第二節 匈奴襲来

第三十二話

 始建国しけんこく元年(西暦九年)の冬、大新帝国の外交使節団が匈奴フンヌ単于ぜんう国を訪れた。使節団は大新帝国の建国を単于国に伝え、かつて大漢帝国が単于国へ贈与した金印を、使節団が持参した大新帝国の金印と交換することを求めた。大漢帝国は関係を結んだ国家や民族に対し、その存在を相互に承認した証として金印を贈与しており、大漢帝国の後継国家である大新帝国は、自国の存在を周辺の諸勢力に承認させるために、金印を持たせた外交使節団を派遣していた。匈奴単于国の君主、烏珠留うしゅりゅう単于は使節団の求めに応じ、それまで所持していた金印を使節団へ渡し、新たに贈られた金印を身に帯びた。


 使節団を歓待する酒宴が催された。地面に絨毯が敷かれ、焼いた肉、羊乳の乾酪チーズ、馬乳酒、タリム盆地から取り寄せた葡萄などが並べられた。使節団の者は膝を揃えて、匈奴単于国の者は胡坐で、用意された席に着いた。宴を盛り上げるために、名馬と罰杯を賭けた競馬が行われた。烏珠留単于が所有する名馬を手に入れようと、使節団の者たちは賭けに熱中した。他所者に名馬を取られてなるものか、と匈奴単于国の者も賭けに参加し、そこだ、差せ、逃げ切れ、と握り拳で馬と騎手を応援した。


 饗応する側とされる側、双方の緊張が酔いで解れてきた頃、賭けに敗れて罰杯を重ねた使節団の武官が、匈奴単于国が烏桓うがんを攻撃したことを話題に上げた。烏桓は単于国の東に割拠する遊牧民族で、武官は烏珠留単于に対し、捕虜にした烏桓の人間を解放するよう要求した。通訳として烏珠留単于の近くに控えていた少年が、酔いで発音が正確ではない武官の言葉を、四苦八苦しながら匈奴単于国の公用語に訳して単于に伝えた。烏珠留単于が要求に対して返答するよりも早く、烏珠留単于の近くの席に座していた黒衣の男、烏珠留単于の異母弟にして王昭君の子である輿が、角杯から口を離した。


「断る。これは匈奴と烏桓の問題だ。漢の指図は受けない」


 使節団の通訳が、輿の言葉を大新帝国の公用語に訳した。輿が大新帝国を漢と呼んだことを知り、漢ではない、大新だ、と武官が声を荒げた。隣の席に座していた外交官が武官を宥め、改めて匈奴単于国側に烏桓の捕虜の解放を求めた。匈奴と烏桓の問題と言い張る輿に対し、烏桓は大新帝国に臣従しているから、匈奴と烏桓の問題は大新帝国の問題でもある、と反論した。


「然らば、大新の使節に申し述べる」


 輿は角杯を乾し、絨毯の上に置いた。


「偉大な冒頓ぼくとつ単于が漢の皇帝と兄弟を契りを結んで以降、単于と皇帝は君臣ではなく、対等な兄弟のはずだ。兄弟として大新を尊重はするが、大新皇帝の命令は受けない」


 これは命令ではなく、兄として弟を諭しているのだ、と新帝国の外交官は言い、匈奴単于国が烏桓を攻撃したことの非を説いた。輿は外交官の言葉に対し、非は烏桓の側にあると主張した。


「烏桓は匈奴に対し、毎年、兎の毛皮を納めると約束していた。しかし、その約束を烏桓は破り、そのことを糺すために単于が派遣した使者を殺し、更には烏桓と交易しようとした匈奴の牧民まで殺した。殺された者たちの中には、女や子供も多く含まれていた。それでも大新帝国は烏桓を庇い、匈奴が悪いと言い張るのか」


 烏桓の族長たちは匈奴単于国の使者が先に手を出したと話している、と外交官は言い、匈奴単于国の使者が烏桓の族長を捕らえ、逆さ吊りにしたという話は真実か、と匈奴側に質問した。


「話し合うために向かわせたはずの使者が、烏桓の族長に乱暴を働いたことは我らも聞いている。しかし、烏桓が約束を破らねば匈奴が使者を派遣することはなく、また匈奴の使者は烏桓の族長を殺してはいないが、烏桓は匈奴の使者と牧民を殺した。責められるべきは匈奴ではなく、烏桓だ」


 しかし、と外交官は更に反論した。烏桓は既に匈奴単于国に対し、賠償金、及び捕虜の身代金として数百頭の家畜を納めている。そうであるからには、匈奴単于国は速やかに烏桓へ捕虜を返還すべきではないか。


