第4話 侵蝕

「これ、届けに来ました」


 彼がまた体調を崩したので、プリントを持って家を訪ねる。何度も顔を合わせてオレのことを覚えたらしい彼の母親は、オレが来るたびにお菓子やパンを持たせてくれるようになった。やっぱり、この母子は似ていると思う。彼は否定するけれど。


「そうだ。少し上がっていく?寒いでしょう?」

「いや、あの」

「宿題くらいやっていったら?」


 多分、彼からオレが家に入れないことがあることを聞いたのだろう。確かにできないのは困るし、温かいところでやれば30分もかけずに帰れる。


「じゃあ、えと、お邪魔します……」

「いつものリビングで待っててね。お茶がいい?」

「ありがとうございます……」


 ありがたく何度も上がっている部屋に上がることにする。相変わらず部屋の中は暖かくて、自分がよく知らない世界だった。ファンヒーターからつんとした若干の灯油の香りがして、それがちょうどいいくらいに湿気っているような、生活感のある温度。これが、本来の普通の家庭というやつなのだろうか……やはり落ち着かないし、彼がいない中彼の家に上がるというのはどこか気が引ける。


「いつもプリントありがとうね。これ、好きなだけ食べてって?」

「ありがとうございます」


 知らないうちに食の好みまで把握されていたのか、米菓がたくさん入った茶請けを机の上に置かれる。本当にありがたいことなのだけれど、流石に全部食べたら申し訳ないし、だけどきっと食べなかったら心配するのだろう。この人たちがこうだということはようやくわかってきた。ありがたく少しだけ食べよう。サラダせんべいは正直おいしい。


「こちらこそ、ツバサと仲良くしてくれてありがとう。ごめんね、なにか迷惑かけてない?」

「……いや」


 むしろそれはオレのセリフだった。なんなら、最初は迷惑料だと言って弁当を押し付けられたくらいだ。なんとなく彼の人となりを見て、オレに負担に思ってほしくないからあんなことをいったのだろうということはわかるが、まあ不器用だなぁとも思う。自分が言えた義理ではないかもしれない。


「あの子ね、どうしても病気がちだから……いままでお友達がいなかったわけじゃないんだけど、ツバサ本人が気を遣っちゃうみたいで、なんだろうな、すごく仲良しみたいな子を作らないの。気にしすぎてね」


 思えばたしかにそうだったかもしれない。彼は周りに溶け込むのはうまかったけれど、誰か固定の友人がいるというわけではなさそうだった。別段誰にも嫌われていないけれど、特段仲がいい子がいるわけでもないような。本人がそこそこおしゃべりだから気がつかないだけで。


「……遠慮、するんだと思います」

「そうだね。だから、ユキくんを連れてくるようになったとき私達も嬉しかったの」

「そう、ですか」


 どちらかといえば、この母子によくされているのはオレの方だ。だからこそ怖くなる。純粋な善意で見ず知らずの子供にここまで手を出せるだろうか。自分は……できる人間になれないと思う。面倒だと思うから、こんな自分にも、母親にも。関わらないで欲しいと思ってしまうし、関わりたくないと思ってしまう。


「ユキくんが嫌じゃないレベルで構わない。それまででいいから、仲良くしてくれる?何かあったら私にいって頂戴」


 別に嫌だと思ったことはない。むしろ嫌がられるんじゃないかと怯えているのはオレの方だ。なにか言われているんじゃないかと思うと恐ろしい。自分のような人間に、なぜ彼がかまってくれるのかがわからない。なぜ、オレなんかをあんなことに誘ってきたのかさえも。


 ━━━━この人は、自分の子供が人に殺されることを望んでいることは、わかっているのだろうか。多分、知らないんじゃないか?遠慮する人間だから、たぶん彼は自分の親にもそうじゃないだろうか。彼はオレよりも何倍も人に嫌われることに敏感だろう。じゃなきゃ、あんなに自分のこと悪く言わないはずだ。怖いから責任を自分で被ろうとする。怖いから最初から防波堤を張る。特に彼の場合、病気のこともあるから特に親に嫌われるのを恐れているのだと……オレの目からは見える。自分だって、誰かのせいにするのが嫌だった。そうしたら負けてしまうような気がするから。彼にもそんな感情があるんじゃないだろうか。もちろん、必ずそうだとは思わないけれど、少なくともオレは彼をそういう人間だと思っている。それがきっと彼は……見透かされているようで面白くないのだろうけれど。


「オレは、別に何もそんなことはないんですけど」


 ……いや、人の家庭にあれこれ……言えない。


「なんでも、ないです」


 本当は、この母親に何があっても息子のことを嫌わないでくれと、言いたかった。



 あれから、彼が自分の死を示唆するようなことはなかった。いつも通りのおせっかいで、おしゃべりで、頭がいいのにとぼけたような喋り方をする、いつもの浅間翼のままだった。

 オレはそれが酷く怖かった。いつか、オレの知らないところで誰かが彼の誘いに乗ってしまったら、次の日に彼がいなくなっていたら。

 どうしてあのとき彼はオレを選んだのだろう。親にもそんなことが言えない彼が?なんのために?


 その答えがわからない恐怖と、別の誰かにそれを頼んでいなくなってしまうんじゃないかという恐怖は、忘れようとしていてもじわじわとオレの頭を蝕んでいった。

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