新しい世界・理性の放棄

「ねぇ起きて! 出てきてってば!」

 僕は引きこもっていた。光が怖かった。とても、とても怖かった。生きていくのが怖かった。人の声も言葉も、僕の意志ではどうしようもなく止められなかった。

 部屋の前に置いてある餌を食べるのも嫌だった。でもお腹がすいたら食べるしかなかった。

 生きることは苦痛だった。苦痛だったのだ。



 新しい世界



 扉の下の隙間から赤いチラシが入ってきた。母親も妹もそういうことをするタイプの人間ではないから、父親がそうしたのかもしれないと思った。

 新しい世界。赤い地に、白い文字。裏側には詳細な情報。読み終えてぼくは決意した。新しい世界に行こう。


 物語の主人公は、ブサイクであってはいけない。男であるなら、美男でありすぎてもいけない。平均からそれほど外れない程度の外見と、機転の利く器用な男じゃないといけない。

 前に鏡を見た時、僕は自分が主人公ではないことをはっきりと確信していた。よくて主人公の友人。それか、何かの出来事で主となる人物。悪い場合は通行人。もっと悪い場合は、無残に死んでいくモブ。

 新しい世界に行くにあたって、僕は整形外科に行った。お金はなかったから、親の財布から盗んだ。途中の本屋で買った女性向け雑誌の表紙の男のようにしてくれと頼んだ。ずいぶん時間がかかってうんざりした。

 顔はどうにかなったとしても、性格はどうしようもない。能力も。僕は絶望して、占い師に相談に行った。どうやったら、頭がよくなれますか。どうやったら、人に好かれる性格になれますか。

 占い師は言った。

「あなたは顔がいいから、頭がよくなくても人に助けてもらえるし、人にも好かれる。大事なのは、人のために何かをすること。周囲を見渡して、自分に何ができるのか考えること」

 僕は納得した。さらに占い師は続けた。

「たとえ誰からも尊敬されなかったとしても、誰からも好かれなかったとしても、それでも人に親切にしなさい。そうすればあなたは、ほとんどの人にはたどり着けないような幸せをつかむことができるようになります」

 僕はうなずいた。新しい世界に行く準備ができた。


 門は、僕が通っていた小学校の裏庭のあたりにあった。たくさんの人が集まっていたが、皆躊躇している様子だった。話によると、もうすでに二十人ほどが旅立っていったらしい。見送った人の中には、いつまでも泣いている人がいた。僕は家族に黙ってここに来たから、少し寂しかった。同じようにひとりぼっちの人を探そうと思った。

 黒い髪に青い人工的な色の髪が混ざった女の子がいた。とても綺麗な顔をしていたが、どこか表情が硬くて、違和感があった。目の色が、左右で違っていた。目立つような恰好なのに、どこか存在感が希薄で、誰も話しかけようとしなかった。

「あ、あの……」

 僕は勇気を出して声をかけたが、声がかすれてしまって恥ずかしい気持ちになった。その子は口を開いたが「あ」とだけ言って、せき込んだ。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

 近くで見ると、その子の化粧がかなり分厚いことに気が付いた。まだ若いように見えるけれど、それも気のせいかもしれない。

「ひとりなんですか?」

「あ、はい」

「僕もなんです」

 女の子はうなずいた。そのあと気まずそうに口を開いたが、何を話せばいいのかわからなくて困っている様子だった。

「お名前を聞いてもいいですか?」

「……メアリー」

「それは、新しい名前ですか?」

「うん」

 それはつまり、この現実の名前ではなくて、新しい世界で名乗る名前のことなのだろう。

「君は?」

 自分の名前を考えていなかったことを思い出して、僕は困った。僕は首を振った。

「まだ考えていないんです」

「それじゃあ、私が決めてあげる!」

 僕はその子の目が輝いているのを見て、ぞっとした。この子は、新しい世界で自分の理想の生活を実現しようとしていて、僕をそれに巻き込もうとしているのがわかった。この子はずっと、想像していたのだろう。何を想像していたのかはわからない。でもきっと、僕を自分にとって都合のいい存在にしようとしていることだけは確かにわかったのだ。

