第16話 詩織と部屋で

「というわけで、お勉強タイムだ」


 場所は俺の部屋。二人ともラフな部屋着で、夕食後詩織を強制的に招いて、部屋の真ん中にある丸テーブルに教科書を広げている。いくつかの質問とその応答から判断して、詩織は中学一年レベルからやり直したほうがよいという判断をするに至っている。


「嫌よっ、勉強なんて。私の人生に必要ないわ」


 抵抗を崩さないこの詩織嬢。数学だけでなく英語や国語などの基礎科目も一からやり直しをしなくてはならない猛者だった。俺は頭を抱えている。


「日本には教育制度というものがあって、高校は義務教育ではないけど勉強しておくに越したことはない」


「数学のどこが人生に必要なのか、教えて頂戴」


 春菜も数学を苦手にしている。だが、「数学って何かの役に立つのかな?」レベルで引き下がってくれる。難しい顔をしながら、俺の教えることをしっかりと理解して学習しようという意思が見られる。


 しかし詩織嬢は、詳しくは知らないが人生こじらせてしまっているらしく、その言動から世の中の秩序に対する反抗、というか敵意的なものを感じさせる。


 何と答えようかと思って一度目をつむったのち、返答した。


「論理的な思考をする訓練だと思ってほしい。将来、色々な事を考えて結論を導かなくてならないことが多く待ち構えている。その為の「パズル」をやっていると思ってくれ」


「数学が……?」


「そう。一見何の関係もないように思えるが、この訓練をやっておくのとやっておかないのでは、自分の人生の道程を見つける際に雲泥の差になる」


「むー」


 詩織はまだ納得がいっていない様子。だが、少し抵抗が和らいできた気配が見える。


「やってくれ。他人に道を決められる感じで気に入らないだろうが、俺は詩織といっしょに三年になりたい」


「むー」


 詩織はしぶしぶといった表情を見せた。


「だが……」


 俺は詩織の変化に手ごたえを感じながら続ける。


「二週間後の中間テストまで時間がない。はっきり言うと、二週間で中一から高二レベルまで学力を引き上げるのは至難の業だ。だから……」


「だから?」


「論理的思考力は一旦置いておいて、解法だけ理解してもらう。ショートカットというやつだ。中間テストで四十点以上を取ることだけを今回の目標としてもらう」


「意味ないじゃない。将来の為の訓練なんでしょ」


「俺は詩織と一緒の学年に進級したい、というのではダメか?」


「うぅ……。私たちは、劣悪な支配者のモルモットなのね……」


 詩織は心底残念というか、悔しいという面持ちで顔をしかめる。


 いや、そういう反抗期的な気持ちもわからないではないんだが、毎日学校に行って生活している流れの中で卒業して、社会に溶け込んでしまうのではないのか?


 学園一のクールビューティ―が昔の引きこもりの俺と重なる。上から目線ではないのだが、こいつなんとかしてやらないと、という思いが沸き起こってくる。


 学園内の地位では、詩織は遥かに俺より格上だ。その鮮烈な性格から一部の女子を敵にはしているが、男子からの人気は高く、春菜のサポートもあって評判は上々だ。俺ごときに告白してくる様な相手ではない。


 だが詩織の本性を見ていると、自分の鬱屈した思いを制御できていないように見えて、その外見とのギャップにそわそわさせられる。


 なんというのだろうか?


「萌える」というやつなのだろうか?


