3-3



「──ふぅ、終わったぁ」


 プールの一件から日が過ぎ、動揺していた気分も落ち着きを取り戻し、心配していた体の不調も出なかった有紀は、自宅の家事に追われる日々を送っていた。


 彼女の家には父親が居ない。小学生の頃に病死しているからだ。彼女は彼女の母と二人で佐藤家の隣に越してきた。彼女の父と康太の父が友人だった事もあり、そういった縁で家族ぐるみの付き合いをしているが、彼女もいい加減成長し、自宅のことは自分で出来ると熟している。母に心労をかけたくないという気持ちもあったろう。だが、彼女自身はその性格もあって、人に頼るのを良しとしない気持ちのほうが大きかった。


 そんな彼女の性格を反映しているのか、自室は女子のそれとは程遠い。勉強机は小学校入学時に両親が買ってくれた物を今も調整して使っているし、ベッドも簡素なタイプが置かれている。クローゼットには幾つか服が詰められてはいるが、今時のブランド系のものは一切ない。後はカラーボックスが幾つか置かれ、そこには様々な医療関係の本がきちんと並んで居た。



 ……ブブブ…ブブブ……。


 全ての家事と風呂を終え、やっと眠れると思ってベッドに入った時、時間にして夜中になろうかと言う頃、机の上に置いたスマホがマナーモードで振動する。


 ──なに、こんな時間に誰?


 倒れ込んだベッドから身を起こし、机に置いたスマホを見ると、通知のポップに佐知の名前が浮かぶ。直後、振動が何度も続き、その度に彼女から一行単位で通知が鳴り続ける。


「なになに!? どうしたのよ佐知」


 慌ててスマホをタップし、ラインのトークを開くと彼女からのメッセージが並んでいく。 



「今の関係壊れるの怖い?」


「今と変わること怖い?」


「でもさ、今のままだと苦しくない?」


「想いばっか募らせるのはさ。」


「アタシはイツでも有紀の味方(^o^)」


「頑張れ!」


「応援してるから!」


「フレフレ! 有紀!」


「頑張れ頑張れ! 有紀!」



 それは彼女からの想いの籠もったエール。ずっと昔から背中を押し続けてくれる「オネエチャン」の励ましメッセージだった。


 怖い……か。確かに今のこの距離感や空気が変わってしまうのは怖いな。変わるなんて考えたことないよ。七年……もう七年だよ。皆と出会って仲良くなって。確かに今のままじゃ何も変わらない、それが嫌だって気持ちも自分では判っているけど……。はぁ~。そんな事を言ってズルズル来たのも確かなんだよねぇ……。



 スマホを握り、そんな煮え切らない自分にもどかしさを感じながら、スマホに返信をタップしていく。


「そうなんだよね、判ってはいるんだけどさ」

                    

「まだ、ちょっと考える時間、欲しいかな。ありがと、ゴメンね佐知」



 数分の後「りょうかい!」の返信が来た。






 その日、朝から教室はざわついていた。ざわつく原因を作ったのは、何時も遅刻ギリギリで登校して来る一人の生徒のせいだ。彼は今日も相変わらずギリギリの時間に登校し、職員室の前を走り抜けて、階段を駆け上がって来た。だが、彼は見てしまったのだ、職員室の窓越しに、自分のクラス担任が一人の見たこともない女生徒を連れているのを。


「今日転校生が来るって!」


 彼は、教室に飛び込むなりそう叫んだ。

 お陰で朝から教室全体がソワソワしてしまっている。


 ……ガラガラ。


 そんな少しの期待でざわついた教室に、担任の小川先生がいつもの半分眠ったような目で入って来る。ヨレたシャツを隠すように緑色のベストを着込み、グレーのパンツは少しポケットの部分が擦れてしまっている。今朝は髭を剃るのが失敗したのか、顎の変な位置に絆創膏が張って有り、辛うじて撫で付けた髪は後ろの部分が跳ねていた。


「おはよぉ~~っす」

「きり~~つ」


 先生のボヤキに近い挨拶は華麗に日直にスルーされ、床をガタガタ軋ませながら、生徒たちは立ち上がる。


「「「おはようございます」」」

「……はぃ、おはよう」

「ちゃくせーき」


 なぜ二度も挨拶をと思ったが、まぁ深く考えるのはやめようと、寝ぼけ眼を少し瞬かせ、気を取り直す。その際、癖でいつものように後頭部を掻いてしまい、せっかく撫で付けた髪は、哀しいかな大きく広がってその跳ねを目立たせてしまっていた。生徒たちはそんな担任を「また寝ぼけてる」程度で済ませられる程、信頼関係が築けていたお陰で、馬鹿にされたり揶揄される事は無かったが、「結婚しろよ」と思う女子生徒は何人かいた。


「──えぇと。あ、朝の会の前に一つ。今日はこのクラスに転入生が居ます。……さ、入って」


 彼はそう言いながら、自分の入って来たドアに近づき、声を掛ける。それを聞いた生徒たちは俄に、雰囲気が変わる。



 数瞬の後、開いた扉から、俯き加減に彼女は黙って入ってきた。おっかなびっくりな感じで周りを少し気にしながら、教師の横にぽつんと佇む。そして水を打ったように静まり返る教室内。


「えぇと、自己紹介出来るかな?」


 教師は彼女のつむじの辺りを見るように、問いかけた。


「──い、今村、有紀です」


 か細くそれだけ言うと、彼女は黙って下を向いた。


 途端、静かにざわつきはじめる教室内。


「い、いまむら?」

「女子だ、声ちっさ」

 