「ううん。自分の名前は自分で決めます」

 言いかけたその名前を遮って、僕ははっきりとそういった。女の子はとても悲しそうな目をしていた。僕は首を振った。ひとりで生きなくちゃいけないんだと思った。



 ひとり、ひとりと新しい世界の中に入っていく。女の子も、別の男の子と並んで入っていった。残っているのが十人くらいになって、他の人たちがみんな入るつもりではなさそうだったから、僕はついに入ることにした。きっと他の人は、一番最後に入りたいのだろう。そういう性格の人もいると思った。

 ぐるぐる回っているような気がした。昔夢の中で、巨大なペットボトルの中に閉じ込められて、それが坂道をずっと転がり続けたことを思い出した。

 どこか高いところから放り出されたような感覚があって、死を予感した。でも、衝撃は柔らかかかった。

 目を開けると、ただっぴろい草原の上にひとりぼっちで座っていた。空には、ミミズのようなものが何匹も飛んでいた。僕の存在になんて気にもかけず、大空は縦横無尽に飛び回っていた。太陽は、出たと思ったらミミズの影に隠れ、隠れたと思ったらまた出てきた。遠くの方には山が見えた。山の中腹はピンク色の唇のようなものが見えた。かなり巨大で、少しだけ動いているような気がした。

「起きたみたいだね」

 きれいな女性の声が聞こえた。

「私が案内役。名前は、リーフ。あなたの名前は聞かないよ。だって、呼ばないから」

 周囲を探したが、人影は見えなかった。ただ草原が広がっているだけだった。その向こうには山と丘と森があるだけだった。

「どこにいるんですか?」

「あなたの下。あなたの横。あなたの上。私は風に流される一枚の葉」

「この世界は、どんな世界なんですか」

「この世界は新しい世界に入れなかったかわいそうな人のための世界」

「それはどういうことですか」

「想像力が足りなかったってことだよ。あなたは、あなたが望む世界を想像できなかった。だから新しい世界には行けなかった」

「……あの女の子みたいにしておけばよかったんですか」

「あの女の子は今頃魔法の力を使って、いろんな人を助けて、尊敬されて、男の子と綺麗なロマンスを楽しんでいると思うよ」

「それじゃああなたは何なんですか」

「私はあなたの心の中の案内役。あなたはこの世界に閉じ込められたの」

「……新しい世界っていうのは、自分の頭で創り出す世界のことだったんですね」

「少し違うね。新しい世界っていうのは……もっと別の人と、あなたが協力して創り出していく世界。あなたはただ、その人に恵まれなかった」

「……僕は、前の世界でも出会いに恵まれませんでした。それは変わらなかったんですね」

「そうだね」



「嫌いなんですよ。全部」

「でも、つまらないんでしょう?」

「人間の欲望を満たすものも、退屈を癒すものも、全部嘘くさくて、現実的じゃなくて、大嫌いだったんです」

「でもあなたは現実で生きていく勇気を持たなかった」

「僕は現実で生きられるほど強くなかった。何かあるたびに死にたくなって、死ぬくらいなら逃げた方がマシだと他の人に言われて逃げ出して、逃げ出して、逃げ出して、逃げ出した先にあったのは、八方ふさがりの暗い部屋。何度か勇気を出して飛び出したけど、その向こうにあったのは残酷な目。バカを見る目。かわいそうな人を見る目。やる気のない応援に、見下したような同情。僕は逃げ出した。逃げ出しては、また飛び出して、そしてまた逃げ出した。機会を待っていた。誰かが助けてくれるのではないかと期待していた。でも、そんなのは甘かった。そんなのは許されなかった。みな嘘つきばかりだった」

「そう。でもあなたは、嘘をついたり、嘘を信じたりする勇気ももたなかった。あなたには本当に何もなかった。楽し気な想像も、都合のいい妄想も、あなたのそれは中途半端で、全部現実に引き戻されてしまう程度のものだった。あなたはどうしようもなく凡人であり、しかももっとも程度の低い、能力のない凡人だった。かわいそうに。かわいそうに」

