神経症の男が捉えたシルエット

@8163

第1話

 ここら辺には自動車関連工場が多く、朝の通勤時間には渋滞もあり、時間の予測が出来ないので家を早く出て会社の近くで喫茶店のモーニングを食べる事にしていた。

 結婚していたのなら、そんな毎朝の出費なぞ赦されないだろうが、まだ二十歳そこそこ、勿論、独身だった。受験に失敗し浪人をしていたのだが、ある日喫茶店のカウンターでコーヒーを飲んでいたら端の席の客とママの会話が聞こえてきて、それが全て私の悪口なのが解った。大声ではないので聴こえる筈がないのだが、二人は私の個人情報を詳しく知っているらしく、美大に二年も落ち、それでも諦められずに、また今年も受験するらしい、などとチラチラこちらを盗み見ながら話している。勿論、そんな馬鹿な話はしていない。客は常連かも知れないが初めて見る顔だし、ママに身の上話をしたこともない。つまり妄想が人格を持ち、被害妄想に変わったのだ。なぜ知っているのかと言えば、心理学の本を読んでいたからだ。ヤバかった。まだ病気ではないだろうが神経症には陥っている。誰とも喋らず、昼夜逆転の生活で、社会性も失っていたのがまずかったのだ。自覚できたのは奇跡に近い。治す方法も解っていた。規則正しい生活と社会性を持つこと、肉体労働で汗をかき疲れて寝るのが手っ取り早い。絵も本も放り出してハローワークに行き、面接を受け、就職した。

 面接は二つ受けた。ひとつ目は家具工場。木工の優美な家具を作っていた。椅子など細くて華奢なシルエットなのだが、曲線の支柱など膨らみや湾曲を組み合わせて強度を持たせて組み立てていて、センスの良さが見て取れて気に入ったのだが、それは親会社のカタログ商品であるらしく、実情は学校の椅子のような工業製品、パイプ椅子や机を作っているのではないかと推測され、面接をしたまだ若い男は、それを誤魔化して話を進めるので説明が曖昧になり歯切れが悪い。そこを質問すると途端に疑り深い目になり、高圧的な態度になった。不採用。

 次の会社が今のガス会社。仕事はプロパンガスの配送だ。郊外の畑のなかに鉄骨の柱と波板の屋根の充填所が見え、奥には球体や横倒しになって膨らんだ円筒形のガスタンクがあり、ボンベを積んだトラックも並んでいた。事務所はプレハブのような簡素な物で、本社は隣市に在るらしい。ガスの会社なら他にも募集はあったが、ここを選んだのは只ひとつ、草野球のチームがあったからだ。キャッチボールすら何年もしていない。すれば昔のように悦びが甦り、心も早く正常に戻るかも知れなかった。

 トーストと茹で玉子のモーニングを食べ、駐車場を出てT字路に差し掛かると、交差して左に並んでいる車に同僚の顔を認め、こちらが優先だが、車を止めて先に行かせた。だが、一台では終わらなかった。その後ろも、そのまた後ろも会社の同僚の車だ。どうやら別の喫茶店に集まっていたらしく、こちらの列の後ろも詰まって渋滞が始まり、小さくクラクションを鳴らされたが構わず、四台を通してから発車した。同僚らは、ここぞとばかりに遠慮なく割り込み、ズルをして後ろめたいのか、苦笑しながら右手を上げて合図をし、次々にテールのハザードランプを点滅させた。サンキューのサインだが、この場合、周りの車に知り合いだと悟られないようにしたのだろうが、姑息だ。騙されはしないだろうし、毎朝の事なので誰がどこの会社なのかは知れているだろう。車種で覚えているのだ。でも、ハザードランプの黄色い点滅は、通勤時間の無味乾燥に一輪の花のような効果を生んだのかも知れず、多少の潤いにはなったのだろう、クラクションの連打は免れた。

 次の日、最初に行かせた荒木さんにモーニングを誘われ、会社の連中の行きつけの店に参上した。それが真っ白な外壁のモダンで洒落た造りの、まるでモデルハウスのような店で、そのそよそしさは肉体労働者には相応しくない雰囲気を醸し出していて、違和感を覚えたが、出てきたモーニングの豪華さに驚いて納得した。まだ開店して1ヶ月も経ってないのでサービス満点、満席で、荒木さんが早く来てテーブルと席を確保しているらしい。それに、どうやらオーナーの女性と顔見知りなのか、多少の無理は利くみたいで、作業服での来店にも嫌な顔はされないし、ぞんざいな扱いではない。気になったのはママと、どう見てもママより十歳は若いハンサムな料理人だ。確かめてはいないが、想像したのは、ママが若いツバメの為に風俗で稼いだ金で店を造り、文字通り身も心も捧げている姿だ。

