疲れた

大人しくしていることを覚えた。

世界を変えることにも維持することにも協力しないことを覚えた。

主体性のない存在として生きていくことを覚えた。

その方が楽だったから。


人間なんてそんな素晴らしいものではないし、人間が作り出した社会だってそんなに価値のあるものじゃない。

たくさんの人の努力や労働の上に成り立っているとはいえ、そのほとんどは強制的になされたもので、たいていは意志よりも欲望の方が土台としては頑丈だったりする。土台になるのは嫌になったし、その上に立つのも嫌になった。いずれにしろ、目に入るのはあまりに見苦しい景色だから。


痛みや苦しみには価値がない。だから僕の言葉にも、僕の存在にも価値がない。

命には価値がないし、努力にも価値がない。普遍的な価値なんてものはこの世に存在せず、あらゆる価値論は全部人間の自己正当化の一形態に過ぎないのではないかと疑うこと十数年。

価値なんて言葉を必要としない無邪気な動物たちを羨ましく感じる日々。

「そんなことどうでもいいから、何か食べたい」

悲しいことに、人間の若いオスに当てはめたならこうなる。

「小難しいことはいいから、風俗にでも行ってスッキリしようぜ」

どうして動物の動物性はかわいらしくて正しいものだと感じるのに、人間の動物性、すなわち社会性を含んだ動物性は気持ち悪く感じてしまうのだろうか?

いや、それが自分にどうしようもなく関係してしまうからというだけのことかもしれない。そして僕らはどうあがいても、動物性に回帰できない生き物であるからかもしれない。


つまるところ、僕らは引き裂かれているのだ。引き裂かれたくないのに。



僕らの精神的な痛みを解決できるのは、パスカルがそう説いたように、神のみなのではないかと感じる。しかしこれも、人間のありきたりな心理的構造がもたらした、自然的な帰結なのかもしれない。そうだとしたら、僕らがそう感じることは、その存在を証明するものではないのだ。

僕らがもしどれだけ神を身近に感じて、それを愛することができたとしても、その自らの実感が、神の存在を保証してはくれないのだ。すべてが妄想で、虚言で、嘘で、その事実に気づかないままに死んで無に還っていくことだけが、僕らの唯一の最期なのかもしれない。

パスカルは言った。たとえそうだとしても、何も損はしないのだと。

神を信じて、神がいなかった場合と、神を信じなくて、神がいなかった場合の間に、実質的な損得の差異は存在しないどころか、生きている間安心して希望に満ちていて、気持ちよく生きていける分、騙されていた方が得とさえいえるのだと、僕だってそう思うさ。

もし神がいたら、なんて想定は馬鹿げていると理性は言う。だってそれがいたとしても、それがどんな性質を持っているかなんて僕らにはわからない。もしかすると、神を信じている人間を神は嫌い、無に帰し、逆に神を信じていない人間だけを神は愛し、そのもとで永遠の幸せを与えるかもしれない。だとすると、神がいたときの想定なんてナンセンスなのだ。

神がいるかいないかという賭けが意味するところは、僕らの精神にとって、僕らの最期が無であるべきか、それ以外であるべきかというものなのだ。どちらを望むか、というところにあるのだ。

それは現世的な問題であり、悲しいほどに、価値論的な問題なのである。

結局は、何を信じるかという問題は、その人間の人間性を映し出す鏡なのだ。


大多数の現代人の人間性が貧しいことを指摘しても、僕らがそれに比して豊かであることを示すわけではない。

豊かさの証を苦悩の程度で測れると考えた人もいる。

僕はもう何もかもがどうでもいい。

疲れたんだ。

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