マイ・ロスト・シティー3


「少し前の、私が、まだ劇を描く前のことだ。

優秀な資産家の息子たちを招いて、パーティーをひらいた。

私はそのころまでに築き上げた金と権力を使い、美しい女性たちを妻とした。

このころの私はきっと信じていた」

 チャーリーは写真にうつる、幸せそうな表情を見せる自分自身をひとさし指でトントンと指さした。そして、写真が曲がるほど強く握った。そうすると、チャーリーは立ち上がって、後ろにある古めかしい棚から、新聞を取り出し、見せた。僕はそのとき、ロココ様式のランプにぼんやりと照らされた、埃をかぶったルーベンスの<眠る二人の子ども>が額縁に飾られていることに気づいた。

 新聞には、先ほどと同じ写真が一面にのっており、チャーリーの言葉だと思われるソレが記されていた。

「私は幸せだ、人は幸せな限り失うものは何もない。今度、8人目の妻を迎えるつもりだ。」

 チャーリーは、身震いをさせた。

「8人目の妻だって...?笑わせるよ。私は、私は全てを失ったんだ。私自身を失ったんだ。」

「...」

「あるときから、私は8人の妻、全員の顔が同じように見えた。みなが同じ言葉を口々に言う。”あいしている”と。ちがうちがう!ちがうのだ...もう私は、在るだけになってしまった 」

 僕は恐怖を感じた。穏やかなチャーリーはそこにいない。そこにいるのが、ただの怒り、狂う男だということに気づき始めていた。

「...夕飯に大勢で、高級ディナーを食した。世界一のシェフにすべてを任せた。いまだかつてない寝心地のキングサイズのベットで複数人の女を抱いた。私は全てを、知ってしまった」

 僕はその空間で、ただ息をすることしかできなかった。

「この街も、マンハッタンも同じだ。私そのものなんだ。誰がアメリカを、世界一住みやすい国にしたと思う...?」

 僕は黙った。

「ほら、あの建設中のビルを見てごらん」

 チャーリーは窓際から見える、明かりがついたビルをカーテンの隙間から僕に見せた。

「人々は、天まで届く”バベルの塔”を再建しようとしている。かつて古代バビロニアにあったそれは、人間が神へ届くようにと建てたが、人間が神になることを恐れた神は、その塔を崩壊させてしまった。いずれ、崩れる運命なんだ」

 チャーリーは息を落ち着かせたようにみえた。

「効率化を求め、多様性を排除した世界。それが今のアメリカだ。もうここは、バベルの塔なんだ。人の手では崩せない、だから」

「だから、”神の見えざる手”が必要だと..?」

 僕は、アダムスミスの自由放任主義を知っていた。しかし実際のアダムスミスの”レッセフェール”は、本来は市場価格における、均衡価格のことを指す。一か八かで、僕はとっさに言葉を発した。

 数秒間の沈黙の後、チャーリーは小刻みにうなずいた。

「そうさ。しかし、おそらくそれは神によってではなく、人間みずからによって行われるはずだ。人間の計り知れない欲が、絶えない消費という歯車を動かす原動力になる。あと、4、5年すればやってくる。どうしようもない世界がね。今のアメリカで行われていることを見てみなよ。生産過剰、高関税、労働者、移民、戦争...。ソ連の台頭。世界のバランスは崩れている。私が言いたいのは、そこからなんだよ」

 チャーリーは、窓越しに見えるあのビルを見た。

「いずれ崩れ、破滅し、失うものを、なぜ描く必要があるんだい。我々は知っているんだよ。知っていたのに...」


 僕は確信をついたと思った。

 なぜチャーリーは喜劇を描かないのか、そこに理由があったんだと感じた。それを好む自分自身も、うすうす気づいていたんじゃないかと思うけれど、でも、今は、そうじゃない。

 

「僕は、戦争で父親を亡くしました」

 チャーリーはビルにやっていたするどい目を、僕に向けた。

 僕はチャーリーと目を合わせて、親指を交差させながら話した。

「良い人でした。誰にでも好かれる、いい人だった。父が死に、収入がなくなった。もともと、この国で生まれたわけじゃないんです。3年間母と国を渡って放浪しました。たったひとつの安定した仕事を求めて...そんな中続けるボーイの仕事は酷でしたが、ある楽しみのために、僕は続けられたと思います」

 チャーリーと目を合わせた。

「あなたの、劇だったんです。 『マイ・ロスト・シティー』。僕にとって...」

 僕は溢れんばかりの思いを言葉にするのに必死だった。

「僕にとって、絶望のようなあなたの劇は、ある意味、希望だったのかもしれません。あなたにとっては皮肉でしょうけど、でも、きっと」


チャーリーは言葉に詰まっている様子だった。言葉溢れる僕と対照的に。


「生々しい人間味を描けるのは、きっと、何かを失い、希望を求める人だと思うから。」

 何を言っているだろう、でも制御がきかない。でもこの思いは僕の中にずっと眠っていたもののような気がした。

「希望を皮肉る私が、希望を求めていると?」

 チャーリーは言った。

「...ええ。あなたは、怖いだけだ。それを失うのが。なぜ神は与えたものを奪うのか、奪うのならなぜ与えるべきか。答えはそこにあると思います。たったひとつ...」

「だから、それが希望だというのか?失うものの先にあるもの...」

「あなたは言っていました。子供には母親が必要なのではなく、母親が必要なのだと。でも、そうするしかないこの世界で、そうするしか、希望は見いだせないと思うから...」