「捕虜を返せば、烏桓はまた我らとの約束を破るだろう。そもそも、烏桓が我らとの約束を破り、使者を殺すことまでしたのは、おまえたち漢人が――」


右屠耆うしょき王」


 酒宴に同席していた須卜当しゅぼくとうが輿の声を遮り、ぺ、と口中の葡萄の皮を横の器へ吐き出した。右屠耆王、とは輿が就いている官職で、匈奴単于国の南西部を統轄する総督である。


「そこまでにしてもらいたい」


 それ以上は踏み込むな、と須卜当は輿を制し、新帝国の外交官へ目を向けた。


「大新皇帝の使者よ、そこの男は大漢帝国から嫁した佳人、王昭君おうしょうくんの子だ。単于は大新帝国との和親を重んじ、王昭君の子を右屠耆王に任命して、大新帝国と境を接する地を任せているが、生母が匈奴の牧民ではないためか、匈奴の馬乳酒が体に合わず、このように悪酔いして心にもないことを口走るのだ。どうか、許されよ」


 そういうことであられたか、と外交官は微笑した。確かに匈奴の馬乳酒は我らには強すぎる、と頷き、その馬乳酒が満たされた杯を乾した。酩酊したように上半身を揺らしながら、この一杯で今まで話していたことを忘れた、と冗談を口にした。場を円く収めるために、使節団の他の外交官たちが笑い声を上げた。匈奴側にも外交官の冗談が通訳を介して伝えられ、烏珠留単于が刀痕だらけの恐ろしげな顔を笑ませた。給仕の女に革袋の酒を角杯へ注がせながら、新帝国の外交官の主張に理があることを認め、捕虜を烏桓へ返還することを約束した。


 宴が終わり、大新帝国の外交使節団が烏珠留単于の前を辞した。烏珠留単于は使節団に宿所を提供しようとしたが、使節団は先を急がねばならないことを理由に、早々に出立した。使節団が去ると、宴に出席していた匈奴単于国の貴族の男が数人、烏珠留単于の許に押しかけた。烏珠留単于の側近である須卜当が応対した。貴族の男たちは須卜当に、本当に単于は烏桓へ捕虜を返還するつもりなのか、と質した。須卜当は答えた。


「単于は虚言を弄したりはしない。新帝国の使節に約束した通り、捕虜は烏桓へ返す」


 単于の許へ押しかけた貴族たちの中には、単于の一族である屠各とかく攣鞮れんてい氏の男が含まれていた。金の装飾具を身に着けた攣鞮氏の男は、匈奴単于国との約束を破るよう烏桓を唆したのは新帝国であるのに、帝国からの要求を呑むのか、と声を荒げた。


「唆されたというのは、烏桓の言い分です。新のせいにして言い逃れようとしているのかも知れない」


 本気でそう思うのか、と攣鞮氏の男は質した。


「思わない。が、そこは大して重要ではない。新との和親を保ちながら、新に臣従している烏桓に、匈奴の強さと恐ろしさを思い知らせる。それが最も重要なことだ。もう烏桓には十分に思い知らせた。これ以上、烏桓との争いを長引かせれば、烏桓の宗主国である新との和親が破れかねない。だから、これで終わらせる」


 何が和親か、と攣鞮氏の男は喚いた。新帝国が匈奴単于国の孤立化、弱体化を企んでいることは明白であり、それでも須卜当が和親を主張するのは、妻を人質に取られているからに違いない、と言い出した。妻を惜しんで匈奴単于国を裏切るとは情けない男だ、と攣鞮氏の男は須卜当を侮辱した。男の周りの貴族たちも、匈奴の戦士の恥晒しめ、と須卜当を面罵した。


「おい」


 貴族たちの後ろから声が響いた。


「今、おれの姪の話をしていたか?」


 後ろから伸びてきた手が、攣鞮氏の男の肩を掴み、ぐいと振り返らせた。


「おれの大事な姪の夫を――」


 攣鞮氏の男は胸倉を掴まれた。男の足が地面から離れた。


「――情けない男と呼んだな」


 攣鞮氏の男の体が、男と意見を同じくしているはずの右屠耆王、輿の腕に吊り上げられた。攣鞮氏の男の顔が赤く歪み、男の手が輿の腕を掴んだ。苦しい、と訴えるようにも、なぜ、と問うようにも、男の口が動いた。


