1-3
エアコンから静かな温風が吹き出され、部屋を適度な温度にしてくれている。康太の妹である恵の部屋では小さな折りたたみテーブルが中心に置かれ、差し向かいになってノートにシャーペンを走らせる音だけが聞こえていた。
「有紀ネェ、ここは?」
「……ん? あぁこれはさっきの公式を使って――」
恵の向かいに座って、スマホを弄っていた有紀は、テーブルに置かれた教科書を覗き込むように身を乗り出すと、書かれた設問を見て解き方のコツを教えていた。
「――ふぅ。やっと今日の分終わったぁ」
「お疲れ様。……でもまさか、恵ちゃんもうちの高校受けるとかビックリしたよ」
「え~だって康太が受かったんだよ。私も確実にしとかないと」
「あははは何それぇ」
「だって――」
不得手な理数系の問題が一段落した恵は、手に持ったシャーペンをテーブルに置き、首を捻りながら両手を頭上で目一杯伸ばした後、一気に離すと「ぷはぁ~」と気の抜けた声を出しながら脱力し、有紀に言われた内容に何故か兄の名を持ち出し抗弁する。それを聞いた有紀は「ホントに恵ちゃんはブラコンだねぇ」と微笑ましく思いながらも、堪えきれずに笑ってしまう。その後も何度か彼女が言い訳にもならない様な屁理屈を捏ねた後、テーブルに置かれたホットティーを一口呑んだ後、そのカップを見つめながら不意に聞いてくる。
「有紀ネェの方は順調?」
「……は? な、なにが?」
「ん? 勉強だよ。進学するんでしょ? ――何か別の事が気になるの?」
「あ、あぁ、うん順調だよ。……でもちょっとバイトの方がね。こないだ一人辞めちゃってさ。シフト、増やさないとなんだけど」
「ありゃぁ、大変だねぇ。でも無理なら仕方ないじゃん。」
「ん~、でもそれだと店長にしわ寄せ行っちゃうし」
「叔母さんの友達だったっけ?」
「そう。昔っからの親友だって」
「そっかぁ……。じゃぁ断りにくい――」
恵が思っていたのとは違った悩みに少しがっかりはしたものの、それはそれでけっこう大変だなぁと思っていると、階下で兄、康太の帰宅した声が聞こえてきた。
「ただいまぁ」
「あ! 康太、帰ってきた」
「どこか行ってたの?」
「なんか、夏の時のバイト先? 今日だけ、また呼ばれてたみたい」
「へぇ。そうなんだ」
立ち上がり自室のドアを開けると、ちょうど階段を登ってきた康太に恵は声をかける。
「しっかり働いてきたの?」
「……なぁ妹よ。兄を少しは敬って欲しいんですが」
「無理!」
「即答すんなし!」
「あははは」
「ん? 有紀、来てるのか?」
「そう。勉強教えて貰ってたんだ」
「そか。有紀悪いな」
「そうそう。兄の出来がダメダメだから」
「おい!」
「あははははは」
……いつもの兄妹のくだらないやり取り。少し、ほんの少しだけ心の隅に
「……笑いすぎだろ。はぁ~、夕飯だから降りてこいってさ」
何がそんなにおかしいんだとブスくれた顔を覗かせながらも、母の言伝はきちんと言ってから「俺も着替えてすぐ降りる」と自分の部屋へと戻っていく。……彼の部屋にはもう何年入っていないだろうと、一瞬考えた自分を恥じ入ると、階下から夕飯の匂いが流れてきていた。
◆ ◆ ◆
「ゴメンね有紀ちゃん、恵の勉強見て貰って」
「いえ、大丈夫です。おかげで自分の復習にもなりますから、補完も出来てWinWinですよ」
「うぃん……? ま、まぁそれならいいんだけど。……康太がもう少し出来たらねぇ」
「うぐぅ、母よあなたまでもか」
「何言ってんのよ、こないだのテストの結果。ちゃんと知ってるんだから」
「……あぅ」
「「あははははは」」
「あ! そうだ。皆に言っておかなきゃだった。……サっちゃん、通信制の高校に編入出来そうだって」
その言葉が出た途端、俺達全員の箸が止まる。
