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 新たに設置された最新型のエアコンは、その静謐せいひつな部屋にマッチして、吹き出す風も外の室外機も、静かな運転音で自身の能力をこれでもかと発揮している。一昔前とは違い、大きく張り出したその室内機は、まるでロボットのような動きを見せ、上部はせり出し、フラップは大きく下がって、その冷風を部屋全体に行き渡らせようと複雑な動きを見せつけている。そんな静かな部屋に対するように、外ではまるで喧騒のように、階下に見える街路樹からはやはり、じーわじーわと耳障りな音が響いていた。


 そんな喧騒をよそに、俺は試運転中の涼しい風に、のぼせかけた頭を冷やすように、吹出口のそばで出された麦茶を飲む。俺のそんな傍若無人を全く気にする事もなく、親方と橘さんはずっと『会話』を続けていた。



『それにしても、まさか手話の出来る方が来てくださるとは思っていませんでした』

『たまたまです。私の母も聾唖者なので』

『そうだったんですか。ごめんなさい』

『いえいえ、気にしないでください。苦労はわかりますので』


 親方は、俺が手話が解らないことを知ってか、同時に話し言葉も使って同時通訳してくれる。──何故そんな事をしてくれるのか、少し疑問には思ったけれど。それでも話は続いていた。


『うちの母親は先天性でしてね。俺が生まれた時、かなり気にしてたんですが、俺が問題ないと判った時、泣いたそうです。でも大変なのはそこからでした。もちろん父親は仕事でいない。一応、ボランティアさんや、地域のママさんなんかが手伝ってはくれてたんですが、俺自身が母親とコミュニケーションが取れない。何せ俺が泣いても母には聞こえませんでしたから、小さい時はかなり苦労したそうです』


『手話はそんなだったから、当たり前に身につきました。反抗期が来てうるせえっ! てのも手話で』


 そこで橘さんが、声に出さずに笑う。……まるで、ぱっと華が咲くように。目を細め、桜色をした小さな口から、真っ白で綺麗に揃った歯が少し見えた。


『そうだったんですね。私は母とそんなふうにはあまりならなかったんで、楽しそうです。──私のは、後天性なんです』


 そこまで言って、彼女の手が止まる。が、すぐに微笑むような顔でまた、その手が動き始めた。


『まだ小学生低学年の頃でした。ある時突然耳鳴りが始まって、頭痛と高熱が続いて。慌てて病院に行ったんですが、初めは分からず。それで国立の大きな病院で調べて貰ってやっと判ったんです。【変性型感音性難聴】と診断されました。……それも進行型の』


 そこでまた彼女の手が止まる。何かを伝えたみたいだが、親方は既に同時通訳をしなくなっていたので、俺には何もわからない。……ただ、そこで親方の態度が俄に変わったのだけは見て取れた。突然、身振りが激しい手話に変わったからだ。


『それでか!!』


 急に態度が変わって、大振りな手話に変わった為か、橘さんはキョトンとなってしまう。一体親方は何を言ってるんだ? 部屋の方を指さして何やら興奮気味になっているが。


『プレーヤー! 音楽プレーヤーです。失礼ですが、お部屋にあるのを見ていたもので』

『──! あぁ、そうだったんですね』

『そうすると聞こえる音が、まだあるって事なんですよね』



 ──親方ぁ、通訳忘れてるっすよぉ。俺の心の叫びは通じず、その後もいくつか『会話』は続いたが、親方は俺の存在を忘れてしまったらしく、それ以降何を話していたかは分からず仕舞いだった。



 『──お詳しいんですね……』



 その時、彼女が何と言ったのかは勿論分からない。唯、最後の彼女の表情だけは俺のどこか奥に猛烈な違和感として残ってしまった。……なんで寂しそうな顔をするんだ?




***+***+***+***+***




 時刻は既に夜六時半を回っていた。だが、もう季節は夏の盛り。この時期になると太陽はまだ沈みきってくれない。夕暮れ時とも言えず、明るさを残した喧騒の中、今日の仕事を終え、トラックが俺の住む最寄り駅のロータリーで停車する。


「今日も一日ご苦労さま」


 ロータリーに車を停めた親方はそう言いながら、俺が降車するだろうと何時もの様に挨拶をしてくるが、返事がないのに気付いてこちらを向いた。


「ん? どした? なにか忘れ物でもしたのか」

「……いえ、何でもないです」

「んだよ、歯切れの悪い。──てかあれか。一人反省会でもしてんのか?」



 彼女の現場を終えてから、三件仕事は続いたのだが。先ず次の現場では取り付ける商品を間違えて運び。片付けをしながらゴミを間違えて道具箱にぶちまけ。……最後のお客様の所では、商品を運んでいる最中に台車から落としかけてしまうと言う、惨憺さんたんたるミスの連続だった。バイト初日にすらした事も無い、凡ミスの連続。


 ──実のところ、原因はわかってる、でも言えない。言える訳がなかった。……彼女が寂しそうな笑顔してた事が気になっていたなんて。そう思い、ちゃんと謝ってから降りようとした時。ボソリと親方が呟くように話しかけてくる。


「橘さんの事か」


 その名前が出た瞬間に、息が詰まった。同時に鼓動が跳ね、無意識に顔を逸してしまう。


「……やっぱりか。まぁ、確かに綺麗なお嬢さんだったもんなぁ。いやぁ、若いねぇ。てか康太君わかり易すぎぃ」

 

 そう言いながら、ニヤニヤと下衆い顔で茶化してくる親方。その顔を見た瞬間、何故かムキになって言い返してしまう。


「──ち、違いますよ! そう言うんじゃなくて、ただ俺は!」

「はっきり言う。止めておけ。まだ康太は若いんだ。もっと沢山いろんな出会い、経験しろって」

「……そんなものじゃ……ないっすよ」


 その時、親方は笑っていなかった。──ただ、まっすぐフロントガラスを睨んでいた。ガラスに写った自分に言っているのか、それとも……。それを見た瞬間、言い返す言葉は見つからなくなってしまい、「お疲れ様でした」と一言絞り出して、車を降りた。





 駅前には月極の駐輪場が併設されている。俺の通う高校はこの駅から数えて二駅ほど先にある。だからという訳でもないが、昔からこの駐輪場と契約している。そこに自分の自転車を停めている。中学生の頃、一時期どうしてもマウンテンバイクが欲しくなり、家の手伝いと、誕生日プレゼントに併せて買ってもらった結構な高級車は、この駐輪場できちんと施錠までしていたにも関わらず、友人と映画を見に行った帰りには、影も形もなくなっていた。当時はかなりヘコんで、すぐ交番に駆け込んだが、終ぞ発見するには至らなかったと言う苦い経験が有る。それ以来、俺はシティサイクルにしか乗らない事を固く心に決めている。まぁ、それでも未練は断ち切れず、所謂一文字バータイプの、スポーティタイプには乗っているが。


 そんな思い入れのある駐輪場で、自分の自転車を引き取り、家路に向かおうとペダルに乗せた足に力を入れて漕ぎ始めたが、なぜかまっすぐ家に戻る気になれず、近所の公園のベンチに腰掛けていた。日は長くなってはいるが、そこに座って時間は結構経ったのだろう。気付けばベンチ横の外灯が申し訳無さ気な明かりを灯した頃、大きくため息を吐く。


(……そりゃ確かに橘さんすっげぇ綺麗だった。モデルかアイドル! て感じだったよ。顔なんて俺の握りこぶしくらい? な感じでちっちゃいし。なのに足なげぇし。髪なんてサラッサラで天使の輪っかあったしな。──でもさ、そんなんじゃないんだよ。一目惚れとかじゃなくて)


 ──なんであの時、寂しそうに笑ったんだろう? それまでと全然違ったんだよ。


 今日初めて会った人だよ。そういう笑顔をする人なのかもしれない。でも違う! 確信できた。それまでは普通の可愛い笑顔だった。……親方が最後の方で態度が変わってからだ。一体何を聞いたんだ? 結局あの後、親方は何を聞いたのか俺には教えてくれなかった。彼女がなんて答えたのかも。



 ──突然、音がなくなる。



 あの時感じたゾッとする悪寒が、何故かより真実味を帯びて襲ってきた。──それを彼女は経験したんだ。そしてこれからも、失ったままなんだ。いや違うのか? 彼女は元々聞こえないのか? ──じゃぁ、あのプレーヤーは一体……。



(なんで! なんでこんなになってんだ俺? 今日初めて会っただけの唯のお客さんじゃねぇか。俺に何が出来るわけ無いじゃん)


「良し! 帰ろう!」


 確認するように、鼓舞するように言って、俺は立ち上がる。





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