第3話 ここはどこ?

 このマントをいきなり丸洗いができたらどんなに楽だろう。もちろん、そんなことはできない。

 

 試行錯誤して、少しずつ前処理で黴取りとシミ抜きをしていく。予めわかっているシミについては溶剤でなんとかできるところはあったものの、そうではないシミについては慎重に時間をかけて処理をしていった。細かい作業の積み重ねだ。しかし範囲が広い。


 それにしてもこの動物はよほど大きな動物なんだろうと思う。

 普通は毛皮製品といったら複数の皮を合わせるけど、これはそうではない。ミンクのロングコートだと40~50匹は使用されているし、一匹一匹の個体差もある。仮に同じ動物であっても背と腹では異なる。

 熊でも虎でも象でもない。通常の毛皮製品や皮革製品よりも落ちやすい汚れもあれば取りづらいものもある。まさかこういう化学繊維があったりするんだろうか。


 毛皮製品の特徴としては高温、高湿度に弱い。あと虫食いがある。けれど、このマントにはそういう虫食いはない。そして目立った傷もないようだ。


 専門店では毛皮製品はソーダストと呼ばれるおがくずやトウモロコシの芯の粉であるコーンパウダーなどに、溶剤やツヤ出し剤、帯電防止剤を含んだ溶液に浸けてからまぶすようにして洗浄する。

 パウダークリーニングというけれど、回転ドラムで汚れをパウダーに吸着させるという原理である。もちろんその機械はうちにはない。


 熱に弱いからアイロンはかけられなくて普通は裏地にかけるものだけど、かなり薄いために裏地にもアイロンはかけられそうもない。


 皮革製品も性質は毛皮に共通して熱に弱い。これは毛皮製品と呼ぶべきか、皮革製品と呼ぶべきか、大変悩ましい。


 だから、今の私の技術と知識とこの店の設備ではあまりできることがなく、黴取りとシミ取りくらいである。色落ちしている箇所を修正しようと思ったけれど、色修正に関しては不思議としなくてもよい感じだったので途中ですぐに止めた。


 だから、作業の多くは黴と血の跡を取ることだった。

 それらを取ると次に臭いや表面的な汚れを除去するくらいである。元々の動物の素材が特殊だとしか思えないくらいに傷んでいない。絶望的だと思われた黴も不思議と処理をしたら綺麗に取れていった。繊維の深いところにまで入りこんでいないようだった。

 最後には丁寧にブラッシングをして薄い毛並みを整えていった。


「どうせならこれも洗っちゃおう!」


 少しばかり時間に余裕があったので、あの男性が持ってきた袋を洗った。深夜のテンションでハイになっていたのかもしれない。

 こちらの袋はあまり気を遣う必要もなく、すっかり汚れも取れて綺麗なものだった。



 明け方までできる限りマントの修復をして、2階で軽くシャワーを浴びて小一時間ほど仮眠を取ってから1階に降りてきた。時計を見ると8時過ぎである。


「夕飯食べ損ねちゃったな」


 眠気よりも食い気の方が増している。

 男性が来る前にぱぱっと近所のコンビニに朝食を買いに行こう、そう思って財布を持って裏口から出た。


「えっ?」


 裏口は細い通りになっていて、ご近所さんともよく顔を合わせることがある。昨日だって会話もした。

 しかし、今はそのご近所さんがいなくなっていた。


「どういうこと?」


 外に出ることはやめて、再び店内に入った。まずは落ち着こう。


 今度は店の入り口側のベネシャンからちらっと外を覗く。

 すると、先ほどの裏口と同じように見も知らぬ光景が広がっている。物珍しげにこの店を見ている人たちがいた。ひそひそと何やらかを話しているようである。

 すぐにまたカウンターの椅子に座って心を落ち着かせた。


「ここは、どこ?」


 何かのドッキリ番組だろうか。そんなはずはない。店ごと移動させることはできないし、周りの風景を変えるほど手の込んだことをしても視聴率なんてとれないし再生数も伸びない。

 じゃあ、今私に起きていることは、夢か。そうだ、夢でしかありえない。それにしても妙に質感のある夢だ。臭いだって感じる。


 ――コンコンッ


 昨日と同じノック音がした。

 すぐに出ると、昨日の男性だった。どこかニコニコとしている。太陽くらいに眩しい。もしかしてさっき私がちらっと外を見たのを見ていたのかもしれない。そういうことを全く苦に思わないような男性だ。


「お待たせしました」


 混乱はあるけれど、これが夢でも最後まで丁寧に接客をしたい。


「大丈夫ですか? もしかして寝てないんじゃ?」


「いえ、きちんと寝ましたよ」


 そして今も寝ているんですよ、きっと。


 仕上げていた革のマントを持ってくる。

 クリーニングをしたからなのかわからないが、本当に重さを感じさせない謎のマントだ。それなのに妙に重量感を感じさせる。裏地にてのひらを置くと春だからか妙に温かい。

 男性の前に広げると、あの黴くさい臭いも消えて、見た目も小綺麗になっている。


 というか、こんなに綺麗だったかな? 窓から降り注ぐ光に映えて、灰色のマントに煌めきが生まれているかのようだ。

 結局何の動物かわからなかったが、相当珍しい動物なのだろう。まだまだ知らない素材があるのだ。傷めずに少しでも綺麗にできた自分を褒めたい気持ちだ。


「まだ気になる汚れが裏地の方にあるのですが、半日だとこのあたりが限界でした。すぐに羽織れますが、どうされますか?」


「じゃあ、着てみます。今日はこのまま出かけます。あっ、俺ヒューバードって言います」


「はい、ヒューバードさん」


 ヒューバードというのは本名だろうか。

 ヒューバードさんは昨夜とは異なり、かなりフォーマルなコスプレだ。髪の毛などもセットしているから、このまま直接コスプレ会場に向かうのだろう。もしかして、映画やドラマの撮影か何かがあったりするんだろうか。


