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夏真っ盛りとは言え、午前中と言うのは本来涼しいもののはずだった。でもそれは恐らく、地面には土が見え、少し遠くを見れば鎮守の森や、田畑が望め、木造建築が多く立ち並んだ、所謂、ザ・田舎地域の場所で日陰に入った時の事を指すのだろう。現代の地方都市にそんな幻想は既に無い。あらゆる場所は開拓が進み、道路には全てアスファルトが敷かれている。鎮守の森に代わって、ランドマークになっているのは駅前に立ち並んだ大型商業施設や役所が威厳のためだけに作ったような高いビルや箱物施設が
そんな中心部から少し離れたこの場所は、住宅街という事も有り、まだ幾分かはマシだった。そんな今まで考えた事も無いような経験をしながら、午前の仕事を終え、昼食をとあるチェーン店舗のラーメン屋でとった後、次の現場近くで食休みの車内休憩している時だった。俺は車のエアコン吹き出しから出てくる風を頭頂部に当て至福の時間を堪能しながら、スポーツ飲料を飲んでいると、運転席でシートを目一杯倒して伝票を眺めていた親方が、ボソリと何かを呟いた。
「ん、連絡メモ? あぁ、なるほど。」
──連絡メモ? 何かある現場なのか。
それは、元請けとなる販売店やその担当者が、俺達のような工事業者に送ってくる受注伝票や、仕様書などとは別に添付されている。そこにはお客様の意向、諸注意など、諸々社外秘となる連絡メモというものだ。作業業者は基本、お客様の所へ初めて出向いていきなり、そのお客様のプライベートゾーンで、作業しなくてはいけない。なので、お客様一人ひとりに対しての、注意点や留意点などがある。当然だが、俺達も常識的な事は弁えて作業する。だから大半のお客様と揉め事を起こすことは無い。だが例外も存在するのだ。例えば、こちらが良かれと思って提案する作業が、気に食わない。お客様の思っていた作業手順と違う等、基本的な意見齟齬から、お客様とのコミュニケーションのとり方まで。ごく一般的な事柄だけではなく、特殊な例も多々あるのだ。
だから、それらの事柄を全く知らずに、いきなりドカドカ入っていけば、結果は自明である。そこで、販売店や工事受付担当者などは、事前に取得できうる限りの情報などを、受注伝票などとは別に『連絡メモ』として添付してくる場合がある。そこには所謂、『隠語』も含まれているので、メモがある場合は、ぶっちゃけメンドクサイ事が多いのだ。
「どしたんすか? もしかして」
面倒な事なんですか? と聞こうとしたところで、親方がそのメモを俺に見せてきた。
<連絡事項>
[お客様は耳が不自由な方ですので、作業時は十分留意し、また出来る限り筆談で、確実に確認作業を行ってください。]
「
「次のお客様は、耳が聞こえないから、文字でコミュニケーションを取るって事だ」
そう言われても、一瞬頭の中は真っ白になって意味がわからなかった。耳が聞こえない……あ! そうか! だから文字で話すのか!
「康太、
聾唖……。勿論聞いたことはある。所謂耳の聞こえない人。──だが身近で居たかと言われると、自分の周りには居なかった。たまにテレビなんかで、手話付きのニュースをチラ見してた程度。──身体障害者と言う言葉が頭をよぎる。何らかの事情によって先天的、又は後天的に身体の一部の機能を失った人達。……俺の知り合いに存在しなかった人達。
「聞いた事はあります。会ったことは無いですけど」
「そうか」
俺の返答に親方は一言そう言うと、黙ってまたメモを見ていた。
体の熱が治まってきた頃、ふと隣から煙が流れてくる。何だと思ってそちらを見やると親方が加熱タイプのタバコを燻らせていた。運転席側の窓を開け、そちらに向かって煙を吹いてはいたが、どうやらこちらにも流れてきたようだ。
「あ、すまない、煙たかったか?」
「いえ、大丈夫です」
俺の言葉に親方は、車窓を一度大きく開けてから、持っていたファイルで煙を外に向かって
「……そろそろ行こうか」
主要道路から一本はいると、途端静かな住宅街に。ここは政令都市では有るが、その中心部からは外れている。一昔前に流行った、所謂ベッドタウンと言う所。ゼネコンが区画整理を行い、大きなマンション群、小洒落た建売住宅。公園や纏まった商業施設など、住環境を徹底して考え抜かれた上で、完成させられた『離れ島』のような場所である。土地は都市の北西部に位置し、少し山の手になった場所に存在しているため、観光客が来るわけもなく、幹線道路が貫いている訳でもない。電車は一社が独占で通っており、そこを中心として扇状に広がった、独特な雰囲気がある町。懐かしきバブル全盛時代に、こう言った場所は沢山作られたらしいが、今はあまり聞かなくなった。
そんな閑静な住宅街に入ってすぐ、件のハイツは見つかった。少人数向けの二DKタイプ。三棟続きの一つで二階建て。各棟は十二戸ずつになっていて、部屋が階段を挟んで三ヶ所あった。
何故かその建物を見て、案外普通の建物だと思ってしまう。
(そりゃそうか、ただ耳が不自由ってだけだもんな)
そんな事を思いながら、ハイツに横付けしたトラックから降りて建物を見上げていると、親方が伝票ファイルと手提げバッグを持って俺に声を掛けてきた。
「えぇと、二○三号室……と。康太、先に行って話し決めてくるから、荷物の準備頼んだぞ」
親方はこちらを一度振り返り見て、階段を登っていった。
「はぁい」
呼ばれたのは、荷物の殆どを二階に上げ終わってからだった。
「開けっ放しにできないから、さっさと入れていくぞ」
そういう親方の言葉、気にはなっていた。開いたドアの上の部分。それはドアが開いている間、ピカピカと明滅していた。
──回転灯?
小さな回転灯が明滅を繰り返しながら回転していた。
黙々と荷物を持ってはドアを開けて入り、またドアをくぐり。二~三度それを繰り返し、少し疲れたなぁと心で呟いたときだった。ふと、後ろから視線を感じた。
そこには若い女性が立っていた。髪は長く黒く、肌は白く透き通っていて。身につけた白いブラウスより輝くように──。
──呼吸を忘れた。……目が合った。ただ、じっと見つめられていた。はにかんだ笑顔で。
……あ、俺死んだ?! そう思った次の瞬間、ポカリと頭を叩かれる。
「あだっ!」
「なぁに顔真っ赤になって固まってんだ? 荷物入れて作業始めるぞ」
「う、ういす」
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