2-5
玄関の扉を開けると、既に真っ暗になった空が見えた。少し冷えた風が二人の頬を撫で、一瞬ブルリと身体が震えるが、息が白くなるまでではない。住宅街で街の明かりは有るけれど、それでも空が近いのか、ふと見上げればあちこちに光る小さな点がやけに明るく見えていた。
自転車を引っ張り出してハンドルを握ると、健二はちょうど反対側に立ち、歩き始めた俺に付き添う形で歩幅を合わせてついてくる。佐知の家から離れて角を曲がる頃、不意に健二が話しかけてくる。
「――康太、黙っててゴメンね」
「良いよ。俺だって同じ立場だったら、絶対言えねぇ」
そう。……俺だってあんな事になったら、誰にも言えない。佐知が襲われて――。
「いや、実はさ。俺、今かなりキョドってるの判る?」
「……? いや。なんで?」
「――佐知が襲われてたなんて、聴いてなかったもん、俺」
……は?
「いや、……他に彼氏が居てさ、その相手に言えなくなって~。みたいな感じだと思ってたんぎゃっ!」
「いいか! 絶対誰にもその事言うなよ! マジで! 絶対だぞ!」
自転車を挟んで、健二の胸ぐらを引っ掴み、顔を寄せて詰める。コイツは、ほんとに今更な事を言いやがる。
「わ、判ってるよぉ。康太だから言ったんだよ」
「……今の言葉、俺は忘れる。お前も今の話は忘れろ」
「わかったよ。……いてて」
いきなり引っ張られたので、傷が疼いたんだろう。頬を擦りながら、情けない話をしてしまったと自覚したのか、そのまま黙って自分の家まで無言で歩いた。「寄っていく?」と聞いてきた彼に、無言で手を振り別れると、そのまま自宅へ自転車に乗り、自室に戻って電気も点けずにベッドへ倒れ込む。
――佐知……有紀、恵……。彼女たちは今一体どんな気持ちなんだろう。……今の俺には想像もつかない。恐怖や怒りと憤り……、絶望や哀しみにくれているのだろうがその深さは男である俺には計り知れない……。クソ! クソ! クソッタレ! 俺の友達を! 大切な幼馴染を! 自分の欲求のはけ口になんてしやがって! 明日からどんな顔して皆と接すれば良いんだよ! わかんねぇ。糞! クソ! なんでこんな、こんな事に――。
そんな答の出ない問答を何度も繰り返し、ずっと張っていた気が緩んだ瞬間、何時の間にか眠っていた。
――あれはそう。……初めてだったんだ――。
「おつうや?」
「そう、お
「……うん、着れた」
「どれどれ……。うん、これでよし。じゃあ恵とここで待っててね、お母さんもすぐ用意するから」
「――はぁい」
それは突然の事だった。……夜中に起こされ、何でと聞くとおつうやという所? に行くらしい。母は眠ったままの妹、恵の服を着替えさせると、俺に幼稚園の制服に着替えるように言い、自分も慌てて黒い服を引っ張り出して着替えていた。何故こんな時間に出掛けるんだと思ったりもしたが、幼い頭でそんな事を考える余裕はなく、ただ眠い目をこすりながら、恵の小さな指を弄りながら、ぼうっとした眼差しですやすやと眠る、小さな妹を眺めていた。
――初めてタクシーに乗った。その車内は変わった匂いが充満していた。ビニールのような、はたまた消毒された革の何とも言えない独特な……。恵は母の腕に抱かれ、愚図る事もなく。俺はそんな初めての体験をしながら、真っ暗な中を走るタクシーから、車窓に映る光の筋を夢見心地で見ていた。
どの位乗っていただろうか。やがて見知らぬ住宅街にタクシーは進んで行く。俺の座っている位置から車窓は高く、半分空の暗闇しか見えないが、やがてタクシーは停まり、降車して初めて気付く。
――目の前には沢山の黒が蠢いていた。
その状況に眠気が吹き飛び、握っていた母の手を今一度確認して握り直す。……怖かった。全てが黒い……。空も、目の前も、母ですら……その衣装が黒かったのだ。
「――! 康太! こっちにおいで」
――っ! ふと、聞き慣れた父の声が、黒の合間から聞こえる。……その事に一瞬たじろぎ、母を顧みると、母は穏やかに笑って居る。目線を黒に戻す……よく見ると、其処には黒い服を来た人々が、集まっているだけだった。皆、揃いの黒い服を着て、せわしなく一軒の家を出入りしていた。そんな中に一人、見慣れた父の顔を見つけたのだ。
「お父さん!」
それまでの恐怖は父の笑顔で忘れ、駆け寄る。恵を抱きかかえた母が、後ろに続いていた。
そこは知らない家だった。沢山の人の波をかき分けるようにして、玄関口まで辿り着くと、父はそこで足を止め、その先に母と同じくらいの女性が居た。
「美咲ちゃん。静香、連れてきたから」
呼ばれた女性は此方に近寄り頭を下げる
「――はい、スミマセン、どうも夜分に有難う御座います」
「何言ってるの。そんな気にしないで。ほら、頭上げて……」
母はそんな事を言う女性に近づき、頭を上げさせて、抱いていた恵を見せるように身体の向きを入れ替える。
「これが、恵。……で、こっちが康太。ほら康太、挨拶は?」
「――こんばんわ」
「はい、こんばんわ。エライね」
