第五話

「待て」


 王莽おうもうは半ば無意識に声を上げた。


「待ってくれ」


 王莽は劉縯らを呼び止めた。何事かと劉縯りゅうえんらが足を止めて振り返ると、王莽は驢馬の背に載せた荷物の中から、一巻の簡冊かんさくを取り出した。簡冊とは簡という木製、もしくは竹製の細長い札を紐で綴じ、巻物にした書物で、王莽は劉縯に走り寄ると、手にしている簡冊を見せた。


「この書は、儒学の経典の一つで、孝経こうきょうという。これを、きみたち兄弟に譲りたい」


「え?」


孝元こうげん皇帝が――」


 大漢帝国の先々代の皇帝で、王莽の伯母を皇后に立て、結果的に王氏一門を躍進させた人物である。


「――儒学の復興に力を尽くされて以降、官界では儒学の価値が見直され、少しずつではあるが、儒学の教義を重んじる風潮が生まれ始めている。今はまだ、官界における儒者の数は三割に満たず、儒学は帝国に普及しているとは言いがたいが、いずれは帝国の高官の大半を儒者が占めるようになるだろう。仕官を志しているのであれば、儒学を修めておいた方が、何かと都合が好いはずだ」


「だけど、先生は儒者だろう。儒者にとって、儒学の書物と頭の冠は、命よりも大事なものだと聞いている」


「だからこそ、きみたちに譲りたいのだ」


 王莽は孝経を劉縯に差し出した。孝経は儒学で特に重要視されている経典の一つで、王莽は若年の頃から愛読していた。苦しい時は、孝経の文章を暗唱して自らを支えた。兄が死んだ時も、孝経を暗唱して耐えた。次男を自殺させた時も、孝経を暗唱して耐えようとした。


「どうか、受け取ってはもらえまいか」


 王莽は頭を下げた。劉縯は戸惑い、戸惑いながらも孝経を受け取り、その場で広げた。目についた文章を、心の中で読み上げた。


 子曰く、天地の性、人を貴しと為す。


「ありがとう。大切に使わせてもらう」


 劉縯は簡冊を閉じ、王莽に一礼した。


 劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟と別れて、王莽は新都侯国へ帰還した。裏門から密かに自邸へ入り、自室で旅装を解いて体を休めていると、邸の外から奇妙な声が聞こえた。


 その声は、廻せ、廻せ、と繰り返していた。一人や二人の声ではなく、笛や太鼓の音も聞こえた。王莽は訝しんで長男を呼び、邸の外の様子を見に行かせた。長男は困惑した様子で戻り、王莽に報告した。


「変な行列が邸に近づいてきます」


「どこがどう変なのだ?」


「廻せ、廻せと言いながら、互いに藁を手渡しています」


 この年の春、漢帝国の中部から東部にかけて大規模な旱魃が起こり、困窮した民衆の間で西王母さいおうぼ信仰が流行した。西王母とは西の霊峰、崑崙こんろん山に棲む女神で、西王母を祭れば苦しみから救われる、と人々は誰に教えられたわけでもなく信じ、その結果、一種の躁状態に陥った。信者たちは大勢で群れて行列を作り、西王母の算木を廻す、と称して藁を互いに手渡し、笛を吹き、太鼓を叩き、火を掲げ、屋根に登り、裸足で走り回り、馬車で馳せ回り、とにかく大騒ぎをしながら帝国の各地を行進し、ついには帝都の市街へ突入した。廻せ、廻せ、と狂騒する民衆を前にして帝国政府は為す術を知らず、騒ぎが自然と治まるのを待つしかなかった。


 王莽を帝都へ帰還させるべし。


 そのような声が官界で大きくなったのは、この西王母騒動の直後からであった。帝国は深刻な社会不安に覆われている。今回の騒動は、その一部が爆発したに過ぎない。もし今にして行動を起こさなければ、帝国は内部から崩壊するであろう。しかし、皇帝の周囲には己の利害しか頭にない奸臣が蔓延り、政治の正常な運営を妨げている。


