第2話 ヘビーモスの革のマント?

 男性が物珍しそうに店内をきょろきょろと見ている。鼻で嗅ぐ仕草もしている。

 もしかして、日本のクリーニング店を利用するのは初めてなのだろうか。そのわりに流暢な日本語だ。いやいや、見た目で判断しちゃ駄目だな。単に品定めをしているだけかもしれない。


「ここは仕立屋なんでしょうか?」


「仕立屋ですか。まあそういうところですね」


 正確に言えば違うけど、仕立屋とは馴染みのない言葉を使う人だなあ。店内の匂いが外にまで漏れ出ていたのだろうか。今日はクリーニングをしていなかったはずなんだけどな。


「良かった。実は綺麗にしてもらいたいマントがあるんです」


 男性はそう言うと、もう営業はしていないという私の言葉は忘れたかのように袋に入っていた布を取り出してカウンターに置いた。袋も相当汚れている。


 マント……、いやちょっとイメージと違うな。

 おそらく羽織るとかなり長めのポンチョ、ケープのようになる。

 ケープはポルトガル語では外套を意味するカパ、ここから日本語の合羽になったが、雨合羽というわけではない。

 おそらく羽織っても床にまで達することはなく、この男性の背丈だと膝かふくらはぎくらいの長さだ。体格の良い男性を包み込む、そういうマントなのだろう。


 しかし、長年手入れがなされていなかったのは明らかであり、黴が生えていてとてもではないが人前では着られそうにない。


 元の色は灰色だろうか。裏地も同じ色だが、よく見るとここにも白黴らしきものが生えている。黒黴はないように見える。

 臭いも好ましいものとは言えず、店内の清澄な空気が汚染されていきそうだ。

 ただ、管理状態とは裏腹にマントは全体的に細部にわたって丁寧に施されているなと思った。


「えっと、タグって付いてますか?」


 もう営業はおしまいだというのに私は何を訊いているのだろう。


「タグって何ですか?」


 男性はキョトンとしている。そこからか。まあ、そういうものだ。


「この布の素材名とか洗濯をする時の注意点を書いてあるものなんですが……。これはもしかして手作りですか?」


 既製品の可能性もあるけど、コスプレ用だったらその可能性が高いか。でも、相当洗練された職人さんが作ったのではないかと思われるほどの見事なマントである。


 使用されている繊維の名称や百分率で示された繊維混用率などが書かれてある品質タグがないのは珍しくないが、まるでわからないというのは正直な話、こちらの手に負えない。


「手作りじゃないマントってあるんですか? これは祖父の形見のマントなんです。若い頃に有名な人に作ってもらったと聞いています」


「なるほど、お爺さまのものでしたか」


 それがいつの頃かはわからないが、相当年代物のように思える。30、40年くらい経っているのだろうか。

 お爺さんもコスプレイヤーなのだとしたら、それはそれで前衛的だ。そんな時代にコスプレって流行っていたのか、趣味だったのか、どちらだろう。


「何の動物ですかね?」


 せめて動物名くらいは知りたい。直に触るのは一瞬だけ躊躇したが、変な病原菌が入っているわけではないだろう。

 綺麗な部分を手で軽く触れてみたが、奇妙な手触りである。皮のようでいながらうっすらと毛もある感触で、整った毛並みの箇所を流れに沿って動かすと抵抗を感じない。薄いのに押すと妙に弾力がある。中に特殊な素材でも詰めているんだろうか。


 ここまで本格的なマントを作るとはコスプレの世界は奥深い。薄いからか、不思議と重さを感じない。本当にその道で有名な人に作ってもらったのだろう。


 経験は浅いとはいえ、私もいろいろな皮革製品や毛皮製品を触ってきたが、そのどれもと感触が一致しない。私の経験もまだまだということだ。祖父だったらわかったんだろうな。

 血のシミらしきものも所々に付着している。喧嘩じゃないよな。興奮して鼻血でも出したんだろうか。

 これを落とすのはかなりの根気と技術、そして時間を要するだろうな。完全には落とせないように思う。


 疑問に答えてくれた男性の次の言葉は一つも理解ができなかった。


「自慢じゃないですが、ヘビーモスの皮です。祖父が若い頃に名を挙げて下賜されたものですよ。といっても、もう魔法付与効果の残存回数は0ですし、ただのマントと同じです。せめてあと2、3回くらいでも残ってたら良かったんですけどね。【体温管理】とかね」


 はははと自嘲気味に笑っている。話は止まることなく、男性はいろいろなことを話し続けている。残念ながら、そのどれもが頭の中には入ってこない。


 ヘビーモス? 下賜? 魔法付与効果? 残存回数? 体温管理?