 被害妄想は、つまりは己の思考だ。ママからは水商売、それも熟れて崩れた熟柿のような印象を受け、キャバクラ評論家の渾名のある荒木さんは客としての知り合いだと推理でき、ひょっとしたら肉体関係まであるのではないかとの想像も、あながち邪推ではない気もしている。そんな空想が、また人格を持ち、「そうよ、私たちは知り合いよ」と、配膳しながら目配せをするママの笑顔が喋りだす。イヤイヤと首を振り、これは妄想なんだと自分に言い聞かせ、自分の想像がママの言葉になっており、実際の会話ではないんだと念を押し、二人は知り合いなんかじゃないと、反対の思考を潜り込ませる。すると、まるでテレビのクローズアップ画面が引いて広角になるように、室内の景色が戻り雑音も耳に響くようになる。でも気になるので、「知り合い?」と、荒木さんに訊いてみる。

 「まあね…」と、まんざらでもない顔で、曖昧な返事が返ってくる。するとまた、いちど離れた妄想が人格を持つのではないかと恐れたが、そこまでの執拗さは無いようで通常の会話が進む。

 「赤いランドセルが、やっぱり良いのかなぁ……」杉本さんが呟きながら薬指の腹で持ち上げた眼鏡を反射させ、荒木さんの方を向く。近頃は紫やピンクのパステルカラーのランドセルが流行っているらしく、娘に買ってやるのを悩んでいるようだ。実の娘ではないので余計な気遣いがあり、キャバクラ通いの師匠である荒木さんに同意を求めている。子持のキャバ嬢と結婚したのだ。多分、荒木さんに連れられてキャバクラに嵌まり、そこで知り合ったに違いない。普通ならシングルマザーなんかと結婚するなと言われるのだろうが、そんな風には捉えてはいない。恋人と妻、ついでに母親、女の子まで同時に手に入れる事が出来るなんて、きっと重度のマザコンだ。で、ないのなら、幼児期に母親の愛情が足りなかったに違いない。奥さんは夫と甘ったれの男の子の両方の面倒をみる羽目になるに決まっている。それが毎日ヒラヒラとしたドレスを身に纏い、男共の間を遊弋していたのかと思うとギャップがありすぎて可笑しいし、幼児が母親に甘えるような真似や娘を甘やかす父親も演じられる。三十を過ぎている杉本さんが夢みた生活が一度に、いきなり叶ったのだ、どれほど嬉しいのかと考えたのだが、現実は甘くないらしい。

 噂では、奥さんの両親が下にもおかない扱いらしい。『よくぞ子持の娘を貰ってくれました』と、感謝・感激・雨あられ。どうも一人娘は甘やかされ、不良達と付き合い出し、親の言う事も聞かず、十代でシングルマザーになってキャバクラで働き出したと、絵に描いたような筋書き、そこまでは驚くような話じゃないが、実家は建設業、住宅の基礎工事をしているらしく、跡取りへと、狙っているのは間違いない。とんだアリ地獄だ。アパート住まいの新婚さんは、早くも実家に取り込まれ、まだ会社は辞めてはいないが、早急に家業を引き継ぐ修行に向かわなければならない。畑違いだが、断る訳には行かず、ガス会社の眼鏡を掛けた事務員に土建屋の監督が勤まるのか、甚だ心許ないが、惚れた弱味で押し切られてしまうのだ。ただ、それが嫌ではないのだろう。流れに身を任せるのも気が落ち着いて良いものさ……。


 港の埋め立て地の公園はだだっ広くて、東西南北にダイアモンドとバックネットが設えてあり、つまりは野球場が4つ合体していて、同時に4試合出来るのだ。

 相手チームのピッチャーが黒縁眼鏡、小太りの中年オヤジに代わった。内野手が集まって「部長、五点ありますから、楽に」とか言って励ましていて、こんなレクリエーションの場にも上司を持ち上げ気配りをしなきゃならない組織の悲哀が滲み出ていて悲しくなったが、キャッチャーの動きが突然、機敏になった。内角に構えていたのに、ピッチャーのワインドアップと同時に外角へと移動したのかと思ったのに、来た球はインハイ胸元の直球だ。球が速くなかったので避けられたが、危なくデッドボールになる処だ。キャッチャーのサインに違いない。怒ったフリをして睨み付けたが、マスク越しの目は此方を向かず知らん顔だ。どうやら全力を出して打ち取り、部長におもねる積もりが見え見えな雰囲気だ。

