海底のセルフィッシュ

紫蘭

海底のセルフィッシュ

 満月の美しい夏の夜。

 わたしはひとり、東京湾と向かい合って折り紙をしていた。


 深夜二時を回った港に、人は居なかった。辺りには波のさざめきだけが響いている。海の音は聞いているだけで気持ちがいい。


 昼間切ってもらったばかりの髪の間を潮風が通り抜けていく。東京の夏は夜といえどもむせるほどに暑く、波の音だけが救いだった。


 カエルを折り終えて、わたしはカバンの中の次の原稿用紙に手を伸ばした。月をぼんやり眺めながら、次は何を折ろうかと考える。折り紙をするのは、子供の頃、母に教えてもらって以来だった。


 道路の上に直置きしたスマホが絶え間なく光っているのが見えた。液晶画面いっぱいに覆い尽くされた名前は全て同じ人。慌てふためいて電話をかけている様子が容易に想像できた。


 わたしは電話を無視して、せっせと手を動かす。青いインクがびっしり書き込まれた原稿用紙は徐々に形を変えて、生き物になっていく。


 鼻歌を歌いながら折ったカエルや鶴、ゾウを先に作っておいた箱に大切にしまう。随分たくさん折ったけれど、まだ少し隙間があった。わたしは少し考えてから、原稿用紙を手に取る。


 生き物たちが窮屈になるのも可哀想なので、もう一舟追加で折った。それからピアノやカメラを仲間に加えて、ついにお手製の方舟の完成だった。


 船が壊れないようにそっも海に下ろして、船が水中を漂うさまをじっと見つめる。

 きっと今ごろ、香坂さんはわたしの置き手紙に気が付いて、血相を変えてわたしを探し回っているはずだ。


 だって今、香坂さんの、大切な大切な商品が海の藻屑になろうとしてるのだから。


 この光景を見て、香坂さんはなんて言うのだろう。

 わたしは、ただそれだけが楽しみだった。




 ***




 十年前のことです。

 当時十六歳、内気でとにかく恥ずかしがり屋の女の子がいました。あまり裕福とはいえない家庭の一人っ子。一番嫌いなものは満員電車で、毎朝の通学時間が苦痛でした。緊張してしまって、知らない人とは会話にならないし、友達もいなかった彼女には、唯一の趣味がありました。それが小説です。

 彼女は小説を読むことも、書くことも大好きで、その年、彼女の書いた小説がコンクールで小さな賞を獲りました。少女の人見知りを嘆いていた両親もこれに大層驚き、祝福しました。

 それだけで彼女は満足でしたし、この先も好きなように小説を書けたらそれで良いと思っていました。



 そんなある日、とある出版社を名乗る男から家に電話がかかってきます。

 怪しいとは思ったものの、結局、少女は両親と共にその男に会うことに決めました。

 場所は都内某所の喫茶店で、初めて聞く本物のレコードが流れていました。

 時間通りに現れた男はかっちりとしたスーツを着込み、銀縁の眼鏡をかけていました。香坂、と名乗ったその男はヒット作を喉から手が出るほど欲していた、駆け出しの編集者でした。

 香坂は少女に商業用の小説を書いて欲しいと依頼し、その話に少女は乗ることを決意します。

 少女は両親の背中を見て、お金を稼ぐことがどれほど難しいことなのかよく知っていました。だから、本を書いてお金が得ることができたら、それ以上素晴らしいことはないと、その時の少女は思っていました。