「誇るものが何もなかった。新しい世界に行けば、何か見つかるはずだと思った。全部無駄だった。期待しただけ損だと思っているよ、今は」

「この世界を黒く染め上げて」

「それすらできないんだ。この世界が壊れる想像なんてできもしなかった。誰かが助けてくれるのを待つことしかできなかった。僕は、風に流される草の葉のような存在だった」

「あなたは生きられない」

「死んでもいいかな。死にたいよ」

「いいよ。私も一緒に死ぬから。死のう」

「いやだ。まだ死にたくない」

「なんで?」

「どうしてそんな意地悪なことを聞くの?」

「生きていたって仕方ないんでしょ? 死にたいんでしょ? じゃあ死ねばいいじゃない。死ぬのが怖いの? そうなのね。そうなんだね」

「……元の世界に帰りたい」

「でも、この世界を選んだのはあなたなんだよ。逃げ出したのは、あなたなんだよ。あなたに残された選択肢は、今すぐここで死ぬか、それともこの窮屈で息苦しいあなたしかいない世界で残りの時を苦しみながら過ごすかのどちらかしかないんだよ」

 山についた唇が開いて、大きな声で笑った。あざ笑っていた。太陽がぱっくり割れて、真っ白な歯が上下に生えてきた。それもまた笑っていた。あざ笑っていた。

 僕は耳を塞いだ。頭がおかしくなってしまったのかもしれない。早く時間が過ぎてほしいと思った。すべてはむだだった。すべては無意味だった。誰も許してくれなかった。この痛みが向かう先はどこにもなかった。

 すべてが嘘だった。嘘つきばかりだった。僕の世界は最初から壊れていた。壊れていたものを直してくれる人はいなかった。

 全部僕が悪かった。僕が悪かったということ以外を教えてくれる人はいなかった。全部全部、僕が選んだことだった。でも僕が望んだことじゃなかった。

「何も望まなかった結果じゃないか」

 山は笑う。

「私を選んだんでしょ?」

 草木も笑う。

「ひとりぼっちが好きなんじゃなかったのか」

 太陽が迫ってくる。

「嘘つきはお前じゃないか。お前が、他者を拒んだんじゃないか。怖がって怖がって、耐えることができなかったんじゃないか」

 これまで何度も勇気を出してきた。いろいろな人に話しかけた。いろいろなことに挑戦した。でもすべてから逃げ出した。僕には耐える力がなかった。乗り越える力がなかった。支えてくれる人がいなかった。僕が逃げ出そうとしたときに、繋ぎとめてくれる人もいなかった。皆、僕に言葉だけで何かを言った。えらそうなことを言って、最後には「あなたが自分で決めろ」と言った。代わりに決めてくれる人はいなかった。僕はただ逃げ出したいだけだった。逃げ出せば、今より楽になれると思った。楽になれた。でも楽になった先にあったのは、楽園ではなく地獄だった。

「あなたは誰も愛さなかった」

「だから誰にも愛されなかった」

「あなたは何も望まなかった」

「だから何も手に入らなかった」

「あなたは生きることを知らなかった」

「だからまともに生きることができなかった」

「死ぬことすらできず」

「どうやったら死ねるかもわからないから」

「他の人が吐いた毒を勝手に飲み込んでは」

「勝手に傷ついて嘆いてる」

「生きることは苦痛ですか」

「生きることは苦痛です」

「それでも生きるのですか?」

「生きるのを止める方法を知らないんです」

「私が教えてあげましょうか?」

「教えてください」


 世界が真っ暗になった。真っ暗になったけれど、僕だけはそこにいた。僕は自分が死んだのだと思った。でも死んでいたら、考えることはできないような気がした。

 神様はいなかった。何もない空間に僕はただひとり取り残されていた。世界はどこにもなかった。僕だけがそこにいた。誰もいなかった。声も何も聞こえなかった。僕をおびやかす人はいなかった。でも僕が僕をおびやかしていた。

 声は出なかった。空気がなかったから。頭を抱えて縮こまりたかった。でもできなかった。体がなかったから。

 せめて、涙を流したかった。でもだめだった。目がなかったから。


 僕らは許されません。愛されません。望まれません。進めません。生きられません。

 でも死ねません。死にません。殺されません。


 すべてが終わった後、僕のことを忘れてください。それか、そもそも見なかったことにしてください。

 何も存在していないんです。存在していないはずなんです。そうでなくてはならないのです。

 自分なんて存在しない。僕なんて存在しない。でも僕の中に確かに存在しているものがある。痛み。悲しみ。苦しみ。形のない何か。存在しない何かが、存在しない何かを傷つけ続けている。

 善も悪もない世界に、僕はいられない。でも善や悪がある世界にいる僕は、どうしようもなく、耐えがたいほど善でも悪でもない、無意味な存在です。


「聞こえなかった。もう一度説明してもらえる?」

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