予感

2-1 



 暗くなった公園の出口へ向かって自転車を押していると、側にあった植え込みに、ふと人の気配を感じる。何だと思って覗いてみたが、当然誰も居る訳はなく。風もないのにがさりと遠くの葉が揺れた。


 住宅街に有る小さな児童公園。立木はまばらで、植え込みは精々が腰高あたりまでしか無い。それらが公園の周りをぐるりと囲み、遊具と言っても中央に大きな複合型のコンクリート製のすべり台のような物が鎮座している程度。隅の方には砂場と小さな屋根付きのテーブルとベンチが備わっており、ちょっとした休憩が出来るようになっているくらいだ。俺が座っていたのはそことは違うベンチだが、街灯がいくつか設置されていて、その場所だけはボンヤリと明るくなっている。


「……はは。なに考えてんだよ俺。そんなこと有るわけ無いじゃん」


 何がと敢えて言う事はしない。ただ、そう考えた途端、首の辺りに何故だか温い風が纏わり付いた。



***+***+***+***+***



 公園を出てすぐに自転車に飛び乗り、暗い夜道を小さなライト一つを頼りに全速力を出した。そうして気がついた時には既に自宅前だった。目の前に家の明かりが見えた瞬間、安堵からか、バイトの疲れが戻ったのか、玄関の扉を開く頃には何故だか疲労困憊していた。


 玄関横に有るカーポートに自転車を無造作に停め、その重くなった足を引き摺るように玄関先の低い階段を二段上る。ポーチライトに照らされた、玄関のドアを引いて開けると、やっと我が家の中に入った気がする。


「……ただいまぁ」


 誰にともなく声をかけ、靴を脱いで足を上げたところでダイニングのドアが開き、メンドクサイ奴の声が聞こえた。


「を? 誰かと思えば勤労者ではないですか、ご苦労ご苦労。──てかシャワー浴びてきたら。くさいし、若干薄汚れ? てるよ。におうし」



 ──佐藤 恵(さとう めぐみ) 十四歳 県立中学二年生。母さんに似て、口では全く勝てそうにない、我が実妹。



「……無理、疲れすぎ。もう寝たい」


「は?! まじ何言ってんの? それでなくとも隣の部屋で嫌なのに、そのままの体臭で寝るとか正気の沙汰? ねぇ、馬鹿なの。てか死ぬ? なら、せめて今すぐ振り向いて、そのドアから飛び出して誰かの車に轢かれて別世界にでも転生して死ね! そして保険金を残せ!」


(うぐぐぐ。そこまで、そこまで言うか妹よ! お兄ちゃんは! お兄ちゃんは……う、確かに汗臭い)

「母さんにご飯は要らないって言っといて。シャワーだけしたら寝る」

「──へ? あぁ、うんわかった。(あれ? 言い返さないんだ。なに、マジで疲れてるみたい)ね、ねぇ大丈夫なの?」


 彼女の最後の言葉を聞く前に、俺は黙って風呂場へ足を向けていた。まさか妹が今時レアなツンデレとは、全く気づかなかった。



***+***+***+***+***



 あの日から六日間。いつもように朝起きて、素早く支度をして自転車に乗り、いつもの仕事。流石にあの日の翌日は気不味いかとも思ったが、何事もなかった様子のいつもの親方が笑って普通に迎えに来た。そうして怒涛のように働いてあっという間に最終日はやって来た。


「いやぁ、ご苦労さん! 今日は早仕舞いにして、ガッツリ焼肉食いに行こうぜ」

「あ、はい。」


 夕方になり、最後の現場が終わった所で親方がそんな事を言ってきた。──そっか、考えてみたら今日でバイト最後だもんなぁ。今思えば、二十日なんてあっという間だった。期間バイトなんて最初は楽勝! とか思ってたのに、死ぬかと思った日もあったけど。人ってすぐに慣れるものなんだな。そう考えると慣れって怖いな。




「久しぶりにこんな時間に晩飯食うなぁ」


 親方は笑いながら、ビールを流し込む。


「くあぁ! やっぱこの為だなぁ。汗流して働くってのはさぁ」

「いや、俺、未成年ですよ」

「うははは。そうか、まだまだこれからだね! 頑張れ未成年!」


 何を言ってんだこの人は。とは言うまい。機嫌がいいのも俺の為だろう。


「はいはい、頑張ります。帰ったらシャワー浴びて泥のように眠り、気づいたら朝で慌てて仕事! の繰り返しばっかでしたけどね」

「おお! 言うねぇ。でもバックレなかったのは褒めてやるよ」

「最初の頃は、何度か思いましたけどね。慣れって怖いですね」

「ははは。……そういえばアイツは? 二日目で消えたなんとか君」

「健二ですか? 会ってはないですね、まだ。ラインではひたすら謝ってましたけど」


 そう。アイツはあの日から毎日飽きもせず、ひたすらゴメンねラインを一日一回は送ってくる。いい加減うざかったから、もういいって送ったら、涙声で電話してきた。まぁ、そんな憎みにくい幼馴染の一人だ。



