第3話 夜の学校①

毎日が地獄のような日々だった。

 仮面を被って偽りの自分を演じ続ける日常。居場所のない自宅で独り泣いていたのは決別した過去を忘れたい。忘れたいから踏み台にして埋めた過去の実像は僕という人間の人格を形成してそれを成している。

 人は自分の都合で直ぐに他人を見限って陥れようとする。証拠や過去を消そうと隠滅を試みるのも人の業。過去からは誰も逃れられはしないのに、無謀という選択を楽勝だと勘違いをする。

 そんな欲と業に塗れた他人を嫌い、自分を嫌った。

 そのツケというのか成果というのか今を独りで生きていけている。

 誰に頼ることもなく。


「尼乃……くん……?」


 カーディガンを脱いで露わになったワイシャツが濡れて身体の形が分かるように浮かび上がる。膝を抱えている彼女の体勢は極部は粗方隠されているが、かなり危ない格好になっていることは言うまでもない。

 このまま放置するという選択肢はない。我ながら捻くれた性格とはいえ、一般の良識は持ち合わせているつもりだ。


「中に入れよ。そのままだと風邪を引くぞ」


 結衣は小さくコクリと頷き、立ち上がる。

 優はそれを慌てて止めに入った。


「待て待て、とりあえずこれを着てから立ち上がれ」


 急いで着ていた学ランを脱いで結衣に羽織る。

 終始キョトンとした顔でこちらを見ている結衣の様子だと自分がどんな状態か全く気付いていないのだろう。


「君は一応女性なんだから、少しは色々と気を付けろよ」

「その……どういう意味でしょうか?」


 ここまで言って分からない。

 結衣は通常、誰も近寄らせないかの如く鉄壁のオーラを纏っていて身なりは整えている。普段から完璧にしている人程、自分の状況に気付かないことが多い。

 豊満に強調された胸に被さっている黒い下着の辺りを指差して目を逸らす。

 結衣は指が示す下の方を見る。

 そこでようやく気が付いて溢れる胸元を手で覆い隠した。


「少しくらいは危機感を持てよ……」

「す、すみません……」


 今にも蒸気が噴き出そうな赤面は少しの涙を浮かべている。

 なんだか変なことをしている気分になってしまった。揺らぐ気持ちを深呼吸で鎮めて優は手を差し伸べる。


「とりあえず中に入ろうか」

「はい……」


 相変わらず赤面したままの聖女様こと雛屋結衣はゆっくりとその手を取った。


 握られた手は冷え切っていて温かさを感じない。

 まるで生命を奪われた人の手のような感覚で少しだけ心が重たくなったが、手を握ると握り返してくれる反応が伝わってきて安心感を覚えた。


 雨が降り止む様子は欠片もない。更に強まっている気もする。

 二人は互いの手を握ったまま無言を貫く。

 話すことが目的で連れ回しているのなら話題の一つや二つくらいは出るがそうではない。ならば無理に会話を交わす必要性もないのだ。

 結衣は結衣で先刻から全く顔を上げようとしない。下着を見られたのが恥ずかしかったのか、自分の危機感の無さに内心でジタバタと悶えているのか。

 差程に興味がない僕には分からなかった。

 そんなことを考えている間に渡り廊下を渡り終えて別棟のシャワー室にまで辿り着いていた。


「まず、シャワーを浴びてこい。着替えは俺のジャージを貸す。ああ、安心してくれ。今日洗って持ってきた物だから汗臭くはないはず」

「その……本当にありがとうございます」

「いいから早く行ってこいよ、風邪引くぞ?」


 しかし結衣は動こうとしない。

 優が居るから入りにくいのだろうとも思ったが、そもそも結衣が握った手を離そうとしないのだ。


「僕の手なんかよりシャワーの方が温かいぞ?」

「尼乃くんの手は温かくてとても落ち着きます。人の手の温もりってこんな感じでしたね……」


 少し残念な声色で惜しみながら手を離す。


「また……手を握ってもいいですか?」


 『薄暗くなった学校の中に二人きり。』


 後ろで手を組み、学ランを羽織った結衣はあまりにも人間らしく微笑む。優はその姿に何も言えないままその言葉が頭に浮かんでしまった。

 

 他意はない、はずだ。

 

 断言できていたはずの当たり前は結衣の魔性の微笑みによって全てが緩いでしまった。

 

 緩んでしまったのなら締めればいい。辛い時も悲しい時だって歯を食いしばって来たじゃないか。

 

 他人に隙を見せない。それは優が何よりも心掛けてきたことのはずだったのだ。

 しかし、硬く閉ざされて塞き止めていた感情の波が一瞬、ほんの一瞬だけ決壊して溢れ出してしまった。


「好きに……しろ」


 ある意味で一生の不覚。断ることができずにいとも簡単に了承をしてしまった。

 結衣はその返答に心から喜んでいるようでふにゃりと口元が緩み切る。


「ありがとう。尼乃くんの温もりが私、好きみたいなんです。尼乃くんの手を握ったら心がポカポカして安心します」


 

 そう言って結衣はお辞儀を軽くしてからシャワー室へと入っていった。


「心がポカポカする……か」


 その場に立ちすくした優はそう独りごちる。

 黙って自分の胸に手を当てると鼓動はいつもより早く脈を打っていて、身体も少しばかり熱い。思考は冷静に物事を俯瞰しているのに身体は全く適応していない。


 「それはないな――」

 

 優にはあることが頭に過ったが直ぐに足らう。

 ロクに人と話してこなかった反動が来たのだと結論付けて優は無理矢理すくむ足を動かし、教室へと向かった。

 

 優から結衣の手を取ったことも都合よく塗り替えられて憶えた記憶は書き換えられる。自分から手を取った意味もその気持ちにも気付かないまま、優の凍り付いていた歪な歯車が噛み合ってゆっくりと動き出した。


 ―――――――――――――――――――――

 ご愛読ありがとうございます。

 かいむと申します。

 第三話ということでとても緩やかなスタートダッシュです。

 読者の方々も抱えてきた過去は様々だと思いますが、私は辛い過去を歩いてきた人たちが幸せになるのがとても大好きです。

 辛いことはあったかもしれませんが、辛いことはない緩やかな坂道を歩んでいきます。

 どうぞ最後まで愛想尽かさずに読んで頂けると幸いです。

 最後にたくさんの方々に読んで頂く為にいいね、フォロー、レビュー、コメントなど積極的に宜しくお願い致します。

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