絡みつく理性

 あぁすべきこうすべき


 そういう言葉を真面目に受け取ってきて


 そのせいで壊れた心を癒すために


 なんでもいい 何をやってもいい


 死んだっていい 誰かを殺したっていい


 そう思うようになって数年が経って


 そこにいるのは誰かに愛されたい自分


 誰にも愛されない自分


 愛されるために 誰かを愛したり 誰かの役に立ったり 魅力的になったり 魅力的に見せたり


 そういう努力をしては失敗し


 落ち込んで


 結局また「すべき」の中に落ち込んでいる弱い自分



 誰もがそういう葛藤の中で生きている


 「誰もが」という言葉で安心しようとしている自分を自分で指さして笑っている


 それは嘘だろうと



 「わかる」って言ってほしい


 「つらいよね」って慰めてほしい


 「大丈夫だよ」って諭してほしい


 でも自分が誰かのためにそういう役を演じたことはあっただろうか?


 そう思ったから 演じてみたら その人は僕をそういう人間だと思い込んだ


 その人は僕のために役を演じることなんて 思いついてすらいない


 そう すべては一方的なんだ すべては自己満足なんだ すべては利己主義なんだ



 がっかりしたんだよ 正直に言えば


 失望したんだよ 人間関係に



 自分のやりたいようにやって満足できる人が羨ましい


 どれだけわがままに事を進めても 満たされない思いがある 癒せない傷がある


 誰かの楽しそうな顔を見て 心臓が痛くなって 涙がこぼれてきて


 その理由を説明することもできず 誰も一緒に背負ってくれず


 ひとりで歩くことを迫られている


 そうさ 極端に幸運な人以外はみんなそうだ


 みんなそうだけど みんな歩いている


 歩けなくなった人から死ぬか狂うかして いろいろなことを放棄する 放棄して 少しでも楽しようとする


 僕もそうしたかった でもそうするにはまだ若すぎるんだ



 諦めきることができない 自分を励ます人たちがいる 僕の苦しみや痛みはわからないくせに 信じないくせに いっちょ前に可能性や能力は信じて期待する


 黙ってほしいと思っているのに それで黙ったら 僕はまた寂しい思いをするんだ この理不尽な自分をどう片づければいいのだろう?



 ある人は「君は精神的にとても高度だ」と言った。

 ある人は「君は君自身をとても客観的に見ている」と言った。

 ある人は「君くらいものを考えられるのは羨ましい」と言った。

 ある人は「いつもそんなに考えてるの? よく疲れないね」と言った。

 ある人は「ちょっと怖い」と言った。

 ある人は「まぁいいからやってみなよ」と言った。

 ある人は「すごいね」と言った。

 ある人は……「あなたが好きだ」と言った。でもその人が見ている僕は、僕じゃない人だった。僕には見えなくてもいいものが見えてしまう。知らなくていいものを知ってしまう。わからなくてもいいものをわかってしまう。わかろうとしてしまう。


 褒められることに意味なんてない。貶されることにも。それは少しも事実に基づいていないから。基づいていたとしても、結局は感情論だから。

 評価されることは、それが金や実績、地位になってはじめて意味を持つ。僕はそれらを軽蔑した。軽蔑せずにいられなかったのは、それに付随するあらゆる努力や競争が、どこか汚らわしいものに思えたからだ。泥臭いやり方が気に入らなかった? いや、ただ自分にそういうことを頑張る能力が欠けていたのかもしれない。性格が、歪んでいただけかもしれない。わからない。わからないが、今でも僕は愚直に頑張れないし、頑張る気もないのだ。


 この苦しみを止める方法は知っている。別の苦しみを引き受けることだ。その苦しみから逃れたければ、またもっと苦しいことをすればいい。そうして苦しんで苦しんで、時間ばかりが経っていく。そう。僕はそれを繰り返してきた。愚直に頑張ることだって、何度もやってきた。そのたびに苦しみに耐えかねて折れた。折れ続けた。

 何かから逃げるために何かに取り組むのは、ある種の必然的な失敗を意味している。なぜなら、その取り組みからも必ず逃げたくなるし、その際、自分のそれまでの選択を肯定するために、逃げるほうを必ず選ぶからだ。逃げて始めたことから逃げたくなったら、逃げるのが自然なのだ。あぁ、逃げて逃げて、逃げきれないところまで来てしまいたくないから、適度に立ち向かって、一個乗り越えて、それで「あぁまたしばらくは逃げても平気そうだ」とほっとしている。と、同時にこれがずっと続いていくのかと考えると、不安でぞっとする。


 時々誰かにうまく使ってほしいと思う。支配されたいと思う。僕を他の誰よりも理解してくれる人が、僕に仕事を与えてくれればいいと思う。おそらくは、それも多くの人が心のどこかで望んでいることだろう。現実はそんなに甘くないうえに、それが現実化したとしても、ろくなことはない。その人間がいつ自分を不要だと切り捨てるかわからないのだから。そのことで不安がって、また苦しむのは目に見えている。


 愚かでありたい。今まで頭に入れてきた知識をすべて手放したい。

 きわめて迷惑かつ、その迷惑に自分では気づかないような、そんな無思慮で非社会的な人間でありたい。そういう人間になりたい。その方が楽だってわかってるから。

 でも、自分の意志でそういう人間になれはしないのだ。そういう人間の真似をしたって、僕らのままならない精神は、僕たちの精神そのものを殺さない程度に痛めつけ、僕らはただ何もできない人間としてしばらく生きることを余儀なくされる。最小限の迷惑で、最低限の貢献で生きていく人間として罪を償おうとする。

 そうなのだ。僕らはどこまでも社会化されていて、どこまでも考える人間で、どこまでも賢く、そして、どうしようもなく愚かで小さな人間なのだ。


 自らを肯定する材料はいくらでもある。でもその材料を使うつもりはない。自分を肯定することにうんざりしたんだ。そうして自分を緊張させることも、批判に対して身構えることも、疲れたんだ。

 批判されたなら、その真偽を考慮せず、それが有用かどうかも考慮せず、ただ「そうだね」って肯定して受け入れて落ち込んでいた方が楽だと思ったんだ。

 でもそれすら徹底できないから苦しいんだ。


 あぁ。苦しめることを許してくれ。君たちの他者に理解されない苦しみも、きっと誰からも救われないことだろう。

 「わかる」って言ってもらえたらいいね。でもそれで癒される程度のどうでもいい苦しみなのだろうか?


 どうでもよくない苦しみなんて、本当はないんだろうな。苦しみの一切に価値なんてないんだろうな。そうであってほしいんだ。そうなら、いつか忘れることだってできるはずだから。


……もし論理的な正しさが現実的な正しさでもあるとするなら、忘れられないことには価値があることになる。ならば、人間にとってもっとも価値のあるものは? あぁ、そんなこと考えたくないよな。僕もだよ。でも考えてしまうよな。僕もだよ。

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