第15話 一緒にお勉強

 さらに少しだけ時間がたって。


 いつものカフェテリアでの昼食時。周囲から「そろそろ中間テストだねー」とか「やばいねー」といった会話が聞こえてくる時期になって、春菜が明らかに嬉しくない楽しくないといった表情を浮かべていることが多くなった。


 春菜の成績は中の中。良くもなければ悪くもない。ただ油断すると赤点の可能性はあるレベルなので、テスト前は付き合いがてら俺が見てあげるのが恒例行事になっていた。


「やだなー、テスト。勉強しなくちゃって思うんだけど気が乗らないよ。いくと君はいいよね、こうゆう時。特別なにもする必要がないもんね」


 春菜はミートソーススパゲティをフォークに絡めながら、なかなか口に運ぶ気配がない。


「俺は別に楽をしているわけじゃないんだぞ。その分他人の三倍の量、普段からこなしている」


「詩織さんも勉強できてうらやましい。詩織さん、転入早々でランキングかも」


「…………」


 シーフードドリアをスプーンですくい、たまにアイスティーでのどを潤している詩織は反応を見せなかった。


「私もいくと君や詩織さんくらい頭がよかったらなー」


 うーんと春菜が感情を発散させるように両腕を上げてバンザイをした。


「どうして……私の成績がいいと思ったの?」


 感情を込めずに詩織が聞いてきた。


「え? だって詩織さんってクールで騒ぐとか無縁だし、勉強めちゃくちゃできるんでしょ?」


「…………」


 詩織は無言。


「まずいのか?」


 俺は聞いてみる。


「……すこし」


 あまりはっきりとしない、お茶を濁したような返答が返ってきた。


「なら三人で一緒に、放課後図書室で勉強会するか?」


「いいかも!」


 すぐに春菜が賛成の意を示した。


 俺は詩織を見る。表情という表情を浮かべてはいないが、強いて言えば何かを慮っている、ためらって躊躇しているように見える。のち、


「郁斗が教えてくれるというのなら、少しだけ勉強……してもいいわ」


 観念したという抑揚を返してきた。


「きまりね! 放課後、図書室に集合!」


「遊びじゃないんだからな」


 俺が諭しても、無言の詩織とはうってかわって「うん!」と楽しそうな発声を放つ春菜なのであった。





 そして、放課後の図書室。


 中間テストが近いということで、並んでいる四人掛けのテーブルはほぼ埋まっている。その中の一つに三人で座って、数学の教科書を開いている俺たちなのであった。


 俺はさっと教科書に目を通す。一年前に学習してしまった範囲で、テストの前日に確認だけしておけばいいだろう。


 対面の春菜を見る。難しい顔をしてシャーペン片手に教科書とにらめっこしている。


「うーん」


 春菜が、静かな図書室で小さなうめきを上げる。


「数学って……将来、なんか役に立つのかな?」


 あからさまに根本的な疑念を提示した。


「役に立つわけがないじゃないこんなもの。時間の無駄よ」


 俺の隣に座っている詩織が、心底軽蔑しきったという声音で辛辣に同意する。


「とは言っても、春菜にも詩織にも指数関数は理解してもらう。でないと赤点だからな」


 詩織は抵抗の意だろうか。ふんっと鼻息荒くそっぽを向く。


 その詩織をなだめつつ、何とかテキストを開かせた。


 それから、室内で皆が無言のじーっとした時間がたち始める。


 詩織はその間も脂汗を流して教科書をにらみつけている。さながらガマのカエルのごとし。問題を解き始める様子はない。


 その、教科書を前に固まっていた詩織が声を出した。


「ねえ」


「なんだ?」


「この記号……なに?」


 えっと思った。


 記号?


 どの記号の事だろうか?


