湯をしてから、湯の中にするりと体を滑りこませた。反対側まで泳ぐように移動し、首まで浸かって縁に背中を預ける。
「フー、ゴクラク」
鼬村では湯浴みの習慣などなかったユァンだが、ゼノたちと旅をするようになってから、宿で湯船の気持ちよさを覚えてすっかりはまっている。湯上がりの被毛の手入れも怠りなく、以前にも増してつやつやふわふわだ。
クレシュが豪快に服を脱ぎはじめたので、ゼノは慌てて視線をそらした。背を向けたままトアルの服を脱がせてユァンに託すと、自分もこそこそと裸になって湯に潜り、温泉を堪能するふりをして目をつぶった。
実際、非常にすばらしい湯だった。肌ざわりはやさしく、少し熱い温度が心地よい。長旅でこわばった体が芯から温まって、全身の疲れが押し流されていくようだ。沸かした湯とは違う、極上の癒し。
「はぁー」
知らず知らずのうちに溜め息が出ていた。
「気持ちいいでしょー」
間近にクレシュの声が聞こえて、心臓が止まりそうになる。
「あっ、ああ……うん……いっ、いい湯だ……ほんと」
クレシュのことだ、堂々と素肌をさらしているのは間違いない。これまでにも彼女の裸を見たことは何度もあったし、やむをえず同時に着替えたり湯浴みをしたりしたことも少なくない。だが、こんなにゆったりした状況でまじまじ眺めたことはなかった。
目を開けたら、たちどころに体が反応してしまいそうだ。
すぐ近くで水音がするのは、手で肩に湯をかけてでもいるのだろうか。音に合わせて水面が揺れる。
「ほら、この隙間から、村の様子が見下ろせるんだよー」
「オオ……ケシキ、イイ」
「ぼくたちのおうち、どれ?」
「えーとねー、あそこに見えるのがー……」
クレシュの気配が遠ざかり、三人の和気あいあいとした会話が聞こえてきた。自分も混ざりたいし景色も見てみたいが、もれなくクレシュの全裸がついてくる。
──いかん、想像だけで反応しそう……。
温まりすぎた体が熱くなってきたが、立ち上がった拍子に暴走するのが心配で、動くに動けない。ふだん気にする暇がないぶん、いったん気になりだしたら止まらなくなった。
「おとうさん、ねてるの?」
「い、いや、気持ちよくてな……その……」
トアルの屈託のない質問にもごもごと答えたそのとき、突き落とされるような感覚があり、ついでぐらぐらと地面が揺れだした。
「地震!!」
慌てて立ち上がったゼノは、つぎの瞬間、立ち眩みを起こして湯の中に沈んだ。
顔に水をかけられて意識を取り戻すと、目の前におやじ姿のユァンの顔があった。
「まったく、何をやっておるのだ、おぬしは」
呆れ果てた顔で言われ、ゼノは赤い顔をさらに赤くした。
「急に起きるんじゃない。また倒れるぞ」
忠告に従ってのろのろと体を起こすと、クレシュとトアルの姿がない。
「二人には、先に戻ってもらったわい」
「そうか……」
「情けないのう。クレシュの裸に悩殺されたか」
「いや、見たら死ぬかと……」
「阿呆。見て死ぬのと、見ないで死ぬのと、どっちがましじゃ」
「そっ、それは……」
「いいかげんに腹を括って、くっついてしまえ。見ていて恥ずかしいわ」
「ええっ!?」
「神よ……」
ユァンはわざとらしく溜め息をついた。
「おぬしは、こういうことに関しては顔に出すぎるのじゃ。だだ漏れというやつじゃな」
「え……」
「クレシュもとうに気づいておるわ」
「え────っっ!?」
「まあ、はっきり言ってやらんクレシュもクレシュじゃが」
ゼノは口をぱくぱくさせたが、言葉にならなかった。
──えっ? 何それ? どういうこと?? ……えっ? えっ??