見たこともない家に連れてこられ、いきなり知らないおばさんに挨拶を強要される。……一瞬だけ、何故と疑問符が浮かんだが、こんな事はしょっちゅうだった。だから取り敢えず意味は分からないが、挨拶をする。と、何故か褒められて、頭を撫でられた。小さな子供にとってはそれだけで十分だ。機嫌は治り、笑顔まで出てしまう。
「確か、有紀ちゃんと同い年だったな」
「――そう、有紀、おいで。……ご挨拶出来る?」
信介の言葉に、玄関の裏に隠れていた俺と同じくらいの背丈の少女が、トコトコと歩いてきた。そのまま女性の後ろに隠れ、ちょこんと頭の半分だけを見せると、か細い小声で「こんばんわ」と言うと、完全に女性の影に隠れ、見えなくなってしまう。
「――ゴメンね。また人見知りが激しくなっちゃったみたいで……」
「そかぁ。良いよ、気にしないで」
父はそう言って、少女に笑いかけていた。母も同じ様に笑顔で影に隠れた彼女を見るように笑顔だった。玄関にはたくさんの靴が並んでおり、中からはガヤガヤと人の話し声が聞こえてくる。
――知らない家。知らない匂い……知らない人達。何もかもが解らないままに、俺達もその家に上がり、リビングで言われた場所に座っていると、お菓子やジュースが運ばれてきた。「眠ければ二階に布団を用意するから」と告げられたが、騒がしさと、臭い酒精の香りでそんな気にもなれず、リビングの奥に見える和室を何となく見つめる。
ん? 奥にも布団が敷いてある。
「……お父さん、だれかねているの? うるさくない?」
そう、この家は先程から、沢山の黒い服装の人達がひっきりなしに出入りし、キッチンで臭い酒を飲んで騒いでいる。……にも関わらず、すぐそこに有る和室では誰かが一人布団で眠っているのが見えた。普通ならば叱られる場面なのに、誰も文句を言う人は居ない。
「あ、あぁ。……そうだな、ちょっとうるさいな。……でも良いんだよ、康太も挨拶しに行こうか」
「私は恵を布団に寝かせたら、美咲さんを手伝うわ」
母はそう言って、さっきの女性と二階へ上がっていった。
「よし。じゃあ有紀ちゃんも一緒に行こう」
突然母達に置いていかれた彼女は、一人オロオロしだしたが、そう言われて小さく頷いた。父は俺と彼女を両手につなぎ、奥の部屋へと歩き出す。
――奥の和室には、真っ白な布団。そして真っ白な服を着込んだ、一人の男性がただ静かに眠っていた。枕元の上辺りには小さな台が置かれ、蝋燭と線香が焚かれている。立ち上る一筋の煙は揺れる事もなくまっすぐ。線香の灰が長くなって落ちると、その時にだけ、煙は揺れて、眠る男の顔に掛かっていた。
ここも嗅いだことのない匂いだ。そしてお線香臭い……。
「ほら二人共、座って」
父に促され、布団の横に座る。対面に座った少女は、目にいっぱいの涙を溜めてる……。何故? どこか痛いのだろうか? そんな事を思っていると、隣に座った父が、線香を交換して徐に、布団に眠る男の人に話し出す。
「今村、これ、俺の息子の康太。……有紀ちゃんと同い年だ。やっと会わせられたよ。お前、見たがってたもんなぁ、なぁ……いまむら」
何故か鼻声で話す父、その言葉を男性は身動ぎ一つせず、ただ、眠ったままにじっと聞いてい――ん?
「ねぇおとうさん、このおじさん、おはなに何か詰まってるよ」
「うん? あぁ。……このオジサンはもう起きないんだよ、息もしていない。だからふたをしているんだよ」
よく見ると、鼻には白い真綿が詰められ、顔色はない。目は閉じられ、口も真一文字に結んだまま。よく見てみれば唇も既に真っ白になっている。……息をしていない? 何だそれ? 俺は父の言葉の意味がわからず、キョトンとした顔でマジマジとその顔を眺めていた。すると少女は、ついに涙をこぼす。声を殺し、小さな手を真っ白になるほど握りしめ。……黙ってただ、其処に静かに横たわる男性を見つめ続けていた。
「このオジサンは有紀ちゃんのパパさん。そしてお父さんの大切な大切なお友達。今朝、亡くなってしまったんだ」
「ナクナッタ?」
「そう。もう起きてお仕事することも、ご飯を食べたり、お話したり、遊んだりする事も……できないんだよ」
――何度も何度も。ポロポロ流れ落ちる涙を拭きながら、それでも尚、黙って我が父を見続ける少女。時に「ウッ」と嗚咽を零しそうになりながら、それでも声を出すことはなく、都度、握った拳に力を込めて。静かに……その父の亡骸を見詰め続ける。その様子に我慢できなくなった父信介が、彼女を思わず抱きしめた。
「有紀ちゃん! 我慢しなくて良いんだよ。声を上げて良いんだよ! 君のパパだって絶対絶対辛いんだから! 君とお母さんを残して、たった一人で先に逝くなんて。そんなの嫌に決まってるんだから! そうだろ! 今村! こんなにちっちゃな子供と奥さん残して! うぅ……なぁ、いま……む……ううう!」
――父が泣いていた。周りを憚らず大きな声で。……いつしか少女も、声を張り上げて泣いていた――。
父の涙を。慟哭を。……少女の嗚咽と気丈さを、その時初めて俺は見た――。
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