 大漢帝国は滅亡の危機に瀕していた。帝国を救うには、皇帝の周囲から奸臣を排除し、大胆な政治改革を断行しなければならない。貧富の差を解消し、良民が安心して生業に励める社会を再構築せねばならない。それが出来るのは人格高潔な王莽しかいない、と国を憂う官僚たちは考えた。


 時を同じくして、王氏一門も王莽の官界復帰のために動き出した。王莽の退場後、王氏一門は王莽の政敵である紅陽侯を帝都へ呼び戻し、一門の旗頭に据えていたが、悪徳貴族の紅陽侯では清廉な名士らの支持は得られず、ならばと貪官汚吏の取り込みを図るも新興の外戚や寵臣に競り負け、王氏一門は日に日に凋落していた。この状況を打破し、王氏一門が昔日の栄光を取り戻すには、人望がある王莽を起用するしかない。先々代の皇帝、孝元皇帝の后で、後世の史家からは元后げんこうと呼ばれる女性は、一門の総力を挙げて王莽の復帰運動を展開した。


 そして、翌年の二月、度重なる官民の請願に、皇帝がついに折れた。


「わたしは、帰れるのか」


 太皇太后、すなわち元后に侍せよ、という皇帝の命令が新都侯国に伝えられた時、王莽は目の片方から一筋だけ涙を流した。太皇太后の相談役という職務ではあるが、皇帝は王莽に官界への復帰を許した。王莽は深く頭を垂れて皇帝の命令書を拝し、皇帝の聖恩に対して謝辞を述べた。皇帝の命令書を王莽の許へ運んできたのは、王莽と志を同じくする安陽あんよう王舜おうしゅんであった。王莽が皇帝への謝辞を述べ終えると、王舜は再従弟である王莽の肩を抱き、よかった、本当によかった、と声を上げて泣いた。


 その夜、王莽は密かに王舜の宿所を訪ねた。


「恐らくは、これが我ら王氏に残された最後の機会だ。しくじれば、王氏は、いや、大漢帝国は滅びる」


 王莽の言葉に、王舜は真剣な面持ちで頷いた。大漢帝国が緩慢に崩壊しようとしていることは、良識ある者であれば誰もが感じていることである。


「もはや猶予は無い。奸臣を粛清し、政治の腐敗を一掃せねばならぬ。強欲な者どもから良民を護らねばならぬ。多くの血が流れることになるだろう。王氏の血も清めねばなるまい。それでも、安陽侯、きみはわたしについてきてくれるか」


「何を水臭いことを仰せか。国を憂う気持ちは、わたしとて同じ。この舜の命、帝国再建のためにお役立てくだされ」


「ありがとう、安陽侯」


 王莽は王舜の手を握りしめた。


 帝都へ帰還した王莽は、しかし、すぐには行動を起こさず、焦れる王舜らを抑えながら時機を待った。時機は間もなく訪れた。王莽が政界へ復帰した年の夏、皇帝が二十六歳の若さで急死した。王莽は間髪を入れず一族を説いた。


「王氏一門の浮沈を賭すは今である。直ちに宮殿へ赴き、六璽りくじを手に入れるべし」


 六璽、とは皇帝が政務で使用する六つの印璽の総称である。大漢帝国の最高権力者であることの証であり、それを皇帝崩御の混乱に乗じて奪取せよ、という王莽の大胆すぎる主張を聞いて、昨日まで王莽を急かしていた王舜らは怖気づいた。せめて護衛の兵馬を整えてから出発するよう王舜は提案したが、王莽は即座に退けた。


