マイ・ロスト・シティー 最終話 前半
空を見上げてみる。
綺麗な空を写真に収めたいのに、どうしてもビルが映ってしまう。
私はカメラをもって、そうマンハッタンの中心街で、呆然と立ち尽くしていた。
「ビルが邪魔だ」
すると、息子が私の服を引っ張ってこういった。
「じゃあ、何のおかげでその高級なカメラを手に入れたと思っているの」
私は、その言葉に気が付いて、思わず口角が上がってしまった。
『街よ、どこへいく』 レイン・キャスナー 1968
1924年のあの年から、5年。
1929年10月24日に、ウォール街の株価は大暴落した。
世界恐慌がはじまったのだ。
「あと、4、5年すればやってくる。どうしようもない世界がね。今のアメリカで行われていることを見てみなよ。生産過剰、高関税、労働者、移民、戦争...。ソ連の台頭。世界のバランスは崩れている。」
チャーリーが言っていたあの言葉は、本当だった。
すべてにおいて、世界が、音を立てて崩れ始めていた。
僕も職を失い、呆然と、マンハッタンの街を、ポケットに手を突っ込んで歩いていた。
出歩けば、そこは地獄だった。
街に寝ころび、行く人に金をせがむ人。
体を売るから、と媚びる娼婦。
ただ泣いている人。
劇を見に劇場へやってくる人はいない。
みな、今日の夕食を食べられるかどうか、それが気がかりだった。
あの真夜中まで響いていた、高々とした笑い声はもう聞こえない。
しかし、おかしい世界だ。
人間は同じような生き物が好きなんじゃないか。
なのにどうしてこの世界は、この世界のひとびとは、こうも孤独なんだろう。
きっと、どれだけ海を深く潜っても、地平の向こう側へ歩こうとも、
手を取り合えない。
もう、そこにはなにもない。あのきらびやかとしたマンハッタンは、もうない。
ただあるのは、どうしようもない世界、そのものなんだ。
住んでいた家を追い出され、母と二人、高架下でしばらく暮らすことになった。
僕ら以外にも大勢の人が毛布にくるまっているようだった。
「おい、そこ。そのパンをよこせ。でないとこの女がどうなっても知らないぞ」
40代くらいの大男が、横になっていた僕のむなぐらをつかんでそう言った。どうなっても知らない、だって?ふざけるなよ。僕の母さんになんてことを言うんだ!
そういって殴りかかってみたかった。しかしそんなことをしても、この世界では無謀なのだ。
助けて、誰か助けて。そのこぶしで、僕を目覚めさせてくれないか。これが悪い夢だと言ってほしい。こんな世界!僕はそんな感情が押し寄せてきた。大男はパンを取り上げ、僕を壁へと放った。
薄っぺらい布は、体だけでなく人の心さえも冷たくするのだった。
恐慌から2週間。
相変わらず町は、地獄であった。
高架下に住んでから少しして、母に家に取りに行ってほしいものがある、と言われた。新しい事業のために、取り壊されていなければいいが。僕は重い腰を上げて、 「わかった」と言い、足を踏み出した。
家、があると信じて。歩き続けてゆくと、もとどおりの家があった。周りの景観もさほど変わっておらず、人が住んでいる様子もない。おそらく、家に残してきたものはそのままだ。僕は家であるのに、と少しもの言いたげな表情をしながら、おそるおそる足を踏み入れた。中へ入り、階段を上る。ミシミシと音を立てたそれは、もう崩れそうだ。
2階にある寝室。母が父と眠っていた部屋にある、写真。母はそれをとってきてほしいと言った。それは母が父と結婚を決めた日に撮ったものだった。若かりし頃の母は、めずらしい薄化粧をしている。父は眉をたてて、決意のまなざしをみせる。ふたりとも、本当に美しい。埃かぶったそれを手に取って、もうここに来ることはないのだ、と部屋を見渡した。すると、窓から一人の背の高い帽子をかぶった男が、家の前にいるではないか!
それは泥棒であるかもしれない。職がなくなり、浮浪者となったものたちで溢れかえる街なのだ。ありえなくはない。...がしかし、男の身なりは英国紳士のような、めずらしい三角帽で、シワひとつないスーツを着ていた。...僕は、こんな男を知っている。ハッとした。いや、違う。あの男...いや、彼は死んだはずだ。違う、違う。しかし,,,,僕には、チャーリーにしか見えないのだ。ああチャーリー!
気づけば足音を立てて、階段をかけおりいきおいよくドアを開いた。期待と興奮をはらんだ目で。
あの、はじめてチャーリーと会った日のような感覚がした。
「こんにちは。ミスター」
その男と目が合い、男はそういった。
チャーリーではない、知らない男だった。
興奮の風が、体を突き抜けていってしまった。
「ハイ、ミスター。なんでしょうか」
その現実を受け入れ、男の風貌を一望すると、僕は作り笑いでそういった。
「なんのようだい、忙しいんだ。それに僕はここの家主じゃない。家主に用なら...」
「チャーリー・ウドソン様から、これをあなたに渡すように、と言われやってきた使いの者です」
なんだって。
チャーリー、チャーリーだと?
僕は聞き間違いではないか、と顔をしかめた。僕がそんな顔をすると、静かに使いの者は、白い封筒を渡してきた。
僕は、そこにある、チャーリー・ウドソンと書かれた直筆の、筆跡をなぞった。
自然と、目頭が熱くなって、うずうずとのどの奥から、感情が湧き上がってくる。
間違いない。これは、本物なんだ。
あの時、無常と切実の本に刻まれていたものと同じなんだ...
「本当だね...本物だ。これを知ってる。でも、待ってくれ。一体どういうことだ。だって..チャーリーは、何も言わずに5年前に死んだじゃないか。僕が描いた本を読まずに...なんで....」
僕は見ず知らずの使いに、ぺらぺらとチャーリーのことを語った。
チャーリーの事は、あれから誰にも話したことなんて無かった。かといって、チャーリーの死に動揺しなかったわけではない。こころの奥に閉まっていた。感情。それが急に、まるで決壊したダムの水のように、口から出てくるではないか。
「....その中を開けて」
使いの者は、静かにそういった。僕は頬にべとついた涙をふりはらって、汚さぬように、手をジャケットできれいにした。そうして、ゆっくりと封を開ける。
Dear michael
First, three days after I received this letter, I went to that pub in Manhattan. Come to that place where you and I talked. Let's continue talking there.
Charlie Udson
親愛なるマイケル
まずは、この手紙を受け取った3日後に、マンハッタンのあのパブへ。私と君が語り合った、あの場所へおいで。続きはそこで話そう。
チャーリー・ウドソン
「...チャーリー」
僕はその直筆の、チャーリーの、字をなぞった。随分と眺めていた。
僕は礼を言おうと、ふたたび使いのものと顔を合わせようとした。しかし、いつのまにか使いの者は消え去っていた。
道端に生えている一凛のローズマリーが、ただ風に揺れていた。
ポケットに家族の写真を入れ、片手にチャーリーからの手紙を持ち帰路についた。母がとても心配していたので、すぐに1枚の写真を渡した。ロココ様式の額縁はどうしたの、と分かっているような口調できかれたから、僕は静かに毛布を差し出した。そのおかげで、以前よりも、この場所があたたかく感じた。
今の僕にはそれだけで十分すぎるほどだった。それなのに。
毛布にくるまりながら、月明かりでチャーリーの封筒を眺めていた。
そして今日、チャーリーが亡くなってから、自分の気持ちとはじめて対峙した気がしたことをぼんやりと思い起こした。あの時、使いの者に、思いを口走った時、僕は、「どうして」と言っていた。多分その気持ちは、ずっと心にあったんだ。
どうして、僕の本を、あなたが託してくれた、あの本を最後まで読んでくれなかったんだろう。その答えが確実になることを信じて、僕は3日後を心待ちにしながら、目を閉じた。
そして、めくるめく3日後。
母さんには、闇市に行ってくるといって、駆け足で高架下を出ていった。
封筒を片手に、”あの場所”へと向かう。
チャーリーと僕は、ここでぶつかって、それからそれから....。
僕は記憶をたよりに、路地を曲がって、あのパブへと向かった。
パブが静かなのは、明るい昼間だからではない。
パブを開けると鳴るあのベルの音は、どこか枯れ葉が落ちるソレと似ているかすかな音がした。鳴っているかなんて重要じゃない。それは、ただあったもの、になってしまった。
以前ここへ来たとき、人間の欲を具現化した場所だと思った。散らかった椅子、飲みかけの瓶、ボロボロになったメモ用紙。今は、衰退し、地獄と化した、人々の心を表していると思った。誰もいない空間なのに、どうも人間を感じるのはなぜか。きっとそれが答えだと思った。
あの部屋の前までやってきた。
この先には何があるんだろう。
チャーリーは僕に、一体何がしたいんだろう。
教えてほしい。
この先に、その答えがあるなら、僕はあなたの、
どんな”悲劇”にだって、耐えられる。
さあ、見せてくれ。
あなたのラストシーンを。
そうして、部屋のドアノブをゆっくりと回した。
続劇
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