「よされよ、右屠耆王」


 須卜当が輿を止めた。


「彼らは彼らなりに、匈奴を憂いているのだ。悪意があるわけではない」


「どうだかな」


 唾棄するように、輿は攣鞮氏の男を横へ抛り捨てた。地に倒れ伏した男へ、手が差し伸べられた。差し伸べられた手を掴んだ攣鞮氏の男は、それが自らの取り巻きの手でなく、須卜当の手であることに気づいた。須卜当を直視できず、下を向いた。輿は立ち竦んでいる貴族の男たちを睨みつけた。


「須卜当は勇敢な戦士だ。二度と戦士を侮辱するな。戦士に敬意を払わない者を、おれは許さない」


 攣鞮氏の男と取り巻きの貴族たちは輿を恐れ、逃げるように須卜当と輿から離れた。貴族たちがいなくなると、須卜当は改めて輿に目を向けた。


「あなたも、単于に何か言いたいことが?」


「いや――」


 烏桓に捕虜は返さない。先程の酒宴で輿はそう吼えたが、実は本心ではない。大漢皇帝の子孫を自称する盧芳ろほうと派手に殴り合い、姪を乗せた穹廬きゅうろを見送りながら額に傷を刻んだ日から、八年の歳月が流れていた。烏桓へ捕虜を返還する、という烏珠留単于の判断が最善であることを、輿は八年の間に身につけた知恵で理解していた。


「――おれが会いに来たのは、右骨都うこつと侯、おまえだ」


 右骨都侯、とは須卜当が就いている官職で、単于の次席補佐官である。


「酒宴で口を滑らせかけた時、助けてくれた」


「あなたのためにしたことではない」


「おれがやらかして、おまえに庇われた。それは間違いないことだ。感謝している」


「やめろ。気色悪い」


 須卜当は輿から目を逸らした。だが、と輿は横目で須卜当を睨んだ。


「それはそれとして、あの時の言葉は何だ」


「何のことだ?」


「おれは母が漢人だから、馬乳酒が体に合わないとほざいた。庇うにしても、他に言いようがあるだろうが」


「気にしすぎだ」


「何だと。おれが何を気にしていると――」


「用がそれだけなら、おれは戻る。あんたも、早く任地へ戻れ」


 須卜当は輿に背を向けた。ち、と輿は舌打ちした。不愛想なやつだ、と言いたげな顔をしたが、須卜当の背中が離れると、ふ、と笑みを漏らした。


 翌日、使節団を歓待する宴で匈奴側の通訳を務めた少年が、烏珠留単于の穹廬に呼ばれた。烏珠留単于は少年に、烏桓の族長たちに宛てた書簡を書かせた。匈奴と烏桓は文字を持たないため、一方が他方へ書簡を送る時は帝国の文字を使う。少年は文字を書き終えて筆を置くと、書簡を閉じて革紐で縛り、革紐の結び目に封泥用の粘土を貼り付けて単于へ差し出した。烏珠留単于は書簡を手に取ると、大新帝国から贈られた金印を粘土に押し、書簡を封じた。


 違和感のようなものを、烏珠留単于は覚えた。書簡の封泥と金印を交互に見た。筆記具を片づけていた通訳の少年が、片づける手を止めて単于を見た。


「如何されましたか、単于?」


「金印の字が、前と違う気がする」


 昨日まで所持していた漢帝国の金印には、匈奴単于璽、という五字が刻まれていた。しかし、新帝国の金印に刻まれている文字は、漢帝国のそれと形が異なり、数も一つ多い。


賈覧からん


 通訳の少年の名を、烏珠留単于は呼んだ。


「これは、何と読むのだ?」


 烏珠留単于は通訳の少年に書簡の封泥を見せた。通訳の少年、賈覧は封泥に押されている文字を見た。数秒後、賈覧は表情を蒼褪めさせた。


「新匈奴単于章」


「何?」


「この金印には、新匈奴、新帝国の匈奴と刻まれています」


「新帝国の匈奴?」


 烏珠留単于は金印の文字を見た。


「新帝国の匈奴だと」


 烏珠留単于の目が愕然と見開かれた。


「どういうことだ。新帝国の匈奴とは、どういうことだ。匈奴単于国と帝国は、兄弟のはずだ。互いに助け合うべき、対等な兄弟のはずだ。これでは、これでは、まるで――」


 まるで、匈奴単于国が新帝国の属国であるかのようではないか。


「右骨都侯」


 烏珠留単于は金印と書簡を投げ捨てた。


「右骨都侯」


 烏珠留単于は穹廬から走り出た。右骨都侯、右骨都侯、と繰り返し須卜当を呼んだ。別の穹廬にいた須卜当が、単于の声を聞いて何事かと駆けつけた。烏珠留単于は須卜当に命じた。


