第25話 発覚②

 やがて、時間がゆっくりと動き出す。 


 春菜の顔は困惑に彩られて、明るさが消えている。


 信じられない、信じたくないものを見ているという、春菜の当惑の表情。


「春菜……」


 背後から、こちらも事態を把握しきれていないという声音が響いてきた。


 振り返ると、驚いたという様子で春菜を見つめているパジャマ姿の詩織が棒立ちになっているのだった。濡れた髪にタオルを巻きつけたままの姿で。


「どういう……こと。いくと君……」


 詩織に目をやっていた俺の背後から、俺に問いかける声が響いてきた。「違うと言ってよいくと君っ!」という春菜の願いが混じりこんでいる声音だ。


「親戚の人が……いるんじゃなかったの……」


「いや、そうなんだが、そうじゃなくて……」


 春菜に向き直ってしどろもどろの言い訳を並べ立てるが、頭の中は混乱しているのでうまい言い訳が出てこない。


 俺に答えを求める目の春菜に、背後の詩織がゆっくりと言葉を告ぐ。


「そうね。どういったらいいかしら……」


 春菜の顔が、詩織の台詞を警戒してか、強張った。


 春菜は身じろぎ一つしない。春菜と詩織、二人の視線がぶつかり合っているのがわかる。


「この状況で嘘を言っても意味がないからはっきり言うけど、二か月前から私はここに住んでるわ」


 春菜の表情が瞬間、止まった。それからややあって、春菜が拳を握って歯をかみしめる。肩が震え出すのがわかった。


「郁斗は春菜を傷つけたくなかった。いえ、違うわね。私がここにいることで春菜に悪印象を与えるのを恐れたのよ」


 その詩織の言葉を受けて――


「いくと君っ!」


 春菜が叫んだ。俺の口内に苦い味が広がる。


「なんでっ!」


 答えられなかった。答える言葉を持たなかった。俺の失態だ。春菜に正直にすべて話すべきだったのだ。


 春菜は、成り行きでの詩織との同居なんてことを気にする娘じゃない。春菜を信じ切れずに日和った俺が間違いだったのだ。


 その報い、報復を、いまふとしたきっかけで与えられたにすぎない。これは俺自身が招いた『罰』だ。


「ごめん」


 俺は素直に謝った。謝るしか術はなかったし、謝る言葉しか脳内に浮かばなかった。


「気難しい親戚がいるというのは嘘……なんだ」


 苦しみにうめきながら、俺は続ける。


「本当は……親の伝手で詩織が同居することになって……言い出せなかった。春菜にアプローチをし続けてるのに返事をもらえない俺が……その……春菜に完全に見限られてしまうのが怖かったんだ」


「そんな……こと……」


 春菜の険しい顔が崩れて、哀しみが溢れ出した。


「なんで……言ってくれ……なかった、の?」


 小さな問いかけだった。だが、ダムに開いた針の一穴でもあった。春菜の顔が徐々に崩れてゆく。


「全然気にしないよ、そんなこと。同居だって、お父さんの関係でしょ。そんなこと、全然大丈夫だよ。でも……」


 春菜の顔がぐしゃぐゃになってゆく。


「なんで……私に言ってくれなかったの……かな。私に隠す様な事、したのかな?」


 春菜は泣きだしていた。顔を歪めて、ぼろぼろ涙をこぼして。俺や詩織が目の前にいることを気にする様子もなく、嗚咽交じりに言葉を続けてくる。


「今日、いくと君、の家に来て、いくと君、の笑顔を見て、いくと君、と一緒に登校して……」


 ひっくひっくと春菜は言葉を紡ぎだしてくる。


「学校に行ったら、詩織と『おはよう』して、三人でわいわい騒いで……」


 春菜がきつく瞼をつむる。大粒の雫が両方の目尻からこぼれ落ちる。春菜の顔は鼻水と涙にぬれてぐちゃぐちゃになっていた。その春菜があうあうと言葉をこぼしだしてくる。


「昨日の夜からいくと君の顔みるのをずっと楽しみにしてたんだよ? そうすれば嫌な考えなんか吹き飛んじゃうからって。でもなんで……」


 一泊置いて、春菜が笑った。


「詩織がいくと君家にいるのかな……」


 春菜が、涙に濡れた、いまにも崩れ落ちそうな壮絶な微笑を見せる。


 俺は答える言葉を持たなかった。


 きつく唇を噛みしめる。


 春菜を傷つけたのは俺だ。


 詩織じゃなくて、俺だ。


 目の前で壊れそうに笑っている春菜に対して、俺は何を償えばいいのだろう。頭が熱くなってぐちゃぐちゃになる。どんなに謝っても許されないことをしてしまったのだと、眼前の春菜を見ながら思い知らされる。


 春菜を見ているのが苦しい。その瞳から逃れたくて、でも逃れられない。春菜が見つめてくるその視線を避けたら、春菜との関係は終わってしまうのではないかという恐怖に支配されていた。


 今までも、俺が不登校になって自室に引きこもっていた時も、何度も俺を立ち直らせようとした春菜とぶつかった。時には互いに辛辣な言葉を発し、春菜が「もういいっ!」と捨てぜりふを吐いて去ったこともある。


 今となってはいい思い出なのかもしれないのだが、また春菜との関係が壊れそうになっている今を目の前にすると、あの時の不安と後悔が掘り起こされて胸を覆いつくさんばかりになる。


「いくと君……。何か言う事、ある?」


 消え入りそうな春菜の声音。


「…………ごめん。嘘をついて春菜を傷つけた。後悔してる」


「詩織さんと仲良くしなきゃダメだよ」


 春菜は濡れた顔でニッコリと笑う。そして――


「私、先に学校へ行くから。じゃあね」


 踵を返して走り出した。


 見ているうちにその背が玄関を出て遠ざかってゆく。


「春菜っ!」


 俺が叫んで、


「郁斗っ! 追いかけてっ!」


 背後から詩織の叱責が飛んできた。


 その詩織の叱咤で俺は今自分がすべきことを理解する。慌てて靴を履き、春菜を追いかけて跳び出したのだった。





「貸し一つね、春菜。我ながら甘いと思うけど、でもこれで郁斗を譲るわけでもないから」


 玄関に一人残された詩織がつぶやく。


 誰にも届くことはない、でもはっきりとした音だった。

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