「「「……!!」」」
「これで彼女もちゃんと高校卒業できるわ。皆と同じ頃に」
「え? でも今からじゃ時期が――」
「……えぇとね、今の通信制高校って、前の高校の単位とか引き継げるの。だからそこは大丈夫よ……彼女、成績良いから」
恵の質問にそう答えながら母よ、そこで流れるような眼差しを俺に向けないでくれ……。くそ! 二人まで同時に憐れむような生暖かい目を! 居た堪れなくなった俺は、一瞬話を変えようと思ったが、不意に浮かんだのは健二の笑った顔だった。
「ま、まぁ良かったじゃん! そっか。佐知、高校行けるんだ……健二はもうその事知ったのかな」
自然と溢れてしまった言葉、それは誰に伝えるつもりのないただの言葉のはずだ。だけどその言葉には思った以上に自身の感情が乗ってしまっていた。『半分の糸』が繋がったような気がして……。思いは、想いとなって誰かに伝わって行く……。もしそう出来るなら、こんなに嬉しい事はない。
「ぐすっ。――うぅ、佐知……よかったぁ」
「有紀ねぇ……良かった。よかったようぅぅぅわぁぁぁ」
俺の言葉がそうさせたのか。それとも二人は元々想っていたのか分からないが、彼女らは並んだ席のまま、寄り添いながら声を上げて泣き出した。一瞬、うるっと来る物があったが、そこは男だと頑張って無理にニヤけると、母はそんな俺達を見て微笑んでいた。
**++**++**++**++**++**++
冬の風は日増し冷たく、頬にキツく当たるようになって来たが、駅前商店街ではかなり前からクリスマス商戦が始まっている。既に商店街のあちこちには赤や緑の飾りが増え、「ケーキのご予約はお早めに!」の看板や、「日本で三番目に売れるはずのチキンです!」と、いやいや、どこのパクリネタ! みたいな物が目に飛び込んでくる。通りはいつも以上にいい匂いが漂い、家までの数分がとても辛くなってきているが、今日もそんな攻防をなんとか二人で耐え凌ぎ、家の前で「んじゃ、また明日」と言って有紀と別れる。
「ただいまぁ。……超腹減ったぁ! 商店街は今の俺の敵だぁ!」
玄関のドアを開けるなり、そんな言葉を大声で喚きながら、手洗いに行こうと洗面所に向かっていると、ダイニングのドアがいきなり開く。
「……お前はわんぱく小僧か、いきなり腹減ったって何騒いでんの? 佐知ネェ爆笑しちゃってるじゃん」
「え?!」
「……先に着替えてきたら」
そう言って恵はダイニングのドアを閉める。――は? 誰が爆笑? へ? あ、手、洗わないと……。
呆気にとられてしまい、回転の止まった頭のまま、洗面所へ向かう。当然手を洗っている途中で意味が理解できるわけで、鏡に写った自分の顔を見て「はぁぁぁぁぁ?!」となったのは言うまでもない。部屋に戻って鞄を机に放り投げると、速攻で服を着替え、スマホだけを持ってすぐ階下へ降りる。
◆ ◆ ◆
「佐知……久しぶりだ――」
ダイニングの扉を開けると、食卓テーブルの上には幾つかのお菓子と珈琲が置かれ、佐知と恵が二人くっつくようにして俺の顔を見て爆笑する。途端、先程自分が玄関を開けて何を言ったか思い出し、瞬時に耳まで真っ赤になる。それを見た二人は更におかしくなったのだろう。恵は「ぶっは!」とお菓子くずを飛ばし、佐知は「真っ赤になった!」と言って、俺の感傷などその笑い声で一瞬にして空の彼方へ……。
「ハハハハハ! はぁ~、ふぅ。……フフフ、おかえりぃ、そして久し振り! わんぱく小僧クン!」
「ブハハハハハ! 佐知ネェ! 本人に言っちゃダメェ! 死んじゃうよ、流石の康太も恥ずか死ぬぅぅぅぅうははははは!」
……ぐぬぬ! マジ超ハズい! 死ねるかも知れん! ってか、我が妹よ! テメェわざとか! わざとクッキーかすをお兄ちゃんに飛ばしてるのか!