 次第に声が大きく、ざわめきになりだした所で、小川先生は爆弾と燃料を落とす。


「え~~と。あ、居た。康太! 家がお隣だったよな。席も隣でいいよな」


 彼が結婚できないのは、間違いなくこう言うデリカシーと、空気の読めなさだと痛感する。そんな事を小学四年生の児童たちに言えばどうなるか。少しはその爆発した頭で考えて欲しい。案の定、教室内は別の意味で大爆発、皆は一斉に騒いで教室内はカオスになる。


 因みにこの教室には「佐藤」と言う姓は一人なのだが、何故かこの担任は彼を名前で呼んだ。彼いわく「他の生徒とごっちゃになるから」とは言っているが、恐らく彼は担任のお気に入りなのだろうと後から気付いた。それは、何人かの生徒が先生に名前呼びされていたからだ。



 ──今村有希。

 隣に引っ越してきたお隣さんだ。父の友人関係と聞いていた。彼女のお父さんは病気で入院していて会っては居ないが。おばさんは、優しい感じの人だった。そう、唯のお隣さんだ。彼女の家はおばさんと二人なので、おばさんが働いている。その為、俺ん家で一緒に飯を食ったり、風呂に入ったりもしては居たが、勿論風呂は別々だ。妹と彼女で入っていた。


 だが! そんな事、今のこの状況で言った所で……余計に話がこんがらがるだけだ。だからもう知らん!


「ヒュー! やるじゃん! 康太! 川田の次は今村さんかよ!」

「おを! いきなり、教師公認ですか!」

「うをおっ!」

「いきなり夫婦席だ」 

「サッちゃんどうするの?!」


 担任はここに来て「あちゃぁ、うるさいなぁ」程度に頭を掻いているが、未だ目は半分寝ているようで、開ききっていない。


「ご、ごめんね」

「関係ないし、ほっとけ。あと、一々気にするな」


 真っ赤になって俯く彼女にそう言ってから、彼女と反対側を向く。……気にしたら負けだ! 顔が少し火照っているような気がしたが。


「ありがと」


 彼女の小声はカオスになった教室にすぐ溶けていった。



「ちょっと康太、何で黙ってたの?!」

 

 次の休み時間、当然のように俺達の席に近づいてきた佐知は、ぶっきら棒に俺に言ってから、有紀を見る。


「今村さんだっけ? 私、川田佐知。コイツの近所の新聞店。お母さん同士が友達なの。ヨロシクね」

「え、あ……うん。よろしく」

「それでさ──」


 佐知が有紀に話を続けようとした時、教室に飛び込んできた奴が居た。


「こうちゃん!! け、結婚てなに!? どういう事!?」


 どうやら「俺が結婚した。席も隣同士で教師公認だ」と言い回っている奴が居るらしい。その言葉を健二は真に受けて、慌てて隣の教室からやって来た。近付いて初めて、俺の隣の席に座っている存在に気が付いた。


「あ! 康太のお隣さんの、今村さん?」


 そこで、ぽかんとする健二、近づく影。そして振り上げられた拳は健二の頭へ吸い込まれていく。


「いてっ!」

「け~ん~じ~」

「え? なに? あ、サッちゃん?」

「あんたも知ってたの? ……何で教えてくんないのよ!」

「え? なにを? い! 痛い! ちょっと! 痛いよサッちゃん!」


 あぁ。そう言えば健二は、ちょくちょく俺ん家に遊びに来ていたから、彼女の事は知ってたんだよな、と思いながら、引きずられていく健二に合掌しておいた。




 結局、佐知からのメッセージでふと昔の事を思い出し、目が冴えてしまった。あれから、もう七年。初めて勢揃いした時の事を、ぼーっと部屋の窓から外を眺めていた。


(ふふ、あの後、健二半べそになってたっけ)

(佐知はずっとお姉さんぽいよなぁ)


 窓を開け、まだまだ暖かい風に髪を遊ばれていると、向かいのちょうど康太の部屋の窓に、彼の影が見えた。



 

 ──ん? 窓になにか当たった? 


 ぼちぼち寝ようかと思い、部屋の中を移動していると、そんな物音に気づきカーテンを引いて窓を開けると、少し離れた隣家の窓から有紀がこちらを見ていた。


「まだ起きてたんだ? 明日からガッコなのに大丈夫?」

「なんだよ。用が有るならLINEすりゃいいだろ、何当てたんだよ」

「消しゴム」

「……まぁ、いいけど。昔、石投げやがった前科あるんだからな。気をつけろよ」


 そう、昔、何かの漫画を真似たらしく、コイツは石を投げてきた。おかげで、ガラスは割れる、びっくりして本人は泣く。俺はドチャクソ叱られた。全く意味がわからん! 超理不尽だと中二病になって暗黒面が出てきそうになった。まぁ、もちろん、即封印したので事なきは得たが。


「そんな過去は忘れたし。メンドイ」


 コイツ、消しゴム刻むほうがメンドイだろ! はぁ、もう良いや、寝よ。さっきのコメントで画面とニラメッコしすぎて疲れた。


「用がないなら、寝るよ」

「あ!……ね!」

「なに?」

「──おやすみ」


(なんなんだ?)

「あぁ。おやすみ」



 そう言って閉じられた窓を見ながら、私は小さい声でもう一度呟いた。


「おやすみなさい」


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