「子曰く、市朝に諸と遭えば、兵に反らずして闘う。今、兵馬を整えようとするは、父母の仇を前にして武器を取りに帰宅するも同じ。千載一遇の好機を逃すことになる」


「しかし、我らだけで乗り込むのは、あまりにも――」


「わたしについてくる。そう約束したのは、偽りであったのか、安陽侯」


 この一言が、王舜の目を覚まさせた。王舜は腰に佩いていた剣を抜くと、尚も逡巡する王氏一門の最長老、元后へ向き直り、自らの首筋に刃を押し当てた。


「舜も共に参ります。どうか、ご決断を」


 否と言えば自害して果てる、という覚悟を王舜は元后に見せた。その気迫に圧され、ついに元后は決断した。身支度をする時間を惜しんで馬車に乗り込み、皇帝の遺体が置かれている宮殿へ急いだ。猛進する馬車を王莽と王舜、その他の王氏一門の男たちが自らの足で追いかけた。宮殿の門を守る門衛官たちが、尋常ならざる様子で進んでくる馬車を怪しみ、門を閉じて馬車を止めようとした。馬車の横を走る王舜が、太皇太后の来訪を大声で門衛官らに告げた。門衛官たちは半ばまで閉めていた門を開けた。敬礼する門衛官たちの前を元后の馬車と王氏一門の男たちが走り抜けた。


 皇帝の遺体が安置されている宮殿が見えてきた。宮殿へ続く階段が元后の馬車の前進を阻んだ。元后は馬車から降り、階段を上がろうとした。宮殿を警護していた近衛軍の将校が、宮殿へ近づかないよう元后に警告した。元后を支えて階段を登ろうとしていた王舜が、こちらにおわすは太皇太后であるぞ、と近衛軍に叫んだ。近衛軍の兵士たちは抜剣した。宮殿へ近づかないよう、近衛軍の将校が改めて元后に警告した。宮殿の中で遺体を護衛していた皇帝の護衛官たちの一部が、騒ぎを聞きつけて宮殿の外へ出てきた。王舜は佩剣に手をかけ、元后を顧みた。


「こうなれば、先帝、先々帝の御霊の加護があるを信じ、剣に運命を託すのみ。我らが血路を開きますので、どうか――」


「待て」


 王莽の手が王舜の腕を押さえた。王舜は弾かれたように王莽を見た。如何にされるつもりか、と王莽に訊ねた。王莽は何も言わず、前に出た。


 風が快晴の夏空を吹き抜けていた。大漢帝国の赤い旗が宮殿の各所で揺れていた。汝南郡南頓県の劉県令の子、劉縯に矢を向けられた時のことを、ふと王莽は思い出した。深く息を吸い、深く息を吐いた。腕を上げ、両手を胸の前で揖礼の形に重ね合わせた。一歩、足を前に進め、階段に足をかけた。近衛軍の将校が、それ以上は近づかないよう王莽に警告した。王莽は階段の二段目に足をかけた。三段、四段と階段を登りながら口を開いた。


「子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり」


 五段、六段、七段と王莽の足が階段を踏んだ。皇帝の遺体が置かれている宮殿へ、王莽の肉体が近づいた。近衛軍の将校が王莽へ警告を繰り返した。王莽は更に足を進めた。


「父子の道は天性なり。父母、之を生む。つづくこと、これより大なるは莫し。故に其の親を愛さずして他人を愛する者、之を徳に悖ると謂う。其の親を敬わずして他人を敬う者、之を礼に悖ると謂う」


 近衛軍の将校が剣を抜き、そこで止まれ、と王莽に叫んだ。王莽は止まらず、進み続けた。


「順を以てすれば則り、逆なれば民は焉に則ること無し。善に在らずして、皆、凶徳に在り。之を得るといえども、君子は貴ばざるなり。君子は則ち然らず。こときを思い、行いは楽しむ可きを思う。徳義は尊ぶ可く、作事は法る可く、容止は観る可く、進退ははかる可し」


 止まれ、と近衛軍の将校が叫んだ。将校の後ろで兵士たちが後退りした。先年、帝都を混乱に陥れた西王母騒動を、兵士たちは思い起こした。ぶつぶつと意味がわからない言葉を唱えながら近づいてくる王莽に、廻せ、廻せ、と連呼して歩く民衆の姿を重ねた。西王母を祭れば救われる、と民衆は信じていた。我らは救われるのだ、と民衆は喜んでいた。本当は、救われたい、と望んでいた。弱い者、貧しい者を救う聖者の登場を望んでいた。漢帝国の官僚の一部は、その聖者とは王莽である、と考えた。


