憧れと救い

 最初に憧れたのは父だった。父に幻滅したことは一度もなかった。父に欠点があることは、母が父を叱る場面を何度も見ていたから知っていた。母は自分の感情をうまくコントロールできない人だから、そもそも尊敬したことはなかった。よいところをたくさん持っている人ではあるが、しかし自分との関係の中で印象深いのは、怒っている姿であった。人が我を忘れて怒っている姿は醜い。醜い人を尊敬することはできない。


 次に尊敬するようになるのは、両親の信仰している宗教の創始者だった。僕はその人を羨ましいとかそうなりたいとかではなく、純粋に「すごい」と思った。その人が、世界を変えたのだと思った。変えたあとの世界に僕らはいて、それに続いていかなければいけないのだと思った。

 あぁ、意識はしていなかったが、知っていたような気がする。成長して、両親よりも友人たちとのつながりが強くなっていって、宗教は邪魔になった。友人たちから避けられないためには、宗教を否定する必要があった。でも僕は、両親が信仰している宗教を馬鹿にしたり、悪く言うことはできなかった。それは確かに、人間が真剣になるに値するものだと思っていたし、理不尽なところやおかしいところはあれど、根本にあるものは間違っていないと思ったからだ。

 友人たちが信仰している面白いゲームやエッチな本や調子のいいお笑い芸人たちなんかより、よっぽど価値のある、人生の支えになるものであるということは理解していた。だから……僕は、その理解をしているということによって、否定することにしたのだ。

 友人たちとうまくかかわっていくには、それしかなかったのだと思う。僕はその宗教の話を避けた。その話になったら、僕はうんざりしたような表情で「いい宗教だよ」と言った。そうすれば、友人たちは満足し、僕も自分の倫理観に壊されずに済む。僕は宗教によって、嘘をつくことを学んだのだ。


 僕は人に幻滅することが増えた。立派な人はたくさんいる。でもどの立派な人も「みんなのために」と言った。そして「あなたもみんなのために」と言った。僕は「みんな」が嫌いだった。その「みんな」が愛しているものや好きなものは、どれもこれも、おかしなものであるように感じられた。実際「みんな」が好きなものはすぐに変わって、彼らが前に好きだったものの話をしたら、彼らは笑った。そんなことばかりだった。僕には理解できなかったのだ。

 僕は変わらないものを欲していた。変わらないものなど何もなかった。宗教の教義が少しずつ変わっているのに気づかないほど僕は愚かではなかった。世の中は、たくさんの異なる人たちの議論と妥協によって出来上がっていた。僕はその中に含まれていなかった。未熟な存在として、考えることのできない存在として、判断することができない存在として、守られるべき存在として、ずっと扱われていたから。


 生きることは苦痛だった。人間はひとりでは生きていけないのではなくて、ひとりで生きている人間は存在していないのと同じものとして扱われるのだ。僕は、半分だけ存在して、半分だけ存在していないような気がしていた。

 比較的正常な生活を送る僕と、ひとりきりで自分と世界のことで悩む僕。そのふたつは混ざり合ってはいけないものだったのかもしれない。しかし、精神は成熟とともに統合せずにはいられない。僕は、自分を二つに分け続けることができず、ついにそれらはひとつの精神として、現実として表出された。僕は、生きられない人間になった。誰と話していても、嘘のように感じられるようになった。ひとりでいても、誰かがそばにいるように感じる人間になった。

 僕とともに考えてくれる人を、僕をずっと必要としていた。僕の悩んでいるすべてに、貴重な時間とエネルギーを使って、一緒に答えてくれる人を探していた。誰もいなかった。

「お前なんかのために使う時間やエネルギーがある人間なんて、誰ひとりいないんだ。お前の両親や長年付き合ってきた友人ですら、お前の悩みにだけは付き合いたくない。お前はひとりで悩まなければならない。悩み続けなくてはならない。それがいやなら、悩むのをやめて、我慢して人と付き合っていくしかない」

 そのどうしようもない現実を前に、僕の心は完全に折れた。折れて、戻らなくなった。僕は、何をやってもうまくいかない人間として生きることを迫られた。どれだけ楽に生きようと欲しても、それすら満足にできない人間として、うんざりして、苦しんで、眠れなくて、起きれなくて、どんどん沈んでいった。

