2-3



 静かになったリビングで、佐知の言葉だけが低く響いている。誰もが一切口を挟まず、健二までもが固唾を呑んで聞き入っている。……もしかしてコイツも何も聞かされてなかったのか?



 ――なんで、こんなに不安になるんだ? 嫌な感情だけがどんどん湧いてくる。……嫌だ、これ以上は聞きたくない――。そこで続く彼女の言葉に思考は無理やり止められる。



 異変はすぐにやって来た。機嫌よく歌っているのに、目の前が霞むほどの眠気と怠さが急に襲ってきた。目の前には私の飲んでいるジンジャーエール。当然だがアルコールは入っていない。昔、パパがお正月に冗談でビールを少し飲ませてくれたけれど、あんな苦いだけの物、何が美味しいんだと思った記憶がある。以降、私はアルコールを一切口にはしなかった。だから少しでも飲めば分かるはずなのに……。隣に並んだテーブルには彼女たちのドリンクが置いてあるが、私はそれに手を付けていない。にも関わらず、急に襲ってきたこの感覚は何……?


 私が一人、席でふらついていると、一人の女が気づいたのか、こちらに寄って声を掛けてくる。



「ねぇ大丈夫? なんかフラフラしてるよ」


 口ではそういって心配してくるが、顔はニヤニヤとして、凄く癇に障る。隣にいたもう一人は、スマホを弄りながら私をチラとだけ見てほくそ笑み、ボソボソ独り言のように何かを言っていた。


「ゴメンねぇ、私等、だったんだわ」

「大丈夫だって。あんたも、もう高2でしょ? ならすぐ終わるし、んだしさ――」


 ――ピンチ? って何が? きもちい? 一体何の話を……。フラフラとして定まらない思考と視線の中、不意に部屋のドアがノックされる。


「おつかれ。……どんな感じ? 上手く行った?」

「えぇ。炭酸飲んでくれてたから簡単だったよ。……これで、お願いね」

「オケオケ。――さんに言っておくよ、後は……。で――」


 朦朧として薄れ始めた視界の端に、金色の髪色をした男が少し見えた後、限界だった眠気が私の意識をそのまま奪い、記憶はそこで曖昧になった。



◇◇◇



――曖昧な記憶……それは只々続く悪夢だった……。


 暗い薄汚れたどこかの部屋。周りには何人もの荒い息遣いだけが聞こえる……。偶に聞こえるのは嬌声か、それとも悲鳴なのか。判然としない意識の中でずっとそんな状況が続いていた。


 誰かが何かを傍で話しかけてくるが、言葉の意味も分からず。ただ不快な感覚が体中を這いずり回っていた。声を上げようにも何かで抑え付けられているようで、くぐもった音しか出せず、身体は全く言う事を聞かない。次第にまた意識がぼやけてきた瞬間、下腹部に強烈な痛みと共に、が私のに無理やり分け入るように、押し入ってきた。


「――っ! っづ! ぅぅう!」


 痛い! 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛いイタい!! ヤメて! 痛いの! イタい! 痛い痛い痛い痛い……!


 痛みを訴え、痛いと声に出して喚いているはずなのに、まともに声には出来ていないのか、それはただの呻きになってしまい、周りの人間たちのテンションだけが上がっていく。視界が前後左右にブレるように揺さぶられ、激痛は既に鈍痛へと変わりながらも常に私を貫き続ける。


 痛みと苦しみの中、何度も胃の中の物を吐いていると、突然水を顔にぶちまけられる。息が苦しくなって喘いでいると、それを見た獣がまた興奮したのか、狂ったように私に跨がり私を汚し、穢し続けた。


 何度も何度も私を犯し、その度に写真を撮っているのかフラッシュが光り。抵抗する気力も失せた頃、不意に遠くの方で声が聴こえたような気がした。


「――そろそろ時間だ。眠剤飲ませていつもの場所に捨てとこうぜ」



 その声が聞こえた時、幾人もの男たちは私から離れていく。既に何もかもが果ててしまった私は、ただ終わったのだと思った瞬間、眠るように気を失った――。



◇◇◇



 不意に目をギュッと閉じた佐知に、健二が近づこうとした瞬間。意を決したように顔を上げた彼女は、またそこから話を続けようとする。それに気づいた親父が彼女を制止しようと声をかける。


「……サッちゃん、ちょっと待て。おい、子供達を二階へ連れて――」

「いいの! 皆にもちゃんと聞いてほしいから!」


 もう何があったかなんて、皆気がついている。これ以上話す必要性は感じない。……だってその結果が今、佐知のお腹に出ているのだから。ふと妹達を見ると、有紀は真っ青な顔をして俯き、恵に至っては、耳を塞いで震えている。当然だろう、こんな話、テレビのニュースか、ドラマくらいでしか見たことも聞いたこともない出来事だ。にも関わらず、佐知はまだ終わっていないから聞いてくれと言う。母親たちは既に涙を流して嗚咽を漏らしている者もいる。親父達はなんとか耐えているようだが、佐知の親父さんは無理だった。既にボロボロ涙を流しながら、手が真っ白になるほど拳を握りしめている。流石に俺の親父も予想外だったのか、健二の父、浩二と共に腰が抜けたかのようにして、ソファにへたり込んでいた。


 健二も何も聞かされていなかった様子で、震えて涙をぼろぼろこぼしながら、佐知に近づくが、触れることが出来ないようで、その場で只々じっとしていた。かくいう俺もそんなこととは思ってもいなかった。当然ながら立っていられず、リビングに有る二人掛けソファにもたれ掛かるように腰を落とした。



