第二節 南陽の兄弟
第六話
儒学は、古代の思想家、
孔子は春秋時代――現在の漢帝国領の北半分を統治していた古代連合王朝、
曰く、義を見て為ざるは勇無きなり。
曰く、過ちて改めざる、
曰く、己の欲せざる所は人に施すこと
曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
曰く、学びて思わざれば則ち
曰く、天地の性、人を貴しと為す。
孔子が最も尊敬した歴史上の人物は、
今から千年以上も昔、漢帝国領の中心部に広がる
しかし、悪が永く栄えることはなかった。神聖王朝の西方の小国、周に一人の聖王が生まれ、神聖王朝の暴君に戦いを挑んだ。聖王と暴君の戦いは熾烈を極め、聖王は激戦の末に暴君を滅ぼすことに成功するも、勝利の三年後に宿敵の後を追うように他界した。あまりにも早すぎる死であった。遺された聖王の子は、まだ十歳にも満たなかった。
その聖王の遺児を王として推戴し、神聖王朝に代わる新たな王朝、連合王朝の基礎を築いた聖人が周公旦である。周公旦の子孫が治める国で人となった孔子は、周公旦の秩序と安定を重視した政治思想に感銘を受け、この思想を各地に普及させれば戦乱は自ずと沈静すると考えた。
「……今日は、ここまでにしておこうか」
臨時で初等学校に雇われ、儒学の成り立ちを生徒たちに教えていた老学者は、簡冊を閉じて文机の上に置いた。ありがとうございました、と首席の生徒が揖礼の形に両手を重ね合わせ、それに続いて劉秀も、他の生徒らと共に老学者へ揖礼した。
初等学校に通い始めてから四年の歳月が流れ、劉秀は十三歳の少年に成長していた。まだ声変わりは迎えていないが、背丈は辛うじて歳相応といえる程度に伸びた。南方異民族の言葉は忘れたが、千を超す文字を憶えた。如何にも書生らしい細い手で、荷物の中から簡冊を取り出した。簡冊を手に、劉秀は文机の上を片づけている老学者に近づいた。
「先生、貸していただいていた書物です。ありがとうございました」
「劉秀か」
老学者は教材を片づけていた手を止めた。劉秀へ温顔を向け、今日の授業の感想を訊ねた。自分の専門は
「そんなことはありません」
劉秀は老学者の前に両膝をつき、身長が八尺六寸(約二百センチ)もある老学者の顔を見上げた。
「僕は前から疑問に思っていました。儒学者の先生たちが言うように、孔子の教えが素晴らしいものであるのなら、なぜ孔子はどこの国からも受け入れられなかったのだろうと。先生の授業のお蔭で、その謎が解けました」
秩序を重んじるということは、競争を抑えるということであり、安定を志向するということは、変化を拒むということである。このような保守的な政治思想は、平和な時代でこそ求められるものであり、強く変わることが求められる弱肉強食の乱世で受け入れられるはずがない。
「それはどうかな」
劉秀の若者らしい極端な意見を、長身の老学者は穏やかに窘めた。孔子は乱世の諸国に拒まれた、という劉秀の言葉に、確かに、と頷きながらも、一方で孔子の教えが乱世の中で廃れず、今日まで伝えられていることを指摘した。
「あ……」
劉秀は赤面して俯いた。数百年に亘る乱世を経ても、孔子の教えが人々の中から失われていないこと。それ自体が、孔子が乱世に受け入れられたことを意味してはいないか。
「僕の考えが浅はかでした」
「孔子曰く、学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」
他人から教わるだけで自ら考えることをしなければ、思考力や判断力が育たず、逆に自ら考えるだけで他人から教わることをしなければ、独善的な思考に陥る、という意味である。
「教えられたことを疑い、自らの頭で考えてみることは、とても大切なことだ。これからも色々なことを疑いなさい。教えられたことを疑い、教えられたことを疑う己を疑いなさい。時には恥を掻くこともあるかも知れないが、それも含めて、きみの糧になるとわたしは思うよ」
「ありがとうございます。お言葉、胆に銘じます」
劉秀は両手を揖礼の形に組み合わせ、長身の老学者に深々と頭を下げた。
教材を整頓する老学者を手伝い、他の生徒より少し遅れて劉秀は学舎を出た。漢帝国の農村では、十代の少年少女の多くが生活のために労働しており、初等学校では生徒たちの生活に支障が出ないよう、授業は午前のみ行われている。そのため、授業を終えて学舎を出た劉秀の真上には、秋の白い太陽がある。
初等学校に通い始めてから四年。その間に劉秀の身辺では様々なことが起きた。
劉秀が初等学校に入学した
そして、同じ年の秋、県令として汝南郡に赴任していた父が、伯姫に会うことなく死んだ。帝都の太学へ進学していた長兄の劉縯は、修学途中で帰郷することを余儀なくされ、劉秀は叔父に引き取られて南陽郡を離れた。
劉秀が再び南陽郡の土を踏んだのは、今から一年と半年ほど前である。劉秀の養父である叔父の劉良は、
青く高く澄んだ秋の空へ、劉秀は腕を伸ばした。胸を反らして伸びをしていると、不意に寒風が吹き抜けた。劉秀は首を竦めて家路に就いた。劉秀は現在も叔父の
その日も劉秀は劉良の下で雑用に勤しんでいた。劉良は県令の頃に貯めた俸給を原資に農場を営んでおり、劉秀が叔父と手分けして農場の帳簿を整理していると、表から門扉を叩く音が聞こえた。
「いや、わたしが出る」
席を立とうとした劉秀を制し、劉良が部屋を出た。劉秀は藺草を編んだ敷き物の上に座り直し、改めて机上の木簡へ目を向けた。木簡の文章に誤字を見つけ、誤字の部分を削るために小刀へ手を伸ばした時、叔父の怒鳴り声が聞こえた。
「帰ってくれ。確かに劉縯はわたしの甥だが、今は他人も同然だ」
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