「子曰く、孝子の親につかえるや、居れば則ち其の敬いを致し、養えば則ち其の楽しみを致し、病めば則ち其の憂いを致し、喪えば則ち其の哀しみを致し、祭れば則ち其の厳びを致す。五者を備え、然る後にく親に事う」


 止まれ、と近衛軍の将校が再び叫んだ。剣を高く振り上げ、止まらねば斬る、と最後の警告を王莽へ発した。その様子を後ろから見ていた皇帝の護衛官たちが動いた。数人の護衛官が兵士たちの間を走り抜けて王莽に近づき、佩剣を抜いた。それを見た王舜が、王莽危うしと見て駆け出そうとした。待て、と元后が王舜を止めた。我らは新都侯に命運を託したのだ、と元后は言い、手を出さないよう命じた。その間に皇帝の護衛官たちは王莽の前と左右を囲んだ。そして、互いに視線を交わし合い、頷き合うと、体を近衛軍の方へ向き直らせた。


「子曰く、民に親愛を教えるは、孝より善なるは莫し。民に礼順を教えるは、悌より善なるは莫し。ふうを移し俗をえるは、がくより善なるは莫し。かみを安んじ民を治めるは、礼より善なるは莫し」


 護衛官たちは王莽と共に儒学の聖句を唱えた。自らの体で王莽を護りながら、王莽と共に進み始めた。一段、二段と王莽が階段を上がる毎に、皇帝の護衛官たちが王莽の周りに駆けつけた。儒学を修めている者は王莽と声を揃え、儒学を修めていない者は、新都侯を斬ろうとする者は我らの血を見ることになるぞ、と近衛軍を威嚇した。近衛軍の将校は戦慄した。王莽と行動を共にしている護衛官たちは、皆、剣を抜き、自らの首筋に刃を押し当て、いつでも自害できるよう身構えていた。もし彼らを武力で制圧しようとすれば、彼らは自らの首を掻き刎ねるかも知れない。皇帝の護衛官は単なる武官ではなく、将来、大漢帝国の行政を担う高級官僚の候補生であり、その中には政府高官の子弟が数多く含まれている。もし護衛官を死なせれば、彼らの父兄である政府高官に憎悪される。


「礼は敬うのみ。故に其の父を敬えば則ち子は悦び、其の兄を敬えば則ち弟は悦び、其の君を敬えば則ち臣は悦ぶ。一人を敬えば千萬人は悦ぶ。敬う所の者はすくなくして、悦ぶ者はおおし。之を此れ要道と謂うなり」


 国を憂う若き官僚候補生たちと共に、王莽は進んだ。一歩、王莽が進む毎に、一歩、近衛軍の将兵は後退した。王舜が王莽の許に駆けつけ、心ある士卒は道を開けよ、と近衛軍に叫んだ。近衛軍は道を開けず、強硬手段に出ることも出来ず、じりじりと後退した。王舜は眦を決し、新都侯と歩まざる者がなぜ新都侯の前に立つのか、と近衛軍を一喝した。ついに近衛軍の将兵は左右に分かれ、王莽に道を開けた。


 王莽、王舜、元后は皇帝の遺体の前に辿り着いた。元后が皇帝の遺体に近づこうとすると、皇后と皇太后が元后の前に立ち塞がり、この老いぼれめ、墓に入る日を待つのみの身が何をしに来たか、と元后を罵倒した。王莽に従う官僚候補生たちが皇后と皇太后を取り押さえ、元后の前から立ち退かせた。王舜が一門の子弟と共に皇帝の遺体へ走り寄り、遺体が帯びていた六璽を回収した。回収された六つの玉璽が、恭しく元后に捧げられた。


 直後、大司馬の董賢とうけん――皇帝が最も寵愛した男色相手であり、それゆえに軍務長官という重職に就いていた美男子が、多数の兵に護られて六璽の確保に現れた。皇帝の遺体の傍に立つ元后と、取り押さえられている皇后と皇太后を見て、董賢は美貌を歪めた。王氏一門に先を越されたことに気づき、強硬手段に出るべきか否か迷う董賢に、元后は厳かに訊ねた。