「さあて、宴じゃ、宴!」
思考停止状態のゼノをよそに、切り替えの速いユァンは湯の中から勢いよく立ち上がった。
おやじの股間をまともに見てしまい、ゼノは一瞬で平静に戻った。
鼬の変身もそこまで忠実に再現しているという、どうでもいい豆知識も一つ増えた。
「それでは、勇者様ご一行に感謝と祈りを」
歓迎の宴は、日の入りとほぼ同時に始まった。
村の中央──客用宿舎の近くにある広場に大きな焚火が用意され、それを囲むように席が設けられている。銘々に酒の杯が配られ、村長の音頭で乾杯した。
酒は無色透明で、ほのかに花のような香りがした。口に含むと、かすかな甘みとともにその香りが広がり、さわやかな後味を残して散っていく。
「うまい」
ゼノは思わずつぶやいたが、原料は聞かぬが花というものだろう。
つまみは、緑の植物を茹でて味付けしたものだったが、これには見覚えがある。畑でくねくねとうごめいていたあれだ。調理されたいまはぴくりとも動かず、ただの葉野菜にしか見えない。恐る恐る噛んでみると、ほろ苦く、なんとも後を引く味わいだった。
ゼノがこの旅で身をもって学習したことの一つは、食材の見た目と味は決して比例しない、ということだ。もちろん、見た目どおりまずいものも多々あるが、食わず嫌いは損をする。クレシュやユァンの勧めるものはたいていいけた。ということは、ここで供されるものも、できるだけ味わっておくべきだろう。
トアルや村の子供たちは、酒の代わりに、何かの果汁をもらっておいしそうに飲んでいる。
──なんだか、鼬村を思い出すなあ。
ほろ酔い気分でゼノは思った。
人里離れた秘境の集落。魔物を食材としてたくましく生活する住民。見た目は違えども、二つの村はよく似ている。考えてみれば、どちらも連環の魔王に所縁のある村だ。クレシュとユァンがすぐに意気投合したのも、むべなるかな。
そのユァンは、いまは村人たちに大人気で、被毛に触りたがる子供たちや、会話を求める子供たち、さらにはその親たちにも囲まれて、そこだけにぎやかなことこのうえない。
「勇者様。いかがですか、もう一杯」
「あ、いただきます」
ゼノも忘れられているわけではなく、新しい料理とは別に、だれかしらが酒をつぎに来てくれる。
心配していた過剰な期待や品定めの視線を感じることはなく、ごくしぜんに受け入れてもらえている雰囲気なのがありがたい。昔から勇者と関わりを持ってきたこの村では、勇者の存在そのものもあたりまえなのかもしれない。
──居心地は悪くないよなあ。
頻繁に揺れるのにはまだ慣れないが、それを除けば静かで平穏な空気に満ちているようだ。周りを迷いの霧に囲まれているせいで、よけいなものが入ってこないからだろうか。村人以外は魔物しかいないような環境だが、ここではそれが日常の風景になっている。
もっともそれは、住民がおしなべて優秀なためだ。老若男女を問わず全員が、厳しい環境に鍛えられた機能的な体つきをしている。ゼノなら一日ももたないだろうが、彼らにとっては、ここでの暮らしこそがふつうなのだ。
運ばれてくる前菜は、見たことのないものばかりだったが、原形をとどめていなければとくに気にならない。どれもおいしくいただき、ほどよい腹具合になったころに、今夜の目玉であるドーチャの肉が登場した。
硬い皮を皿のようにして蒸しあげられた肉は、薄い桃色で、獣肉と魚肉を足して二で割ったような見た目だった。熱々の湯気が立っているところに酢を垂らし、中の身だけを食べるのだと教えられ、そのとおりにしてみると、これがまさに絶品だった。
くせのない肉汁のうまみが口の中に広がり、驚くほど柔らかい肉が舌の上でほろほろと崩れる。繊細な味わいにもかかわらず、しっかり食べたという満足感もあり、いくらでも食べられるような、このへんでやめておいたほうがいいような、なんとも悩ましい気持ちにさせられる。
結局、うまいうまいと言いながら何度もおかわりしてしまったが、胃にもたれることもなく、どれだけ食べても美味だった。
ほかの三人や村人たちも、思い思いに舌鼓を打っている。
注がれるままに飲んでいたせいで、だいぶ酔いがまわってきた。尿意をもよおしたゼノは、トアルをユァンに任せ、ふらつく足取りで宿舎の厠へ向かった。
「勇者様」
用を足して戻ろうとすると、暗がりで声をかけられた。若い女の声だ。
「こんなところにいらしたのですね」
するりと腕に手をまわされ、しなやかな体を押しつけられる。
「どうぞこちらへ」
──こちら? どこ?
