異世界クリーニング師の記録
白バリン
第1話 最後のお仕事
「寂しくなっちゃうわね」
長い間この店を利用してくださっていたお客様の佐久間さんにスーツの上下と5枚のシャツをエコバッグに詰めて手渡すと、軽く愁いの響きのある声を漏らす。
「佐久間さん、これまで長い間、ありがとうございます。そうおっしゃっていただけると祖父も喜ぶと思います」
「私にはわからないけど、主人がシャツの仕上がりはここが良いってずっと言っててねぇ。チカちゃんも腕が上がったってあの人生意気にも褒めてたわよ。何か秘訣でもあるのかねぇ。それにしてもこれからどこを利用すればいいのかしら」
「ははっ、今はたくさんありますから迷ってしまいますよね。仕上がりも丁寧で早いですし」
そうね、と佐久間さんは言って、名残惜しそうに店を出て行く。これでお客様は最後だ。
「これまでありがとうございました」
深々と礼をして、佐久間さんを見送った。
店内に戻ると、いつもは衣類で一杯の空間ががらんどうになっている。個人経営店だがこんなに広い店だったのかと錯覚してしまう。こんな光景は生まれてから初めて見る。
このカミジョウ・クリーニング店は祖父母の家でもある。
1階が仕事場で2階が住居、そんなに広い家でもないけれど、私の父が大学進学で家を出るまでは祖父母と3人でここに住んでいたらしい。
50年近くも長い間、祖父が取り仕切っていたクリーニング店は祖父が他界したことによって間もなくして閉店することが決まった。祖母は私が小学生の頃に亡くなっている。
「これからどうしよう……」
カウンターに顎を載せて行儀悪く座る。自分の人生について考えていた。溜息しか出ない。
ベネシャンブラインドを降ろしているので外からは誰も見ていない。普段から塵一つない店内がこの時ばかりは寂しくてうらめしく感じる。
大学卒業後、諸般の事情から祖父の手伝いをしてこの3年近くこの店で働いてきた。祖父はいろいろと私に訊きたいことがあっただろうが、何も言わずに手伝いをさせてくれた。
親と仲違いをしていた私にとって、避難所になっていた。両親のところには年の離れた弟がいるから、私などもうあまり関心などないのだろう。
この店には中学生の頃までは入り浸っていたが、私のお気に入りのハンカチとかスカートの汚れを祖父が綺麗にしてくれていた記憶がある。
私の通っていた学校がすぐ近くにあって、先生たちがスーツやシャツ、ネクタイなんかを受け取りに来ていたのも見かけたことがあった。利用者の一人の担任の先生が「結構他の先生たちも利用してるんだ」と教えてくれて、祖父の仕事はこういう人たちともつながりがあるんだなと思った。
でも、高校は遠い場所だったし、その頃には自分の世界というものを発見できていて、ほとんど足を踏み入れることはなかった。
だから、久しぶりに来た時にこの店独特の香りを嗅いで、懐かしいなと思った。そして、祖父は随分と小さくなったなと感じた。重たいアイロンを持ち上げるのにもしんどそうにしていたように見えた。もっと顔を見せれば良かった。
「かといって、この店を継ぐ覚悟はなかったしなあ……」
手伝いといっても遊びにはしたくなかった。
祖父からの薦めもあって必死に勉強をしてクリーニング師免許をとった。今日の佐久間さんのスーツやシャツも自分が処理をした。
「チカちゃんは良い顔して仕上げるなあ」
私がシミ抜き作業をしている時によく言っていた言葉だった。長年蓄積されてきた技術と勘、そして知識を持っていた祖父には遠く及ばないものの、その言葉は純粋に嬉しかった。
「ワインは? 墨汁は? ペンキは?」
一緒にご飯を食べている時に、最初は私を試すように基本的なシミの処理の仕方を問うてきた。もちろん、落とすのは易しくはない。徐々に細かな資材や溶液の知識なんかも訊くようになっていった。
時間が空いている時は祖父がきめ細かい指導をしてくれていた。
「技術も大事だがまずは知識だ」