 一番底で見たものは、ありふれていて、くだらない、どこにでもある人間らしさだった。人生のどん底なんてものは、貴重でもなんでもなくて、案外退屈で進展のない日常よりほんの少し下ったところにある程度のものだった。病気で寝込んでいる人が、唯一の肉親から「もうお前に会うのはうんざりだ」と告白されて、どれだけ泣いても誰も慰めてくれないような、その程度のありふれた痛みだった。そう。不幸なんて、どこにでもあるもので、日常的なもので、決して耐えられないものでもないし、面白いものでもなんでもないんだ。


 僕らはただ、明確に、死にたいと感じる。生きていることの喜びと、この先生きていくことの苦悩とを天秤にかけて、どう考えても苦悩の方が重たいことを知って、僕らはただ漠然と、死にたいと思う。きっかけがあったときのために、死ぬ準備をする。あと一歩で死ねることだけは明確に理解している。人生の底とは、その程度のもので、そこから這い上がれるかどうかは、はっきり言って運次第なのだ。死ぬきっかけと、生きるきっかけの、どちらが先にやってくるかというコイントスに過ぎない。

 どんな人も、心のどこかで生きるきっかけの方を望んでいる。でもそれは、本人がどれだけ望んだって、手に入らないものなのだ。一念発起して、何とか自分でそれを掴もうとして、それが笑いながら去っていったとき、それは死ぬきっかけに簡単に変身する。そうして死んでいった人間は、山ほどいる。

 また、大きなショックがあって自殺を試みても、うまく死ねなくて生き残ってしまう人間もいる。その場合、その経験が生きるきっかけになることもある。僕の場合はそれだった。そういう人間だって、山ほどいる。


 あぁ。僕は今救われている。心のどこかで、誰かの悩みに自分の時間をすべて注ぎ込んで、その人の生きるきっかけを作りたいとすら考えている。思いあがった考えだ。

 苦しみはまだ癒えていない。この痛みと過去は、生涯抱えていくしかないことだろう。過去のない顔つきをすることを望む自分と、そのような軽薄さを演じることなどできはしないのだと確信している自分が争っている。争っているというより、じゃれあっている。僕はこの状態のまま進んでいくことを知っている。死ぬまでずっと、僕は僕自身が知る限り、誰よりも生を楽しみ、誰よりも生に苦しむのだということを、僕は深く理解している。


 人は自分の感じた苦しみ以上のものを想像できないから、僕は僕より苦しんでいる人のことを想像できない。そうなんじゃないかと思うことはある。そうだと言ってみることもできる。でも、心の奥底ではやっぱり、僕の痛みが、僕にとっては一番なのだ。そして、他の人にとっては、他の人の痛みが、その人の一番なのだ。それでいいのだ。そうであるべきなのだ。そうでなくては、世界は嘘だらけになってしまう。わからないことを、わかるという人間ばかりになってしまう。


 僕は人から尊敬されるよりも、蔑まれていたいのだと思う。きっと僕の歩んできた道は不幸なのだ。僕は、他の人に僕と同じ経験をしてほしくない。心の底から、他の人は、他の人の道を進んでほしいと思う。

 僕がこの先やることも、悩むことも、全部他の人には追従してほしくない。僕は、自分の生涯が、耐えがたいものであることを十二分に理解している。他の人にとって、僕の生を理解したり、知ったりすること自体が苦痛になることを、僕は知っている。


 僕は人をあまり苦しめたくないのだ。でも、理解してほしいのだ。ともに考えてほしいのだ。

 その板挟みの間で、ずっと苦しんでいる。ずっと、ずっと、ずっと。


 おそらくこの痛みを解決する手段はひとつなのだろう。それは、他の人に理解してもらうことを放棄し、ただ、他の人を理解することに専念すること。誰かの「自分」のために、僕の「自分」を捨てること。

 あぁ、その不平等だけが、その不公平だけが、僕にとって救いとなるのだろう。わかってる。わかってるんだ。


 たとえ嘘でも、誰かのために生きることによってしか、僕は救われないのだ。

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