「あははは。そうか。──はい、二十日間ご苦労さまでした」


 そう言うと親方は、鞄から茶封筒を二つ取り出して俺に手渡す。封筒には「給与」の二文字。一つは結構厚みがある。もう一つは……。


「あ、はい、ありがとうございます。……二つ?」

「うん。彼の分ね。一日でもちゃんと働いてくれたんだから。そこはきちんとしないとね。ただ彼、俺には会いづらいと思うからさ、康太が渡してやって」


 そう言われるとやっぱりキチンと社会人なんだなと思った。分別ってものはちゃんと出来るだけで凄く尊敬できる。


「ガメるなよ。うははは!」


 前言撤回してやる! この酔っぱらい! それからはあそこの現場はどうだったの、あの仕事は良かっただのと、ありきたりの会話が進んだ頃、ふと親方は真顔で俺に話し始めた。


「……なぁ康太。実はな──」



***+***+***+***+***




 何かが遠くで鳴っている。……なんだ? やがてその音は段々と大きくなっていき、耳の近くで鳴っていると気付く。アラーム音! 思いがそこに至った瞬間、意識が覚醒し、飛び跳ねるように上体を起こす。


(不味い! 寝過ごした!!)


 まだ完全とは行かない状態のまま、傍らにあるスマホのアラームを解除しようと思い、その音がアラームとは違うことに気が付いた。


「ん? ライン? ──あ! てか、昨日でバイト終わったじゃん」


 何故か徒労感を感じながら、届いたメッセージを開いた。




 メッセージを読んでから、幾分ボーッとした状態で部屋の遮光カーテンを開いた。途端、覚めかけていた目に眩い陽射しが差し込み、思わずきつく目を閉じるが、窓には既に夏の温度が伝わっていたのだろう。じっとりと湿った熱気が、エアコンで快適にした部屋へ侵入しようと試みてきた。すかさず、開いたカーテンを戻し、部屋は暗闇に戻ったが、刹那の攻防で覚醒してしまった俺は、少しだけ隙間を作るようにカーテンを開け、自室のドアを開けて洗顔に向かった。


 ドアの向こうは既にムッとするような暑さを感じさせる。流石に全室を冷やすほどの、経済的余裕があるような家庭環境ではない。そこは諦めて階下に降りて洗面所で顔を洗っていると、俺の気配に気づいた母が、朝食を作りながら声を掛けてきた。


「あら、今日はゆっくりなのね。そんなのでバイト間に合うの?」


 ──佐藤 静香(さとうしずか)??歳 年齢には触れない。決して絶対不可侵だ。普段はあっけらかんとして、のほほんな性格だが、時と場合によっては、どんな相手でも一切怯まず突き進む。まぁ、俺の親父の奥さんを出来る人だから、その性格もさもありなん。


「あぁ、バイトは昨日までだよ。言わなかった?」

「ふ~ん。そうだった? まぁ良いわ。もうご飯出来るからね」

「へ~い」


 流石、我が母上。どうでもいいなら聞くなよと心の中で突っ込んでから、顔を拭いたタオルを戻していると、どう寝たらそんな風に髪が立つんだと思う寝癖を付けた妹が、階段をゆっくり気だるそうに降りてきていた。


「……おはよう、恵」

「──っ! なんでまだ居るの?!」

「何でって。バイトなら昨日までだよ」

「……そうだっけ? まぁ良いや。おはよう」


 あの母にしてこの娘……だな。ってか、その寝癖マジどうなってんだ? そう思って彼女の頭を見ていたら、突然サッと身構えて急に大きな声で母を呼ぶ。


「お母さん! 康太が妹を見て興奮してる! 警察呼んで! 視姦されてますぅ!」

「……はぁ!? おま、ちょっ、何言ってんだよ! 見てねえっつうの! 寝癖を見ただけだよ! どうなってんだよそれ! 重力仕事してねぇぞ!」


「はぁ?! って……え、なにこれ!? 見るな! 変態!」

「はいはい、朝っぱらから騒がないの……あら恵、その頭どうなってるの?」

「嫌ぁぁぁ! 見ないでぇ! 康太のバカぁ! 康太はしねぇ!」



 ──妹よ、そう何度も何度も簡単に兄を殺さないでくれ。


 朝から切なくなってしまった。


 

 





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