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 途端、自分の顔が更に赤くなっていくのを自覚する。同時に跳ねた鼓動が耳にまで響き、慌てて荷物を持とうと、既に持っている荷物を一度置いてしまう。それに気付いて更に羞恥心が芽生え、既に耳まで真っ赤になっている。俯いて垂れた髪の空き間から彼女を見上げると、キョトンとした表情で、こちらを見つめているのが分かり、自分の社会でのカーストの低さを自覚し、遂には挙動が不審になりかける。


 やっべ~~! まじやっべ。心臓どっか行ったって。恥っず! 恥っず~~!! 俺も「ういす」とかなんだよ! てか親方見てただろ! あ! クスクスされた?! あ~~! アレだ、うん、死のう。……死んで何もかもを捨てて忘れてしまおう!


「ほら、こっち持ってきて。養生から始めるぞ!!」


 人生の分水嶺で今、正に大きな決断をした瞬間に、この筋肉親父は全てをぶち壊しながら、現実を叩きつけてくる。……まぁ、確かに俺もよくよく考えてみれば、この程度の事で、生死を分かってどうするんだと一瞬で理解し、逆に落ち着けたのだが。若干やるせない気持ちだけが残ってしまい、返事がややぶっきらぼうになってしまう。


「あ~~い」


 そうしてブスくれながらも、荷物を持って部屋に入ろうとしたんだが、件の女性は俺の前に立ちはだかるように立ったままで、そこからピクリとも動かない。


「あ、あの。──えと、すいません。入ってもいいすか?」


 彼女は俺の言葉に全く無反応なまま、ただ無言の視線を俺に向けてくる。……え? なに? もしかして怒ったの? え、なんで? そんな風に思考がずれ、またもパニックに陥りかけた時、親方が気付いて、こちらに戻ってきてくれた。

 

「だから。その人は耳が聞こえないって言っただろ」


 彼はそう言いながら、女性の肩をトントンと優しく触れるように叩くと、ニコッと微笑み、手で何かを合図する。彼女はビクッとその場を慌てて飛び退き、会釈をしながらその場を早歩きで離れていった。


 ──あぁ、これって現実なんだ。


 俺は生まれて初めて『聞こえない』と言う言葉の意味を知り、心の中は得も言われぬ動揺が駆け巡っていた。




 玄関を入ると、向かいに一部屋。そこから右に短い廊下を歩くと、途中に洗面やトイレ、風呂場といった集約された水回りが有り、その先の扉を潜った先にはキッチンとリビング兼部屋の有る、一般的な造りの部屋割り。今回はそのリビング兼部屋に使われている場所に、エアコンを取り付ける事となった。ベランダに出る為のサッシ窓の上に養生毛布を広げ、周りにゴミなどが散乱しないよう注意しながら、極力広げた養生の上で作業は進んでいく。


 親方が黙々と作業している間、俺はと言うと、作業の進行に合わせて手元の作業手伝いをしたり、出たゴミなんかを整理したり……。指示待ち状態なわけで。作業を観ているふりをしながら、ゴミあさりと言う名のお部屋見学満喫中である。


 ──知らない人の部屋へ堂々と入る。それだけでも俺には初めての経験だ。これって何気に結構ドキドキするんだよなぁ。特に感じるのはやはり、部屋に入ったときの匂いと言うか香り。そこに置かれた家具や様々な物も、その香りだけで印象はガラリと変わってしまう。いい香りや好みのものだったら、そこに住む人がどんな人であろうと性別年齢、区別なく好印象になるし、逆もある。そんな馬鹿なことを考えながら、黙々と作業を続けていたが。


 ──ここに来て初めて違和感を覚えていた。


 部屋自体は清潔感のある綺麗な部屋。香りもなんだか花のようないい香りがするし、夏の日差しのせいも在ってか、白飛びしているような、コントラストが目に眩しい。だけど……。


 ……何故か、音だけがしなかった。


 いや、生活音はするし、親方の作業音も現在進行で聴こえている。そうではない。そうではなく、この空間に音を感じさせる物が見当たらないのだ。よくよく見ると、それは確信に変わっていく。部屋のある部分には小さなLED式回転灯が付いている。ライトの様な物が付いた、受話器がない電話? そもそもテレビがない。小さな文机の上にノートパソコンだけは置いてあった。


「あの電話はFAXだよ。聾唖者用のな。耳の不自由な人にとって、音は不要なんだ」


 そんな声が突然俺の後ろから聞こえ、驚いて振り返ると、俺がキョロキョロしていることに気づいた親方が、こちらを見ずに呟くように話しかけて来た。音が不要?