 マントを身につけると、一瞬光ったような気がしたが、陽光のせいだろう。やっぱりヒューバードさんのような人が着ると映えるなあ。

 ふわっとして、皺が目立たない。袋にずっと入れていたので折り目なども付いていたのだが、どこまで以前の状態に近づけるか不安だった。

 クリーニングをし終えてからも気になるところはあったが、その時の皺がなくなっているように思えた。


(寝ぼけてたのかな。やっぱりこんなに綺麗じゃなかったはずなんだけど)


 形状を安定させるような性質の合成繊維、しかも丈夫、数十年前にそんなものがあったのだろうか。

 間近くで見たら目立つかもしれないが、数m離れただけでは汚れは全く目立たない。持ち込まれた時のマントに比べたら合格点に達していると思う。


「すごい……」


 羽織ったヒューバードさんが驚愕した顔になっている。

 お気に召してもらえたようで一安心だ。灰色のマントが彼の姿に似合って見える。これで今日のイベントでは一流のコスプレイヤーだと主張できたらいいな。


「それでお会計なのですが……」


「あ、はい、すみません。ボーッとしていました」


「10000円です」


 本来ならもっと値の張る仕事だろうが、このくらいでいいだろう。専門職の人に任せると仕上がりはまだまだだろうし。ただ、まだできそうなところがあるから、正直取りすぎかなとも思った。

 私の言葉を聞いてヒューバードさんは戸惑っているようだ。


「イチマンエンとは?」


「お会計のことですが」


「いや、それはわかるんですが……」


 またしても会話が成り立っていない。

 あ、そうか。これは夢だからお金が違うんだ。


「じゃあ大丈夫ですよ。今回は最後ということで特別です。私も仕上がりに納得できていない点もありましたので」


 現実じゃないんだから、お会計なんて無粋なことは言うまい。


「それは悪いです」


「いえいえ、本当に結構です。それじゃあ、今日のイベント頑張ってくださいね。マントの管理にもこれからは目をかけてくださいね」


 「イベント?」と不思議そうに私の言葉を聞いたヒューバードさんは釈然としないままに店を出て行った。


「ありがとうございました」


 またお越しください、とは言えない。


 店を出てからも何度も振り返って礼をしていた。そして、相変わらず周りは知らない光景が広がっている。すぐに店内に入った。


 ヒューバードさんがいなくなってから、再度空腹を感じ始めたが、今度は眠気の方が強くなった。ほっと安堵したからなのだろう、私は2階に行って横になった。受け取ってからの反応を確認しないと安心はできない。

 ガラガラと窓を開けて外を見てもやっぱり馴染みのない場所だ。

 だけどこれでやっと現実に戻れる。夢での仕事は終わった。目が覚めたら裏口を出てコンビニに行こう。



 それなのに起き上がると正午で、2階の窓を開けると全く風景が変わっていなかった。


「待って待って、夢の中で見た夢? そんな馬鹿な……」


 気が動転していた私をさらに動揺させる音がした。店の入り口を叩く音がする。「おい、いないのか!」、そんな大声が聞こえる。

 慌てて降りて行くと、何人かの男性がずらっと並んでおり、しかもみんな厳めしい表情をしている。「おい、出てこい」となおも追い立てるので、すぐに開けた。ガラス戸をぶち破るんじゃないかと思えたほどだった。よくガラスが割れなかったなと思った。


「すみません、お待たせしました」


 みんな先ほどのヒューバードさんのようなコスプレ姿をしているが、よく見ると近所の人の格好もコスプレだ。何が何やらわからない。私が知らないだけでイベントが近所であるんだろうか。何かの映画の撮影場みたいだ。


「この家は君のものか?」


「はい、そうですが」


 外に出てから改めて店を眺める。うん、記憶と違わない。ただし周囲は別の建物である。


「営業許可は取ってあるのか? それにしてもいつこの場所に家を建てた? つい先日まで空き地だっただろう」


 リーダーと思われる男性が私に訊ねた。40歳くらいの人である。


「え、そんなはずは、もう数十年はこの場所にあるんですが……」


 昨日からどうもかみ合わない会話だが、まさかクリーニング店すら夢だったというのだろうか。

 私の人生は夢で、祖父母が亡くなったのも夢で、実は私はまだ小学生である、邯鄲の夢だ……などと思っても目覚めることはなかった。

 私は男の人たちに別の場所に連れて行かれてしまった。振り返りながら周囲の景観に異質に存在するカミジョウクリーニング店がそこにあった。

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