第6話 嫌悪
「なんで来たの」
「オレが勝手に心配して、それだけ」
「……」
「どうしてそんなことになったの」
彼の母親から、昨晩姉とツバサくんが怪我をするような喧嘩になって、そのまま発作を起こして、お互いを引き剥がすために彼を夜間病院に連れて行ったら怪我も酷くてそのまま処置入院になったと聞かされた。本人が今親に会いたがっていないらしく、また姉のほうも心配だからと母親は家にいるらしい。土日じゃないから単身赴任中の父親も帰ってこれないと、心配しつつも彼の方についてやれないとこぼされた。
頬のところについた青痣といい、切れてしまったであろう口元といい、部屋着から覗く腕の包帯といい、どう見てもちょっと口論になっただけとかそんなレベルじゃなかった。年上と言えども、女の人と喧嘩してそうなるか?よっぽどじゃないとここまでならないだろう。
「……なんでおれがそれをユキに言わないといけないわけ?」
どうにも、彼の言葉がいつもよりも厳しかった。頑なで、これ以上は絶対に踏み込ませたくないと言いたいようで。
「心配だからだよ。言って楽になることもあるでしょ」
「……言って苦しくなることもあるんだよ」
「そうかもしれないけど……」
「……なんでおれにそんなに構うの」
「そういうつもりじゃない……別に、見返りとか、そういうのも求めていない」
また空気が一段階ピリついた感覚がした。言葉を選んだつもりでも、またそうやって彼の琴線に触れてしまう。
「前から言ってるけど、君はまず自分のことを心配しなよ」
「それが、分からないんだよ」
「意味不明なんだけど」
「自分のことを考えると、自分が弱くなってしまいそうで嫌だ。母親が悪いって言ったら、父親が悪いって言ったら、自分のことを被害者だと思ってしまったら……弱くなってしまいそうで。そんなこと考えたくないから。あの人たちだって事情があるんだってことを、忘れないようにしたいと言うか」
人によってはこの状況を現状維持にして逃げているから、今の方が弱すぎるのだと言ってくるかもしれない。客観的事実としてオレの母親は悪い人なのだろうし、オレも彼女のことを特段好いているわけじゃない。けれど、あの人のことをクズだと言い切ってしまったら、自分の弱さを認めてしまうみたいでいやだった。人のせいにして生きたところで、オレの13年間は返ってこないし、別の親があてがわれるわけでもない。変わらないものを嘆いても仕方がない。
「……オレも、どこかきついんだよ。でも、当たり前だから何でも認めてるんじゃなくて、おれにはああいう人と暮らしていることしかないから」
「……」
いわば、プライドのようなものなのだ。自分が他人と唯一違う部分。みんなきっと普通の人でありたいと言いながら、特別な人間になりたいと思っている。これはオレの特別でありたい部分で、それでありながら普通の人になりたいと願っている。けれど
「正直、このまま親に囚われたまま大人になることが怖いんだよ。あの人のせいで自分はこんなにバカなんだって言い訳を手にしたくない。辛かったとか、苦しかったとか、それを自分の軸にしたくない……でも、それ以外のものがない」
13年間、本当に生きることだけしか考えてこなかった。明日どうご飯を食べるか、どうやったら宿題をちゃんとやっておけるか、どうやったら……母親の機嫌を損わないか。それだけで生きていたらどうせどこかで苦労するのは分かっている。分かっているけれど、じゃあなにをしたらいい?外のことをオレは何も知らないのだ。
「それだけのことで君は自分の親を擁護しようとしているの?」
「……」
「いや、側から見たら異常だって思うから。おれなんかちょっと姉に構われただけで嫌になって喧嘩になるのに」
また彼は少し不機嫌そうになった。別にオレの場合喧嘩したいとも、言い分を聞いてほしいとも思わないだけなのだが。最初から、相手にならないから。それに
「それだけじゃ、ないんだと思う」
━━うっすらと霞がかった記憶。酒とタバコの混じった、湿っぽい空気の香り。そして、母親の体ごしに伝わる、どすん、という衝撃。どう考えても、あれはオレのことをあの母親が守ったとしか思えない。じゃあ、どうしてそんなことになったんだっけ?オレはそのあと……どうしたんだっけ。
「けど、覚えてない」
「……」
