歩いていく。歩んでいる
みちづきシモン
私は歩く
「それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
妻に挨拶を交わして外に出る。齢六十を超える私が、二十年間という長い間続けてきた週間は、歩くこと。家を出る前に飲料水をリュックに入れ背負い、自分のペースで歩く。
随分と歩くペースが遅くなった。そのため同じ距離を歩くには時間がかかる。それでもいつものコースを基本的には大きく変えない。これは、伸ばすことはあっても縮めることをしないという意味だ。
天気の悪い日は流石に歩くことをしない。曇りなら折りたたみ傘を忘れずに。天気予報はかかせない。
私は在宅で稼ぐ仕事をしているため、自由時間が多い。そのため運動不足で身体を壊した。それがキッカケでウォーキングなるものをしようと決意したのだ。
最初は続かないかもしれないと思っていた。歩くなんて面倒だ。そもそも少し歩いただけでは意味がないし、続けないと意味がないのに、長距離を歩くと時間がかかる。時間の無駄ではないか? そう考えるのが普通だと思う。
それでも私が続けられているのは、出会ってしまったからだ。敢えて強く言うなら自分を取り巻く世界に出会った。私は今まで机で仕事をしていて気付かなかった。時折出掛けても気にかけなかった。その風景達に出会ったのだ。
初めの一歩は春だった。私は何も気にせず歩いていた。運動不足の身体を少しでも動かす。これに徹していて周りを見ていなかった。ふと頬に触れたのは花びら。足を止めて周りを見渡すと、桜の花が舞っていた。
桜なんて毎年見る。お花見もする。だが、心地よい風と自分のかいた汗に、舞う花びらが祝福してくれているような感覚に陥った。
今まで自分が見てきた景色が偽物であったように感じるほど魅入った。それもそのはず、今までは花より団子、景色などお構い無しの自分がいたからだ。だが今は歩いてきた景色が広がったのを感じた。
私は桜舞う道を歩いた。頭にも花びらがかかる。私は笑った。これは気分がいい、明日も歩こう。だが、天候がそれを良しとしなかった。
次の日は生憎の雨で、恐らくだが桜も散ってしまうだろう。だが、ここで私はふと考えた。散った後の桜はどのようなものだろうかと。
雨の日の翌朝、少し曇り空だったが歩けそうなので歩いてみた。そして桜並木の道へ辿り着くと、想像通り桜の花びらの絨毯が出来ていた。
サクサクと歩いていくと私の中に沢山の思いが生まれた。一年を通して一体どれだけの変化があるだろう? 夏は? 秋は? 冬は? 私に楽しみが増えた。
春の次に暑い夏がやってきて、歩くのも億劫になると思っていた。だが、自然と足はコースを伸ばして動いた。盆に入り墓参りの時期がきたからだ。私は亡き父と母の墓に手を合わせた。
時々コースを伸ばし、寺院の墓まで行く私は暑い夏にも負けず、汗をかきながら歩いた。
私の歩くコースには祭りの神輿が通る道がある。私は時間を合わせ、妻と歩いた。
神輿を担ぐ舁夫を見ながら人混みに揉まれないように歩いていく。妻の手を握り、歩く歩幅を合わせると、恋人だった頃を思い出す。
いつものコースを歩いていると、ふと妻が私に言う。
「歩くようになってから、笑顔が増えましたね」
きっと感情の変化だろう。こんなにも清々しい気持ちになれるなんて。
私は妻の手を握りしめ、共にゆっくり歩いて帰る。歩いている時間も幸福に満たされていた。
川の流れのせせらぎが聞こえる。景色に音が混じる。車の音で遮られるその音は、ある場所に着いた時だけ綺麗に聞こえる。妻も耳をすました。
ゆったりとした時間の流れ。暑いため、そこまで長くはいられないが、この場所を見つけたのも歩いていたからだ。
車で通れば気づかない、ちょっとした発見。それが醍醐味だった。
夏が過ぎて秋が来て紅葉の季節がやってきた。私は紅葉が好きだ。妻に告白したのもプロポーズしたのも素晴らしい紅葉の見える丘だった。
当時そこには車で行った。デートに誘い車に乗ってもらい、連れて行った。
そこまでは歩いては行けない。だから私は探した。少しでも綺麗な紅葉が見える場所を。コースを少しずつ伸ばした。盆に行った寺院もなかなかの紅葉が見れたが、どうせならもっと綺麗な場所がいい。
そしてその場所を見つけた。少し高台にあるその場所からは絶景の紅葉が見れた。妻にも見せたいと思ったが、実際大分歩いた。妻がついてこれるかどうかよりも、私が既にヘトヘトだった。
元々運動不足で始めたウォーキング。実は最初の方はそこまで歩いていない。続けれただけでも御の字だと思っていた。少しずつコースを伸ばし歩けるようになっていただけで、この場所までくるのは結構大変だった。今でさえ帰りの心配をしている。バスに乗って帰ろう。今日はもう十分歩いた。無理をして身体を壊しては意味がない。