 僕はその先を言うのが怖かった。

 この先を言ってしまうのは、チャーリーが描いてきたものをまさに破壊してしまうことになるからだ。チャーリーはきっとそれを、人間の貪欲なエゴイズムとして描いてきたはずだ。そうして、分からない大衆を、いわば、笑っていた。しかし、僕が伝えたかったのは

「それが、人間なんですよ。そう生きるしかない、人間...」

「人間....」

 チャーリーは我にかえり、椅子に深く腰掛けた。

「...君のお父さんは、なぜ戦争に行ったと思う」

 そうして、僕にそういった。

 僕は口を開いた。


「父は戦争に反対していましたよ。最期まで。でも、そうするしかない。国のために働かないと、家族が危ない」

「...何を思っていたと思う」

「また会える、という希望をもって。そして戦争が終わり、平和が訪れることを祈って...」

 

僕がそういうと、チャーリーは、ただそこに、座っていた。

呼吸をしているのかわからない。静かな空間がそこに流れていた。

 

気づけば、僕は喉がきつくなって、涙をこらえていた。

これがなんの涙なのかは、判別不可能だった。でも、あふれ出す思いは止まらなかった。こんなことを人に話したのは、初めてだった。


チャーリーが口を開くまで、30秒もいらなかったくらいだ。

「私は、権力者、大富豪、資産家...そして劇作家という側面を持っていた。しかしそのどれにも...当てはまらないものがあることに気づけた」

「...それはなんです?」

「ただひとりの、母親から生まれた人間であることだ。”ただ”在ることとは、満たされれば、それ以上ない、輪廻の輪に組み込まれる、死よりも恐ろしいことだ。しかし、私は劇を作ることで、何か、希望を、君...のようなものが欲しかったのかも...しれない」

チャーリーも息を震わせていた。

「ええ...それでいいんです。”あなたは人間なんです。”ただ”在ることを、認めるしかないんですよ。そしてその中で、あなたという人間が、希望を求めていたことを自覚するんです。それは、絶望の中にしか、生まれることはできないんです”」

僕が落ち着いてそう言うと、何かに気づいて、チャーリーは『無常と切実』の本のページを無我夢中で探し始めた。

「...あなたが、すべて教えてくれたことです」

僕はそう付け加えた。

チャーリーはあるページでピタリと手を止めた。

そして、あふれるように、大粒の涙を流した。

「....『スタート・オーヴァー・アゲイン』か。昔の私が書いた言葉を..君は..」

僕はうなずいた。

「もうとっくに私は気づいていたんだ。いいや、もう一度気づかせてほしかった...。失われた街と心を。この、紙吹雪舞う凱旋パレードに参加し、どこまでも伸びていく摩天楼に希望を抱いていた頃を...」



チャーリーは涙をぬぐうと、『無常と切実』の本を僕に手渡した。

僕は驚いて、目を見張った。

「私は、366ページ目を描くことができなかった。でも、私を”理解”できた君になら、描けると思うんだ」

僕は息をのんで、ずっしりとした重い本を受け取った。

裏表紙の刻まれたサインや、いくつも思い悩んでいたであろうペンの筆跡を指でなぞる。

「君が私の、”ひとつの劇”を終わらせる。それが今の私の、希望だ」

 僕はそういわれ、涙をこらえられなかった。

夢にまでみたチャーリーと対話し、そして、この男の、

この人の本の最後を任されるなんて。思ってもいなかった。

こんなこと、あってもいいんだろうか。

すると、チャーリーはポケットからメモを取り出した。

「君の住所は?私の本をいくつかサイン付きで送ってあげるよ」

「...光栄です。本当に。」

「ありがとう...君は謙虚な人間だからね」

「ありがとうございます...きっと、描き上げてみせますから...その時はどうか..」

「うん...きっと」

 チャーリーと硬い握手を交わした。この手が一生離れなければいいのに、と思いつつ、ゆっくり手を離してしまった。


 そしてチャーリーの部屋からひっそりと出て、裏口から抜けた。あたりは暗闇で、深夜までやっているパブさえも、もう明かりがついていなかった。肌寒い深夜。耐えるように僕はコートに手をつっこんで、無常と切実の本を握りしめる。

 そうして、

 ふいに夜空を見上げると、そこには無数の星が輝いていた。

 これからの世界の暗雲を断ち切るかのような、しかし貧弱な、輝きをにじませて。









 それから、数日後のことだった。

 僕がチャーリー・ウドソンの自殺を聞いたのは。


                                              


                続劇

 




 


 

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