第三十一話
陰氏の邸で働いている家内奴隷が、邸宅の一室に金属製の方形の火鉢を運んだ。
「劉公のことは、
「そうなんですか?」
あの伯姫が、と劉秀は表情を明るくした。陰麗華は頷き、膳の上の棗へ手を伸ばした。
「自分には、乱暴者の兄と働き者の兄がいて、乱暴者の兄は大嫌いだけど、働き者の兄は嫌いではないと」
「……それ、僕ではなくて、僕のもう一人の兄です」
「そうなんですか?」
「真面目で、大らかで、よく働く兄です。とても背中が大きくて、伯姫はよく懐いています」
「まあ、あの伯姫が懐くだなんて、公のもう一人の兄は、とても好い人なのですね」
「そうですね。とても好い人だと思います」
劉秀は複雑な笑みを浮かべた。
劉秀はどういう人なのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。自分は学問が好きで、帝国の最高学府、
「劉先生は、凄い人なんですね」
劉公、ではなく、劉先生、と陰麗華は劉秀を呼んだ。劉秀は顔を僅かに赤くした。
「先生と呼ばれるほどのことではありませんよ。僕が太学へ進めるのは、父の功績です」
帝国の最高学府、太学は、大漢帝国の第七代皇帝、
太学で何を学ぶのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。劉秀は
「劉先生は伯姫と同じで、書物が好きなんですね」
「伯姫も好きなのですか?」
「わたしの兄から、伯姫が書物を借りているところを見たことがあります。わたしの兄も書物が好きで、朝から晩まで書物を読んでいます。劉先生は、兄と気が合うかも知れませんね」
陰麗華は棗の実を口に含んで微笑んだ。また複雑な笑みを浮かべた劉秀に、そうとは気づかず、更に質問した。
「わたしの兄は官吏になるそうですが、劉先生も官吏になられるのですか?」
「僕は、官吏にはなれませんよ」
大新帝国の成立後、漢帝国の帝室に属していた人間は、王莽の伯母である
「伝手ならありますよ」
「え?」
「この
十数年前、
「そうだ」
ぱん、と陰麗華は両の掌を叩き合わせた。
「今から聖上の子女へ使者を送りましょう」
「え?」
「劉先生を、聖上の子女に紹介します。聖上の子女も書物を読むことを好まれるので、劉先生とは気が合うはずです」
我ながら何という良案、と陰麗華は微笑した。劉秀は狼狽した。
「駄目です。それは、いけません」
「なぜですか?」
「それは、あれです」
「あれ?」
「そこまでしていただくのは、申しわけないです」
「遠慮なさらず。劉先生は伯姫の兄です。わたしに出来ることは、何でもして差し上げたいのです」
陰麗華は笑顔で席を立ち、絹の履き物を履いた。部屋の隅に控えていた家内奴隷が、陰麗華に
麗華、と親しげに呼ぶ声が、回廊へ出た陰麗華を迎えた。陰麗華は足を止め、自らの前に立つ少年の顔を見上げた。陰麗華の表情が、ぱ、と花が咲いたように輝いた。
「
「元気にしていたかい、麗華」
少年は顔を微笑ませた。劉秀が陰麗華を追い、部屋の外の回廊へ出てきた。陰麗華の前にいる少年を見て、劉秀は目を円くした。
「
「え?」
陰麗華は少年の顔と劉秀の顔を交互に見た。
「お二人は、知り合いなんですか?」
「おいおい」
少年は苦笑した。
「麗華に伯姫を紹介したのは、おれだぞ。伯姫の兄の劉文叔を、知らないはずがないだろう?」
「そういえば、そうですね」
陰麗華は納得して微笑んだ。少年は劉秀の方へ体を向き直らせ、
「劉公」
「
劉秀は少年へ揖礼を返した。鄧奉、と劉秀に呼ばれた少年は、陰麗華へ目を向けた。
「急いでいるみたいだけど、どうしたんだい?」
「そうでした。実は――」
新野県に留め置かれている王莽の子女へ使者を送り、会う約束を取りつけようとしていることを、陰麗華は鄧奉に説明した。鄧奉は陰麗華の説明を聞きながら、ちらりと劉秀の方を見た。陰麗華を止めてくれ、と劉秀は身振り手振りで鄧奉に伝えた。鄧奉は陰麗華へ目を戻した。
「少し急ぎすぎではないかな。劉文叔は、これから太学へ進む人だ。聖上の子女に紹介するのは、太学で学び終えてからにすべきだろう」
「そうですか? でも、父と兄は――」
「それよりも、伯姫が拗ねていたぞ」
「伯姫が?」
「麗華が劉
「でも、伯姫はわたしに、二人だけでと――」
「劉伯姫はそういうやつなんだよ。わかるだろう?」
「そうでした。伯姫はそういう子でした」
くすくすと陰麗華は笑い声を零した。鄧奉は劉秀を見た。
「そういうわけですから、構いませんよね、劉先生?」
「あ、うん。行ってあげて。伯姫は、僕の大事な妹だから」
「わかりました」
陰麗華は劉秀に揖礼した。劉秀と鄧奉に背を向け、ぱたぱたと伯姫の許へ急いだ。走り去る陰麗華へ手を振る鄧奉の横で、劉秀は大きく息を吐いた。鄧奉は振る手を止めずに劉秀へ話しかけた。
「気に入られたみたいですね、麗華に」