「新の使節団を追え。昨日、使節団へ渡した金印を、何としても取り戻せ」


 須卜当は数十騎を率い、新帝国の外交使節団を追いかけた。地平線へ駆ける数十騎を見送りながら、烏珠留単于は、間に合え、と念じた。間に合わなければ、匈奴単于国は新帝国の属国となることを了承した、という既成事実が作られてしまう。そうなれば、形だけとはいえ維持されていた単于国と帝国の対等な関係が崩れ、匈奴単于国は名実共に大新帝国に屈服することになる。


 陽が沈んだ。烏珠留単于は一睡もせずに夜を過ごした。夜が明けた。烏珠留単于は穹廬を出て朝陽を見た。朝陽は烏珠留単于の憔悴した顔を照らし、足早に匈奴単于国を出ようとしている大新帝国の使節団の轍を照らし、轍を追う須卜当らの背を照らした。須卜当らは人馬共に白い息を吐きながら、払暁の空に鷲獅子グリフィンの旗を翻して原野を駆けた。


 二日後、須卜当に率いられた数十騎が烏珠留単于の許に帰還した。新帝国の外交使節団から取り戻した金印を、須卜当は烏珠留単于に見せた。烏珠留単于は絶句した。匈奴単于璽、と刻まれていた漢帝国の金印は、もう二度と使えないよう、原形を留めないほどに潰されていた。烏珠留単于は呆然と穹廬へ戻り、膝から崩れるように座り込んだ。穹廬の隅では、烏珠留単于に投げ捨てられた新帝国の金印が、新匈奴単于章、の六字が刻まれた面を単于の方へ向けていた。烏珠留単于は穹廬の隅の金印を見た。


「こんなもの」


 烏珠留単于の右手が、径路刀アキナスを抜いた。


「こんなもの」


 左手と両膝で、烏珠留単于は走るように金印へ這い寄り、右手の径路刀を振り上げた。


「こんなもの!」


 烏珠留単于は径路刀を振り下ろした。こんなもの、こんなもの、こんなもの、と何度も振り下ろした。穹廬の床に突き立つほどに強く、こんなもの、と最後の一撃を振り下ろした。合わせて五度、振り下ろされた径路刀は、大新帝国の金印を寸毫も傷つけず、穹廬の床だけを傷つけた。


「こんなもの」


 床板に突き立てられた径路刀から、烏珠留単于の手が離れた。大新帝国から与えられた金印を破壊すれば、帝国との平和的な関係が破綻する。それを恐れる気持ちが、皇帝と帝国に対する怒りを凌いだ。


「こんなもの」


 烏珠留単于は顔を俯かせた。穹廬の床の絨毯に涙の粒が落ちた。こんなもの一つ壊せない己の無力さに、烏珠留単于は咽んだ。


 二十日後、最も大新帝国の帝都に近い地域を任されている輿が、烏珠留単于の穹廬に呼び出された。任地から単騎で駆けつけた輿は、金印の件を単于から説明された。説明を聞いていた輿の顔が険しくなり、両の手が拳を握りしめた。同席していた須卜当が下を向いた。


「おれのせいだ」


「違う。単于が金印を交換した時、おれもそこにいた」


 単于、と輿は烏珠留単于に呼びかけた。


「おれに命令してくれ。おれは匈奴の戦士だ。何を命じられようとも、恐れはしない」


 新帝国と戦おう。そういう意味の言葉を、輿は口にした。烏珠留単于は輿から目を逸らした。


「おまえに、牛馬百頭を与える。そこにいる右骨都侯と共に、建国の祝いに牛馬を贈るという名目で新帝国へ行き、金印の文字を旧に復するよう求めた書簡を、皇帝に渡せ」


「単于――」


「右屠耆王」


 戦えとは命じてくれないのか、と烏珠留単于に詰め寄ろうとした輿の腕を、須卜当の手が掴んだ。


「一方的に金印の文字を変えられたのは、匈奴だけではないはず。今、諸国へ人を遣り、動静を探らせている。今は、それで納得してもらいたい」


「おれたちが進む道を、他国に決めさせるのか。他国が帝国に沈黙したら、おれたちも沈黙するのか。おれたちの誇りが、踏み躙られたんだぞ」


「堪えてくれ。まだ戦うには早い」


「戦うべきは今だ。おれたちが命を懸けるべきは、今だ」


「堪えろ。おれも、単于も、堪えている。あんたの妹もだ」


 睨み合うように、輿と須卜当は視線を交わした。輿の腕を押さえる須卜当の力は強く、猛禽のような目は薄く赤みを帯びていた。ぎ、と輿は奥歯を強く噛み、母に似た端整な顔を下に向けた。

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