容量不足
頭の中にいろいろなコンテンツを入れすぎているような気がした。
勉強とか、本で読んだ知識とか、そういうみんなが必要だっていう情報だけでいっぱいいっぱいなのに、芸能人だとか流行っている歌だとか、アニメとかゲームとかアイドルとか、そういう情報もちゃんと集めておかないと。
友達が好きなものをちゃんとわかっておかないと。みんなの誕生日も忘れちゃいけないし、それぞれが今好きな人のことも覚えておいて、気を遣わないと。
「私のスマホ、寂しいな」
友達に勧められて入れたアプリも、使わなくなって要領を圧迫してしまうから、次々アンインストールしてしまう。ラインの友達も、一年くらい連絡をとらなくなった人は消してしまうから、今は家族と、三人くらいのバイトの友達しかいない。
余計なものを全部削っていった結果がこれだ。恋人なんていらないと思ったから、おしゃれもしなくなったし、お金だってそんなにたくさんいらないと思ったから、大学には行かず、高校を卒業してからずっと、アルバイトで稼ぎ、そのほとんどを家に入れるようになった。
「私の人生って、なんだろな」
ひとりじっと考えている。特別なものは何もない自分。たくさんの「特別」が、ほしくもないのに勝手に入ってくる時代。私はなんだか、頑張っている人を見ているだけで胸焼けして、居心地が悪くなってしまう。
誰も頑張っていないところで、自分も頑張らず、ただのんびり生きていたい。そんな生き方は、人間らしくないのだろうか。
そんなどうでもいいことを考え続けるのも、きっと親や教師から「よく考えて生きていきなさい」と言われて育ったからだ。強迫観念みたいに、私はいろいろ考えすぎるし、もうそれに慣れてしまって、考えることが苦痛ではなくなってしまった。
「いらないものを捨てていったら、何も残らなくなっちゃったんだよね」
今の自分は、本当に空っぽだと思う。でも、また何かがらくたを集めていこうとは思えなかった。
暇だから読んでいた本に、こう書いてあった。
現代人は、文明というものを理解していない。たくさんの人の努力と試行錯誤の末にこの高度な社会があるのに、その仕組みが理解できないがゆえに、自然発生的に生じた、密林か何かのように社会のことをみなしている。
社会を維持、発展させるためにどうすればいいかではなくて、社会の中でいかに生き残るかということを考えている。これは、社会の進化と対比的に明らかになる、人間の退化である、と。
確かにそうかもしれないと私は思った。歴史の授業は好きだったけれど、その習った歴史の上に自分たちの生活があるのだとはあまり思えなかった。歴史から、現実生活に役立つ知恵を学ぼうにも、現代の生活はあまりに昔のものと遠く隔たっており、古い時代のことを語ろうものなら、それだけで同世代の中で浮いてしまい、居心地が悪くなってしまう。
みんな馬鹿なら、自分も馬鹿のふりをしなくちゃいけない。賢いと思われることは、仲間ではないと思われることに近いなら、なぜわざわざそんなリスクを取らなくてはならないのか。きっと、もっと賢い人たちが集まるような環境で暮らせたらそれも変わるのかもしれないけれど、私の知る限り、そういう場に集うためには、いっぱい努力しなくちゃいけないし、し続けなくてもいけない。
もっとわかりやすい言い方をすれば、競争に勝たないと、競争に勝てるような人と知り合いにはなれない。私は競争ができるほどできのいい人間ではないし、そもそも逃げ癖のひどい人間だ。どうしようもないほど、諦めるのが早い人間だ。
「要はさ、生きるということがうまくできないんだな」
そんな気がしたのだ。自分は、生まれてから一度も生きていないのかもしれない。ずっと死んだように生きてきたような気がする。
誰かが言っていた。ただ呼吸をして、ご飯を食べて、寝て起きてということを続けるだけが、生きているということではないと。もっと主体的に、現実的に、誰かの役に立って、幸せに、毎日を前向きに過ごすことが生きることなのだと、そう言っていた。もっと別のことだったかもしれない。
ともかく、私は傷つくわけでもなく、そうかもしれないなぁと思った。同時に、その人の言っていることが正しいなら、この世に生きている多くの人は、死んだように生きているような気がした。だから、ずいぶん残酷なことを言うんだなぁと、ぼんやりと思った。
「そうだ。ぼんやり、なんだよ」
悩みなんてない。ただ痛みと苦しみと空しさがある。
誰かが「幸せ」という言葉を口にするたびに、胸に変な痛みが走る。「神様」とか「生まれ変わり」とか、そういう言葉を聞いた時に感じるのと似た痛みだ。
「そういう言葉で、あなたはあなたを肯定したいだけなんじゃないの。それを聞いた人がどう思うかなんて、あなたは少しも考えていないんじゃないの」
そういう風に言いたくなるけど、私は唾を飲みこんで、愛想笑いするのだ。
「そうなんだ」
なんて言って。
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
どうしようもなく死にたいのだ。死にたくて、死にたくて、仕方がないのだ。
私だって私なりに頑張ってきたのだ。でも、誰もそういう風には思わなかった。思ったとしても、言葉にはしなかった。する必要もなかった。
もしかすると、私が聞き逃しただけかもしれない。あるいは、わざと私は無視したのかもしれない。
もう頑張りたくなかったから。でもどうでもいいんだ。何もかもがどうでもいい。
私を病気だといわないでくれ。私は、私なりに考えてきた。自分の体調も、性格も、ちゃんと考えて、何が正常で、何が異常なのか、ちゃんと判断してきた。私の正常が、たまたま社会の異常だっただけなのだから、治そうとしないでくれ。
でも、助けてほしいんだ。
私がどれだけ苦しんでいるのか、君はきっとわからないだろう。君の苦しみが、私にはわからないように。あぁ、人生はなんとつらく苦しいのだろうか。
嘆いているときだけだ。私の心が安らぐのは。嘆いているときだけは、現実を現実として受け入れられる。
否定しているときだけだ。自分の人生と、世の中のことを否定し、拒絶しているときだけは、自分の殻に籠って孤独に喘ぎ、息苦しく日々を過ごさずに済む。
私たちは悩んでいる。悩むつもりもなく、いつの間にか悩んでいる。頑張って悩むのをやめても、結局その悩むのをやめたせいで騙され、裏切られ、傷つき、苦しむのだ。
生きることは、不条理であり、矛盾である。私たちの死は必ずやってくるのに、私たちの生は、死を望むことを間違ったことだという。
誰かが私に、死ねと言ってくれればいいのに。私が死んだときに、大声で笑って「あいつが死んで私は幸せだ!」と叫んでくれたらいいのに。
もしそうなら、私は死ぬのが馬鹿らしくなって、もっといえば、生きることも馬鹿らしくなって、すべてを冒涜して、頭がおかしくなった人間のように、正常に生きることもできたかもしれないのに。
私はどうしようもなく悩んでしまう。苦しんでしまう。痛みを抱えてしまう。孤独を疎んでしまう。
「助けてほしい」
なんて、ずっと言い続けて。
「めんどうくさい」
と思われ合って。
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