酔った頭はうまく回らず、ゼノは促されるままに歩きはじめた。
宴会場の焚火を避けるように大きく迂回し、小川に沿って点在する家の一つに導かれる。
通された部屋は、小さな油灯が一つあるだけで薄暗く、寝床が用意されていた。
「いや……寝るなら、自分の部屋で……」
ぐずる子供のようにもごもご言っているところを押し倒され、衣服に手をかけられて初めて、何やら様子がおかしいことに気づいた。
「あっ、あのっ……何を……?」
「しーっ。何もおっしゃらないで」
気づけば、いつのまにか相手も半裸になっている。なまめかしく素肌を重ねられて、思わず反応しそうになった。
「わーっ! 待って! 待ってください!」
慌てて押しのけようとしたが、酔っているせいで力が入らず、逆に押さえつけられてしまう。
クレシュと同様、鍛えられて贅肉の少ない、しなやかな体。力も強く、ゼノの衣服をやすやすと剥ぎ取ると、改めて肌を合わせてくる。
──こ……これはさすがに……まずくないか!?
ゼノはもうろうとする頭で考えた。
ここは、畏れ多くもクレシュが生まれ育った村で、鍵の監視と勇者の案内を代々務める敬虔な人々が住む村だ。こんなところで、たとえ酔って判断力が落ちていたとはいえ、村の大事な一員に手を出したとあっては、勇者の名折れ、とんでもない失態だ。クレシュの顔にも泥を塗ることになる。
実際に手を出しているのは相手のほうなのだが、酔っていてそこまで頭が回らない。
「すっ……すみません、すみません!」
よくわからない謝罪をくりかえしながら、どうにか相手の下から這い出すと、かき集めた衣服を身に着けてほうほうの体で外へ逃げ出した。
暗がりのなか、何かにつまずいて無様に転倒する。
「どうなさいました、勇者様?」
先ほどとは別の女の声がして、思いがけず強い力で助け起こされた。
「あら、膝から血が。手当てしないと」
「いえ……だ、大丈夫です」
「そんなことをおっしゃらず。そのまま戻っては、みなさんに心配されますよ」
それもそうかと、手を引かれて女の家に入る。
先の女よりも年かさで、ゼノと同年代と思われた。慣れた手つきで傷口を洗って薬を塗り、簡単にズボンの染み抜きまでしてくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
「とんでもない。たいしたことではありませんわ」
女は頬を染めて言い、染み抜きしたズボンを丁寧に畳んで遠くに置いた。
「あ、すぐに穿きますから」
「そうおっしゃらず、ゆっくりしていってくださいな」
女はにじり寄ってきて、ゼノの剝き出しの太腿に手を置いた。
「……え?」
「とうぶん宴は終わりませんもの。時間はたっぷりありましてよ」
「あ……あのう……?」
太腿を撫で上げるなまめかしい手の動き。その意図に気づいたゼノは、慌てて両手で女の手を押さえ、うわずった声で言った。
「いっ、いえ! すぐに戻らないと! 息子が心配しますんで!」
──なんだなんだ!? いったい何が起こってるんだ!?
ゼノは、女の手をかわしてズボンをつかみとると、あたふたと穿いて外へ飛び出した。
するとまた、
「おや、勇者様」
「あっ、俺、急いでますんで! 失礼します!」
女の声を振り切って、突き進みながらきょろきょろと宴会場の焚火を探す。
あった。
知らないうちに、ずいぶん遠くまで来てしまっていたようだ。見える炎は小さく、そこまでの道は闇に包まれている。
炎の光だけを頼りに、方角だけ合わせて適当に歩いていくと、さらに先々で女たちから呼び止められ、ゼノはしだいに怖くなってきた。自分は決してもてるほうではない。それなのにこれだけ誘われるのは、何か裏があるのではないか。新手のいやがらせ? あるいは、勇者に対する試練とか?
──そうか、試練か!
それなら合点がいく。
どう見ても勇者らしくない自分が、とくに批判も反発もされなかったのは、勇者としての試練が待っていたからなのだ。この試練に打ち勝って初めて、勇者のはしくれとして認められるというわけだ。そうだ、きっとそうに違いない。
考えてみれば、村を挙げての宴の真っ最中だというのに、家々にこれだけ人が残っているのも妙な話だ。まるでこちらを待ち構えていたようではないか。
どっと汗が噴き出した。酔いもさめた気がしたが、頭はまだぐらぐらしている。千鳥足でなんとか進んでいくと、力強い手で肩をつかまれた。
「勇者様」
「ひーっ!」
振り向くと、村長のエイシャが立っていた。
──ま、まさか、村長も……!?
