第9話 溺死

 ただの気まぐれだった。高校を卒業して、大学に通いやすい位置にあって一番安いアパートを契約した。築34年の2K。家賃は2.3万。一人暮らしで、なおかつ実家から持ってくるものなんて多少の衣類と手回り品だけで、空間が嫌というほどに余った。安い布団セットを買った。安い衣類棚を買った。物なんて最低限でよかった。どうせ就職したら引っ越すだろうし、家の中で過ごすつもりもほとんどなかった。オレにとって家というものは、最低限雨風が凌げて、横になれれば充分だった。定時制高校に通って昼間みっちりと働いて、なんとか貯めたお金と、毎月数万振り込まれてくる利子のない奨学金と。生活の不便よりその残高が減るほうが怖かった。これがなくなったら、オレはもう生活できなくなる。

 18を超えたことで夜間のバイトができるようになった。工事現場の交通整備だとか、深夜のコンビニだとか。それらはだいぶ効率よく稼ぐことができて、馬鹿みたいに高い文系私大の学費を支払いながらでも、なんとか生活を送ることができた。そして、2年に進級して学費を半額免除してもらえることになった。遊ぶことなく、大学とバイト先を往復していてよかったと思った。途端に生活に余裕ができた。もう少し家具を買いそろえようと、ホームセンターまで出向いた。


 それは、その時に出会った。


 尾ひれが一部黒ずんで、元値の半額になった金魚だった。

 じっと見ていたからか声をかけてきた店員に、病気なんですかと尋ねた。ストレスで赤をまとった金が黒ずむことがあると言われた。大抵治るけれど、見栄えが悪くてしばらく安く売っていると言われた。何故か他人事と思えなくなり、店員にあれよあれよと飼育に必要なものを押し付けられ、仕方なく飼ってしまった。


「要らないんだってな、お前」


 水槽に移した彩りはなにも答えない。意志が通じない。言葉がない。


「……オレと同じだな」


 たしか、彼に声をかけたのは……これが最後だったと思う。知りもしない人間の話を聞かせたくなかったし、相手は言い返せないのに、何かを言う気になれなかった。フェアじゃないような気がした。彼らがオレにしてくるサンドバッグと変わらないと思ってしまった。生き物を、ましてや意思疎通ができないものを、そうやってオレのどうでもいい感情の吐口にしたらかわいそうだろうと思った。とりあえず名前はつけたのだ。ウミ、と。淡水魚だということを知らなかったわけではない。ただ、カワとつける気にもなれず、間違った水槽に来てしまった命だったから、ウミとつけた。


 生憎オレは生来淡白な人間だったらしい。特段情が湧くわけでもなく、ただ朝起きるとフレーク状のエサをやり、水が濁ってきたら変えるくらいだった。ぷくぷく、ヴーヴーとエアーポンプの動く音と、偶に激しく泳いでピチャピチャと水が跳ねる音がオレの生活に増えた。それ以外にあるのは、安っぽい時計のカチカチとした音だけだ。

 興味がないくせに、飼ったのだ。変な同情心で手に入れて……最低限のことしかしなかった。オレの生活も何も変わらなかった。餌をやり忘れた時に少し不安になるくらいだった。食べさせないことは、悪いと思ったから。


 ある日、ウミは死んでいた。少し白くなった体が、水槽の上でプカプカと浮いていた。たった、2ヶ月程度の命だったと思う。

 自分のことを母親より最低だと思った。そう育てればいいと渡されたプリントには書いてあったけれど、本当にそれしかしなかった。狭い水槽の中から、よれてしまった華美な服の隙間から、外を見ていた。与えられた餌だけを食べて、与えられた100円玉でご飯を食べて、生きているだけだった。


 あれは、幼い頃のオレと、一緒だ。


 逃げるようにそれをビニール袋に詰めた。原付を走らせて、知ってる水辺に向かった。祖父の家との間の、河川敷。急いで走って、袋の中のそれを川の中に滑り落とすように、棄てた。


 あのときの胸が焼けるような感覚が、塩辛いものが込み上げてくるような感覚が、まだつっかえている。


 土に埋めたら残ってしまうような気がした。だから、流したのだ。どっちにしろあるべき場所に還ってくれると信じて。自分のやったことから逃げた。残したくなかった、自分がやってしまったことを、残せなかった。


 あれから、ふと情緒が不安定になるとこの河川敷に足を運ぶ。自分がやったことを忘れないために、自分が所詮ただのクズであることを思い出すために。流れる河川を見ていると、すこしだけ気が紛れた。嫌な思いをすることに対して、仕方がないことだと諦められるような気がするのだ。

 ふと、タバコの香りがした。街灯も少ないのに、自分の他に誰かいるのだろうかとそちらをふと向いてしまった。




 その、濡羽色の髪を知っていた。パーツの位置が低い童顔の、その琥珀色の瞳も、知っていた。


「つ、」

「……ユキ、く」


 だいぶ雰囲気も背丈も声も変わってしまったけれど、見間違えるわけなんて、なかった。


「……な、んで」

「なんでって、おれの家こっちの方だし」


 眉間に怪訝そうにシワが寄せられる。顔も見たくないと言いたげに、それはこちらに向けられる。


「いき、て、た」

「え」


 突然安心してボロボロと涙を流すオレをみて、彼が信じられないとでも言いたげな顔でこちらを見ていた。

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