「ただ……昔は、少なくとも産まれた頃はこうじゃなかったと思う。じゃないと赤ちゃんのうちに死んでるだろ。多分、何かあったんだと思う」
「覚えてないくらい昔のことなら、君が気に病むことじゃない」
「……さあ、どうだろう」
少なくとも産んだほうが大変だった子供をわざわざ産んで、物心つくくらいには一人で育てて……それができていた人がなんの理由もなくこうなってしまうだろうか。思い当たるものはないけれど、なにか理由があるとしたらオレ自身だ。
「そういうところが優しすぎるんだよ。自覚ないのかもしれないけど」
「ないわけじゃないよ。ただ、優しいんじゃなくて、ずるいって思ってる」
ある種、他人を責めないようにすることは人との衝突を避けていると言われても仕方ないのだろう。面倒なのだ、争いごとも、親のせいにすることも、全部、全部。
「……そういうとこ。やっぱり惨めになるな。ユキといると。君に非がないだけ余計にたちが悪い。おれが勝手に羨んで、勝手に嫉妬して……はぁ」
「なんか、ごめん」
こんなこと言われたら、オレは頭を下げることしか知らない。できることがない。
「謝られると余計腹立つ。これはおれの問題で君にどうこうは望んでない」
やっぱり虫の居所が良くないのか、彼の言葉がいつもよりもチクチクとオレに刺さってくる。
「……それでも、オレはツバサに嫌われたくないんだよ」
「別に嫌いじゃないよ。嫌いだったらとっくの昔に追い出してるし、おれが君を嫌いになったとしたらそれはおれの過失であって、お前は悪くない」
「……」
「よっぽど信頼してないと、おれは直接嫌だなんて言わないよ」
「え……」
「嫌いな人間に直接嫌いっていうほどの勇気はおれにはないよ。それどころか……自分の感情を人にまともに伝えたことすらないかもしれない。天邪鬼だから」
ふと、あの時浮かんだ疑問を思いだす。彼は、親に死にたいと伝えたことがあるのか、と。そして、オレはきっとないのだろうと思った。言えないのだ、きっと。
「そういうところが、気に要らないんだろうな。信用されないようなことをし続けたのはおれ自身だ」
「なに、を」
「おれが本音を言わないことを姉さんは気に入らないんだろうね」
「どうして、言わないの」
「驕りだよ」
「……?」
「あの人はおれのことなんて到底理解できないだろうっていう驕り。そして、自分を被害者というポジションに置くためにいい人ぶる驕り……きっと見透かされてるんだろうな。だから気に食わないんでしょ」
「殴られたんだから、君は……」
「もしおれが、姉さんに殴られるように仕向けたとしたら?」
ずさり、ずさりと、オレの心を踵ですり潰すように彼は一言一言を明確にそれでいて、ねちっこい味を持つ言葉を選んで放つ。オレの見ている彼の像が壊れるように、期待されないように、綺麗な人間だと思われないように……人に優しくされないように。
違うでしょう、君は確かに酷いことをいう人かもしれないけれど、でも手を伸ばしてくれただろう?優しい人だよ、優しい人だと言ってやりたいのに、彼がそれを一番拒んでくる。そういうところが、オレにはわからない。演じればいいじゃない、いい人を。どうせボロはいい人を演じようが、悪い人を演じようが出るんだから。悲しいくらいに誰かから見た善人は、誰かから見たら悪人だ。
仕向けたとしたら?だって。違うでしょ、君は何を言っても姉は怒る人だからって結論付けて、自分がその責を負おうとしているだけじゃない。何言ったってキレる人はいるし、何言ったって届かない人がいる。目の前の彼は、もうきっと何を伝えても、なにを答えても、何を信じても、そのすべてをわざと裏切るつもりなのだろう。どうしてそこまでするのか、オレには到底理解できないけれど、どうにも痛いのだ。これを見届けろっていうのも、否定しろっていうのも。
「おれのこと、友達なんて思わなくていいよ……ただ、余計なお節介人間だと思って」
「それでも」
「……」
「それでも、別に君が自分のことをどう評していようと、オレは……友達だと思ってる、から」
吃りながらなんとか声をふり絞ったオレのことをみて、彼は今日初めて笑った。
「……じゃあ、早く嫌われないとな」
ほら、何も届かない。
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