 2球目は外角低めの直球ストライク。3球目もインコース直球でストライク。打者の目を散らして打ち取る作戦に違いない。野球経験者だ。ウイニングショットは1球も投げてない変化球に違いない。

 チラリと眼球だけでキャッチャーを追うと、今度はマスク越しに此方を窺う気配で、目と目が合った。一度もバットを振ってないので変化球狙いかどうなのか判断出来ないのだろう。こっちも迷っていた。もう一球インハイにストレートを投げてから変化球かも知れない。それも死球スレスレを攻めてから外に変化球なら確実に打ち取れる。このキャッチャーならそうするだろう、から、そうするに違いないになり、確実にそうだに変化し、それに備えて体に当たらないよう身構えた。

 部長はキャッチャーに全幅の信頼を置いていて、サイン通りに投げるのに集中し、余分な思考も動作もしていない。中年オヤジが高校野球のように真剣で必死な形相をしている。何か応援したくなるような雰囲気だが、まさか死球のサインは出してないよなぁ、と、疑念が浮かんで来て、一瞬、キャッチャーの気配を探った。

 「大丈夫、当てないよ」真っ直ぐ前を見たまま呟く。まるで野村のボヤキだ。

 完全に読まれていた。心の動きが態度に表れ、死球を恐れて体を硬くしていたのだ。だとすると外角のカーブかスライダーを投げさせてタイミングを外す、そうすればバットに当たってもファウルにしかならない。さらに、際どいボール球になれば三振も取れるかも知れない。そんなキャッチャーの推理の過程が、被害妄想の人格として現れて確信になった。あとは外角球のストライク・ボールの見極めだけすれば良い。

 ピッチャーが右手で掴んだボールを包むようにしてグラブで隠し、両腕を上げてワインドアップするのだが、小太りな部長は腕も脚も短くて丸い。不恰好なワインドアップだが、それでコントロール出来るのだから部長も経験者なのかも知れず、油断は出来ない。ピッチャーが足を上げると同時に一度体を沈め、リズムを取り、右足に体重を乗せ、あとは左に体重移動させながら外角球に的を絞ってバットを振ればいいだけなのだが、そのタイミングを外すように部長がクイックモーションで素早く投げて来た。予想外だった。しかもテークバックが小さくて頭の後ろからいきなり球が出てくる感じで、真っ直ぐ顔をめがけて飛んでくる。インハイだ。デッドボールも辞さない積もりに違いない。左肩を上げ、首を引っ込めて顔を庇い、腰を引いた。キャッチャーに騙された。悔やんでも遅い、と、思ったら、目の前をボールが通りすぎた。肩口から曲がったカーブがど真ん中に決まった。所謂、ハンガーカーブだ。野球界では言わずと知れたホームランボール。完全に裏をかかれた。

 「ストライクアウト」審判が右手を上げ、親指を立てた拳を斜めに振り下ろしてコールした。

 ピッチャーの部長がマウンドから一歩前に出て垂らした両腕をゆっくりと上に持ち上げ、目の前で拳を握り、二・三度前後に揺らしてガッツポーズをすると、感極まり天を仰いで口を開け、叫んだ。

 本当に嬉しいようだ。相手の裏をかいて見逃しの三振を取る。野球の醍醐味、ゲームの妙、ピッチングの真髄を味わったのだ。多分、久しく経験してなかった感動と興奮だろうし、皆の応援を裏切らず、上司としての面目を保てた事も要素としてあるのかも知れない。こうした事も社会性の一つなのだろうか、ひとつひとつの要素が集まって人に助けられ事が成就する。それが成功で、たった独りで絵を描いたり小説を綴ったりするのとは、違うことなのかも知れない。

 試合にはボロ負けし、昼食の弁当も旨くはなく、これでは残念会のビールも苦いばかりで飲む気にもならず、車で遠征してきたのに現地解散となった。せっかくのデビュー戦にアルコール抜きでは可哀想と思ったのか、荒木さんが声を掛けてくれてキャバクラに付き合う事になった。まあ、杉本さんが辞めてしまったので誘う相手に困っての事かも知れないが、ああゆう所は一人では行かないものなのかどうか分からないが、興味はあった。野球ではキャッチャー・ピッチャーとの対話と言っても言葉を交わす訳ではなく、心理を読んで想像しているだけ、独りで文章を組み立てているのと変わらない。キャバクラなら直接人と話すから少しは変化があるのかも知れない。こんな考えでキャバクラに行く奴など居ないだろうが、とにかく、神経症から抜け出す為なら何でもやってやろうと思っていた。