私はバスに乗り帰り、妻に今日見た場所の事を話した。私は提案する。バスでも行けるから行ってみないかと。妻は首を横に振った。
「ゆっくりでも、歩いていきましょう」
私は不安になった。あの場所にもう一度たどり着く前に疲れ果ててしまうのではないだろうかと。だが、妻は歩いていこうと言う。ならば覚悟を決めるしかない。天気予報をチェックする。明日は晴れだ。ほっと胸を撫で下ろす。
翌朝起きるとキッチンで妻がお弁当を作ってくれていた。美味しそうなお弁当を見たあと、テーブルに並べられた朝食を見る。
妻がお弁当を作り終えた後、テーブルにつき、共にいただきますをしてから食べ始める。黙食だ。食べ終えてから支度をして、妻と共に家を出た。
その場所まで行こうとしてわかったことがある。恐らくだが妻の方が体力がある。一緒に歩いたこともあるが、ここまで長距離を歩かなかったのもあり気付かなかった。
どうやら私が頑張らなければならないらしい。すると妻は私に声をかけた。
「張り切ると疲れますよ。少しペースを落としましょう」
場所はわかっている。通る道も覚えている。だが、私は昨日必死になって探したため分かっていなかったのだ。その場所に行くまでのコースはとてつもなく長かった。昨日の私によく辿り着いたと褒めていいだろう。
妻の左手を握りながら歩いていると、彼女がふと公園を指さして休憩しようと提案した。
私は腰掛けると汗を拭った。水分補給をして息をつくと、妻が笑った。
少しの休憩の後、歩くのを再開し、やっとの思いでその場所にたどり着いた。
その場所を、その光景を見せると妻は微笑んだ。
「十年前を思い出しますね」
今日は結婚記念日。大切な日に大切な人と素敵な場所で過ごす。それはとても大切な事だが、何よりここまで、苦労して歩んできた。
私のために苦労をさせてきた妻に、また紅葉を見せられた喜びでいっぱいだった。
帰りも歩こう、そう思った。それを妻に伝えるとニッコリ笑って手を握ってくれた。
秋が終わり冬がきた。私は暑いのより寒いのが苦手だ。外を歩くのはちょっと遠慮しようかと思った。だが、逆に歩いた方が暖かくなるのではとも考えた。しっかり防寒すれば、そこまで心配しなくてもいいかもしれない。
クリスマス、いつものコースを歩いているとクリスマスツリーが目に映った。はしゃぐ子供たちを見ながら歩いていると、雪が降り始める。ホワイトクリスマス、妻と歩いていればよかったと後悔した。妻は今私の帰りを待って夕食を作った後外で待ってこの雪を目にするかもしれない。
この世界の景色は色とりどりだ。こんなにも風景を楽しめたのは、きっと歩いたからではないだろう。歩くのはただの手段。ただ、歩いていた時に生まれた心の余裕が、この風景達を見せたのだ。
雪が頬に当たり少し冷たい。帰り道を辿り帰路に着く。
家に着くと妻が駆け寄ってきた。
「寒かったでしょう」
私は頷き、家に入った。暖炉で温まっていると、ケーキが運ばれてきた。
「メリークリスマス」
二人でクリスマスを祝った。
年末は忙しかったが晴れている日は歩いた。大分慣れてきたのか、長距離歩くことも苦ではなくなってきていた。
正月におせち料理を食べて、書き初めをした。書いた文字は「歩く」
今年も歩くことを決めた決意だ。別に何かの大会に出るわけでもない。健康のために歩くだけだが、やはり楽しみだった。
今年はどんな色を見せてくれるだろう? いつもと同じコースでもきっと新しい発見がある。
勿論コースを変えてみるのもいい。だが、自宅から行ける範囲などそう変わらない。
例えばバスに乗ってどこかへ行って、そこから歩いて目的地に着いても、素敵な景色は見られる。だが、それは継続できないだろう。
特別な何かを探すのではなく、日常から特別を見つけるのだ。
太陽がサンサンと輝く晴れの日にただ歩く。通り道の寺院では初詣のために並ぶ人達が見えた。
私は通り越そうかと思ったが、少し寄り道をする。そして並んだ末、家内安全の御守りを二つ買って再び歩き始める。
春も夏も秋もそうだったが、冬も色は一色ではない。こんな単純なことに四十年も気付かなかった自分の愚かさに笑った。
そして、私はそれからも二十年間歩き続けている。
時を六十歳に戻そう。いつも通りのコースを歩く。当初の私が歩んだ道より長い距離。この歳になっても衰えずにいるのはきっと歩き続けてきたから。
二十年間など人の歴史からしたら大した事などない。だが、私の人生の三分の一である。それは私が歩んできた歴史でもあるのだ。
