第11話 分離

 人を連れ込むからと数時間だけ契約したツインルームを後にして、先ほどの個室に戻る。隣の人は寝てしまったのか、豪快ないびきが聞こえてきた。


「っはぁ……」


 まさかこんなところで再会するだなんて思っていなかった。どうにも彼の祖父の家がこっちの方らしく、それでたまに来ているという。この辺りは駅前か産業道路の周りしか遊べるところなんてないので、その辺をぶらつかれたらきっとまた会う羽目になるのは間違いない。

 できることなら彼ともう顔を合わせるつもりもなかった。酷い逃げ方をした、という自覚はある。だからこそだ。会ったらどんな雑言を浴びせられるかと思ったのに、彼はそれどころかおれの心配なんてしていた。……余計に腹が立った。


 嫌われたかったのだ。けれど、彼はそれでもついてきた。だから、散々甘やかして、一番嫌になるようなタイミングで切り捨てたというのに、それだというのに、奴はそんなことも露知らず、なんなら自分が悪いとでも思い込んで、嫌いになってくれなかった。あれだけ言ったのに。

 おれはお前にいたずらに餌を与えて遊んでいただけだよ。浅はかな考えで優位に立とうとしたんだよ。与えるだけ与えてしまえば、逆らうことはないとどこかでわかっていたから。それなのにどうして君は、おれが生きていることなんて喜ぶんだよ。


 最悪だ。またそうやって、人を騙して、自分を騙して。


 鞄から箱に入った瓶を取り出す。雑に開封して白い錠剤をぼとぼとと手のひらに落としては、それを全部口に放り投げた。

 もっとクズになるしかないのだ。この世で誰も相手をしてくれないような、見捨ててくれるような、期待されないような、愛されないような、もっと屑になり果てるしかない。ペットボトルの飲み口を開けて、それらを少しずつ咽ないように胃に流していく。

 本当に死ぬように生きるべきは自分の方だ。なんで自分にばかり与えられる。平均的な家庭も、運がよかっただけの小説家デビューも、なんでおれに与えられて、彼に与えてくれないのか。酷いじゃないか。惨めになるんだよ、あいつといるだけで。与えられてこれなおれと、何も与えられていないのにしっかりしている彼と。


「もーさ、ほっといてよ……」


 息をしているだけで自分のことが嫌になる。忘れたくなって、さらにどうしようもない人間になりたくて、こうやってどうしようもないことで埋め続けるしかない。ああ、今週末は実家に帰ろうと思ったけれど、もうどうだっていい。あれよあれよと世話を焼かれるのが辛い。施しを受けると返さないといけない気持ちになる。また聞き分けの良い息子を演じなきゃという気持ちになってしまう。そんなこと別に両親は一切思ってすらいないのに、おれは勝手にそれを背負い込んで、勝手に追い込まれている。降参です、というように仰向けになって腕を投げ出した。がこん、と左手が薄い壁に当たって響いた。

 少しずつ意識がふわふわとしてくる。こうやって、頭を麻痺させてしまうのが一番楽だ。もう何も考えずに、人でなしに堕ちていく自分を、輪郭を失っていく自分を感じて溶けてしまえばいい。作り物の多幸感に溺れていればいいのだ。何も考えなくて済む。


 このまま、死んでしまえればいいのに。




 酷く喉が乾いた感覚がして目が覚めた。これだから薬が抜けるまではつらい。建物内の自販機で、炭酸飲料と水を買って個室に戻った。携帯には暫定彼女からの着歴があって、これだけのことに無性に腹が立って、自分と付き合ってくれる女の子がいないんじゃなくて、自分が女の子と付き合う気がないんじゃないか、とため息が出た。人と関わるのは基本的にめんどくさい。というより自分のめんどくささに嫌気が差すのだ。

 小さい頃は自分も両親みたいに、仕事して、結婚して、家を買って、子供ができるものだと純粋に思っていた。いつからこんなことになってしまったんだろうか。どこで自分は判断を間違えて、自分は間違っていないと思い込むために自分の中の理屈を捏ねるようになってしまったんだろうか。人なんて産まれてこない方がいいとか、産まれてくるから不幸になるのだから産むことが間違ってるとか、そんなことを理屈ごねてみたことだってあったけれど、それは普通に生きている人たちへの羨望と、逆恨みを正当化して自分を賢いと思い込むだけの言い訳でしかないことも嫌というほど実感していて、それも結局吐いて捨てた。赤の他人を罪人に仕立て上げて、人でなしはどっちだ。そんなことを強く主張できるほど、おれは強くなかったし、人のことを好きでもなかった。

 もしあの時、彼女に出会わなかったら……おれは、普通の人になれたのだろうか。

 おれって、一体何なんだろう。自分は自分のことをどういった人間だと思いこみたくて、実際端から見たらどうなのだろう。


『それに、自分が勝手にやってることだって言いながらオレに優しくしてくれるから……いい人だと、思ってる』


 彼は、簡単にそんなことを言ってのける。邪な心もなく。それが酷く悔しかった。おれがいい人に見えるなんて、相当節穴だよ。それこそ詐欺師に騙されるんじゃないか心配になる。おれが失ってしまったまともさを、あの環境の中失わずに生きてこれたんだから、報われてほしいのだ。だから、こんな人間ともう出会っちゃいけない。

 惨めだ。彼とかかわっていると、どんどん自分が汚らしいものに思えてくる。あまりにも眩しすぎる。

 ───────なにもないのは、おれのほうだろ。




「ねえすごくない?この水槽、大きいね」

「あー、うん。そうだね」


 どこかに連れて行け、ショッピングモールは飽きた、遊園地はおれが遊べないから却下、映画も見たい作品はなし。そうやって暫定彼女に無理やり車を出させられたのは、一時間くらい走った先にある水族館だった。

 昔は大きな水槽を泳ぐ魚たちに生命の神秘のようなものを感じたことはあったにせよ、今になると滑稽なものだなという印象しかない。毎日こうやって見世物として飼われて、好奇の目で見られて。初対面の存在たちにまるで庇護欲を抱かれ、こうやってデートだのなんだののアピールに使われて。まるで人間の支配欲の象徴じゃないか。

 ふと、視界に入った中規模の水槽の中で、一匹の魚が死んで浮いていた。腐食が進んでいるのだろう、それなのに誰にも見つからずこうやって変なところを見ている人間には見つかるのだ。可哀そうに。……いや、おれなんかに憐みの目を向けられるのが一番愚弄されているか。

 目を配らせはするもののつまらないといった表情のおれに彼女はぶつくさと文句を言ってくる。別に来たくないところに連れてきたのはお前だろうが。


「酷くない?折角来たのに」

「別に、折角とか思ってないし」


 実際ものすごくつまらないのだ。まあ、どこにいようとそれは変わらないのだろうけれど。昔はあった好奇心のアンテナのようなものがサビついてしまったのか、全てのものがひどく醜く見えて、そうやって何かを俯瞰したつもりになっている自分に対しても嫌気がさしている。人と違う視点を持った自分に酔うのも大概にしろ、という声と、事実こうやって他の生き物を見世物として展示して、それにはしゃいでいる人間たちというのはあまりにもグロテスクだろうという嫌悪感と。ああだこうだと自分を正当化する声と。ああ、嫌だ。もうなにも見たくないし何にも関わりたくない。何もかもにも腹が立つから。


「……察し悪すぎ」

「察してもらおうとしている君が幼稚なんだよ」


 もうちょっと楽しそうにしてくれ、という雰囲気を出されているのは察しているのだ。察しているからこそ、それに答える気をなくす。


「もう少し優しくしてくれたっていいじゃない」

「優しくしてもらえる前提なのが腹立つな」


 これだから施しを受けてもそれを認知できない特権階級様は。認知できないから他人に文句を堂々と言えるのだ。道理がかなっていることだというのに理不尽だと糾弾するのだ。

 思い返すのは姉のことだった。おれのことを甘やかされたと言う割に、結局一番わがままなのはあいつだろう。確かに流産して離婚したのは可哀想に思えるが、結局その後はパートを転々として、ちょっと気に食わなくなるとすぐ辞めて。被害者面の愚痴を永遠にこちらに当たり散らしてくる。文句があるなら実家をでろよといったところで、あいつはもう自分のことを悲劇のヒロインとでも思い込んでいるので、そんなことを言われた私に酔い始める。手のつけようがない、わがままな女は。

 結局、よっぽどじゃないと人間なんて、そんなもんか。


「そんなこというなら別れるよ」

「そうやって人のことを支配しようとするの、辞めたほうが良いんじゃない?」

「は?」

「大人しく支配されてくれる優しい男でも捕まえなよ。おれみたいなめんどくさい我が強い人間じゃなくて」


 それこそ、彼みたいな奴が、お前みたいな女には絶好の獲物だろう。


「最低」

「その最低な人間に付き合えって迫ってきたのはどっち?」


 正直好みでも何でもなかったのだ。付き合っていればある程度の愛着は湧くだろうと承諾したものの、残念ながら結果はこうだ。愛おしいどころかめんどくさい。キラキラの恋愛がしたいというのなら、まずおれを選ぶ時点で論外だ。若い女というだけでちやほやしてくれる人を選んだほうが良い。そもそも、文学サークルのほうの知り合いの知り合いでしかない人間だ。どうせデビューしているからと自分の名誉のためにおれに狙いを定めたのだろう。小説家と付き合っているという優越感に浸るための道具なことくらい透けて見えている。


「でもあんただって承諾したじゃん!」

「そりゃフリーだったら好きじゃなくてもいいよって言うことはあるでしょ。お前だってそうだろ」

「私は好きじゃない人となんて付き合わないし!」

「じゃあさ、お前はおれのどこを好きになったわけ?どうせ肩書だろ」

「そ、れは……」

「君がちゃんと好きになれて、もう少し君のことを好きになってくれる人と付き合ってくれたほうが良いんじゃない?おれはもう君のことを許容できる範囲は超えちゃったから」


 散々出かけたいと無理やり車を出させられたのに、それでも不満を言ってくる態度に嫌気が差したのかもしれないし、そもそも昨日の電話の時点でもう彼女への愛想は尽きていたのかもしれない。そのくらい、もう自分にはこの人と一緒にいるメリットが感じられなかった。交友関係に損得勘定を持ち出すなと言われかねないが、付き合って3ヶ月くらいは経つというのにそれでも情がさほど湧かないのだ。それで損得を持ち出すな、というのは流石に無理な話である。


「よっぽど来たかったんだろうから回ってくるといいよ。帰りは別に送るからさ」

「……なに?別れ話?」

「そうだよ」

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