 とても整った面立ちと綺麗なバランスの肢体の中に、こじらせ性癖の女の子の本性を隠している。不思議な感覚。


 春菜に対する幼馴染の憧れとはまた違った、異性の魅力。これ、俺が女の子に対する免疫がないからなのだろうか。あるいは、男子の俺が無意識に女性を見下しているとか。


「……郁斗?」


 ふと、呼び声に我に返る。


「郁斗。何を考えてるの?」


 詩織が怪訝だという顔つきで俺を見ていた。


「いや、なんでもない。少しだけ……」


「だけ……?」


 言おうか言うまいか迷ったが、言うことにした。理由は自分でもわからない。


「見とれてた。なぜかはわからない」


「……」


 詩織は「えっ?」っと不意打ちを食らったという顔した後、恥ずかしいという表情で顔をそむける。その頬がうっすらと染まっている。


「S禁止っ!」


「Sなの、これっ?」


「そう。私を弄って意地悪して楽しむの禁止。勉強始めるわよ」


 詩織からテーブル上の本を手に取ってくれた。


 流れに乗って、勉強を始める。


 それから――一時間ほど、二人きりの学習時間が過ぎた。





「ふう。疲れたわ」


「そうだね。休もうか」


 俺は立ち上がって部屋を出る。一階のキッチンで紅茶とケーキを用意して戻ると、詩織がくつろいだ様子で文庫本を読んでいた。


「勝手に拝借してるわ」


 詩織が読んでいるのは、本棚に並んでいたライトノベル、『この夜の世界を満たすまで』。ライトノベル新人賞受賞作の『この夜』。アニメ化もされている。


 ぺらりぺらりとページをめくりながら、詩織が声だけを向けてくる。


「名作揃えているの、評価してあげる」


「知ってるよ。知り合いのお気に入りだからね」


 俺も紅茶とケーキをテーブルに置いて座る。詩織は本に目を落としたまま。


『この夜』は世界系ボーイミーツガールの出来作で、少年が不思議な少女と出逢う場面から始まる。近づいてきた少女と幼馴染の間で揺れ動く少年と、その少年少女たちの運命の話。


「最後には主人公が出逢った少女を選び幼馴染を捨て、二人だけの世界へ行っちゃうの。感動的だわ。去り際の主人公の背がとってもかっこよくて」


 俺も読んだ。確かに、幼馴染と出逢いの美少女の二人から一人を選ばなくてはならなくなった主人公の懊悩がこれでもかと書かれている。


「幼馴染を捨てる主人公の気持ちがよく書けてるよな。俺ならそうしないが主人公の気持ちもわからんではない」


「でしょう」


「何回も何十回も読んで、このヒロイン、『逢瀬翠ちゃん』になること夢にまで見たわ。郁斗、主人公になってみたくはない?」


「俺は……この主人公の気持ちは、よくわからない」


「私は……」


 詩織が言葉を切り、本を置く。俺をじーっと見つめたのち、言葉を発した。


「郁斗と、結ばれたいわ。私じゃ……不足?」


 どう? と、少し誘う様な抑揚のセリフだった。その詩織に、俺は混乱する。突然の詩織の挙動に困惑しながらも、心臓が高ぶり始めるのを止められない。


「俺は……辛いときにずっと『幼馴染』に支えられてきて。『幼馴染』がいたから今こうして真っ当に学園生活できてるから……」


 詩織に言い訳するように、自分に言い聞かせるように、音にする。でも、俺を見つめる詩織のまなこに、いざなう色は消えない。


「私にも『出逢った主人公』がいたわ。その『主人公』がいたから、今の強キャラの私がいるの。私はその『主人公』のことを想い続けてきたわ」


 詩織の言葉は分からなかった。


 詩織の出逢った主人公とは物語の話なのだろうか?


 あるいは、実際に詩織には王子様的な人がいたのだろうか?


 詩織はその主人公と出逢ったと言う。そしてその『主人公』を想い続けてきたと。


 ただ一つ理解できることは、それが詩織にとってものすごく大切な人で、今の詩織を形作る基礎になっているということだ。


 互いに見つめ合う。


 互いの心を探る様に。


 そのまま――じーっとした時間が過ぎてゆき……


 詩織が場面の緊張を崩す様に、ふふっと表情を崩した。


「今日はここまでにしておきましょう。今はまだここまで。郁斗が私の事を選んでいないから」


 そう言って笑った詩織の真意を俺はまだ測れていない。


 そんな俺の前で、深淵な笑みを浮かべている詩織とのひとときだった。

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