 駅前で待ち合わせをして、そのまま直ぐにキャバクラに入るのかと思っていたが違った。横路に曲がったと思ったら居酒屋に入って、先ずは一杯。どうやら儀式のようなもので、素面で女は口説けないらしい。けれども長居はしない。ビールの中ジョッキと突きだしだけで店を後にし、ネオン煌めく通りへ繰り出した。

 「お客さん、良い娘がいますよ」黒いタキシードのカラスが声を掛ける。呼び込みだ。普通、目当ての店や馴染みのホステスがいるのなら、キャッチセールスかティッシュ配りみたいな呼び込みなんかは相手にしない。振り向きもせず通り過ぎる。ところが荒木さんは、その都度、立ち止まっては話し、笑顔でジョークを飛ばし、ホステスの様子を聞いたりするのだが、別に店に入るでもなく、かと言って立ち去る訳でもない。目的は何なんだと、最初は訝しく思ったが、そうではなく、この行為そのものが楽しみなんだと気付いた。あれだ、戦争ゲームで戦う前にする部隊編成、奇襲部隊なのか防衛部隊にするのか、実際の戦闘も、もちろん面白いが戦う前の、この時間も同じくらい面白い。ただ、その面白さに気付いたのは何度もゲームをしてからで、どうやっても勝てなかった揚げ句に、攻めないでみたり奇襲を仕掛けて、ようやっと勝てるようになってからの事で、なかなか最初から、その面白さに気付く事はない。だから流石キャバクラ評論家、ベテラン荒木さんならではの流儀なのかも知れない。

 

 歓楽街、たいして広くもない通りにはキャバクラだけでなく居酒屋、クレーンゲームの店、果ては小さなバーやスナックまで、中にはビルが一棟そのまま多くの飲食店で一杯、そんなビルがあちこちに点在している。辿り着いたのは街のほぼ中心、一階・二階に別々のキャバクラの入った派手なビル。ネオンと鏡とステンレスでキラキラし、スパンコールのドレス姿のホステスが入口で出迎えていた。

 少し酔っているので、このメタル感が心地よい。女達が両側から体を寄せて来て腕を絡めて案内するのだが、そこから伝わる体温が周りの印象と対立していてギャップがあり、余計に柔らかな人肌の温もりを思い出させ誘惑する。女達は香水もふんだんに使っていて酔っ払いの鼻の穴は開き、鼻先がヒクヒク動いて鼻腔の奥一杯に甘い香りが満ちて脳の機能を停止させる。思わず首を捩って横を向けば、紅い唇の女が艶然と微笑んで品を作る。

 ソファーに座ると早速ボーイが床に膝まづいて注文を取り、女の一人が「ボトルを入れていい?」と、荒木さんに同意を求め、グラスや氷が用意されるとホステス達は各々水割りを作り、最後はマドラーで掻き混ぜ、グラスを合わせ音を立て乾杯をする。そのホステスの動作ひとつひとつを客は眺め値踏みする。ところが、逆ではないのかと疑念が湧いた。野球でキャッチャーに見透かされたように、ここでもホステスが客を観察し、経済状態から仕事、果ては男としての器まで、すべての皮を剥がされ本質を引っ張り出されているのではないのか。二年も美大浪人をし、被害妄想の神経症になって慌てふためき、やっつけ仕事をしている中途半端な若造なんぞ、まともに相手をしてくれるとも思えないが、それはそれ、今のところ探るような素振りはない。

 「今日はコイツの草野球デビュー祝いなんだよ」荒木さんがホステスを促し、持ち上げてくれと言わんばかりの演出をした。

 「ホームラン打ったの?」ホステスが大袈裟に振り向いて訊く。

 「お願いだから聞かないでやってくれ、可哀想だから……」手を擦り合わせ、拝み倒すジェスチャーで荒木さんがホステス達に懇願する。

 「ぷっ」一人が吹き出した。それを見て此方は首を項垂れ、ガッカリするしか為す術がない。まるで漫才だ。これでは逆ではないか。客の二人がホステスを楽しませているだけだ。それでいいのか? 荒木さんの方を恐る恐る覗き込むと、荒木さんはホステスの肩を右腕に抱き込んで睦まじくヒソヒソと話し込んでいる。デビュー戦をネタにして口説き始め、もう此方に気配りもないのか、それとも何かの作戦なのか、とにかく、キャバクラのデビュー戦も上手くは行かないようだ。