「聖上の――」


 聖上、とは皇帝のことである。


「――葬儀の予定は、如何に?」


 董賢は虚を衝かれた。元后の下問に即答できず、顔を伏せた。それが董賢と王氏一門の運命を決した。


「そこにいる新都侯は典故に明るく、孝成こうせい皇帝の葬礼を指導したこともある」


 孝成皇帝、とは元后の子である先代の皇帝の諡号である。


「新都侯に汝を補佐させよう。聖上の葬儀が終わるまでの間、大司馬の属吏は皆、新都侯の指示に従うべし」


 元后は宣した。董賢は敗れたことを悟り、がくりと膝をついた。かくして大司馬の実権は大司馬補佐の王莽へ移り、董賢が率いていた軍隊は王氏一門の統制下に置かれた。董賢は自殺を強いられ、その政治勢力は瞬く間に霧散した。董賢の財産は帝国政府に没収されたが、その総額は四十三億銭に達した。


 最大の政敵を排除した王氏一門は、大司馬補佐の任に就いていた王莽を正式に大司馬に据え、次の皇帝を選考した。九歳の少年が皇帝に選ばれた。この幼帝を元后が後見し、実際の政権運営は王莽に任されることが決定した。また、新たな外戚の台頭を防ぐために、幼帝の母の一族は帝都へ移住することを禁じられた。


 王氏一門の時代が再び来た。粛清の嵐が吹き荒れた。先帝の皇后と皇太后は自殺させられ、その一族は流刑に処された。先帝に重用された者は免官され、先帝の王氏抑圧に加担した者は投獄された。粛清は王氏一門の内部にも及び、王氏一門の腐敗の首魁として野犬のように生き延びてきた紅陽侯も、ついに悪運が尽きた。


 政敵の粛清と平行して、王莽は貧困層の救済に着手した。まず必要な資金を集めるために富裕層へ寄付を呼びかけ、自ら率先して私財を国庫へ献上した。これに感化されて土地や金穀を寄付する者が相次いだ。資金が十分に集まると、帝都に居住区を新設して貧困層に住居を提供し、また新たに開拓事業を起こして開拓民を募集し、当面の生活に必要な物資を貸し与えた。募集に応じて開拓地へ移り住んだ人々は、それまでのように豪族から農具や金穀を借りたり、或いは家族や自分自身を奴隷として売らなくても生活できるようになった。人々は涙を流して喜び、王莽に感謝した。


 王莽が政権を掌握して二年が過ぎた。大漢帝国は当面の危機を脱し、一時的ではあるが安定を取り戻した。まだ楽観できる状態ではないが、それでも幾許かの余裕が出来た王莽は、予てから構想していた計画を実行に移した。これまで帝国政府は太学たいがくと呼ばれる高等教育機関を帝都に設置し、地方にも国営の学校を設けて人材の育成に努めていたが、それらの教育機関は都市部に集中しており、農村では初歩的な教育さえも受けられない状態が続いていた。この教育環境の格差を是正するために、王莽は人口が千戸未満の村落にも初等学校を整備する計画を立て、激務の合間に少しずつ初等学校を開設した。


 劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟が住んでいる開拓村にも、小さいながらも初等学校が設けられた。劉秀は初等学校に入学した。あの日から数年が経ち、劉秀は九歳になっていた。初等学校の教師は着席した生徒たちに、この学校が安漢あんかん公――列侯爵から公爵へ特進した王莽の尽力で設置されたことを告げ、最初の授業で王莽の愛読書である孝経を朗読させた。


「子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり」


 劉秀は他の生徒と共に教師の言葉を繰り返した。劉秀を学校へ送ってきた劉縯は、その声を学校の門の辺りで聞きながら、ふと思った。もしかしたら、あの梟のように目が大きな儒者が、安漢公だったのではないだろうか。

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