第7話 腐敗

「じゃあ遅くならないようにね」

「うん」


 かちゃりと扉が閉まる音がする。こうやって彼の家に泊まりに来ると、大抵夜更かししすぎて朝起きられないことがよくあるのだ。


「……はやくユキうちの子になっちゃえばいいのに」

「それは……流石に」

「やだ?」

「嫌では、ないけど」


 彼だって本気で言ってるわけじゃない。冗談の延長で、でもそこそこ本心で、けれどそんなことはできないとわかって言っている。


「姉ちゃんじゃなくて弟が欲しかったな」

「オレのこと?」

「ユキが弟だったら楽しかっただろうし……ほら、分散されるじゃない、親の目がさ」


 ようは子供がもう一人居たら、ここまで親が過保護ではなかったかもしれないと言いたいのだろうか。


「まあ、そうだったら」


 楽しかっただろうなと思う。それに、彼が今よりもオレになんでも話してくれるかもしれない、という希望というか。結局オレたちはただのお友達で、お互いの本当にパーソナルな部分には踏み込めない。踏み込んだところで力になれない。


「おれ運悪く末っ子なのに長男ってやつだからさ。どうせそんな長く生きられないのに、こんなに手をかけられてもって思っちゃうんだよね」

「……」

「何にもできないし、なんならすぐ死ぬってわかってるのにどうしておれなんかにこの人たちは優しいんだろうって思うんだよ。まあ、喘息のせいなんだけど……なんかなぁ、別におれになにかをしたところで、あなたたちに何のメリットもないでしょうって、親に対して思っちゃうんだよね。ただただ愛玩されているようで心地が悪い、というか。もちろん感謝だってしてるし、だからこそ嫌だっていうか」

「……」

「ユキからしたら、ほんと贅沢だよね」


 まったく羨ましくないといったら嘘だ。毎日食事だってちゃんと食べたいし、なんなら何かに怯えたりしながら生きるのだって嫌だ。


「オレは、なんでツバサがそんなこと、思わなきゃいけないのかがわかんない」

「……過大評価だなぁ」

「そんなこと、別にないとおもうんだけど。十分優しいっていうか、なんだろう、君がそんなに苦しんで考えることじゃないって思うんだけど、さ」

「ユキは純粋でいいなぁ」

「別に……」

「代わってやれればよかったね。おれみたいなどうしようもない人間だけが苦しめばいいんだよ」

「やめてよ」


 想像するだけで嫌だ。オレは別に今のままでも生きてこれたけれど、彼のような子があの環境で育ったらそれこそ潰れてしまう。あんな思いするのは、オレだけでいい。オレは、もう大丈夫だから。


「ユキみたいにさ、きれいな人間はきれいな世界だけで生きれたらいいのに。あんな生活してたのに、人に甘やかされて育ったおれなんかよりもよっぽど優しくて、しっかりしてて、周りが見えてて、頭がいいっていうか……羨ましいよ、本当に。どうやったら君みたいになれたんだろうね。環境がよかったら、キミはもっといろんな人に愛されてただろうに」

「それこそ、過大評価ってやつだよ」

「……ごめん、おれね、さっき自分で過大評価だっていったときにさ、否定して欲しいって気持ちも込めてそういったんだ。ユキはおれのこと好いてくれてるから、否定するようなこと言ってくれるだろうなぁって、邪な心があってわざと謙遜した」

「……」

「ユキはそういうこと、思った?」

「い、や……」

「そういうところがね、おれは羨ましいんだよ。そして、自分のことが嫌いなの。わかってるんだよ、どういえば人がおれのことを否定しないかわかってる。だからそうやって自己保身に走る。人の思いやりをとって食うためにわざと自分を弱く見せる。……おれねぇ、狡いんだ……母さんたちは気がついてないけど、姉さんはそれがわかってるの。だからおれのことを殴るんだよ、ずるい奴めって……殴らせてるのはお前のくせに被害者ヅラすんなって……姉さんの言い分の方がよっぽど真っ当だよ。それに、母さんたちのことをずっとおれは騙し続けてる。いつまで騙されてくれるんだろうねこの人たち、おれの中身が理想の優しい息子じゃないって気がついたら、どうするつもりなんだろうね」


 彼が何を言いたいのかわからなかった。そして、今彼が言っていることも、きっと彼の耳にはうっすらとその自己保身が透けて聞こえているのだろう。オレは、どうしてやればいいんだろう。何も言えることも何もない。だって、オレがいうことなんてどうせ、彼が待っている言葉でしかないから。待っている言葉をかけたところで、彼はきっと半分救われて、半分苦しむのだろう。思い通りに人を動かしたのだと。それじゃ、きっと何の意味もないのだ。


「ユキみたいにいい子だったら、おれ、ここまで腐らなかったのかなぁ」

「……」

「もうすこし、まともなまま大きくなりたかったな」

「オレからしたら、君がどうしてそんなに自分のこと嫌だって思わなきゃいけないのかがわからないよ」

「ん~?……そうじゃないと、いや、それしかないからじゃないかなぁ」


 彼はそう言って布団の中に潜っていく。もう夜の11時を回っているし、眠いのだろう。


「…………君はいつ、おれのこと嫌いになってくれる?」

「そんな」

「君に嫌われたくないって思うのが嫌なんだ。おれは最低な人間だから、この人はおれのことを嫌いにならないって確証を得たらなにをしでかすか分からないよ?」

「…………」

「そろそろ察してよ、ユキが思ってるような人間じゃないんだって、いい加減気がついてよ」

「ツバサはオレに、どうして欲しいの。慰めて欲しいの、怒って欲しいの」


 自分が何できるのかわからなかった。それでも、何もしないのも嫌だった。


「強いていうなら、殺して欲しいよ」

「……」

「だから、ね……おねがいだから、もう……おれに、やさしくしないで」


 そんな泣きそうな声で言われてしまったら……オレは、なにもできない。




 次の日、彼は少し腫れた目をしていた。いつもよりも口数も少なくて、また自分がなにかをしてしまったんじゃないかと、いや、何もできなかったんだと思い知らされた。その日は土曜の朝で、朝ごはんをご馳走になってオレは自分の家に帰った。

 あれから、彼は体調が悪いと学校に来ることはなかった。進級したタイミングで父親の赴任先に引っ越した、と告げられた。

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