私は思いを馳せて歩く。二十年で景色はガラリと変わった。高い建物が多くなったし、新しい駅も出来て人が増えた。ここは少し田舎だったが、若い人も増えた気がする。少し遠めの役所は改築され綺麗になった。ある場所では住宅地が少し増えて、昔廃校寸前だと噂されていたとある学校は別の建物になっている。
畑だらけだった土地に店が出来て、車の音も更に騒がしくなってきた気がする。
それでも例の場所の川のせせらぎは未だ健在なのが嬉しい。
春の桜並木は、すっかりデートスポットになっている。学童は元気に橋を渡り、先程述べた学校から少し離れた、もうひとつの方の新しい学校へと向かっている。そうやって人や物が移り変わる様を、歩いて覗いてきた。
妻はもう長距離を歩けない。膝を悪くして、杖をついている。代わりにこの二十年で進歩したスマートフォンで写真を撮る。扱いは難しいが、必死に覚えて写真を送る。逆に今までこの風景を写真に収めてこなかった事を後悔しているくらいだ。
秋の紅葉だけは一緒に見たくて、着いた頃に連絡し、バスで来てもらう。本来なら一緒にバスで来るべきだが、妻が私は歩けなくなるまでは歩くべきだと言い、そうすることになった。
紅葉を共に見ていると、不意に妻が笑う。私は釣られて笑った。結婚して三十年。いつだって、私達は共に歩んできた。苦しい時もあったかもしれない。乗り越えられたのはお互いの愛があったからだろう。
運動不足はとっくに解消されて、健康的な身体だ。それでも、続けなければいつかは再び弛む。
気持ちの問題だ。続けなければいけないと思うのではなく、続けることを楽しむことが大切。
しなければと思うと逆に続かない。やりたいと思うから続くのだ。前述した通り、私は私を取り巻く風景達に出会い、この世界を歩くことで堪能した。この世界と言っても自宅から歩ける範囲内の世界だが、それでもいい。自分の世界とはもっともっと狭かったもので、それが広がったからこそ、今の自分の地位にいるのだ。
私が何を生業にして生きてきたのかは伏せておこう。想像に任せる。それでも生計を立てて生きてきた中で、歩いてみなければ見えてこなかった世界が確かにあった。
人によっては、当然歩くことなどなくとも景色を眺め、感動する人が沢山いるだろう。
だが私は忙しない中、風景に目もくれず、ひたすら机に向かって仕事をしてきた人間なのだ。
そんな私が生む仕事など、白黒写真のようなものだった。それでも食べていけたが、やはりそのままいたら時代の流れに流されていただろう。
感性を鍛えよと、師に言われた。それは読書や写真、映像を眺めて鍛えるものだと思っていた。実際それでも鍛えられるだろう。だがやはり違うのだ。風を受け、空気を吸い、町を味わうと、そこには確かに自分が立って歩いてる。
ハッキリ言って暇人だと思われても仕方ない。実際、道路を走る車の色を見ながら楽しむ自分は、能天気だとも思う。街路樹や、植樹帯に咲く花に目を向ければ気持ちは穏やかになる。
誰かの目に留まるそれらは興味のない人にとってただの緑色でしかないだろう。だが、私にとってはもう季節で変わるレインボーカラーといっても差し支えない。
私のこの話を聞いて、自分も歩こうと思ってくれる人が友にいる。彼もきっと、彼の家から歩ける範囲の風景を楽しんでいるはずだ。
逆に、車で行って見たらいいという友もいる。別にそれでも構わない。私も車や公共機関を使わないわけではない。ただ、ほんの少し、自分の足で歩いた分だけ、「普段の景色」が変わって見えるのだ。
様々な場所に絶景と呼ばれるスポットがあるが、そんな場所に比べたら普段の景色などちっぽけなものだろう。だがそれでも、普段見る景色が変わることを知る喜びは、きっと大切だと思う。
歩かなくても外に出るだけでもいいかもしれない。妻がそうしている。外の空気を吸うことで外の景色を味わい、自分という人間を労うのだ。
さて、これからどれだけの年数歩けるかわからない。距離も短くなっていくだろう。
それでも歩み続けよう。いつか車椅子や寝たきり等になるまでは、この足で歩いていこう。
私は扉の前で待っていた妻に声をかける。そうして返ってくる言葉に笑った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
歩いていく。歩んでいる みちづきシモン @simon1987
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
太陽/みちづきシモン
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます