秘密の共有

「ああ、申し訳ない! 平気?」


 低くて落ち着いた声が頭上から聞こえた。

 私のことを案じていることが感じられる、とても優しそうな声だった。

 

 顔を上げてみると、私より頭ひとつ分高い場所に神々しいまでの美貌を放つかんばせがあった。

 神の采配とも言える完璧なバランスで配置された目、鼻、口。少し甘い顔立ちに見えるのは、目尻がやや下がり気味だからだろうか。

 ふわふわと触り心地のよさそうな少し癖のあるプラチナブロンドの髪色も甘い顔立ちによく似合っている。

 瞳は宝石のアレキサンドライトのように複雑な色合いをしている。青色のようでいて、紫の色味も孕んでいるように見える。

 見る角度によってもキラキラと色を変化させる神秘的な瞳に惹きつけられるように見惚れていると、その魅惑の二つの瞳が私に迫ってきた。彼の顔全体に意識を向けると、お互いの鼻が触れそうなほど近くまで迫っていることに気づいた。


「すっ、すみません。私、不躾ぶしつけにじろじろと見てしまって。こんなにも美しいお顔と綺麗な瞳は今まで見たことなかったので、つい――」


 と、そこまで言って気づいた。


――私のばか! まぬけ! アレキサンドライトのような美しい瞳を持つ人物は、この学園に一人しかいないわ。つまり――。


 私は居住まいを正し、顔を青ざめさせながら臣下の礼をった。


「無礼をお許しください、王太子殿下。私は、ジェセニア伯爵家の長女、リリアーヌと申します」

「ジェセニア嬢、丁寧な挨拶をありがとう。同じ学生なのだからそんなにかしこまらないで。ほら、顔を上げて」


 私は頭を下げた状態だったが、王太子殿下に優しく促され、緊張に身を固くしながら身体を起こした。

 

――王太子殿下、初めてお会いしたけれど……以前の私もお話した記憶がないから、これが本当に本当の初対面だわ。

 

 初対面にも関わらず、不躾にじろじろと顔を眺めてしまったのに、王子殿下は緊張がほどけてしまいそうなほど優しい笑顔を私に向けてくれた。


「それから謝らなければならないのは私のほうだ。ぶつかってしまってごめんね。怪我はないかな?」


 優しい笑みから一転、心配そうに目尻が下がった。私を心配してくださるのは大変ありがたいのだが、完全にぶつかりに行ったのは私のほうで、王太子殿下はたくましい身体からだで私を受け止めてくださったわけで……。思い出すと急に頬が熱を持つのを感じた。

 高貴な身分と完璧な美貌を持ちながら、人に思いやりを持って丁寧に接することができる方にこんなふうに優しくされてしまったら……の男にも簡単に一目惚れして夢中になってしまった私のことだ。ころりと堕ちてしまうに違いないのだ。主に私のためにその優しい心遣いは出し惜しみしてほしいところだ。本音を言えば非常に嬉しいのだけれど。

 

「全く、全然、何ともありません。むしろ優しく受け止めていただいて、美しいご尊顔を拝めて、最高でした」


――動揺しすぎていらないことまで口走ってしまった。王太子殿下相手に! なんてこと!

 

 口から既に出てしまった言葉はもはや回収不可能だ。私は王太子殿下の反応を、冷や汗をダラダラかきながら待った。


「汗臭くて不快だったとか言われなくて安心したよ。それから、この顔でよければいつでも眺めてもらって構わないよ」


 気まずさに目線を落としていた私は、少しおどけたような声色にはっとして王太子殿下の目を見つめた。

 思った以上に優しい表情をした王太子殿下がそこにいて、私は不思議に思った。


「不快……不敬にはあたりませんか?」

「うん。全く。不快でもないし、不敬にもあたらないよ」

「あの……」

「うん?」

「もしかして……さっき、図書館にいらっしゃいましたか?」

「……うん」

「やっぱり。もしかすると、私の婚約者の浮気現場を目撃されました?」


 この言葉をはっきりと口にするのは少しはばかられたが、この学校で誰よりも高貴なこの方が初対面の私にここまで優しく接してくださるなんて、これくらいしか理由が見当たらない。この際はっきり聞いてしまったほうがいいと判断した。


「……うん」

「やはりそうでしたか。お見苦しい姿をお見せして……って、私が言うのもおかしいですよね。いや、でも私の婚約者のわけですし……」

 

 当然殿下に、ましてや公共の場所でお見せするべき姿ではなかったことは間違いないが、あの男の失態を私が弁明するのはどうなんだろう、と口にしながらも疑問に思ってしまった。

 私の中ではあの男はもう自分の婚約者ではないが、公にはまだ婚約者である。

 そう。正式な婚約者なのだ。


――婚約者がいながら、あんなことするなんて……!


 クラウスのふるまいに対し、また怒りが込み上げてきてしまった。

 ……が、王太子殿下が目の前にいることを思い出して焦った。こうしてすぐに自分の思考にふけってしまうのは私の悪い癖だ。

 

「そうだね。本当に見苦しくて不快だった。でも、それはあの男の責任で、あなたは何も悪くない」


 そうなのかな……?