「落ち着いてください、勇者様」
エイシャは困った顔で言った。
「何もいたしません。まずは、少し酔いをさましましょう」
「いやっ、俺は……この試練を潜り抜けないと……」
「試練? 何をおっしゃっているのです? さあ、ともかく中へ」
ひきずりこまれるように家の中に入ると、そこにも寝床が用意されている。慌てて逃げ出そうとする首根っこをつかまれ、茶色い液体の入った椀を押しつけられた。
「酔いざましの薬です。お飲みください」
言われるままに口をつけると、甘くて苦い不思議な味がした。じわじわと顔がほてり、つぎにはその熱がひくとともに頭の芯が覚醒してくる。
ゼノが正気に返ったころを見計らって、エイシャが言った。
「勇者様は、この村の伝統をご存じなかったのですね」
「……伝統?」
「代々、勇者様に立ち寄っていただいた折りには、有志の女たちが、勇者様に子を授けていただくことになっているのです」
「……ほえっ?」
「ご覧のとおり、ここはいろいろな意味で閉鎖的な村です。たまには新しい血を入れたほうがいいということもありまして」
「つまり……勇者の忍耐力を確認する試練じゃなくて……?」
「ほほ……まさか、そんなふうに受け取られたとは」
エイシャはおかしそうに笑った。
「話には聞いていましたが、ずいぶん生真面目なお方なのですね。もちろん、無理強いするつもりはございません。ご滞在中に気が向かれましたら、いつでもお声をかけてくださいませ」
「は、はあ……」
「それでは、クレシュを迎えに来させますね」
そう言い残してエイシャが出ていくと、ゼノはへなへなとその場に座りこんだ。
──なんだ、そういうことか。
とはいえ、やはり裏事情はあったのだ。想像とは逆だったが、浮かんだ疑念はそう的外れでもなかったらしい。
それにしても、代々、勇者の子を──ということは、ここの住民は多かれ少なかれ、歴代の勇者の血を引いているというわけか。クレシュの強さの一端がわかったような気がした。環境や訓練による後天的なものも大きいだろうが、もともとの土台からして違うのだ。肉体的には、時代時代の優れた資質を受け継いでいると考えられる。
──てことは、ここの人たちのほうが、並みの勇者より強いんじゃ?
知り合ったばかりのころ、クレシュが当代勇者たちのふがいなさをくどき、先代勇者の優秀さを熱く語っていたことを思い出した。あのときゼノは、クレシュは自分こそが勇者になりたいのではないかと憶測したものだ。
いま思えば、それは村人全員の気持ちであるのかもしれない。勇者を支援する役目を担いながら、長きにわたり歴代勇者の血を取り込みつつ過酷な環境で鍛えられた結果、いつのまにか勇者を超えてしまった人々。こうなると、はたしていまさら外部の勇者が必要なのかどうかもわからなくなってくる。
──まさか、だから鍵の在処が面倒な場所になったとか? 俺にこんな力があるのも……。
ふいにそんな考えが浮かび、ゼノは慌てて打ち消した。
──いやいや、そんな馬鹿な。
それではまるで、すべてを超越した存在が、好き勝手に世界の仕組みを変えているようではないか。そんな空恐ろしいことは想像もしたくない。
ぶるっと身震いしたちょうどそのとき、扉が叩かれ、クレシュがのっそりと入ってきた。
「しょーがないなー、もー」
「あー、その……すまん」
ゼノが立ち上がろうと腰を浮かせるより早く、クレシュは大股で近づいてきてゼノの胸倉をつかんだ。
──ぎゃーっ!! 殺される!?
だが、飛んできたのは鉄拳ではなく、柔らかい唇だった。
ぎこちなく唇を重ねられ、そのままの勢いで床に押し倒される。
──えっ? えっ? 何? えっ?
