第20話三日目

 三日目




 ゆっくりと覚醒の時を迎える。

 目覚めたらiPhoneを見る。

「げ!午前7時!ゆかりが大変だ!」


 また、腹を空かせていないかと心配になって、俺はゆかりの部屋に急いだ。

 こんこん、とゆかりの部屋をノックする。

「ゆかり?」


 しかし、返事はない。

 一応、壁耳をして、咳がないかどうか確かめる。

 ないようだ。

 また、ノックをする。


「ゆかり!」

 それにもぞもぞとする音が聞こえた。

 そして、寝ぼけまなこの声が聞こえる。


「ん?兄さん?」

「大丈夫か?お前?」

「ん、ちょっとね」


「ちゃんと体温計で熱測れよ」

「ふぁーい。ふぁーあ」

 何か心配になる。

 病状は悪化しないよな?

 そうしないことを願わずにはいられなかった。




 昼食が済み、ゆかりのトレイを引き上げようとした時に、ゆかりは昼を残していた。

 今朝の状況を考えて食べれるように作ったうどんだった。それをゆかりは残した。

 俺は扉をノックした。

「ゆかり」


 しかし、壁耳したところ、スースーっとゆかりの寝息がわずかに聞こえた。

 …………………

 俺は黙ってとトレイを片付けた。




 午後4時。

 俺は本を読んでいたが、ふと思い立ってゆかりに電話をしてみることにした。

 いや、その前に起きているか確認だな。


 寝ていては起こしちゃ悪いし。とにかく確認をしないと。

 俺はゆかりの部屋の前に来て、起きている気配をしてから自分の部屋に戻って電話をした。

 数度のコールで繋がった。

「もしもし?」

『何、兄さん?』

 電話からの妹の声はかなり眠たそうだしているのがわかった。


『ゆかり、お前大丈夫か?』

 それにゆかりはナハハと笑う。

『ちょっと熱っぽい、それと悪寒がする。ゴホッ!』

「咳は大丈夫か?」


『ときどきするね。ゴホッ、ゴホッ!』

 大丈夫か?今日の夕食食べれるか?医者に診て(みて)もらったほうがいいんじゃないのか?

 という言葉が駆け巡る(かけめぐる)が、それも言えずにいた。そういう気休めの言葉をゆかりは求めていない気がしたからだ。

『兄さん、どうしたの?』

「え?」

『なんか元気ないよ?』


 そんな俺の気持ちを知らずにゆかりは優しく言った。

 それに俺も素直に応えようと思った。


「ああ、身内が病気で苦しんでいるからさ、ちょっと心配になって。ところで、夕飯は食べられそうか?」

『私は元気だよ。ちょっと熱っぽいけど、寝たらある程度回復するし、夕飯はそうねえ。軽めのものお願い』

「わかった雑炊にするよ」


『うん、お願い。あのね、兄さん』

「ん?」

『私、大丈夫だから、そんなに心配しないで?』

「そうか」


『ふぁーあ。ちょっと眠たくなってきちゃった。私は寝るね』

「おやすみ」

『うん、おやすみなさい』

 それで通話を切った。




 それから俺はしばらく本を読んでから雑炊を作り、ゆかりのために少なめに装って、自分はコンビニの菓子パンと多めの雑炊にすることとし、ゆかりの部屋に行った。

 しかし、ゆかりの部屋から聞こえてきたのは…………………。

 ゴホッ!ゴホッゴホッゴホッ!ゴホッゴホッ!ゼーヒー、ゼーヒー。

 俺はたまらず、トレイを床に置いてノックをする。

「大丈夫か!?ゆかり!」


 しかし、返事は、…………

 ゴホッゴホッ!ゴホッ!ゼーヒー。

 咳の音しか聞こえなかった。

 10分が経過しただろうか、ようやく咳の音が止み、ゆかりの声が聞こえた。


「にい、さん………」

「ゆかり、だいじょうぶか!?」

「う、うん、何、とか、ゴホッ!ゴホッゴホッ!」


「!大丈夫か!」

「うん。夕飯置いといて、ゴホッ!」

「ゆかり……………」

 俺はご飯を扉の横に置いて、その場から立ち去ることしかできなかった。




『はい、こちら渋谷区保健所です』

 出てきた若い女性の声に俺はいった。

「あの、妹がコロナ患者なんですけど、病状が急速に悪化してまして、病院に入院させていただきたいんですが………」


『妹さんはどんな症状(しょうじょう)で?』

「とにかくよく咳をします。会話ができなくなるほど良くします」

『ご飯は取れてますか?』

 ちらりと俺は小さく装った少ししか食べられていない雑炊を見た。

「少ししか食べれていないみたいです」

 しかし、にべもない返事が出てきた。


『ダメですね』

「ダメ、ですか」

「大変お心苦しいんですけど、ご飯が少し食べられていることはちょっとお引き受けは難しいかと。こちらも病床が満員ですし。妹さんは病気の発症から、何日めですか?」

「三日めです」


『とりあえず、国の指針で4日までは自宅で安静(あんせい)する指針が出たので安静(あんせい)でお願いします』

 俺はたまらず怒鳴り出した。

「安静(あんせい)と入っても妹は苦しんでいるんだぞ!あのまま放置していたら死んでしまうかもしれないだろ!」


『はい、はい、お兄さんの言いたいこともわかります。しかし、規則としてそうなっているので、失礼します』

「おい!」

 通話は切れた。俺は嘆息し別の人に通話を始めた。




「中川さんありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ、ゆかりちゃんの面倒を見られてよかったです」

