1-3
――その日は突然やって来る。
前触れも予兆も見せず……。いや、唯見過ごしていただけなのかもしれないが。
変わらぬ日常……そんな物は初めから無かったのかもしれない……。
実力テストも終わり、数日。久しぶりに授業のことや勉強をすべて忘れて、スッキリとした気分で目を覚ます。朝の気温は少しひんやりと感じるほどに変わり、日差しが温かみを与えてくれて清々しいと感じられるほどになっている。ベッドの上で伸ばした背筋がコキリとなり、「ふぅ~」と小さくつぶやいてから、洗顔の為に部屋を出た。
ダイニングに入ると、母が朝食を作っている。妹の恵は面倒そうに皿を並べ、俺に目線で「……珈琲作れ」と一睨み。へいへいとジェスチャーで応えて、マシンの水を入れ替え、マグカップを準備しながら目線に入った壁掛時計を見てみると、午前七時を過ぎた所だった。
「……おはよう」
「……あら康太、珈琲淹れてくれるなんて珍しい」
俺の存在にいつまで経っても気づきそうにない母に挨拶をすると、そんな事はすべてスルーして、俺の行為に返事をしてくる。……母よ、俺の存在価値をもう少しは高く見て欲しいものです。
「お母さん、そんな事はもういいから、食べようよ。支度しないと遅刻しちゃう」
「はいはい。って、アンタはもう少し早く起きなさいよ。髪の毛伸ばしてるんだから、時間掛かることくらい分かっているでしょう」
――いやいやお二人さん。「そんな事」って。俺はそんな扱いなんですか? ちくしょう、何で俺ん家は女尊男卑がマストになってんだ! いや、親父はそこまで蔑まれてない。……って事はアレか?! カースト制が我が家にも有るということか! 一番が母で二位が恵……で、親父が来て、最後が……。
「ねぇ、また康太、一人でなにかブツブツ言ってるわよ」
「キモイから無視。お母さんもアレには関わらないで早く!」
聴こえてるんですけど! 目の前に居るんですが! ちくしょう……。
そんなアホな遣り取りをしながら、女性陣の珈琲を先に淹れ、自分のマグをセットした時、久しぶりに家の電話が鳴った。ふとテーブルを見ると、既に二人は席に着き、全く聞こえないふりをして朝食に神経を固定していた。「はぁ~」と溜め息を一つ零してから、テーブル横にあるカールコードの付いた、電話の受話器を持ち上げる。
「はい佐藤です。……あ、健二のおばさん、はい、え? 健二が何? ちょ、ちょっと……へ? ――な!? 今すぐ行きます!」
「……何? 康太、誰から?」
慌てて受話器を戻すと、その様子に驚いた母が何事かと聞いてきたが、その言葉に応える余裕は無かった。ただ頭の中では疑問符だけがグルグルと回る。全く意味が分からない。
――コウ君、健二が学校辞めるって言ってるの。
未だに母は何かを言い募り、その様子に恵も目を見張ってこちらを見ていたが、俺はそのまま部屋へ戻り、服を着替えて何も言わずに、家を飛び出した。
健二の家は、俺の家から歩いて五分も掛からず着く。チャイムを鳴らす間も惜しい、幸い玄関に鍵は掛かっていなかった。
「佐藤です! 康太です! お邪魔します!」
ドアを開けて大きく騒ぎながら靴を脱ぎ、そのままズンズン廊下を進む。リビングのドアを開けると、ソファに座った健二の両親と、その対面に正座する健二が居た。
「……朝から済まないな康太君、あまりに急だったんで、お母さんが慌ててしまってな。健二から何か聞いていたか?」
部屋に突入した俺を責めず、おじさんはそう言って俺に聞いてくるが、俺もおばさんの話で知ったばかり。頭を振りながら健二の前まで進んで行き、詰問する。全く意味がわからない、何で? どうして、急にそんな事を言っているんだ? コイツは勉強は嫌いだったが、学校は好きだった。友人だって結構居たし、そもそもコイツは進学組だ、辞める理由が見当たらない。
「健二! 何でだよ?! 急すぎるだろ? 何でガッコやめんだよ? 理由は何なんだよ!」
「急でゴメンね康太。でも――」
ちょうど、健二が言いかけた時だった。玄関を乱暴に開け、ドタドタと誰かが俺と同じように、リビングへと駆け込んでくる。
「健二!!!」
――え? 有紀?! なんで?