それからゼノは、はっと気づいてクレシュを押し返した。
「ま、まさかクレシュ……おまえも村の伝統……」
「馬鹿っ!!」
珍しくクレシュがはっきりした物言いで遮り、ふたたび唇を押しつけてきた。
両手でがっしり頭をつかまれ、ためらうように唇をついばまれて、理解するより先に体が反応した。ゼノは無意識のうちにクレシュの背に両腕をまわした。しなやかで強く、だが想像以上に小柄でほっそりした体。弾力のある胸が二人の間に挟まれ、心地よく圧迫してくる。
ゼノはおずおずと口づけに応え、やがて思い切って自分からも求めた。
長い沈黙のあと、唇を離した二人の顔は、どちらも茹でたように真っ赤だった。
「ゼノがさー」
クレシュが初めて、面と向かって名前を呼んだ。
「鈍くてめんどくさい性格だってのは知ってるしー、見てておもしろいから黙ってたんだけどさー」
「おもしろいって……」
「考えてみればー、あたしたち、全員そろって明日を迎えられる保証なんてないじゃんー? 自分が死ぬかもしれないしー、ほかのだれかが死ぬかもー。だからさー、いまをもっと大事にしなくちゃって思ってさー」
「そ……それはそのとおりだと思うけど、なんでまた急に……?」
「それはー……つまりー……」
妙なところで口ごもる。今日のクレシュは、まったくもってクレシュらしくない。
「つまりー……ほかの人と寝る暇があるなら、その時間、あたしにちょうだいってことー!」
やけくそのように言って抱きついてきた。
「え……それって」
ゼノは、抱きつかれたことより、その言葉に目を白黒させた。
「……し、嫉妬……?」
「うるさい、黙れー」
「もしかして……酔ってる?」
「酔ってない! 酔ってるけど、酔ってないー!」
──酔ってるし。
改めてよく見れば、クレシュの顔が赤いのは恥ずかしさのためばかりではなく、目つきがとろんとして瞳が潤んでいる。これもまた、彼女にしては珍しいことだった。浴びるように飲んでもほとんど顔に出ず、二日酔いとも無縁の彼女が、いったいどれだけ飲んだらこうなるのか。
ふだんのゼノなら、酔っ払いの隙に付け入るような真似はしたくないと、なんのかんのと理由をつけて回避していただろう。だがいまは、この機を逃したらつぎはないという気がした。彼女が言ったとおり、自分たちが明日どうなるかは、だれにもわからないのだ。
「クレシュ……い、いいのか……?」
「だから、黙れってー」
乱暴に唇を重ねられて、ゼノは黙った。
すぐ隣に寝床があるのに、そこへ移ろうとはどちらも言わなかった。
翌朝は宿舎で目が覚めた。
四人分の寝床があるにもかかわらず、いつもどおり、トアルとクレシュとユァンが折り重なるようにゼノの上で寝息を立てている。
ゼノは身を起こさず、首だけ動かしてクレシュの寝顔を見つめた。
──夢じゃない……よな?
あのあと、酔っ払い二人で手をつないで宴会場まで戻ったことは、なんとなく覚えている。何事もなかったように宴は続き、途中で睡魔に負けて寝に戻った……はずだ、たしか。
クレシュとのひとときは、まさに夢のようだった。想像していたよりも繊細で、情熱的で、意外にも心安らぐ時間だった。
ゼノがうっとりと反芻していると、クレシュが満足した猫のようにあくびをして目を開けた。
「お、おはよう……」
「おはよー」
クレシュは照れた様子もなく、いつもどおりのだるそうな声で挨拶すると、いつもどおり冬眠明けの熊のようにのそのそと起き上がった。あまりにも変わらないので、昨夜のことを覚えているかどうかも判断できない。
──やっぱり、夢……?