 内気な少女とは対称的に、香坂は常に自信に満ち溢れていました。己の発言に絶対の自信を持ち、貪欲に出世欲を滾らせている香坂に少女は憧れました。


 彼は少女にはないものをたくさん持っていました。少女の目に彼はとても魅力的に映り、彼自身もそれを自覚している節もありました。


 それから、香坂の持ってきた原稿用紙に、香坂の選んだ万年筆とインクで原稿を書き、香坂の指定するテーマに沿ってストーリーを組み上げる日々が始まりました。


 香坂は少女の小説が脱稿すると、

「─────の小説が一番だよ」

 と毎回少女の耳元で囁きました。少女はそれが嬉しくて、香坂の言葉通りにこの先何度も小説を書くことになります。


 少女には、香坂に小説を書かされているという自覚がありませんでした。少女にとって小説とは、外界と繋がる唯一の手段であり、他に選択肢はなかったのです。




 少女の小説は飛ぶように売れました。

 現役女子高校生の書いた小説。

 その肩書きはあっという間に人々の心を鷲掴みにしました。少女は姿を世間に晒さず、覆面の作家を名乗りました。それもまた香坂の戦略でした。


 皆が少女の容姿を想像し、期待し、一目でも一瞬でもいいから見れないものかと気を揉んでいる光景を見て、少女は首を傾げ、香坂は満足げに頷いていました。

 そんな中、少女の手書きの原稿は信じられないほどの高値で取引されるようになります。その少しレトロなこだわりが大人たちをも魅了したのです。

 映画化などのタイアップのおかげもあって、少女の元には莫大なお金がなだれ込みました。それは香坂も同じでした。


 初めて手にした大金を前に、少女はとても興奮しました。目の前に置かれた札束がこの世で何よりも価値のあるもののように思えました。

 しかし、その札束の厚さに慣れてくると、少女の中でお金を稼ぐことの達成感が薄れていったのでした。


 高校を卒業した少女は両親の不安をよそに、都内の香坂の家に転がり込みます。その方が効率が良かったのです。香坂の家は余計なものがなく、静かで不思議と落ち着く場所でした。香坂の家、とは言っても香坂はほとんど家にはおらず、少女は空腹で倒れるまで、キーボードを叩き続けました。


 お金を得たことで味をしめた香坂は、次第に内容を細部まで指定するようになります。より世間が欲するものを生み出そうと、香坂は躍起になっていたのです。世間が求めているものを少女は知らず、香坂はよく知っていました。それもまた事実でした。


 一方の少女も、小説を書く目的が純粋な楽しさから底なしの欲へと変わっていきました。両親も少女のお金で前よりずっと良い生活をしていました。もちろん、少女自身も。

 それでも少女は満たされない心を埋めるために、以前にも増してお金を求めるようになります。


 それに気付いた香坂は、少女が倒れない程度に仕事を増やしていきました。


 そんなある日、少女は散歩の途中で本屋に寄りました。少女の書いた本が特設コーナーに置かれていました。少女はいつものように本屋をぐるりと一周します。



 そのとき、少女はある違和感を覚えました。



 内容も作者も違うはずなのに、手に取った本全てが同じ入れ物のように見えたのです。

 まるでポイントを入れ替えただけのような、そんな感じです。

 そして、少女もまた、その入れ物に見覚えがありました。慌てて少女は特設コーナーの自分の小説をパラパラと読み、己の、そして、香坂のしていたことに、はじめて気が付いたのでした。


 それ以来、少女はこれまで溢れるように出てきた言葉が出てこなくなりました。香坂と出会って以来はじめて、万年筆を動かすことなくその日が終わりました。



 その日から、わたしは一文字たりとも小説を書けなくなりました。



 香坂さんと毎日のように喧嘩をしました。

 わたしはどうしても、香坂の求めるものが書けませんでした。いえ、正確には書きたくなかった、という方が正しいかもしれません。わたしは、何のために小説を書いているのか分からなくなってしまったのです。

 香坂さんは「どうして分からないんだ」と繰り返しわたしの肩を揺らし、わたしはただ首を左右に振りながら涙を流します。香坂さんに言い返す術を持たないわたしは、そうするしかありませんでした。




 そしてひと月ほど前のことです。

 小説が書けないのなら、と香坂は自伝の仕事を持ってきました。



「これで最後だからな」



 香坂さんはそう言い残して部屋を出ていきました。クーラーに負けない冷たい目でした。

「小説の書けないお前に用はない」そう言われた気がしました。

 香坂さんの持ってきた封筒を開けると、わたしがこれまで書いた小説やその背景がびっしり書かれたレポートが何枚もでてきました。全て香坂さんが作ったに違いありません。



 自伝なんて、何を書いたらいいのか分かりません。椅子の上で膝を抱えて、その日一日をぼんやりと過ごしました。



 ある日、部屋をぐるぐると歩き回っていると、足に何かが当たった感触がしました。拾ってみるとテレビのリモコンでした。

 わたしは、一年以上付けていなかったテレビの電源を入れます。お昼のワイドショーのようです。久々に見てみよう、と思った次の瞬間、テレビから聞き慣れた声がしました。



 驚いたことに、コメンテーター席に居たのは香坂さんだったのです。

 髪をワックスで固めて、シワひとつないスーツを着て、手首には眩しい腕時計が光っていて、彼の口は辛口の文句を言っています。


 一方のわたしはどうでしょうか。

 ぐしゃぐしゃの髪で、メイクもしないだらしない顔で、お金のためにずっと小説を書いている、くだらない人間。


 わたしはテーブルに散らばっていた万札を鷲掴みにして、衝動のまま部屋を出ました。

 目に付いた美容院に入り、傷んだ髪を切ってもらい、シャンプーをして、頭が軽くなったような気がしました。


 帰り道、わたしは馬鹿の一つ覚えのようにハイブランドの服とバックを買いました。大量の紙袋を下げて歩く自分がひどく奇妙に思えて、わたしは俯いて家に帰ったのでした。わたしはその時はじめて、買い物は穴を埋めてくれないことを知りました。



 わたしは家に帰り、今、この自伝を書いています。こうやって書けば書くほど、自らの愚かさと直面しなければならず、苦しい気持ちでいっぱいです。



 そう、わたしは、自分がただのあやつり人形で、香坂さんの商売道具のひとつでしかないことをようやく認めたのです。

 都合よく効率よくお金を生み出すために、香坂さんは、わたしの人生をお金で買いました。

 そう思ったら腹が立ちました。

 香坂さんはきっとわたしの能力や作風なんてどうでもよくて、ただ年頃の、小説を書ける女の子が必要なだけだったのでしょう。

 でもわたしも同罪です。

 香坂さんの言葉を信じ、お金のために少女を書き続けたのですから。



 今わたしの頭の中には、書きたい小説が溢れています。自己満足としか言えないような小説は、果たして売れるのでしょうか。



 なんとなく、ですがわたしはその答えを知っています。それでも、今のわたしよりはマシな気がします。


 幸いなことに、わたしにはお金があります。やってみる価値のあることです。



 ***



 一際強い風が吹いて、わたしの方舟がさらに沖の方へと進む。もう浸水が始まっていた。

 自伝というものは、どうにも恥ずかしい。これが世に出たかもしれないと思うと寒気がする。



 原稿用紙は海水を吸ってふやけて、少しずつ沈んでいく。形をなさなくなった原稿用紙には、青のインクがじんわりと滲んでいた。



 手持ち無沙汰になったわたしは、余っていた原稿用紙で紙飛行機を作る。手首のスナップをきかせて、夜の東京湾に向けて勢いよく飛ばした。長いこと滑空を繰り返していたけれど、結局波に飲まれてしまった。




「───────っ!」



 香坂さんは常にわたしのことをペンネームで呼ぶ。だから、本当の名前なんて忘れてしまった。そんなもの、もう必要なかった。



「遅かったですね」



 はやる気持ちを抑えながら、できるだけ冷静な声で話す。

 香坂さんは昼間テレビで見たままの格好で、そこに立っていた。それでも走ってきたのか、髪は少し乱れている。



「そんなことよりなんだあの手紙は⁉」



 息を切らした香坂さんが、わたしを睨みつける。



「見ての通りですよ」



 あなたに依頼された自伝を方舟にして、海に流したんです。



「……じゃあ自伝は、」



 祈るような目で香坂さんはわたしを見た。

 わたしはすっと立ち上がって、香坂さんに背を向けたまま、残りの原稿用紙を海に向かってばら撒く。風が勢いよく原稿用紙を巻き上げて、はらはらと海面に落下する。

 振り返ると、動揺し、怒りに震えている香坂さんがいた。わたしは思わずにやけてしまいそうで、慌てて口元を手で覆う。



「どういうつもりだ……」



 香坂さんが怒っている。

 あの、冷静沈着な香坂さんが怒っている。

 その事実にわたしはひどく興奮していた。



「今日、本屋に行ってきたんです」

「……」

「ストーリー展開は全て一緒で、キャラや世界観を入れ替えただけの、小説だらけでした」

「……それがどうした」

「わかりませんか?」

「なに?」

「わたしは小説を書いてなかったんです」



 香坂さんが黙った。



「わたしと香坂さんがテンプレートを生み出して以来、わたしのしていたことはただの当てはめゲームに過ぎなかった。香坂さんが売っていたのは小説ではなく、そのテンプレートだったんです。そうですよね?」



 わたしは香坂さんの返事を待った。

 でも、香坂さんは急に走り出して、そのまま海に飛び込んだ。



 多分、原稿だけでも回収しようと思ったのだろう。醜いとしか言いようがなかった。



 こんな人に憧れていた自分が恥ずかしくなって、心の中で何かがすーっと消えていく。



 水しぶきの音がして、大きな波紋が広がった。わたしは、香坂さんが飛び込んだ方をじっと見つめる。方舟の行方が気になった。もうどこにも見当たらなかった。



 海面から顔を出した香坂さんの髪はしなっとしていて、不恰好だった。わたしはそんな香坂さんを見下ろす。



 香坂さんが口を開こうとした瞬間を狙って、わたしは言葉をかぶせる。



「もう香坂さんとはお別れです」



 香坂さんの顔から血の気が引いていく。だからわたしはにっこりと微笑む。だけど表情筋が痛かった。



「だってわたし、習作を書くのはもう飽きちゃったんです」



 わたしは精一杯の笑顔をしてから、香坂さんに背を向けて歩き出す。

 背後で香坂さんがなにやら怒鳴っているけれど、そんなことはどうでもいい。



 わたしの方舟は月明かりに照らされて、今も海底を漂っている。


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