第2話 不達
それからおれは、彼のことを餌付けするようになった。
最初はやっぱり嫌がられて、お腹が鳴っていると言うのにお弁当箱をつっぱねてきた。でも、おれ一人じゃ食べられないからと、彼の分にほんの少しだけ口をつけて、もう降参だ、というポーズをとると仕方なく食べるようになった。仕方なく、と言っても食べるスピードは早くて、ほら、お腹空いてたんじゃないと思わず口走りそうになってやめた。
母親は、そういう子がクラスメイトにいることに少し心を痛めたようで、おれが弁当の日に二つ持っていきたいというのを拒みはしなかった。
「ひどいお母さんだと思わない?子供にご飯作ってくれないどころか、お金も全然渡さないなんて。おれたちまだ働けないんだよ?」
「そのご家庭のことなんにもわかってないから、その子のお母さんのこと簡単におかしい、とか言うのはよくないけど。ただ、翼はそういうことは絶対にしないって約束してね。なにかあってもお父さんとお母さんは力になるから」
「母さん、おれのことそんなひどい子に育ててないでしょ。自分の子供には食べられるだけうんと食べてもらうよ。そのくらいはちゃんとする」
「うん。でも翼がその子のお母さんのことをおかしいなって思える子で本当によかった」
「だーかーらー、誰の子供だと思ってるの!母さんの子供なんだから、そりゃそう思うよ!!」
なんだか、親に信用されていないような気がした。親なんだから、子供の衣食住はちゃんとみないといけないことなんて当たり前じゃないか。そんなことくらいわかってるよ。おれだっていつかそうなるかもしれないんだから、わかってるよ。
いつもそうだった。おれは母さんにしっかりしてるね、とか信用してるって言われたいのに、この人たちはそれをおれが無理をして大人になろうとしているという目で見てくる。もしくは、出来っこないって目で見てくる。そりゃ、他の子よりも体が弱いのだから心配される道理はあるのだけれど、もう少し信じてくれたっていいじゃないか。おれだって、いつか大人になるのに、それに……母さんたちが、育ててくれてるのに。無理をしているのは、いったいどっちだって言うのだろう。
この人たちのもとにいたら、おれは一生子供のままなんじゃないかって、ほんの少しだけ……気持ちが落ち込んだ。
ねえ、おれはいつになったら、母さんたちに信用してもらえる?
「ほら、あがって」
「おじゃま、します」
「ようこそ〜ごめんね狭くって。手を洗って茶の間でまってて」
それからしばらくして、おれたちは前より仲良くなった、と思う。相変わらずユキくんの家はそんな様子で、ひどい時は冬の屋外に数時間放置されることもあるらしい。じゃあ一緒に宿題をやろうという大義名分を得て、半ば強引に家に連れてきた。夜になったらまた外に放り出されるとしても、じゃあ少しでも屋内にいたほうがいい。うちの家なら、こたつだってあるし。
「これおやつ。好きなだけ食べてね。飲み物はお茶とオレンジジュースどっちがいい?」
「あ、えと」
「おれお茶がいい」
「じゃあ、オレも……」
「わかった。せっかくだからあったかいのいれるね」
ユキくんは目の前のお菓子に手を伸ばすでもなく、ランドセルからドリルを取り出した。別にまだやらなくてもいいじゃない、と思ったのだけれどどうにも済ませないと落ち着かないらしく真面目だなぁと思いながらおれも自分の分を開いた。
「ユキくんさ、いっつも家に帰ったらすぐ宿題やってるの?」
「……やれるときに、やらないといけないから」
「やれるときって?」
「……お客さんが来てると、大体追い出される。最近は外が寒いから、外でやってても全然文字がかけない」
想像するだけで嫌になる。冬場はちょっと外に出ただけでも指先がかじかんで、ストーブの前で温めないとぜんぜん言うことを聞かないというのに。
「自分の部屋とか、部屋じゃなくてもどこかにいれないの?」
「オレの家、一部屋しかなくて。足の踏み場見たいなの全然なくて」
「……どこで寝てるの?教科書とかは?」
「母さんのいらないんだろうなって服の上で、タオルかけて寝てる。大体クローゼットの下の段。そこにオレのものも全部置いてる」
「布団は?」
「母さんが使うやつはあるけど、それって大体母さんと男の人が使ってるから」
また、彼はそんなことを淡々と言う。彼にとってはそれが当たり前なのだ。柔らかい布団とかそんなものも知らないで。
「大変じゃ、ないの」
「……わかんない。それが、普通で。言われるまでおかしいなんて思ってなかったから」
「……」
君が馬鹿なんだろって言いたかった。けど、彼はそんな馬鹿じゃなかった。だって現に誰に教わらずとも勉強はできるし、おれなんかよりも何倍もわがままを言わなかった。背丈も相まって妙に大人っぽくて。
それに比べておれはどうだ?周りの子と違うことを受け入れられずに、普通になりたいと、親に信用されたいとわがままばかりで、現実を受け入れられずにいる。どうしようもないことだというのに、治るような病気でもないのに、いつかまともになりたいとそればかりで……自分のことしか考えてない。
「それに、母さんいつも泣いてるから。オレが突っぱねたら一人になっちゃう」
「……っ、そんなクソババア、放っておいていいんだよ!!」