「そういうわけではないよ。伯姫の兄だから、親切にしてくれているだけだ」
「誰でも最初はそういうものだよ」
鄧奉は、劉秀の次姉の夫、
「伯姫も、初めはそうでした」
陰麗華の背中が見えなくなり、鄧奉は手を下ろした。
「初めて二人を会わせた時、背を向けて黙り込んでいる伯姫に、麗華は自分から話しかけた。伯姫は決して話しやすい子ではないのに、伯姫を連れてきた
「そういえば、蟷螂の伯姫と呼ばれていたけど」
「麗華の弟の手に、蟷螂を乗せた」
「なるほど。蟷螂は怖い」
劉秀は苦笑した。鄧奉は微笑して話を続けた。
「当然、麗華は怒る。伯姫も悪気があったわけではないから、素直に謝らない。泣く方が悪いと言わんばかりだ。その時の、どうしようもなさそうな悪い雰囲気に比べたら、劉先生は遥かに好い感じだ。伯姫が麗華の友になれたように、劉先生も麗華の大事な人になれるよ」
庭に設えられた即席の竈に火が入れられ、付近の住民に振る舞われる豚肉が煮られ始めた。劉秀と鄧奉は竈の近くへ移動した。麗華と二人で何を話したのか、竈の火に手を翳して暖を取りながら、鄧奉は劉秀に訊ねた。陰氏は子弟の教育に力を入れていると聞いたので、書物や学問について話した、と劉秀が答えると、鄧奉は笑い出した。
「それは駄目だ。麗華に書物や学問の話は」
「そうなの?」
「そういうものに興味が無い。覚えている文字も、二百か、三百か、それくらいだ。とても一人で書物を読むことは出来ない。新野で一番の士大夫、陰氏の子女が、
「さあ、何て言ったのかな?」
「わたしが文字を覚えなくても、伯姫が読み聞かせてくれる、だってさ。その時の伯姫の顔ときたら――」
親友に頼られた嬉しさと、どうしてそこまでしてやらねばならないのか、という苛々が混在した伯姫の顔を思い出し、くつくつと鄧奉は笑った。劉秀は炎へ目を向け、白い息を吐いた。
「伯姫は、書物が読めるんだね」
「
「奉は、凄いな」
劉秀は微笑んだ。
「伯姫のことを、よく知っている。まるで、本当の兄みたいだ。僕よりも――」
「そう思うのは、劉先生が伯姫の本当の兄だからだよ」
「それは、そうだろうけど」
「これからだよ。麗華と同じ。これから仲よくなるんだよ」
祭事で竈神に奉げられる羊の鳴き声が、庭を囲む建物の向こうから聞こえた。祭事の始まりが近いことを感じながら、鄧奉は話を転じた。
「太学には、何年くらい?」
「三年か、四年か、それくらいは学ぶことになるかな」
「
常安、とは大新帝国の帝都の名で、旧称を
「――物の値段が高いと聞いたけど、向こうで四年も生きていけそうですか?」
「苦労はするだろうけど、何とか四年間、生き延びられそうだよ」
太学へ進学するに際し、劉秀が直面した最大の問題は、費用である。劉秀の実家は食うに困らない程度の収入はあるが、帝国の最高学府へ人を送り込めるような経済的余裕は無い。そのため、劉秀は当初、強い向学心を持ちながらも進学を諦めていたが、劉秀の長兄の
その後も劉縯は親類を訪ねて回るも、叔父と同様の理由で断られ、最後は外祖父の
この樊重の助言を機に、これまでの逆風が少しずつ変わり始めた。帝都に友人がいる親類が、劉秀が友人の家に寄宿できるよう動いてくれた。別の親類が、日雇いで働きながら太学で勉強している苦学生を紹介してくれた。劉秀が働きながら勉学に励むつもりであることを知り、これまで厳しい態度で弟たちに接してきた次姉が、帝都は寒いと聞いているから、と暖かい衣類を用意してくれた。時間と金銭の無駄、と劉秀の進学に反対していた叔父の劉良が、新しい筆記具を劉秀に買い与えてくれた。贈られた荷物を帝都へ運ぶための驢馬が、劉秀の長姉から劉秀へ贈られた。
「兄上や姉上、それから、親戚姻戚の父兄には、幾ら感謝しても足りないよ」
劉秀の口から白い息が淡く漏れ出た。鄧奉は劉秀の横顔を見た。陰氏の邸宅の奥、竈神が祀られた建物の前に設けられた祭壇へ、厨房から料理が運ばれ始めた。鄧奉は火の方へ目を戻した。
「おれも、劉先生に感謝されてみようかな」
「え?」
「鄧氏の男が一人、常安で学んでいます」
鄧奉の目の前の火に薪が足された。火にかけられている大鍋に、一口大に切られた根菜類がどさどさと入れられた。
「とても優秀な人で、何とかという学者の一族と親交があるらしい。公の助けになると思うから、よろしくと書簡で伝えておきます」
「ありがとう。その人の名は?」
「姓は鄧、名は
「鄧仲華か」
「鄧先生は凄い人です。若くして
詩経、とは儒学の五大経典の一つで、古代連合王朝時代の詩篇である。
「――常安では、十年に一人の俊英と呼ばれたとか。くれぐれも、失礼のないようにしてくださいね」
「心得た」
劉秀は頷いた。陰氏の者たちが、間もなく竈神を祭る儀式が始まることを触れ回り始めた。劉秀は鄧奉に促され、祭壇の方へ共に歩き出した。
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