 ゆかりが、いざとなったら体を拭い(ふい)てくれる友人、中川さんに俺は頭を下げた。


 中川さんはスラリとした美女で、ハーフアップされ黒髪のロングヘアに彫りの濃い顔立ち、アイシャドウもバッチリ決め、シルバーのピアスとネックレスをした、今風の美女である。

 その中川さんがまじまじと俺を見つめる。


「ふーん。あなたが命さんですか?」

「はい」

「よければ今度私とお茶をしませんか?」

 本当に今風の肉食女子だな。


「なら、クロス交換しますか?」

「お!引かない。さすが、命さんですね♪ 」

「じゃあ、私はこれで」

 俺はもう一度深々とお礼をした。


「本当にありがとうございました」

「いえいえ、ゆかりちゃんは私の大事な友達ですから♪ 」

 そして、夜が更けた。


 ゆかりの心配は一旦置いといて、寝ようと思った時に、これまでよりも激しい咳の音が聞こえた。

 大丈夫なはずだ。

 俺は心の中で独り言を言う。


 若者の死者は0、01%死ぬわけがない。

 ゴホッ!ゴホッ!

 俺は布団を握りしめる


 ゴホッ!ぜーひー、ゼーヒー。

 大丈夫、大丈夫なはずだ。そうであるはずだ。

 ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ぜーひーー、ぜーーーーー。


「ゆかり!」

 俺はこれまでの考えを捨てて、すぐにゆかりの部屋に飛び立つ。開けるかどうか一旦迷ったが俺は開けた。

「ゴホッ!ゴホッゴホッゴホッ!ゴホッゴホッ!ゼーヒー、ゼーヒー」

「大丈夫か!ゆかり!」


 ゆかりは憔悴(しょうすい)し切っていた。顔色が土色になっていて10年も老けこんでいるみたいだ。

 ゆかりの目が俺を捉える(とらえる)。


「に、兄さん」

「ゆかり」

 俺はゆかりのそばに行った。

 ゆかりの目が俺を捉える(とらえる)。その目はご主人に縋る(すがる)子犬のようだった。


「に、ゴホッゴホッ!」

「ゆかり、大丈夫か!」

 また、子犬のような目をしてゆかりが俺を捉えた。


「兄さん」

「ゆかりなんだ?」

 ゆかりは涙を流しながら言った。


「たす、けて」

「ゆかり」

 俺はゆかりの右手を両手で握った。


「助けて、お兄、ちゃん」

 俺は頷いた。

「もちろんだとも!」

 俺は体温計をゆかりの脇(わき)に入れた。

 そして、手を握り続けた。


 20代の死者は0、01%。しかし、今この場で0.01%を引くかもしれない。

 将来のことはわからない。

 おそらく、ないだろうと思っても、それはあくまで確率論だ。


 確率として、20代の死者は少ない。しかし、全くないわけではない。

 そして、ゆかりは今中等症だ。この時点では生きるか死ぬかはわからないけど、しかし、もし死んでしまった場合。俺はものすごく後悔すると思う。


 ゆかりの看護(かんご)をして、俺も死ぬ可能性も限りなく少ないが、ゼロではない。しかし、それよりも俺はゆかりの看護(かんご)をしたかった。

なぜならゆかりが助けを求めているから。理由はそれだけで十分だ。


それは本来であれば間違っているかもしれない。いや、間違っている可能性の方が高い。

だが、俺は間違っているとか正しい以前に、そばにゆかりが死ぬほど辛い目にあっているのに、それをそのままにしておくほど、忍耐強くなかった。


誰だってそうだろ?自分が本当に助けられたいと思ったら、人にそばにいてほしいし、だからこそ、自分もそういう人が出てきたら助けたいと思う。ただ、それだけだ。

なので、俺はゆかりのそばにいることを決心した。

 ピピっ。

 体温計を見る39度。かなりの高温だ。


 俺は冷やし枕を用意し、ハンドタオルケットで汗を拭い(ふい)た。

 流石にこの状況で女性に恥ずかしい部分は除いたが、顔、首、背中などを拭い(ふい)た。

 そして、俺はゆかりの手を握り続けた。


 ゆかりはあくまで咳をしっぱなしで手足が震えていた。

 そんなゆかりに話しかける。

「ゆかり、お兄ちゃんがそばにいるからな。お前が苦しい時にはいつもお兄ちゃんがついていってやるぞ。お前は一人ぼっちじゃない。ひとりぼっちじゃないんだよ」


 ゆかりの目尻が少し下がった気がした。

 相変わらず咳は続いていたが、ゆかりは穏やかに目を瞑り(つむり)出し、咳ではなく、寝息を立て始めた。

 俺は一晩中ゆかりの手を握り続けた。


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