 「まあ、飲みなさいよ」ホステスにヤケ酒を薦められ、ガックリと項垂れた流れで今度は顎を上げ、氷が溶けて薄くなった水割りを飲み干した。

 「あら、イケるじゃない」直ぐに次の水割りを用意しながら「今度は指名してね」と、片目を瞑りウインクをする。何の事かと訝ると、アナウンスが入りホステスは二人とも呼び出されて他のテーブルに移動となり、別のホステスに代わる。気に入っても指名料金を出さない限り女を独占出来ないシステムらしい。姑息だ。でも荒木さんは別に気にする素振りもない。しかも、もう店を出ると言う。どうやら馴染みの店ではないようで、何処に連れて行かれるのだろうかと思ったら、同じビルの上の階、エレベーターをひとつ昇っただけ、しかも似たような店で、それでも少しグレードが下がるのか、雰囲気が庶民的だった。ホステス達も着飾ってはいたが、長いドレスではなくミニのワンピース、肌の露出が多く、その分年齢も若く経験も浅い素人のような女もいるし、紛れて学生のようなのも少し太った女もいた。BGMもヒップホップのようなテンポの速い曲、店全体が騒がしくホステスの矯声がアチコチから聞こえる。ざわついていて、どのボックスでも客とホステスの動きが活発で楽しそうに騒いでいる。

 「好きにしていいぞ」そう言うと荒木さんはソファーにダラリと体を伸ばしてふんぞり返った。どうやら、ここが馴染みの店で、目的の場所なのは間違いない。疲れる位なら高級店なんぞに行かなければと思うのだが、色々と教える積もりなのは解っていたので非難は出来ない。こうやって杉本さんも遊びに引き込んだに違いない。それがホステスとの結婚まで至り、実家の仕事で退社だ。目出度さよりも寂しさがあるのじゃないかと忖度するのだが、どうだろう。でも女の子が付いて話し始めると、いつもの賑やかな荒木さんに戻った。いや、いつもより楽しいに違いない。二十歳前後の若い女が相手なんで、ニヤけて笑顔が止まらない。だらしなさがダダ漏れで、思わず声を上げて笑い出さずにはいられない。

 「アッハッハッハ」

 腹の底から声が出た。

 「何が面白いのよ!」横に付いた女が不思議そうに、少し怒ったように口を尖らせた。自分が笑われたと勘違いしたのだろうか。頬を膨らませ口を尖らせプンプンと、まるで漫画のような顔で怒ってる。一瞬、目と目が合い、笑いを我慢し黙ったが、その顔とだらしない荒木さんの肢体がダブって我慢のしようがなくなり、思い出し笑いのように吹き出すと、それを見た女が、「バカバカ」と言いながら今度は両手で頭を叩いて来た。痛くはないが頭を手で覆い、抱えるように俯きながら尚も「クックッ」と小刻みに震えるように笑っていると、「可笑しくない!」「ここじゃ私が一番の美人よ!」と、キッパリと言う。そうなのか?  身体を起こし首を伸ばして店内を見渡し、「そうみたいだな」と、言うと。

 「見回さなくても、そうよ!」と、これも気に入らぬ反応だったようで、またまた怒って、演技なのか本気なのか判らない事を言う。

 「何言ってるの、私が一番よ」と、横から荒木さんに付いてた女が口を挟んだ。

 「私の方が若いんだから……」そうだそうだと、荒木さんが賛同する。

 「そんなバカな」と此方は二人で反論だ。

 ここから盛り上り、ドンチャン騒ぎが始まった。四人で飲みまくり大声を出し、フロアに繰り出して踊り叫び寝転んで手足をバタつかせて暴れ、最後はボーイ達に囲まれて運ばれ、店を追い出された。


 道に出るとビルの上に満月を過ぎた上弦の月が昇っていて、酔いが回って上手く歩けず、ふたり肩を組んで支え合って行くのだが、見ると荒木さんの頬には赤いキスマークがあり、みっともないぞと笑ったのだが、お前こそと逆に笑われ、テレビドラマでよく見るサラリーマンの酔っ払いが千鳥足で歩く姿の、あんな風にはならないと思っていたのに、見事にあの姿のまんまで、情けなくて惨めなんだが、心は解放されて自由だった。荒木さんは月に向かって「キミちゃーん」と、キャバクラの女の名前を叫び、今度は指名すると約束している。可笑しくて可笑しくて笑っているのだが、目尻からは涙が零れて流れ、上弦の月も滲んで朧になってしまった。

          了

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