放っとけよ。そんな親捨てちまえよ。ユキくんはできる子だ。ちゃんと一人で考えて動くことができる子だ。なんで、こういう頑張ることができて、我慢できる子が、そんな目に会わなきゃいけない。
「でも、オレがいなくなったら、かわいそうだよ。そんなことしたくないし、一人ぼっちは、オレもあの人も嫌だと思うから」
惨めだった。そうやって親に人生めちゃくちゃにされているというのにそれを受け入れようとしている彼も、彼の母を落として自分はしっかりしていると、そんなことはしないと出来もしないのに振る舞おうとしている、おれ自身も。
・・・・
ふんわりと首筋に温かいものが触れる感覚がする。
「一緒に死のうよ」
また、この夢だ。少女の細い指が、おれの首に纏わりつく。これは夢だから、もう一人別の冷静なおれが、その様子をまるで他人のように俯瞰してみている。
少女は入院していた頃の、動物の耳がついたパーカーで髪が抜け落ちた頭を隠していたままの姿だった。それはそうだろう、彼女はその姿のまま、亡くなったのだから。おれは彼女のそのお気に入りの服装と、下の名前が「にな」だったことと、おれのことを道連れにしてしのうとしたことしか、あまりよく覚えていない。
「どうして、生きたいって思うの!?」
────どうしてだっけ?別になんかもうどうでも良くなってきたんだよね。だってさ、どんなに頑張ったって父さんも母さんも、おれのこと認めてくれないんだもの。
あのね、なんだかんだで母さんたちはさ、姉ちゃんの方を信用してるんだよね。おれのこと隠れて殴っても、姉ちゃんは咳き込んだりしないし、こんな頻度で熱出さないし、ちゃんと一人で毎日学校行って、高校だって定時だけどその分自分で稼いで遊んでるしさ。それって、姉さんの事信頼してるから母さんたちは容認してるってことじゃん。じゃあさ、おれはなんだろ。4年後、姉さんのように一人であれこれ回っても小言一つくらいで済ませてもらえる?……無理だろうな。心配されるに決まってる。よっぽど丈夫にならない限り、心配され続ける。悔しいな、何を頑張ってもおれはきっと、自慢の息子にはなれないし、姉さんの下位互換なんだ。それなのに、おれが長男だから下駄を履かせられ続ける。どうしたら認めてもらえるかな。結婚して、子供作ったら認めてもらえるのかな。孫の顔みたいって言うじゃん。見せたら許してもらえる?大人にさせてもらえる?でも、おれみたいな人と付き合ってくれる女の人っていないと思っちゃうし、ちゃんと育てて見せるって思っても、思うのとやるのって違うし。ユキくんのことだって、彼のお母さんのことそんなに知らないのによくないって決めつけて、じゃあおれはできるの?その立場になったらできるの?働けるかも怪しいのに、どうしてそうやってよく知らない他人のこと決めつけて……ああ、これもおれのただのしっかりしてるアピールでしかないのかな。頭がいいって思い込もうとしているだけなのかな。……人の親に対して随分と失礼だな。最低なのはどっちだろう。
ねえ、別にもう生きたいなんて思ってないよ。思ってないから、連れてってよ。そっち側に。
もうさ、分からないんだ。あの時どうしておれが君と一緒に行けなかったのか。連れてってくれれば、おれはこんなこと、考えずに済んだかもしれないのに。ニナちゃんはそっちに行ったことどう思ってるんだろう。彼女は本当に死にたかったのかな。一人で死ぬのが嫌だからおれを道連れにしようとしたのかな。じゃあ、一人で死ぬんじゃないのなら──────生きたかったのかな。
それなら、尚更おれなんて生きていちゃダメだろう。こんな人間じゃなく、もっと他の人に優しい両親と、温かいご飯と、布団と部屋が与えられるべきだ。与えられすぎたんだ。痛い思いをするのも、苦しい思いをするのもおれだけでいいから、まともに大人になれないことが決まっていて、それで甘ったれなおれのことなんて捨てて、彼みたいな人が報われるべきだ。それともこれがこの間本で読んだ優生思想ってやつなのかな。優れたものには与えて、劣っている人間には与えなくていいっておれはそう思ってるからこんなこと考えるのかな。じゃあ、おれって酷いやつ?……そうだよ、自分が酷い人間だってことはよく知ってる。嫌というほど、知っている。それとも、自分を酷い人間だと思い込むことで、言い訳してるのかな。……わかんないや、わかんないから答えが欲しいのに、誰が何を言っていても、おれは納得できないんだ。全部、全部全部全部全部、何かが違うんだ。おれの欲しい言葉ってなんだろう、なにを言われたらうれしいんだろう。母さんの言葉を素直に受け取れない自分も、そうやって無理をさせてると思い込んで早く大人になろうとして、それで結局人を見下している自分も、全部、全部、嫌だ。いらない。必要ない。この世界で、一番いらない。少なくとも、おれの見ているこの視界の中で、一番醜くて一番おかしくて一番酷いのは、おれだ。
「はやく、殺しにきてよ。迎えに来て」
ニナちゃんはいい子だったから、おれのこと……可哀そうだなって、思ってくれたりしないかなぁ。
今日も、あの細い指はおれのことを締め上げてくれることもなく、息苦しくて目が覚めると、大抵夜中の3時台で。勝手に死にたくなってるだけだというのに、おれの希死念慮の夢に使われる彼女のことを考えて、また自分の身勝手さに嫌気がさす。
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