第8話 濁

「ねえ、嫌わないんじゃなかったの?」


 あの頃の声のまま、彼はオレに問う。


「結局、君もおれのことなんてどうでもよかったんだね」


 よくないよ。よくないから、きみのことを夢に見ているんだろう。忘れられるわけないだろう。オレには……ツバサしかまともに相手してくれる人がいないのだから。


「嘘つけ……じゃあどうして」


 ━━━━━━おれのこと、殺してくれなかったの?



「…………っ」


 がばり、と勢いよく状態を起こす。布団がわりにかけていた、彼の母親からもらった膝掛けが、胸元からストンと落ちた。

 またあの夢だ。

 彼がいなくなって早6年、オレも彼も誕生日が来たら二十歳になる年齢になってしまった。手元にある端末を覗くと朝の6時で、今日は二限からだからとまた横になる。けれど、心臓の早鐘は治ってくれる気配はない。それどころか、床に胸がついたせいで音が余計煩く感じる。意識を逸らそうと目を泳がせたが、視界に映るのはお飾りのような時計と、なにも入っていない水槽があるだけ。落ち着こうと深呼吸をするも、意識をして呼吸すると朝方になると苦しそうに息をしていた彼のことを不意に思い出してしまう。

 あれから彼と一度も会うことはなかった。連絡先も知らないのだ。会う手段もない。生きているかも分からない。生きていて、欲しい。

 こうやって、日々の忙しさで彼のことが頭から抜けたようなタイミングで、こうやって彼はオレの夢に現れる。やったことを忘れるなとでも言うように、自分の罪悪感をかきたててくるように。

 彼はオレの夢の中で、大抵息絶え絶えの状態で現れる。ある時はなんどか見たことある喘息の発作を起こして、今にも呼吸が止まりそうになっている。ある時は腕を何箇所も切り裂いて血塗れの状態で現れる。またある時は、また姉にでも殴られたのか、形のいい鼻がひしゃげて血を流しながら現れる。そうやって、彼は様々な方法で今にも死にそうな見た目で現れておきながら、オレにどうして殺してくれなかったのかと問うてくる。

 そうしてオレが何も言えないでいると、こんどは君がほっといたからおれはこんなになっちゃったんだよ?と見せつけてくるように嗤うのだ。お前が何もしてくれなかったから、もうボロボロだと。違うじゃないか、君が拒んだんじゃないか。君を殺す以外のことならなんだってできるつもりだった。なんだってやりたかった。でも、彼が望んだことは彼の死だけで、それ以外のことをオレに頼んではくれなかった。一緒にいてくれとも言われなかったし、なんなら逃げられた。散々押し付けておいて、酷いだろ。なにか力になりたかったのに、少しでも笑って欲しかったのに……けれど、オレに何かできたのだろうか。ああすればよかった、こうすればよかったと言うけれど、果たして本当にそれで何かを変えられたのだろうか。

 結局は、後悔を正当化するために、オレはたらればを並べているだけで、今同じことが起きたとて、自分はきっと何もできないままだ。

 それに本当に考えなしに身を消すほど、彼は不誠実になれない人間だろ。だったら答えはひとつだ。


「オレに、迷惑をかけないため…………」


 嫌いにならないと確証を得たら何をするか分からないと言われた。けれど、別にそんじゃそこらのことで嫌いになるとは思えなかった。別に殺してくれと囁かれたって、死にたいとまた思っているのだろうかと不安になるくらいなら毎日言ってくれたって構わなかった。どうせオレは、それになにかをしてやれることもないのだから。


 これも、オレが彼の上部しか知らなかったからだろうか。

 それなら、狡いのは、どちらだろうか。



「……あのさ、じいちゃん」

「なんだ」

「…………答えられないなら、答えなくていいんだけど。オレのこと産んだ時の、母さんってどんな感じだったの」


 祖父にこれを問うのはずっと怖かった。普通の親子だったら、普通の祖父と孫だったら多分ここまで緊張することなんてないのだと思う。けれど、この人は母さんのことも、多分オレのことも嫌いで、ただ血縁だから仕方ないと言う理由で、色々サインをもらったり、保証人になってもらったりしている。本当に申し訳ない。


「お前には悪いけど反対した」

「……」

「赴任先の人間に遊ばれて、子供作ってきて……向こうは責任をとる気もないのだから、産んだところで幸せになれんと思った。それなら日本に戻ってきて、別の人を探せばいいと言ったよ」


