第12話 苦味

 ずいぶんと身勝手な人だったなぁ、と思いながらも彼女の中では道理が通っていたのだろう。所詮、理にかなっているかかなっていないか、なども個人個人の価値観の延長線にしかない。道理といういかにも賢そうな言葉だって、結局自己正当性の為の道具にしか使われないのであれば、馬鹿の言葉だ。みんな自分が一番正しく見えるのだ。じゃないと生きていけないだろう?それを下手に疑ってしまうことを覚えてしまったから、自分はこんなどうしようもない偏屈な人間に成り下がってしまったのだろうけれど。幸せになるなら、自分のことをずっと正当化しておくべきだ。自分のことを正義のヒーローとでも思っておくべきだ。所詮、大抵の人間は思い込みほどの実績も残せず死んでいくというのに、皆自意識過剰なのだ。おれも、彼女も。


 行きつけの喫茶店に入って、煙草を吹かしながら大学ノートを開く。半分くらいまで書き連ねた草稿の内容を思い出しながら、ゆらゆらと脳に浮かんだ続きを書く。

 こうやって機嫌が悪いときにしか上手く筆が進まないものだ。ぷつぷつとまた泡のように思考が浮かんではそれを潰していく。お前なんていらないのだと、お前なんて正しくないのだと、一つ一つ丁寧に潰して、水中から酸素を失くしていく。

 壊れてしまえばいい、溺れてしまえばいい。これを読んだ人間の罪悪感を駆り立てて、そうして少しずつ首を絞めてやればいい。背負えよ、おれだけじゃなくて、みんなみんな、罪悪感を背負って生きろよ。自分がド屑だって自覚しろよ。もちろん一番殺したいのはそうやって悦に浸っている自分自身だ。そうやって他者を見下ろしている自分に、下からぐさりと矢を放つ。死ねばいい、こんな人間死ねばいい。一番死ぬべきは自分だろう。窒息しろ、血を流せ、もっと痛いと言えよ。

 水槽を泳ぐ魚たちを憐れんだ目で見ていたくせに、一番自己憐憫という水槽の中で溺れかけているのはきっと自分自身だ。最悪だ。ぐさり、ともう一度その感情を刺し潰す。心は血を流さないけれど、防衛本能が脳内で悲鳴を上げた。これがたまらないのだ。こうやって自分の作る文章で自分の思考を壊すのが、潰すのが、楽しくて楽しくて仕方がない。そして……これしかおれは逃げ方を知らない。なにか答えを出したつもりになって、なにか正しいものを手に入れたつもりになって悦に浸っている自分を、自分の文章の中で別の自分に殺させることでしか、自分の正当性を保てない。いわばノーリスクノーリターンの自己破壊だ。けれど、それでいい。それしか自分の暴れ狂いそうな気を落ち着けられないのだから。これで吐き気が治るのなら、動悸が治るのなら、今にもどうにかなってしまいそうななにかを鎮めることができるなら、おれはおれをいくらでも自分の文章で殺す。


 追加で頼んだコーヒーにまたポーションミルクを垂らす。黒の中を白が泳いでは溶けていく。死んだ魚のように浮くことはなく、混ざってそれは柔らかいブラウンになっていく。……コーヒーの中を泳ぐ魚がいたら、大層苦かろうな。……ぬるま湯で息苦しいというくらいなら、苦い海に溺れて息苦しいと言っていたい。苦味を知っている人間でまだありたい。……これも、自己正当化か。潰すか、全部。

 かわいそうだなぁと、先ほど振った彼女の思考をなんとなく自分の中に再現する。ぬるま湯の中を泳ぐ、大層綺麗な熱帯魚だろうか。ちゃあんとおれの中に溜まったお前への毒は、作品に生かさせてもらうからね。せめて物語の中では君の思考もある程度正当性という担保を持たせてあげよう。おれのなかでは興味のない女でも、別の世界だったらまだよかったかもしれないだろうから。はやくこんな水槽からでて、お前はショーで見世物にでもなっていたらいいんだよ。キラキラとした世界で、チヤホヤしてくれる人間とだけつるんでいればいい。おれは、ショーを見てもなんとも思わない人間だっただけだ。誰かの芸なんて興味がない。面白くもない。何かを面白いと思っている自分でさえ嫌なのだから。


 こんなことをしている自分の趣味の悪さにも反吐が出そうになるが、これだけはもうしばらくは殺せそうにない。醜いがこれが自分だと流石に諦めもつき始めている。一番捨てたいのに、最後に生き残った自分がこれだなんて、本当に、とっとと死ぬべきだろ。だからおれはもっと、クズに成り果てて、誰も見向きもしなくなった頃に、自分のどうしようもないあくどさに酔い潰れて死んで仕舞えばいいのだ。


 頭の片隅で、また何かが嗤っている。

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