 私は不安に思いながら王太子殿下の瞳を見つめた。

 今までの私は、身分も何もかも彼と釣り合っていないと貶されながらも、彼の婚約者の座にしがみついていた。他の女性が近づかないように、彼が他の女性を見ないようにとできる限り側にいるようにした。

 それが、クラウスの選択肢を狭めていたとしたら? クラウスが私を忌避する理由になっていたとしたら?

 直接的ではなくとも、完全に私のせいではない、とは言い切れないかもしれない。


 王太子殿下は、私のそんな思考を読んだように告げた。


「悪いのは、あの男だ。たとえ婚約者であったとしても、あなたが彼の悪癖について責を負う必要は全くない。そもそも婚約中の浮気など紳士の風上にもおけない行為だ」


 王太子殿下が力強くそう断じてくれたから、私の気持ちはすっと軽くなった。

 さすがこの国の未来を導く次代の王である。彼がクラウスの行動を非難し、私の気持ちに寄り添ってくれたことで、自分に自信を持つことができた。

  

「あなたが望むなら、私が彼に鉄槌を下そう」


 王太子殿下が生真面目な顔をしてそんな言葉を続けたものだから、私はつい吹き出してしまった。

 

 私でもわかる。このような小さな問題に王太子殿下が介入するなんて、通常あり得ないことだ。

 何より、確かに今でさえ婚約中の浮気はとがめられる風潮があるけれど、まだ結婚後は後継を得るために夫が愛妾を持つことは仕方ないと見なされる場合が多いのだから。

 

 ただ、よく知りもしない私のために、こんなふうに言葉を尽くして寄り添おうとしてくださる心遣いが、私には何よりも嬉しかった。

 

 込み上げていた怒りも気づけば霧散してしまっていた。王太子殿下と話していると怒りも不安も取り除かれ、なぜか心が楽になる。

 

 心が穏やかになったおかげで今後について冷静に考えられた。

 これからは勉強するのと並行して、有利に婚約破棄するための証拠集めをしなければならない。これ以上不幸な女性を増やさないために。何より、私自身のために――。

 

「ふふ。王太子殿下がこんなに気さくな方だと思いませんでした。鉄槌は私が下しますので、それまでこのことは秘密にしていただけますか?」

「冗談じゃないんだけどなぁ……」

「……? 何かおっしゃいました?」

「ううん。なんでもない。秘密にするのはもちろんだよ。もっとも、私には気軽に雑談をする友人もいないんだけどね」


 王太子殿下は少し寂しそうに、でも諦めたように笑った。私は、どうしてかわからないけれど、彼にそんな顔をしてほしくないと思ってしまった。

 初めて会って少し話しただけなのに、この方の纏う空気は私にとってとても心地良くて、もっと仲良くなりたいと思ってしまう。

 この機会を逃せば、この方と仲良くなれる機会は一生訪れないだろう。


――これは、やっぱり天から与えられたチャンスなのかもしれない。後悔するくらいなら、行動に移せってことよね!


 そう思った瞬間、咄嗟に思う言葉を口にしていた。


「では、私が殿下のお友達に立候補してもいいですか? 秘密も共有するわけですし……」


 王太子殿下は驚いた表情を、みるみるうちに喜色に塗り替えて答えた。


「嬉しいよ! じゃあ、リリアーヌって呼んでいい?」

「友人には『リリー』と呼ばれていますので、殿下も是非そう呼んで下さい」

「……! リリー! ありがとう! 私の名前は知っている?」

「もちろんです。ルイナルド・スヴェロフ王太子殿下」

「よかった。私のことはルイと呼んでほしい。リリー。助けが必要な時はいつでも私を頼ってほしい。あなたと私は今日から友人なのだから」

「ありがとうございます。ルイ様」


 それからルイ様にジェセニア伯爵家の馬車停めまで送っていただいた。

 その道すがらいろいろ話をしたが、ルイ様は機知に富んだお話をされるので、短い時間だったのにとても楽しく過ごすことができた。

 私は素敵な友人ができて嬉しくて、とてもはしゃいでいたけれど、ルイ様が妹を見守る兄のように優しく目を細めて微笑んでくれるものだから、くすぐったい気持ちになった。これが噂に聞く年上の包容力というものだろうか? なんて思ったりして。その時の私はルイ様がクラウスと同い年という事実はすっかり忘れていたのだ。

 

 彼と過ごす時間は、昔からずっと知っている人と一緒に過ごしているかのように心地よく私に馴染んだ。

 

 ルイ様との出会いは唐突でとても驚いたが、彼の温かな心配りのお陰で私のささくれ立っていた心は大いに慰められた。

 私が傷ついて逃げ出したところを見て、心配して追いかけてきてくれたのだと知り、さらに胸が締め付けられるほど嬉しく思った。


 帰りの馬車に乗り込んだ私の頭の中はルイ様でいっぱいになっていた。その出会いは、今日遭遇した嫌な出来事を相殺して余りあるほどの幸運だったと私は思った。

 

 溢れそうになっていた涙は、いつの間にか跡形もなく蒸発していた。

 

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