「――っ、うるせぇ! 商店街通りのあの匂い嗅いでみろ! この時間帯の高校生男子にはアレは拷問だ!」
「だからって、玄関であんな大きな声で騒ぐことないでしょうに。お母さんが何も食べさせてないみたいじゃないの!」
如何にもな正論を言い放ち、俺の席に珈琲を置いてくれる母に何も言えなくなった俺は、「あ、これは何を言っても勝てねぇ」と悟り、「腹が減ったのは事実なんです……」とボヤきながら、マグを握って、ズズと啜る。
「……確かに希実の所も何かすごく忙しいて言ってたわね。チキンが予約で凄いとかなんとか……」
あそこかぁ! 「三番目」はぁ!
その話が出たので、今年は我が家はケーキはどうするんだとなり、「ねぇ、私と恵と有紀の三人で作ろうか」などと雑談が始まった。そんな話で盛り上がる中、唐突に佐知が俺に聞いてくる。
「……そう言えば、学校の方はどう? かなり噂になったでしょ?」
「ん、あぁ。……今はもう、大分落ち着いたなぁ。一時はかなりウザかったけど」
「あはは。だよねぇ……。ゴメンね巻き込んじゃって」
「良いよ気にしてな――」
ドタバタガチャンと玄関のドアを開け、バタバタと聞こえる足音。次には当然ダイニングの扉が開き、「佐知!」と大きな声で有紀の乱入、まぁ良いけどね。コイツも最近は会えて無かったみたいだし。と思って、席を譲ろうとした時。
「ういっす! ってか、あんた一昨日も会ったじゃん」
「……だって、ずっと佐知ん家ばっかだったし。皆と一緒にってのは久々じゃん!」
――は? ……気ぃ使った俺の気持ち! など、誰も察することはなく。その後、健二以外の皆で久しぶりに話し込む。母も流石に気を利かせたのか、気がつくとリビングに行けと促された。
「あははは! そうなんだ。」
「そうそう」
「でさ――」
「佐知ネェは――」
――なんだろう、この座りの悪さは。なんだか、話に入りにくい。今まではこんな事、一度も感じたことはなかったのに……。佐知が話し、有紀が応える。恵が笑って話に混ざり、そこへ健二が……。
「それでさ、健二がラインして来るとね――」
……そうか、健二! アイツが居ないんだ。今更ながら考えてみればいつもそうだった。皆と話をしてる時、遊んでいる時、アイツはいつも俺に話を振ってくれてた。彼女達の間にいて、俺と皆を繋いでいた。……そうか、思い返してみればそうだった。俺はいつも話を聞く側で、俺から話を振ったことなんて殆どない。健二がまるでクッションのように間に入り、彼女たちとの距離をうまく作ってくれていた。――はは、何だよ、俺ってこんなにコミュ障だったのか……。
少しブルーになり、ソファから立ち上がる。
「ん? どしたの康太?」
「いや。なんでもない。……ボチボチ俺、部屋に戻るよ」
「は? なんで? いいじゃん此処にいれば」
「……いや、あの――」
「はいはい。康太さんはパソコンの時間なんですね。
俺の言動に恵が突然、訳知り顔でそんな事を言う。恵? 何だそれ? パソコンの時間ってどういう意味だ?
「なに? どゆ事?」
「……何か最近さ、帰ってくると即、パソコン弄ってるんだよ。ニヤニヤしながら。あれ、キモいよ」
「康太……」
「うわ。マジで! ヤバいって康太。エロ動画は皆が寝てからでないと」
「チゲぇ! てか、そんなの見てねぇよ」
――なんだ? ニヤニヤ? いつ? いや、そう言うのはキッチリ、プライベートブラウジングでって、違う!
「おい、恵。俺の尊厳がヤベェ。いつニヤニヤしてた?」
「え? 気付いてないの? まじで?」
――え? マジなやつなの?
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