「……っ、多分、そのまま男たちに連れ去られてレイプされたんだと思う。カラオケボックスで気を失った後、記憶は曖昧でわからないけれど、気がついた時には夕方で――」


 

 ――何処かの路地で壁にもたれ掛かって、座り込んでいた。……服は着ている、鞄も傍に転がっていた。財布の中身はお札が全て無くなっていた。カードや小銭には手がつけられていない。スマホも鞄の隅に入っていた。電源は落とされ、SIMカードも抜かれていたけれど、カードは一緒に入っていた。


 それを確認して安堵した瞬間、同時に痛みがそこかしこではしった。


「痛っ!」


 立ち上がれない。……ふと足元を見て血の気が引く。下着を着けていない……。足首には何かに掴まれたような痕がくっきりと残っている。


 ――腰が抜ける。直後、身体が小刻みに震えだす。路地の隙間から差し込んできた赤い空の色が目に焼き付き、否が応にもそれが現実なんだと突きつけられる。


 ――私は傷物にされたと実感した。




 その後、何処をどう歩いたのか全く覚えていない。気がつくと、家の近所の公園の側に居た。何も考えられなかった、違う、考えたくなかった。悔しいとか、哀しいとか、痛いとか……唯、全部がごっちゃになってぐるぐる渦巻いて、茫然自失となり、もう消えたくなった。……もう良いや。全部全部、なくなれば良い。そう思い、顔を上げた先を見た時。暗くなった公園のベンチに座る康太が見えた。


(見つかった? いや、康太、下向いてた)


 咄嗟に傍にあった植え込みの裏に隠れた。が同時に自分の行動に疑問が湧く。


(……私、なんで隠れたの? 見られたくなかった? 今の自分を?)


 何故? 頭の中でふと湧いた疑問、今の今までもうどうでもいいと、何もかも消えて忘れようと考えていたのに……。彼を見た瞬間にそれを全部ひっくり返すなんて。いつの間にかポロポロと溢れる涙は止まらなかった。


 ――やだよ! 死にたくなんか無いよ! なんで! 何で私がこんな事に……。誰か! 答えてよ! お願い、誰か助けてよ……。



 だけど、答えてくれる者は誰も居ない。



 康太を見た。


 ただそれだけだ。なのに今の自分が恥ずかしかった。着衣は少し汚れていたが、そんな事ではない。ただ、彼に今の自分を見られたくなかったのだ、今、この時だけは。ならばどうするか……。そう考えた時、彼女の中では死ぬと言う意識は既に消えていた。


 ――帰ろう、家に。


 立ち上がりざま、服が草に引っかかり、少し音を鳴らしてしまったけれど、気にせず其処から走って帰った。……家に着き、そのまま風呂場へ直行する。服は洗濯カゴに入れず、鞄に押し込んだ。2度とは着たくないから。


 湯温は熱めに設定して勢いよくシャワーを出し、頭から一気に浴びる。……何かがまだ、身体に纏わり付いている気がして、いつまでも身体を擦っていた。


 秘所に手をやると、少し痛む。途端、溢れてくる涙と湧き上がる激情と焦燥感。そして繰り返すように襲ってくる、絶望感と後悔の念。風呂場にはくぐもった嗚咽が、シャワーの音にかき消されていく。


 ――忘れよう。


 今日のことは夢だった。嫌な、とても嫌な悪夢として……。そして、また有紀や健二、康太と一緒にワイワイしよう! 学校に行けば、他にも友達は居る。皆と一緒にまた楽しくやればいい! そうしたらきっと、今日のことなんて……すぐに、わすれ……て――。


 キツく、キツく目を閉じ、歯を食いしばった。


 そうして何とか自分を抑え込み、2ヶ月ほど経って。生理が来ないことに恐怖がまた襲ってきた。


 流石に誰にも言えなかった。……最初の一月目はあんな事があったから、生理不順だと思っていた。


 怖くて怖くて堪らなかった。禄に眠ることも出来なくなって、またあの悪夢が蘇るかと思うと……。そんな時、ふとスマホを見て健二を呼んだ。





 ――先生に叱られて、諭され、健二と一緒に話を聴いた。……自覚を持ちなさいと言われた時、どれほど悔しかったか。好きな人と出来た事なら全く後悔なんてしなかった。……でも同時に、言えない自分に自己嫌悪した。意気地なしの小心者って。


 ……黙って帰る電車の中で、健二はそんな私に言ってくれたんだ。



「俺、佐知が好きだから。……その子のパパ、なりたいかも」


 堕ろす事しか考えてなかった私は、吃驚して色々健二に言ったと思う。それでも健二は、私の心と身体の心配を、私自身よりしてくれていた。


 ――こんなで、根性なしの私の事を。


「……健二、黙っててゴメンね。……ホントは私、怖かったんだ……。彼氏が居たんじゃなくて……レイプされ……て、デキちゃったなんて……言えなくて……」


 そう言って、彼女は泣き笑いの顔で健二を見た後、ゆっくり言う。


「……ありがとう。こんな私の事好きになってくれて……。でももう良いからね。オジさん、パパ、ママ! 健二の事、これ以上怒らないでください! 悪いのは私なんです! 私が一人であんなところへ行ってしまったから……」



 最後の最後に自分を悪者にして、彼女はそこで泣き崩れた。

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