 自分が親の立場だったら、正直似たようなことを言うと思う。それだけ祖父の意見は御尤もだった。


「そう」

「それでも聞かなかった」


 なおさらよくわからなかった。親に反対されてまでオレのことを産んだのに、じゃあこれまでの仕打ちは何だったのだろう。


「……オレ、どんな子供だったんですか」

「さぁ。ほとんど連れてこられなかっただろ」

「別に物心つく前はよく着てたとかでも、ないんだ」


 それだったらまだ自分は望まれて生まれてきたのだとほんの少しだけでも思えたかもしれなかった。


「まあ、でも赤ん坊の頃は……可愛がってたとは、思うがな」

「……ほん、と」

「……」

「オレが、なにかしたの」

「…………」


 また何も教えてもらえなかった、それが何かの答えなような気がした。


 流石にこの年齢になると、自分が異質だということは理解できた。そりゃ、自覚こそあったものの小中学校で明らかに浮くのも仕方なかったことだと思うし、大人が一生懸命になってくれるか、もしくは絶対に関わってこないかの二択だったことも頷けるようになった。少しでも普通の人になりたくて、見かけだけでもどうにかしたくて髪を染めたり、周りを真似て愛想よくふるまってみたりしたけれど、今度はオレが普通の生まれではない事に疑問を持たれるようになった。気にしすぎだよだとか、大学に行かせてもらっただけ感謝しないと、だとか……。オレに興味を持って話しかけてくるくせに、事実を話すと嘘だと言われて、もしくは自意識過剰だと言われて、感謝が足りないと言われて、打たれ弱いと言われて。それをあたかもオレの為のように言われて……けれど彼らはそう振舞った数時間後には誰かのいる家に帰っていくのだ。それなら、頭ごなしに否定されてしまったほうが良い。事実としてどうしようもないところを叩かれたほうが良い。まるでそれを善意として押し付けられることの息苦しさに、窒息しそうになる。彼らはいいことを言っているつもりなのだ、アドバイスしているつもりなのだ。だから反論したところでどうせ無駄だ。彼らの中ではオレは被害者意識の強い馬場くんとしての意味しかないのだから。マウントの道具か、サンドバッグか。どこに行ったっておれはどうせ道具だ。都合のいい社会性ごっこの。けど、自分だってそれを愛想笑いで流してまともな人のふりをしている。同じだよ、全部同じだ。

 それならいっそ隔離された水槽の中で泳いでいたほうが幸せだったかもしれない。後ろ指を指される、社会不適合者としてふらふらと浮遊していればよかったのかもしれない。下手に交わってしまったから、中身が異質なことを誰もが嘘だというようになってしまった。……泳ぐのがうますぎたのだ。なら、ひれを切り落としてしまえばいい。そうしたら、オレが彼らと交わり切ることができない存在だと、認めてもらえるだろうか。自分だって生真面目な性格であると自覚してはいるけれど、堕ちてしまいたいと思ったことがないわけじゃない。そういう世界があることも知っていて、ただ……まともでないと母親を凶弾できないという気持ちで、半ば仕方なく、それでいてちっぽけなプライドを守るために自らを縛り続けていた。

 まともに知らない町を出歩く気分にもなれず、逃げるように最低限の用事を済ませて原付に乗った。まだ足があるからいい。嫌になったら、別に逃げることもできる。

 あの母親は、残念ながらまともではなかったのだ。だから、オレが逃げたのは正当のはずなのだ。それなのに、どこか罪悪感が巣を作っている。どこか、まだあの母親のことを親と認識してしまった自分が、死にきれずに残っている。

 本当に、オレがしてきたことは正当だったのだろうか。母親のしてきたことは不当だったのだろうか。自分に親を責める権利があるのだろうか。覚えていないからと言って、子供だったからと言って、総てが総て、許されるわけがない。

 楽になりたいのなら潰してしまえばいいのだ。まだ罪悪感を燻ぶらせている自分を。潰して、なくして、自分の毒は、胃に残ってしまった廃棄物は、人に仕方なく食わされたのだと。自分は被害者で、あれは加害者で……。なんどもなんどもそう思い込もうとしているのに、ずっと何かが尾を引いていた。それをしたら本当にろくでなしに落ちてしまう、母親と同じものに、そしてオレを善意で道具にする彼らと同じになってしまう。



 自分の家から祖父の家まで向かう途中に、近年整備された河川敷がある。このあたりでは数少ない水辺で、祖父の家と往復するときはここに寄るのが通例になっていた。

 ……この間、オレはここに彼の死体を流した。

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