「……想像つかないだろ、音のない世界なんて」


 黙々と作業を続けながら、親方は独り言のように問いかけてくる。


 ──音のない世界。


 そんな事考えたこともないし、想像なんて勿論出来ない。俺は生まれ落ちた瞬間から、いろんな音を情報の一部として当たり前に聞いてきた筈だ。言葉なんて、その最たるものだ。父が。母が。色んな人が俺に話しかけてくれたお蔭で、俺自身も言葉を使えるようになっている。言葉の意味。それすら言葉が操れ、話す事が出来るから理解できる物。文字だって然り。唯一音楽はどうだろうと思考が脱線し始めた時、ふと、背中がぞわりと粟立った。──途轍もなく怖くなったのだ。今この瞬間に音が消えたら……。だからかもしれない、感じた恐怖を紛らわせたくて、意味なく視線を彷徨わせた時、それがはっきり視界に飛び込んできた。


「──! あれは?」


 ノートパソコンが置かれた小さな机の端にぽつんと。それは無造作に置かれて在った。俺の言葉に気になったのか、親方も釣られて視線の先を見つける。


「──彼女、まだ若いからなぁ。もしかしたら、何か音楽でも、かけてるのかもな」


 ノートパソコンの横に置かれていたそれは、ポータブルプレーヤー。彼女にとって聴こえない、不要な音を聴く為のモノ。果たして、それは意味のある行為なのか。行為以前に行動として意味があるのか? ……わからない。勿論そのことを彼女に聴くなんてことも出来ない。そう考えるとなんだか、モヤモヤした。モヤモヤして気持ちが変になりかける。すると、それを見ていたかの様に親方が声を掛けてきた。


「よし。ここ、片付けておいて」


 思考が変になりそうになったところで親方が作業の指示をくれた。

(考えても意味はない……よな)

「はい!」



 部屋の片付けと掃除も終わり、小さなモーター音を唸らせて、真新しいエアコンの涼しい風が、部屋を冷やして行く。


「よし。康太、こっちは俺がするから、荷物降ろしていってくれ。ドアの開閉忘れないようにな」

「はい」


 エアコンの吹出口に温度センサーを当てて、冷風の温度を測りながら、親方が次の指示を出してくれる。後はお客様への説明と、施工後の部屋確認か。頭の中で次工程を思いながら荷物をトラックへと積み込んでいく。ほぼ全ての荷物を積み込み、後は親方待ちだなと思った頃。部屋のドアから顔を覗かせた親方が声を掛けてきた。


「お~い、お客様がお茶用意してくれてるから、上がっておいで」


「失礼しまぁす」


 玄関で声掛けをして(あ、意味ないじゃん)等と思いながら奥へ進むと、二人は無言で立っていた。……なにしてんだ? お互いに向き合い、手を動かしている。彼女はそれを見ながら頷き、自身も手を動かす。


「……手話だ」


 思わず声に出ていた。──確かに見たことはあった。テレビで。でも間近で見るのは初めてだった。するとその声に気づいた親方が、手話を続けながら目で少し待てと言っていた。



「そこ。冷たい麦茶を用意してもらってるから」


 一通り「話し」が終わった親方は、そう言ってテーブルを指差した。彼女もその仕草で気づいたのだろう、こちらに向き直ると「どうぞ」と手を添えるように差し出して来た。




 橘 優莉 (たちばな ゆうり)



 お茶の置かれたテーブルには、工事伝票のファイルも置かれてあり、ページがはっきり見える。施工完了の確認書には、彼女の綺麗な自筆で名前が既に書かれていた。






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