 詩織が指さしているのは、ごく平凡な方程式だ。


「どの記号……?」


「これ?」


 詩織のさしているモノがわからない。


「ルート二分の一イコール……」


「それ! その……ルーと? とかいうやつ? あと、こっちの記号も」


 詩織は二乗の小さい2を指し示した。


 いまいち理解が追い付かない。だが詩織は冗談を言っている様子もなく、マジな顔。


「こっちの記号は?」


「……ちょっと……待ってくれ!」


 俺は、教科書と、その前で険しい顔をしている詩織を見比べる。それから席を立ち、書棚にまで行き本を取ってきた。


「この問題やってみてくれ」


「なにこれっ! 一年生の教科書じゃないっ! 馬鹿にしているのっ!」


「いいからやってみてくれ!」


 詩織は渋々、問題とにらめっこし始めた。そして無言の時が経つこと五分。顔を窓に向けて、気分がよいという調子でのたまわった。


「ふぅ。いい天気ね。散歩すると気持ちいいと思わない」


「現実逃避してんじゃねーーーーーーっ! 詩織っ! お前は最初から特訓だっ!」


 思わず大声を出してしまった。


 周囲の視線が集まる。俺は周りに対して平謝り。その後、再び詩織に向き直る。


「特訓なんて嫌よっ! こんなもの人生で何の役に立つのっ! 時間の無駄よっ!」


「今は問題を解くのに集中してくれ。赤点取ってばかりだと、進級できんぞ」


 詩織は拗ねたという様子でぷいっと横を向いた。


「郁斗の意地悪。嫌い。大っ嫌い。体目当てで寄ってくる勘違いイケメン陽キャくらい嫌い!」


「俺を嫌ってくれても構わんが、数学やってもらわないと卒業できない。頼むからやってくれ」


「嫌いっ!」


 詩織は完全に機嫌を損ねた様子。


 困った。春菜のレベルは理解している。きちんと理論立てて説明すれば落第点はとらないですむだろう。


 しかしまさか詩織に問題があるとは思っていなかったのだ。それも今の調子だと、少なくとも数学に関しては基礎に大問題がある。下手すると中学レベルからやり直さなくてはならないというレベルだ。


「郁斗、嫌いっ」


 のち、詩織がぽつりと小さくつぶやく。


「うそ。大好き」


「なにか言った?」


「郁斗が意地悪で私を虐めるSだって言った」


「詩織さん。数学苦手だったんだ。やった! 仲間だね」


 春菜が嬉しそうに会話に混ざってきた。


「そうだ! 今度、久しぶりにいくと君の部屋で勉強会しようよ! いくと君が好きな欧風ビーフカレーも作ってあげる」


 春菜が思いついたという調子で声にする。大き目の発声だったので再び周囲ににらまれて、春菜はすいませんすいませんと謝っている。


 俺は、この流れはマズいなと思惑を巡らす。春菜が家にやってきたら、詩織との同居がバレかねない。


 詩織が来る前は、家族同然の春菜は俺の自宅に自由に出入りしていたのだが、詩織と同居するようになってから、義母の気難しい親戚が同居するようになったから家にくるのは少しだけ遠慮してと言い訳をしているのだ。


「いいわね、それ。私は賛成」


 詩織が他人事のように春菜に賛成する。って、ちょっと詩織さん。お願いだから賛成しないで。俺の春菜に対する立場がなくなるから。


 とは言っても、詩織が同居していることは家族公認なわけで詩織に罪はない。詩織からすると何もやましいことはしていないので、俺のあたふたする様子を楽しむがごとき顔を俺に向けている。


 もしかして詩織さん。数学を強要した俺に対する仕返し、ですか? 江戸の敵を長崎で討つ的な。俺のことをSだと非難した詩織嬢は、俺を虐めるのが楽しいSさんですが、見た目通りのままに。


「いや、春菜。前にも言った通りいま俺の家には気難しい客が来ていてだな……」


俺はしどろもどろになりながら、なんとか自宅での勉強会を断るのには成功した。


「でも残念。久しぶりにいくと君の部屋に遊びに行けると思ったのに」


 春菜はまだ納得いかない様子。春菜の顔に、モヤモヤした感情が表れているのを否定できない図書室の勉強会なのであった。

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