「朝ごはんもらってくるー」
トアルとユァンがもぞもぞ起きだしたころ、クレシュともう一人の村人が四人分の朝食を運んできた。
野菜の入った粥と果物というあっさりした献立で、飲んだ翌朝の体にはありがたい。野菜や果物が動いたりしていないのも、ゼノにとってはありがたかった。
「お食事がすんだころ、お迎えに参ります」
「迎え?」
「例のあれだよー。この村の見学っていうかー」
クレシュの説明で、ゼノはようやく思い出した。そういえばこの村には、鍵の監視に深く関わる何かがあると言っていたような。
朝食をすませ、身支度を終えて待っていると、村長のエイシャ自らが迎えに来た。
小川をさかのぼるように村の端まで歩き、乳白色の霧の壁の手前で止まる。
「この霧に入ってすぐ、右手に横穴があります。奥まで進めば霧はなくなるので、そこまではぐれないように注意してくださいね」
五人で手をつなぎ、初めて村に来たときと同じ滑稽な陣形で霧の中に踏み込んだ。説明されたとおり右に曲がると、視界は遮られているものの、一同の足音が微妙に変化したことに気づいた。
やがて霧が晴れ、そこが洞窟の中だとわかったが、目の前は行き止まりになっていた。
「ここから先は、〈連環の祝福〉が必要です」
エイシャは自分の右手を広げて見せた。手のひらに、見覚えのある複雑な印が刻まれている。
「この印は、太陽の女神にまつわる場所の鍵になっています。ですから勇者様、あなたにもここを開ける資格があるというわけです。近づいてみてください」
ゼノは言われるまま前に踏み出した。すると胸元がかっと熱くなり、目の前の壁に大きな赤い刻印が浮かび上がった。無意識に手を伸ばすと、壁の中央に縦に割れ目ができ、地響きを立てながら左右に分かれて開きはじめた。
「うわっ」
焦って一歩下がると、エイシャがおかしそうに頬を緩めた。
「さあ、どうぞ、女神の神殿へ」
恐る恐る足を踏み入れたゼノは、中の様子を見て思わず息を呑んだ。
満天の星。
暗い洞窟の天井一面に、星空が広がっている。
一瞬そう見えたが、よく見ると本物の星ではなく、蛍のような光が不規則に浮かび、ゆっくり明滅をくりかえしているのだった。
「……この光は?」
「わかりません。おそらく、何らかの高度な魔法なのだと思います。この光は、実際の星々と同じ配置になっているようです」
「へえー」
ゼノは心底感心して人工の星空を眺めた。
「これってやっぱり、魔王が封印されたころからずっとあるんですよね?」
「そう伝えられています。女神の手になるものと考えれば、納得もできますよね」
まるでそれを信じていないような口ぶりに、ゼノは驚きを覚えてエイシャの方を見た。
「実際には、そうじゃないと?」
「どうなんでしょう? 私たちはここを神殿と呼んでいますが、ここにあるものを見ていると、はたしてこれが神の手でつくられたものなのか、わからなくなることがあります」
明滅するほのかな光に映し出されたエイシャの顔は、こわばっているようにも、途方に暮れているようにも見えた。
全員が中に入ってしまうと、エイシャは出入口の壁に手を触れた。ふたたび地響きがして、左右から出てきた扉が元どおり閉ざされる。
目が慣れてくると、中は円形の広間になっていることがわかった。中央にテーブルのようなものがある。厳密にはテーブルではなく、腰の高さほどの台座の上に、大きな円盤が水平に載せられていた。
「これが、鍵の在処を示す地図です」
円盤には不思議な紋様が刻まれていた。中心から外縁に向かって放射状に直線が伸び、それを分断するように同心円状の輪が等間隔に描かれている。非常に正確につくられた蜘蛛の巣のようだ。
その盤上に四つの赤い点が不規則に散らばっており、うち一つだけが天井の星々と同じように明滅し、ほかは暗く沈んでいた。
「この赤い点が、鍵の場所?」
ゼノが尋ねると、エイシャはうなずいた。
「そうです。すでに三つは回収されたので、残り一つだけが明るくなっています。地図といっても、位置関係しかわかりません。中心がこの村で、直線は方角、円は距離……という感じですね」
「これだけの情報で、どうやって……」
「この地図に点が現れると、まず、旅慣れた者たちが実際の場所を確認しに行きます。見つけたらこんどは、案内人の候補者たちがくりかえし足を運んで、現地の状況を把握したり、より安全で効率のいい経路を探したりします」
考えただけで気の遠くなりそうな話だ。ゼノは傍らのクレシュをちらりと見た。
つまり彼女は、案内人候補として、そのたいへんそうな道のりを何度も行き来してきたということだ。この村で育てばそれが当然という感覚なのかもしれないが、部外者からすれば自己犠牲的な労力とも見える。役目だからしかたなく、という程度の気持ちで務まるとも思えない。勇者に対する憧れはあるようだが、このやる気のなさそうな態度の裏で本当は何を考えているのか、あいかわらずつかみどころがなかった。
「さて、クレシュから連絡のあった件ですが」
エイシャが真剣な口調で切り出した。
「鍵の情報が洩れている、ということでしたね」
「うんー」
「一つだけ、心当たりがあるにはあります」
エイシャは一呼吸おいて続けた。
「カイエ」
その一言で、クレシュの顔が表情を失った。
「しばらく前から、彼の消息が途絶えています。自発的になのか、不測の事態に巻き込まれたのかはわかりません」
「……カイエって?」
ゼノが口を挟むと、エイシャが答えた。
「カイエは、クレシュの兄です」
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