 いったい何のことだろう。そういう設定だろうか。やけに細かいな。ノリが悪いのも可哀想だから乗っかった方がいいのかな。

 しかし、男性は陽気だが冗談を言っているような顔ではない。陽気に冗談を言える人だろうか。


「お話はわかりました。しかし、申し訳ないのですが、この店は今日で閉店をするんです」


 何もわからなかったが、言うべきことは言わねばならない。

 その言葉を聞くと男性は目に見えてシュルシュルと元気がなくなっていった。コロコロと忙しく表情が変わる人だ。


「それじゃあ、この辺りで今の時間からでも綺麗にしてくれる店って知りませんか? どうしても明日の朝に必要なんです!」


 近所で、しかももう21時過ぎ、記憶を巡ってみてもそんな店はない。ぎりぎり22時までというのはあるが、明日の朝までにやってくれる店ではなかったはずだ。


「たぶんないと思います」


「そうですか……。明日は是非これを羽織って臨みたいと思っていたんですが、やっぱり都合が良すぎですよね」


 せめて数日前に持ってきてくれていたらなんとかできただろうか。

 この革のマントは相当厄介なものだ。たいがいのクリーニング屋は拒否するだろうなあ。仮に受諾するにしても事前にいろいろと確認する必要がありそうだ。でも、ヘビーモスと言われても何のことだかさっぱりだ。


 見ているとこちらまで元気を吸収されるほどの落ち込みようだ。よほど明日は着ていきたいようだ。大切なイベントなんだろう。


(お爺さんの形見、か)


 お爺さんの形見というのが今の私には他人事のようには思えなかった。これも何かの、そして最初で最後の縁、そんな風に受け取ってしまったのは事実である。

 だから、絆されたのか、つい言ってしまったのが私の悪い癖である。


「あの、本当は今日で終わりなんですが、お受けしましょうか?」


「本当ですか!?」


 喰い気味に返事をした。と同時に、パッと男性の表情が明るくなる。店内の灯りよりも眩しい。未来への暗さのない顔だ。


「ただ、どこまで綺麗にできるかは保証できません。そういう条件でよろしければ、なのですが……」


「はい。大丈夫です。お願いします! これよりも良くなるのならお任せします!」


 深く礼をしてきた。最悪、男性が自分で綺麗にしかねない雰囲気があったが、そんなことをしたらたぶん現状よりもさらに悲惨になるだろう。


 それから、細かい汚れが何に起因するものなのか、どういう場所にどのくらいの期間保存をしてきたのか、細々とした情報を聴き取ったが、あまり参考にはならなかった。

 「それでは明日の朝受け取りにいらっしゃってください」と言い、何度も礼を言って男性は去って行った。



「さて、本当の本当に最後の仕事だ。私の持っている知識と力を注いでこのマントを綺麗にしてやるぞ……あっ、しまった。あの人の名前と連絡先を訊いてなかった。お金も受け取ってない」


 まあ、明朝やってくるだろうし、実際どのくらいの料金を受け取ればいいのか定かではない。

 あの人はクリーニングを出すだけ出して来ない、その可能性は低そうだ。もしそうだったら、私の見る目がなかっただけの話だ。



 それにしても最後にとんだ大仕事が舞い込んできたな。


 黴以外に血液の付着、汗や皮脂の汚れもおそらくある。しかも何の動物かもわからない革のマントだ。これまで洗ったことがなさそうにも思える。まさか、そんなことはないよね。

 今は22時近く、時間は限られている。今日は徹夜になりそうだ。


 こういう特殊なものは普通は専門店に任せた方がいいのは言うまでもない。

 毛皮製品の取り扱いは非常に難しい。大雑把に洗えない。何日も時間をかけたいし、かけるべきだと思う。


 でも、これが数日前だったら受け入れただろうか。たぶん、受け付けずに断ったと思う。

 短いクリーニング屋人生だったけど、集大成としてこのマントを綺麗にしたい、そう強く思った。ここで区切りをつけたいと思っていたのだなと今となっては思う。


 何よりも祖父は持ち込まれた衣類を原則的に断ることは一切なかった。

 他のクリーニング店で断られたものを引き受けて、時間をかけてクリーニングをしていた。それは私が一緒に働き出してからも何度か目にしたし、私には絶望的に思えたものでも祖父の手にかかれば明らかに修復がなされていた。どのお客様も満足して帰って行った。

 男性の祖父の形見と聞いて、私も祖父の志に応えたい、そう思った。


 今の私に完全に綺麗にするのは無理だとしても、今の状態よりは良いものにできる、そう信じたい。

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