振り返って見てみれば、血相を変えた有紀が喚くように扉から入ってくる。余りに突然だったので呆気にとられて見ていると、皆がいる前でも構わずに、彼女は健二に掴みかかり、そのまま襟首を締め上げた。
「健二!! どうゆう事よ! 何でよ!! なんで!?」
「……ゆ、ゆきちゃ……まって、まっ――」
「有紀! 落ち着け! それじゃ健二が話せない!」
激昂した有紀を初めて見た、健二の両親は驚いて固まってしまう。俺は慌てて首を締め付ける有紀を、健二から引き剥がす。
「いやぁ! 康太ぁ! 放して!! 健二ぃ! 佐知は! さちはぁ……」
そこまで大きな声で喚き、バタバタと暴れていたかと思うと、脱力してへたり込み今度は大きな声で泣き始める。
「うわああぁぁぁ。さじぃ……。グズぅ。いぎだぃだいがぐあっだのにぃい……」
……佐知? ん? 何で此処で佐知なんだ? 有紀の声に違和感を感じた時、有紀から開放された健二は改めて、俺達の前に正座する。
「康太、有紀ちゃん。オヤジ、お母さん。――ゴメンナサイ。俺、サッちゃんを妊娠させました。責任取りたいんで、学校辞めて働きます」
そう言いながら、健二はそのまま頭を下げて土下座した。
――は? 何言ってんだコイツ。
いや、佐知のことが好きだってのは分かっていたよ。でも無理じゃね? 妊娠させた? いやいやいや。その前にお前、いつ告ったんだよ。してねぇじゃん……。俺、そんな事、一言も聞いてな――。
「何言ってんだよ、お前妊娠って。付き合ってもないのに――」
「さじがぁ……こども、でぎたって。ヒグッ……産みたいから、で、けんじと……つぎあうっで、いっできだ……あぁぁぁうう」
……目の前がチカチカした。は? なにそれ? 俺、な~んにも聞いてないぜ。ずっと、ずっと一緒だったのに。今もこれからも、ずっと一緒に幼馴染で……。
――ボカァ!!
「ぐっう!」
突然、何かを殴る音とくぐもる声。出させたのは健二の親父さん。蹲っていたのは健二。
「けんじぃ!! テメェ! 今自分が幾つか、判ってんのかぁ!」
普段、優しくいつも笑顔なおじさんが、鬼の形相で健二を掴み上げていた。
「お、おとうさん……」
「サッちゃんを……有紀ちゃんを、泣かせやがって! 康太君を、裏切る様なマネまでしたってのか! あぁ!?」
その様子を俺達とおばさんは、ただ立ち尽くして見ているだけしか出来なかった。
おじさんはそう言いながら、益々怒りがこみ上げたのか、起き上がった健二を掴むと、そのままもう一度頬を思い切り殴り飛ばす。その衝撃で健二はソファへと飛ばされ、転がってしまう。流石にこれ以上は不味いと感じ、俺はおばさんを伴ってまだ殴り足りないのか、肩を怒らせ健二に向かって歩くおじさんに、しがみついて必死に止める。
「おじさん! 落ち着いて! これ以上はヤバいです!」
「お父さん! 待って!」
なんとか羽交い締めの様にしておじさんを引き剥がし、言葉を聞いてくれたおじさんは、その場にへたり込む。目をきつく閉じて、拳を床に何度も叩きつけた後、ふと気がついたように何かを話し始める。
「申し訳ない……申し訳ない。――謝りに、とにかく謝りに行かないと……」
小さくそう呟くと、オジさんは健二を無理やり立たせ、引きずりながら出ていった。あまりの剣幕にただ呆然としていた俺達に、傍に居たおばさんは振り返って、優しく話しかけてきた。
「こうくん、ゴメンね。……有紀ちゃんも。後はなんとかするから、鍵、いつもの処に有るから。冷蔵庫にお茶とかジュース入ってるから」
おばさんはそう言って、二人の後を追って出ていってしまった。
――何も聞けなかった。何がどうなったのか、何でこうなってしまったのか……。
あまりに急激な変化に全く頭が働かない。健二が佐知を? なぜ? どうして? 有紀はいつ知ったんだ? 聞きたいけど聞けない……。なんで……なんで。どうして? どうして……。おかしい、絶対おかしい! こんな事、こんな……。
頭が少し動き始め、何かがおかしいと感じ始めた時、幾分涙が収まりかけた有紀が、聞いてくる。
「ねぇ……ねえ康太ぁ、どうしよう。なんで、何でこんな事に」
「わかんねぇよ。ただ、絶対なにかおかしい。健二は……いや、二人は俺達に黙って、こんな事になったりしない」
「……でも――」
「絶対だ!」
言い募る有紀に思わず、叫ぶように答える。
「アイツは、健二は何かあれば、真っ先に俺に話してくれてた。それが自慢であろうと、失敗であろうとな」
「だけど、今回のことは佐知がいるから、それで黙ってたんじゃない?」
すぐに有紀がそう言って反論してくる。
……そう、佐知。なんで、いきなり付き合う事になったんだ? まずそれがイミフなんだよ。告ったなら健二は俺に言うはずだし、佐知も有紀に話すはず。それが何もかもをすっ飛ばしてイキナリ妊娠って……。何かおかしい。今はまだ解らないけど。
出て来ない答えを探して、二人、家主のいなくなった家のリビングでぼうっとしていると、ポケットに突っ込んでいたスマホが鳴動する。突然のバイブに少しビクッとなってしまうが、着信画面を見て、慌ててタップする。
「もしもし、母さん。……実は今――」
『川田さんから電話がきたよ。……健二くんのお母さんからも聞いてる。……有紀ちゃんも其処にいるんでしょ。一緒に戻ってきなさい』
――そうか。佐知ん家から連絡行ったのか。……じゃあ、聞いたんだ。
「はい。判った」
「……有紀、お母さんが帰って来いって。佐知ん家から、連絡あったって」
「――っ!」
「……とにかく戻ろう」
洗面所で顔を洗う有紀を待ち、玄関の鍵を閉めて、ノロノロと泥を引き摺るような足取りで短い帰路についた。
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