それが祖父のモットーで、基本的な化学の知識は持つべきであり、繊維とは何であり、どういう仕組みで汚れが発生して、どういう処理でシミが落ち、なぜその溶剤を使ってはいけないのか、そういうところまで詰めて考える人だった。
もちろん、アイロンがけなどの技術にも定評があった。無駄なく洗練されている動きに見えたし、実際にそうだったのだと思う。そういう祖父の姿は私の勉強のためにも録画していたのだが、なんだか気恥ずかしそうにアイロンがけを黙々と行っていた。
まあ、いずれにせよ祖父の経験に裏打ちされているわけで、知識も技術も経験も今の私には圧倒的に足りない。
こういう祖父の性格の一面は一緒に住むようになってからわかったことだった。
書棚には多くの参考書籍もあって、つい1年前の本なんかもある。祖父のような年齢であっても、老眼鏡をかけながら私にも知られないように勉強をしていたようだ。
祖父が急逝してからはお客様にもご迷惑をかけたが、預かっていたものはだいたい渡し終え、あとは3年以上、ううん、長いものでは5年以上引き取り手のないものばかりだ。祖父の死後に一件一件に連絡を取っていたが、連絡先がすでにない家もある。きっと受け取りに来ないだろう。
それにしても、嘘でもいいから「私が継ぐよ」と祖父に伝えた方が良かっただろうか、そう悔やんでももうその人はいない。
私ももう二度とクリーニングをすることはないだろう。
――コンコンッ
入り口のガラス戸をノックする音がする。
考え事をしていたらすでに21時過ぎになっていた。1時間近くもぼーっとしていたようだ。
「誰だろう? 回覧板じゃないよな」
もう閉店すると知らせているので常連のお客様だとは思えない。店内の灯りは付いているとはいえ、もう営業時間が終わっていることは外から丸わかりだろう。
もちろん、ドラマのように閉店最終日に引き取り手のなかったクリーニングを受け取りにきたわけでもないと思う。
まさか物盗り? いやいや、律儀にノックなんてしないよなあ。でも、最近の強盗はそういうことをするのか? 何があるかわからない世の中だ。
――コンコンッ
またノック音がする。
このままでいていいはずはないので、おそるおそる近づいてベネシャンの隙間から覗くと、一人の若い男性が立っていた。
あれ、この辺って今の時間帯はこんなに暗かったかな。男性の背景が真っ暗である。
店の灯りに照らされた男性の姿だけが見える。店内から漏れる光で私の視線に気づいたのか、男性と目が合った。青色の瞳をしているように見える。
私よりも2、3歳下だろうか、幼さよりは凜々しさの方が勝っている。海外からやってきた人なのかなと思った。体格はしっかりしている。
「すみません」
ドア越しに声が聞こえる。日本語だ。新規のお客様だろうか。大切に何か袋を両手に抱えている。
どこか困惑している表情だ。演技と言われたらそうかもしれないが、その時は不思議とそんな風には考えなかった。
何にせよ、もう営業はしていないことを伝えないと。
ベネシャンを上げて鍵を開けると、男性の姿がよりはっきりと見えた。
「お待たせしました。しかし、もう営業はしていないんです」
「営業?」
「はい。クリーニングをご希望なんですよね?」
「くりーにんぐ?」
「えっ?」
会話が成立していない。それよりも何よりも男性の姿に驚かされた。
なんというのだろう、コスプレだろうか。
今は春の季節のお花見シーズンでハロウィンの季節ではないし、このあたりでそういうイベントがあるだなんて聞いてもいない。今日も明日も平日である。
これからどこかに戦いに行きそうな格好で、帯刀らしきものもしている。幕末のコスプレではなく、西洋風コスプレに近いように思える。綺麗な金髪も相俟って妙にこの男性に似合っている。
埒があかないのでとりあえず店内に入ってもらうことにした。
この些細な選択が私の人生を大きく変えていくことになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます