後半

------------------------- 第9部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

X話 神に放棄された世界で


【本文】

 突然のことだった。 

 俺が人の視線や目線に怯えて、爪の痛みに耐え、びくびくしながら電車に乗っていると、視界が全て真っ暗になったのだ。

 あまりに唐突に全ての照明が消え、電車の中は深淵と化した。明らかな異状だった。

 


 深淵に呑まれた瞬間、視線や目線のことがどうでもよくなった。



「……え、何!」

「停電?!」

「ママ!」

「怖い怖い」

「うわっ!」

「きゃあああああああ!」


 電車の中には戸惑いの声があった。小さい子供の泣き声がした。赤ちゃんが泣いていた。それをあやす声がした。

 空いている電車の乗客全員が確実に平常心では無かった。俺も、早退したことや人に怯えていたことを全て忘れるくらい、この異変に戸惑っている。それに全ての意識を注いでいる。心臓の鼓動が早まる。

 真っ暗になった電車はしばらくの間運転をしていた。 

 早く止まってくれ。真っ暗で進まれると、バランスが全然取れなくてずっこけそうだ。

 俺は今、つり革にも銀の棒にも触れていなかった。

 ただでさえバランスが危ういのに、真っ暗になられると本当にやばい。


 それは俺だけではなかったのか、何も掴めていなかった他の人達がさっきから闇の中でばんばん俺にぶつかってくる。



「きゃ! あ、ごめんなさい!」



 そんな中、突然俺の背中に柔らかいものが当たった。


 ぶっちゃけ早退して良かったと思った。

  

 さっきまであんなに沈んでいたのが信じられなかった。プロジェクターでカチカチを見られたとき、本当に世界が全部終わったような気分になったのに、今ではそんな気分を忘れていた。

 大きな極限が、俺の小さな極限を全て塗りつぶし、拭い去っていったのだ。


 それにしても本当に真っ暗だ。

 何も見えない。


 一体何なんだ。


 停電か?


 しばらくして平静を取り戻し始めた俺は、その時初めて自分の置かれた状況に対し、慄然とした。


 ……いや、違う。これは停電じゃない。




 ――停電だったら、どうして外まで真っ暗になってるんだ。




「……!」


 全身が総毛立った。

 真っ暗なのは電車の中だけじゃなかった。

 電車の外。

 そこから見える全てが黒。全部黒。本当に何も見えないのだ。ここにどの位人がいたか、気配や吐息の音でしか分からない。でも一人じゃないというだけで気分は落ち着いていた。

 さっきまで全員死ねと思いながら電車にいたはずなのに、何も見えなくなった今ではみんなが仲間のように思えた。

 やがて、どの人も、これが停電なんかじゃないことに気付いたのか、より一層の動揺が空間を支配した。

 赤ちゃんの泣き声が止まない。誰かの話し声が止まない。

 それから幾許か経過し、電車はゆるやかに停車した。でも、時間感覚的にそこが駅だとは到底思えなかった。多分、どこか関係ない線路の上だ。焦って止まっただけなのだ。

 それを察し、少し恐怖感が増した。

 

 ――そうだ、連絡しないと。

 家族は無事なのか。この現象はここ限定なのか。それとも全部がおかしくなっているのか。よくわからないがNA○Aの発表とか無いのか。


 気が付けば、いくつものスマホの光が、電車内をまんべんなく照らしていた。


 こういう状況で考えることはみんな同じなのか。


 幼い子供やお年寄り以外、ほとんど全員が無言でスマホの光を発していた。俺もそうだった。

 俺はあまり人にスマホの画面を見られることが好きではなく、いつも画面を暗くする。自分でも見えないことが多いが、周囲が暗い今ははっきりと見えた。誰かに画面を見られたとしても、今は全然気にならない。


 10時10分――。


 それが、俺のスマホに表示された今の時間だった。

 とりあえず、親に電話をかけてみようと思ったが、それはつまり電話帳をここで開くということ。惨憺たる電話帳が後ろの人とかに覗き見されるかもしれない――。

 いや、もうそんなのどうだっていいだろ。何でかは分からないが、今、極限状態なんだぞ。

 家族しか電話帳に人がいないのも、今では普通だ。ラインが普及してるからな。ラインしか知らないこともよくある。

 気にするな。


 俺は深呼吸し、電話帳を開こうとした。


 その瞬間、


「だめだ。何度かけても、電話が繋がらない……」


 俺の横のおっさんが嘆く声がした。俺は思わず手を止めた。


「――僕もです」


 おっさんの近くの青年が呟いた。


 すると、おっさんと青年が喋りはじめた。


「多分、今通話が殺到してて通信規制かかってるんでしょうね」

「地震の時もこうでしたね……」


 通信網が麻痺している。

 俺は、数年前の地震を思い出した。

 あの時も今みたいに電話が全然繋がらなかった。


 だが、電車の中から普通に通話らしき声は聞こえてきた。

 電話できないのはおっさんと青年くらいだった。


「もしもし――」

「もしもし――」

「もしもし――」


 え?

 なんで電話できてるの?

 俺は無言で戸惑った。おっさんと青年も戸惑っていた。


「ラインはインターネット回線だからな」

「うん」


 ふいに、高校生らしき人達の声がした。


 俺は初めて焦った。


 ――やばい。ラインの友達公式アカウントしかいねえ。しかも公式アカウントなんて完全に上辺だけの付き合いだからな……

 連絡の道を断たれた。

 まあいいや、多分平気だろう。ただ暗くなってるだけで、災害とかではなさそうだし。

 

 俺はとりあえず、そのまま立ち尽くした。


 ◆


 周囲の人が安否を確認していく。

 勝手に会話が耳に入っていく。

 会話を聞いた様子では、怪我はあっても死んだりはしていなかったようだ。

 

 そういえば、いつになったら電車から出られるんだ? 長い。しかもアナウンスが何故か無い。


 もう止まってから結構経つが……


 俺はスマホの電源を点けた。


「あれ」


【10:10】


 故障?

 

 何分も経ったと思ったけど、さっき見た時間と一緒だ。10時10分。


「――あの……今、携帯何時になってますか?」


 時間を調べると突然、目の前の女の人に話しかけられた。


「あ、10時10分です」

「私もなんです。故障ですかね……」

「それは不思議ですね。僕には原因が分からないと言っても過言ではないです」

「はあ」


 ――嘘だろ。

 どうしてこんなスムーズに話せるんだよ。

 しかも全然噛んでいない。しかも『過言ではない』なんてきもいフレーズ、今まで生きてて一回も言ったことないぞ。

 いつもは「あ、はい」が限界なのに。

 なんでこんなに喋れるんだよ。


「やっぱりみなさんもそうなんですね。自分も10時10分から動かないんです……」

「俺もです」

「私も」


「――え、まじですか。一体何が起きてるんですかね」


 ――嘘だろ。

 俺が普通に喋っている? 普通に、喋っている? 喋っている? 普通に?

 不思議なことに、全く緊張していない。

 人が怖いとか、嫌われたくないとか、そういうことが全然頭に無い。


 これからどうなるのか分からなくて怖いのに、ふわふわしているような気分だ。ここが現実じゃないような気がしている。

 

 だから喋れるのか? 


 一体感を感じる。周りの人が仲間に見える。こんな感覚は初めてだ。


「――電車どうなってんだよ!」


 俺が奇妙な感覚に陥っていると、やがて男の人の苛立ったような独り言が車内に響いた。

 たしかにどうなってるんだ。

 放送も何も無い。何故か運転手も来ない。もしかしたら故障してるのかもしれない。一体何が起きているのか、全く分からない。

 こんなに真っ暗でしかも周りが知らない人ばかりで、密閉されている。

 ストレスは無意識にかかっているだろう。

 俺も気付いていないだけで、苛立っているのかもしれない。でもそれ以上に、嬉しさのようなものがあった。こういう状況を嬉しく思うのは不謹慎だが、スムーズに喋れたというのが自分の中で一番大きな衝撃だったのだ。


「とりあえず、何か動きがあるまで待つしかないですよ」


 俺の横のおっさんがなだめるように呟く。

 すぐに独り言は止んだ。電車の中はやがて静寂が支配した。

 今は待つしかない。

 時折、小さい子の泣き声が響き渡る。

 すると、遠くの方から誰かの舌打ちが聞こえた。舌打ちするくらいなら屁をしれ。


「暗くて怖いね、怖いね、でも大丈夫だよ」


 母親が静かに子供をあやす。

 俺だったらどうに泣き止ませるだろうか。

 いや、童貞だから考えても無駄か。

 童貞だから考えても無駄か。考えても無駄か、童貞だから。無駄か考えても。童貞だから。

 でも今は、童貞でも気にならなかった。

 謎の一体感が、俺の心を非童貞に変えた。心が童貞じゃなかったら、もうその人は童貞じゃないんだ。



 俺はもう童貞じゃない。



 ――それから体感で10分くらいすると、前の車両の方がざわついてきた。どうやら、運転手がコックピットからようやく現れたようだった。


 ざわざわしていて、何を言っているのかは分からない。

 そのまま少し経つと、運転手の足音がこっちに近づいてきた。


「――すみません。電車が突然動かなくなってしまいました。原因は不明です。幸いすぐ数十メートル先に駅はあるのですが……」

「あの、今一体何が起きてるんですかね」


 誰かがそうに訊ねた。


「全く分かりません。何故か、通信も全く取れない状況です」


 運転手なら何か知ってるんじゃないかと何となく思っていたが、この人もただの人なのだ。

 

「みなさん。とりあえず、何か動きがあるまで待っていてください。申し訳ありません」


 運転手がそう言うと、いくつかため息が聞こえた後、運転手が質問攻めにあった。

 

「いつになったら出られるんですか……」

「早く出たいんだけど」

「申し訳ありません。ドアも開かなくて」

「じゃあ窓から出られるんじゃないですか?」

「申し訳ありません。この車両は窓が開かないんです」

「え、なんでですか」

「空調の高性能化に伴って室内の空調整備が自由にできるようになり窓が開かない電車も最近では増えています」

「そうなんですか……」

「ご協力よろしくお願いします」


 今のままじゃ、外には出られないということか。

 

 やがて、運転手は後ろの車両に歩いていった。

 

 ◆


 それから、体感で30分くらいが過ぎた。


 30分経っても暗いままで、たまに時間を確認しても10時10分のままで、電車はいつまで経っても開かなかった。

 ずっと立っているので疲れた。

 座りてえ。

 右足に体重をかけたり、左足に体重をかけたり。

 その繰り返し。

 あぐらかきたい。

 誰か座らないかな。そうしたら俺も便乗して座るんだが。

 誰か座れや!

 あまり混んでないだろ!


「……っ!」

 

 気が付くと、心がささくれ立ち始めていた。駄目だ。座るのは良くない。


 更に体感で30分くらいが経った。


 もうずっと立ってる。

 さすがに座っていいかな。座りてえ。

 なんでここに座席を作らなかったんだよ。この電車カスだな。大体窓が開かないっておかしいだろ。そんな電車あるのか? ああああああああああああああああああああああ! hcぐへxmhfhfchxfぅfrhgchbxjvsxじぇjぎrbjxj、えfjxmhふぇjgc、lbxmrgj、x、えjfxrjvrjgrkgjrgjrrfんbfcvbんm


「……っ!」


 まずい。

 精神力が思った以上に貧弱だ。

 気が付くと俺は苛立っていた。

 でもみんな黙っている。みんな表に出していない。これがモラルか。


 そういえば、学校は今どうなってるんだろう。俺が早退しなければ、俺は今どこで何をしてたんだろう。やっぱり早退したくてもよかったかな。知ってる人が一人もいないのは心細い。でも学校にいれば一人ということは無い。周りに知ってる人がいる。それだけで気の持ち方はだいぶ違っただろう。


 ――みんなに見られた。化けの皮が剥がれた俺の、真の姿を。


 深読みして、「ありがとう俺の為に」と言ったら、久保に気持ち悪いと言われた。「人間じゃない」とも言われた。クラス全員にカチカチを見られた。

 それで世界が終わったような気でいたけど、今では何とも思わない。


 割れた爪が今も痛い。爪を割るなんてシャーペンカチカチプレイヤーとして有り得ないことだ。カチカチプレイヤーたるもの、いつだって優雅にカチカチしなければならな――――


「――ん?」


 俺は、今更になって、かなり大事なことに気が付いた。




 窓もドアも開かないなら、カチカチして窓を割ればいい。




 俺は今まで何回業者を見てきた? 何枚無駄に割ってきた? 学校なんてどうでもいい。今こそ割るべきじゃないのか。

 

 ◆


 タイミングよく、ちょうど運転手が巡回してきた。


「――具合の悪い方いませんかー? みなさん、大丈夫ですか?」


 話しかけるんだ。俺の近くに来たとき、話しかけるんだ。大丈夫、今日の俺はなんか喋れる。だから行ける。

 やがて、運転手が俺の目の前に現れた。

 空間が真っ暗でも、さすがに何時間もいれば暗順応して、姿が見えた。 

 俺は勇気を出して声をかけた。


「あ、すみません」

「はい。どうしました?」


 よし、一発で聞き取ってもらえた。


「窓を割って外に出ることは、可能でしょうか?」

「それはやめていただけますか」

「……はい」


 そりゃそうか。電車の窓を割るなんて無理だよな。常識的に考えて。


 俺が落胆していると、俺の横のおっさんが、ふいに死にそうな声を上げた。


「――すいません。大便が漏れそうです……もう、限界です……トイレに向かう間に絶対漏れます。そういうパターンだこれは」


 おっさん……

 立場を弁えろ。お前のうんことかコアな層にしか需要ねえだろ。


「早く窓を割れえ!!!!!!!!!!!!!」


 ええ!!!!!!!?


 これほどの短時間で意思を曲げた人間初めて見たぞ。

 運転手はすごい顔をして俺にそう叫んだ。そんなに近くないのに、俺の顔に唾が容赦なくかかる。

 それだけ、うんこ漏れを回避させたいのだろう。


「俺からも頼む。どっちにしろ俺はうんこを漏らす。その運命は変えられないとしても、せめて周りの人間だけは巻き込みたくないんだ――」


 おっさんが俺に懇願した。

 こういう大人にはなりたくない。


「――お願い、早く窓割って!」

「割ってくれ!」

「頼む! 臭いを嗅ぎたくない」

「やだやだやだ!」

「もう既に臭い気がする!」


 俺に声が向けられる。それは嘲笑でも怒りでもない。

 希望だ。

 さっきまでの俺とは無縁だったもの。

 絶望しかなかった俺の心が、優しくなっていく。

 ああ、いい気分だ。カチカチプレイヤー冥利に尽きる。

 絶対に窓を割ってやる。


 でも、俺はシャーペンを持ってない。


 誰かに借りよう! 俺は周りを見渡して、言った。


「どなたか……しゃ、シャーペン、持ってませんか」

「童貞を捨てさせてください? この状況で何言ってんだ! 早く窓を割れよ!!!!!!!!!!!」


 ――まずい。声が小さすぎて聞き間違われた。

 運転手の叫びがエスカレートしてしまった。


「いえ、シャーペンです」

「シャーペンだぁ? なんでシャーペンなんだ」

「説明する時間はありません。とにかくシャーペンがあれば、皆さんを外に出せます」

「んん……」


 運転手は、唸った。

 きっとシャーペンなんかで信用を得るのは無理だ。でも、割るしかないんだよ。

 

「俺を信じてください! お願いします」

「いや、しかし……」


 駄目か。もうこのままじゃ……


「――今は、この高校生を信じるしかねえんじゃねえのか。希望が目の前にあるなら、とにかく掴むまで信じてみろよ。疑うのはそれからでも遅くねえ」


 漏らしそうなくせに良いこと言うじゃないか! おっさん!


「分かった、ここは君に任せよう。誰か! シャーペンをお持ちの方はいませんか!?」


 駅員が呼び掛けると、電車の中がざわつく。

 そして俺の四方八方から、荷物をあさる音がする。みんな協力してくれてる。なんて心強いんだ。


 やがて、俺の背中がちょんちょん触られた。


 振り返る。


 そこにいたのは女子高生だった。暗闇に慣れきった目なら分かる。顔も普通に可愛いということが。久保みたいに可愛いのか可愛くないのか分かりづらい顔ではない。今考えたら久保ってうんこだよな。

 

「どうぞ、私のでよかったら」

「――粉々になりますけど、悔いはありませんか」

「? 全然大丈夫ですよ」

「――ハッ!」


 その手からシャーペンを受け取った瞬間、気が付いた。さっき俺の背中に当たったのはこの人の胸なのでは?

 しかもシャーペンを貰った。

 呼吸が止まった。

 俺はこの人が好きだ。

 

 シャーペンを受け取る。


 すると、今まで沸いたことのない決意が湧いてくる。


「……みなさん、ここは危険なので、できるだけ窓から離れてください」


 俺はドアの近くに行き、中腰になった。

 そしてノック部分に親指を乗せる。自分以外のシャーペンは、どうしてこんなにも私物感が無いのか。


「頑張って」

「頑張れ」

「行けー」

「頑張れー」


 深呼吸している俺を周りの人々が応援してくれる。昨日まで無関係の他人だったはずなのに。俺が思っているより、人は優しいのかもしれない。


 俺は爪の痛みを感じながら、昨日までの無為な日々と見えない今後を思いながら、希望を抱きながら、シャーペンを全力でカチカチした。


「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチィ!」


 共鳴する、俺とシャーペン。

 誰よりも激しい閃光を放つ。揺れる電車。

 爪の痛みなんて無い。人のシャーペンをカチカチしているということだけで、爪の痛みなんて吹き飛んだ。俺は一人じゃない。

 人はいざというとき協力できる。それだけだ。


 ◆


 窓はちょうどいい具合に割れた。飛び散って人に当たることはなかった。

 シャーペンは粉になった。

 歓声が上がった。

 みんなが笑った。

 俺も笑った。


 時刻はこの瞬間もきっと10時10分のままだった。原因不明の暗闇はまだ明けていなかった。


 でも笑った。


------------------------- 第10部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

X+1話 高三でしょんべんを漏らすと聞いても、引くだけで嫌いにはならない


【本文】

 その後、乗客は全員割れた窓から抜け出した。遂に解放されたのだ。

 あのカチカチは今までしてきたどんなカチカチよりも、心が満たされた。人の為に何かをするのはいい気分だ。今までは自分の為だけにカチカチしてきたがそんなもの虚しいだけだった。

 

「――すいません。シャーペンを粉々にしてしまって。弁償します」


 今、この世界には不思議なことしかない。

 全てが真っ暗。外灯や電光掲示板の明かりもない。暗いのに星も月もない。無論太陽もない。

 ただの半端ない電波障害という線もあるが、携帯の画面に映し出される時間が一分も変わらない。

 世紀末のような状況。

 しかし、恐れは全くない。

 今起きている現象の中で一番の衝撃は気象の変化ではなく、俺のコミュニケーション能力が“飛躍的に向上していること”だからだ。

 俺は今、真っ暗な街の中で、シャーペンを貸してくれた人に謝罪している。弁償する気など皆無だが、財布を漁ってジャラジャラと小銭の音を鳴らして誠意を演出すれば大抵の人間が少し申し訳ない気分になり、「いや、弁償なんて全然いいですよ」とでも言うであろう。それが人間という生き物だ。


 しかし――自発的に謝罪をするなんて芸当、今までの俺に出来ただろうか。出来ない。



 ――何故、これほどまでに喋れるんだ。いきなりどうした。



 俺は巨大な疑問を抱きつつも、財布の中で小銭同士を死ぬほどかき混ぜ、滅茶苦茶音を立てた。


「いや、弁償なんて全然いいですよ! それより、どうやって窓を割ったんですか? あの時私よく見えなくて」

 ――計画通り。

「カチカチしただけですよ」

「ほんとですか!? すごいですね!」

「冷静に考えてみると本当にすごいですよね。科学的に有り得るんでしょうか。あんな芸当」

「えっと……あ、その制服、X高校のですよね?」


 女子高生にそう言われて気が付いた。

 目の前の人が俺と同じ高校の制服を着ていることに。

 今、俺とこの人は互いを携帯で照らしあっている。あまりに暗すぎて照らさないと何が何だか分からないのだ。


「本当だ。すごい偶然ですね。僕は三年六組のシャーペンカチカチプレイヤーの山田って言います」

「あ、同級生だ。私一組の佐藤です。知ってますか?」

「知らないです」

「そうだよね。六組ってたしか、飯塚君とかあの辺の男子がいるクラスだよね」

 

 同じクラスの久保ですら最近名前を知ったくらいだ。正直飯塚君なんて見たことない。


「じゃあ好きな体位はなんですか」

「……え? 分かりません」

「そうですか。僕も分かりません。やったことがないのでね。HAHAHA」

「はあ」


 まずい。会話に全く緊張しないことが嬉しすぎて会話が支離滅裂だ。

 このままいけば確実に嫌われる。

 だが支離滅裂になるほど嬉しいんだ。人とスムーズに話せるということが。

 人と話す時に恐怖がないだけでまるで自分が神になったみたいだ。

 人生が楽しい。

 今の俺はすぐに話題を逸らすための話題を思いついた。

 

「あ、そういえば、なんでこの変な時間に電車に乗ってたんですか」

「寝坊したからだよ。山田君は?」

「……」

「ん?」


 ん? と言われたが、俺はそれからなんと言えばいいのか分からず、ただ沈黙の時が流れた。

 思わず周りを見渡す。何も見えない。

 多くの足音や話し声だけが、孤独ではないことを証拠づけてくれる。

 決して言えない。プロジェクターでカチカチを見られて死にたくなって早退したことなんて。

 

「まあ」


 とお茶を濁すのが限界だった。

 

「なんか山田君って個性的だね」


 いくら会話に緊張しないとはいえ、やはりシャーペンカチカチプレイヤー独自のオーラが隠しきれてないようだな。もう関わりたくない。


 ◆


 しかし、そのまま流れで佐藤さんと一緒に学校に行くことになった。

 学校には一応電話してみるが、一度も繋がらなかった。繋がると知っていたら電話しなかった。

 幸い電車が停まったのは学校からあまり離れていない場所だった。明かりが全く無いことを考えても三十分あれば確実に着くだろう。真っ暗な道を照らすには携帯に頼るしかなかった。と思いきや、公道には渋滞が発生し、車がライトを付けて徐行していたため、その必要は無かった。

 交通機関が麻痺しているため、歩道は人で埋め尽くされた。

 それぞれの居場所へ歩いている。

 家に帰りたいという気持ちが無いと言えば嘘になる。

 しかし、家に帰ればこの割と可愛い佐藤との縁は切れるだろう。今の謎のコミュニケーション能力がいつ保てなくなるかも分からない。何より、この気象の謎が晴れない限りできるだけ一人ではいたくなかった。

 

「――どうしていきなりこんなことになったんだろう……」

 

 横にいた佐藤さんが独り言のように呟く。


「なぜ、でしょうね」


 俺が普通に呟く。付き合うってこういうことなのかもしれないな。お互いが気を張ることなく、同じ歩幅で歩いていく。それが――


「――ねえ、山田君ってクラスの誰と仲良い?」

 

 嘘だろ。こいつもう俺に友人がいないことを察したのか。

 そうしてそれ以降は特に話すことなく、学校に辿り着いた。

 友人のいない俺には分かる。これが今生の別れだと。でも悲しくはなかった。よく見ればそんなに可愛くもなかったからだ。弁償しなくて済んでよかった。



 やがて校門に着いた。

 それと同時に俺は踵を返した。

 帰る場(い)所(え)があるから。


「着きましたね。じゃあ僕はこれで」

「え、なんでここまで来て帰るの? 一緒に行こうよ」


 まさか呼び止められるとは思っておらず、俺は瞬時に佐藤に振り返った。

 言葉は、堰が切れたように溢れだした。

 暗闇で顔が見えないせいか、かなり溢れた。


「一緒に行こう? 何を言っているんだ。あなたは俺を間違いなく嫌っているはずだ。小銭を過剰に鳴らすことで弁償を遠回しに拒み、あまつさえ好きな体位を尋ねた。それらが過去になった今なら分かる。あなたに対して失礼な言動を取ったと。そして、俺は人や社会と接する力が異常に低いと。……佐藤、と言ったか? 実は俺はクラス全員にガチで嫌われてるんだ。味方はいない。高校三年間ずっとそうだったせいでもう心に余裕が無い。今の段階で限界なんだ。だからこれ以上人には嫌われたくない。傷つきたくない。俺はもう、人と接することを辞めようと思う。世界が闇に包まれ静止した瞬間から何故かコミュニケーション能力が格段に上昇しているが、上昇したところで人間性が終わってるんだから何も意味が無いと今更気付いた。ずっと前から思ってるがやはり俺は死んだ方が良い存在だ。そもそもシャーペンをカチカチするのが早いからってそれが就職に有利になるのか? 絶対ならない。そもそも就職したからってその先に何があるんだよ。社会の荒波に立ち向かう俺のバックには、何の思い出も無く一人きりでシャーペンをカチカチしてきただけの空虚な過去しかない。人なんていない。頼りなさすぎる。人じゃないものが俺の後ろにあったってただ虚しいだけだ。俺が歩んできた道の後ろにはシャーペンしか無い。孤立し続けた過去しかない。そんな過去を武器に社会に出ても、そんなゴミは社会側がお断りだよ。俺なんてもう全部終わってんだ。自尊心なんて一ミリも無い。始まる前から既に終わってんだよ。社会も迷惑だろう俺みたいなコミュニケーションカス・協調性カス・友人ゼロカスの三拍子揃った無能が来たら。俺はどうせ仕事できないカスだ。絶対除け者にされて陰で悪口合戦だろ。集団は自分より下の人間を作ることで安心するんだ。俺はそのダシとしての存在価値しかないよ。人々に『あいつより下じゃないからまだましだ』と安堵を与えることしか秀でた点が無い人間だ。人間として生まれるべきじゃなかったな。どうせダシなら昆布にでも生まれればよかったよ。おい親父、なんでてめえは人間とやったんだ。昆布とやれよ。昆布とのハーフならまだ健やかに生きられたはずだ。人間社会に絶望すれば人間側の自分を捨てて昆布側に転向すればいいだけのことだもんな。それで料理のダシになって死ねばみんな幸せだろ。人として生まれて人のダシになるより、昆布として人のダシになる方が余程良い。あなたも俺と接して分かっただろう。俺はガチでもう生きている価値が無いということがね。佐藤さん、次に僕らが会う場所は冥土だ。帰ったら痛くない方法ググって自殺するから。五年前に買った完全自殺マニュアルも読み直す。あなたも暇があったら読んでおくといい。それじゃあ僕はこれで。ああ昆布になりてえ」


 俺はそう言って、踵を返し直した。

 すると、再び背中に声がかけられた。その声は少し怒気を孕んでいた。


「何言ってるの? 山田君のことを嫌いかどうか決めるのは、山田君じゃなくて他人でしょ。『ガチで全員に嫌われてる』なんて、ただの思い込みだよ。私は山田君が変な事言っても大して気にしてない。別に嫌われるようなことしてないし。逆に窓割ってみんなの為になったじゃん。どうしてそんなに自分に自信が無いの逆に。あんなにすごい力があるんだから自分に自信持ってれば彼女くらいできると思う。私はならないけど」

「それもそうだな。よし一緒に行こうぜ学校! 学校大好き! ぴょー!」


 ――原因が分からないが、俺はかなりポジティブになっていた。そんな自分が恐ろしい。

 心が軽い。

 俺の心とは思えない。今まで一トンくらいあったはずの枷が全て取れたような感じがする。

 なんでこんなにポジティブなんだ。

 これは本当に何かがおかしい。

 まさか、この世界が一変して突如闇に包まれたことと何かが関係しているのか。絶対そうだろ。

 

 ◆


 校庭に人は無い。

 暗闇を携帯で照らしながら進んでいく。

 廊下を歩いている人間は皆無だ。


「みんな体育館に避難してるのかな」

「一斉に動いたら危険だし教室待機だと思う」

「根拠は?」

「シャーペンカチカチプレイヤーの勘だ」

 

 俺と佐藤はそれぞれの教室へと向かった。俺の胸中には、もう負の感情は無い。何かがおかしい。上手く言葉にできないがまるで何かの支配や呪縛から解かれたかのような感覚がある。 

 全てが軽い。

 ――これが本来の俺の心象なのではないか。

 

「なんか喋り声がするね」


 佐藤が呟く。

 適当な学年の教室に近づいた時、ざわざわと有象無象の声がした。何故教室の中のざわつきは100%の確率で毎日存在しているのか。いつも教室は十割の確率でうるさい。今まではその当たり前が少し嫌だった。


「よかった。人がいて」


 俺はそう呟いた。


 それから階段を昇って廊下を少し歩くと、三年一組の教室の前に辿り着いた。

 教室の扉から内部が伺える。携帯の光が飛び交うようにして空間を照らしている。

 電気は依然ストップしている。

 このまま携帯を使ってたらいつか充電が切れて、真の暗闇が訪れるであろう。

 やがて佐藤が立ち止まり、俺に向き直った。


「ここまで来てくれてありがとう。私暗いところ苦手だから。今だから言うけど夜中トイレで起きた時は未だにお母さん起こしてる。高三なのに起こしてるから。たまに起こしに行くのすら怖くてそのまま部屋で漏らす」

「そうなのか」

「山田君それ聞いてどう思った? 死ねって思った?」

「引くだけで、死ねなんて思わない」

「そうでしょ。だから山田君ももっと自分に自信を持っていいよ。大抵のことが無い限り人は人を嫌いにならない。おしっこ漏らしてることを言っても嫌われないくらいだから、君の場合思ったこと全部言うくらいで良いと思う」

「分かった」

 

 もう既に問題は解決している。

 俺がここまで高い水準で人間との対話をこなした時点で、もう俺は今までの俺ではない。あ、うんで済ませていた頃とは違う。


 佐藤はやがて教室の扉に手を掛けた。


 よし、じゃあ俺も教室に戻――

 

「…………」


 足が動かなくなった。

 これからクラスの中に戻っていくことを思うと、いくら突然変異した状態でも気分が萎えた。


 ――カチカチしているところを見られた。

 

 ――それを見て、人はどう思うのだろうか。


 普段備品のように其処に存在しているだけの無表情の人間が、意思を持って学校の備品を毎日崩壊させている。それがクラス全員にばれた俺に、戻る資格があるのか。罵倒されるんじゃないのか。全員にガチで嫌われたんじゃないのか。

 怖い。

 怖い。怖い。行きたくない。



『きめえ』

『人間じゃねえ』

『生きてる価値あるの?』

『窓割るとか頭おかしい。死んだ方がいいよ』

『ていうか誰だよ。初めて見たわこんな奴』

『人間としてレベルが低いよね』

 


「どうしたの?」


 佐藤の声が俺の思考を引き裂く。


 ……そうだ。ここには俺と佐藤しかいない。クラスの人は一人もいないんだ。


 恐れる必要なんて無い。見えないものを怖がる必要は無い。

 俺は佐藤がしょんべんを漏らすということを聞いても、引きはしたが別に嫌いにならなかった。

 だったら、シャーペンをカチカチして窓を割るくらいなんてそれより全然ましだ。

 なんで怖がる?

 何がそんなに怖い?


 俺は深呼吸して言った。



「なんでもない、行ってくる。だって俺は、シャーペンカチカチプレイヤーだからな」

 


------------------------- 第11部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

X+2話 魔王再臨


【本文】

 三年一組の教室の扉を開き、中に入っていく佐藤を見届けた。佐藤さんは俺に手を振った。嬉しかった。俺は手を振りかえせなかった。手を振られるという行為を人生の中で全く予測していなかったので反応できなかったのだ。


 結局その場に、棒のように立ち尽くした。


 ああ、佐藤さんみたいに普通に教室に入れる人が羨ましい。

 思えば、何も考えずに教室に入ったことはなかった。

 登校して教室に入る時は、100%の確率で嫌な事を考えていた。『早く帰りたい』『めんどくさい』『見られたくない』『なんとなく苛つくからシャーペンをカチカチしたい』『休みたい』『時間を十年くらい飛ばして学生時代を一気に終わらせたい』『見られたくない』『Uターンして帰宅したい』『カチカチしたい』『めんどくさい』『帰りたい』

 朝、皆がいる教室に入ると、絶対に誰かがこっちを見てくる。

 それだけのことが怖かった。

 別に、おはようと言われたいわけじゃない。言いたいわけでもない。

 心の中で思い直せば、何が怖いのかよく分からない。

 ただ視界に入るだけ。

 しかし既に人がいる教室に入る時、怖かった。だから床だけを見て自分の席に一直線に着いた。そんな愚かな俺を誰かが笑っているような気がした。教室の笑い声が、一人でいる俺を笑ったものに変換されて聞こえた。自意識過剰だと自分に言い聞かせても意味は無かった。

 教室に行きたくない気持ちが消えない。

 でも、入ってしまえばそんな気持ちは消える。

 背景の一部になる。

 その繰り返し。授業が終わればすぐ教室を出て、家に帰って寝て起きればまた教室のことが怖くなる。

 そんな高校生活をしばらく続けてきた。それだけの毎日だった。教室に存在するだけで精一杯で、他のことをする余裕はとてもなかった。勉強もバイトも部活も遊びも。有意義も、教室に吸い取られて無意義になった。


「……俺がこの力(チカラ)に目覚めて、もう何か月経つんだろう」


 俺は三年六組の教室に向かいながら、ぽつんと呟いた。

 一組と六組の教室は最も遠く位置している。 

 佐藤さんから対極の位置に向かう。自然と歩行速度は落ちていた。

 怖くて独り言まで出ていた。

 別の組の教室から声が聞こえる。

 それを聞きながらゆっくり教室に歩いていく。


 ――この力に目覚めたのは、突然のことであった。


 高校一年、二年と備品のような生活をしてきた俺だが、高三になったある日の小テストの時。

 異変は起こった。

 シャーペンを一回カチカチしたら、体が光った。ついでにみんなの答案が飛んでテストが中止になった。

 自分に何が起きたのか分からなかった。とりあえず、ボールペンをカチカチしてみたが、ボールペンでは何も起こらなかった。

 だが、シャーペンをカチカチした時に限り、俺は滅茶苦茶早くカチカチできるような体にいつの間にかなっていたのだ。それからというもの、俺は破壊の限りを尽くした。

 手始めに、便所の鏡の前に立って髪を整えて入り口を通せんぼしている男子生徒の髪をカチカチでグチャグチャにした。ワックスでせっかく入念に整えた髪を水泡に帰すのは楽しかった。彼らは面白いように気を立てた。だが怒りの矛先は超常に向かい、俺に向けられることはなかった。まさかシャーペンで風を起こしていたとは思わないだろう。やがて、その便所で髪を整える人間は皆無になった。ちなみに俺は朝起きて、カチカチで風を起こしてランダムに髪をセットする。大抵ゴミのような髪型に変わるが、たまにいい感じになる。

 そんなことを繰り返しているうちに、俺は備品の窓を壊すようになった。

 備品のように黙って生活していた俺が備品を壊す。

 今思えば、俺は自分のことを壊したいから窓を割っていたのかもしれない。

 教室に入ることが怖い。入れば俺は人間では無く備品になる。意味もなく毎朝そこに在るだけのもの。

 でも俺は人間だ。

 だから毎朝カチカチするようになった。カチカチが俺と教室を繋ぎとめた。しかし、それがばれた今となっては――――


 無駄な事を考えていても、やがて教室の前に辿り着いた。


 足が教室の扉の前で止まった。


 声が中から聞こえる。

 いつもの声。

 教室に電気が点いていない。

 ただ、懐中電灯の明かりが一つ空間を突き刺すようにあるのが見えた。

 俺がいない教室。俺以外の全員がいる教室。

 俺がいてもいなくても変わらない教室。毎日続いていく教室。俺は何を守るために毎日ここに来ているのだろうか。【出席日数・評定】そういうものを守るために来ているのだろうか。

 そんなものはどうでもいい。

 俺は人間としての俺を守るために、教室に存在していなければならない。

 ここで帰って家に引きこもることを選べば、俺はもう本当のボロクソになってしまう気がする。二度と家を出られない気がする。

 帰りたくても、居たくなくても、耐えきれずにカチカチしながらでも、俺は教室に存在していなければならない。周りの人が嫌だと感じないことがクソのように嫌だと感じても、俺はここにいなければならない。自分を守るために。


 ……いや、どうしてそんなに鼓舞してるんだ。学校がそこまで嫌なら別にスパッと辞めて家に籠って痛くない方法ググってそのうち死ねばいいだろ。


 ――そもそも人生に価値はあるのか?


 生まれた理由は親がセックスしたから。

 死なない理由は親が悲しむから。

 別に価値なんてないんだ。

 朝、駅のホームで電車を待っている人達。

 もしその中の一人が死んで、二度と駅のホームに来なくなったとして、それを悲しむ人は駅のホームの中にいるのだろうか。死んだことに気が付く人はいるのだろうか。空気中の二酸化炭素が増えてもそれを感じないように、人が一人消えたところで何も気付かないのではないか。ニュースで殺人事件が報道されて、殺されるなんて可哀想だと思っても、ちょっとすればそのことは忘れる。別の事が報道される。誰も話題にしなくなる。

 当事者と当事者に近しい人以外の人の価値なんて二酸化炭素だ。

 父親が人生でもしも一回でも多くオナニーをしていたら、射精の数が一回でも狂っていたら、母親の生理が一瞬でもずれていたら、俺の代わりに全くの別人がこの世に生まれていたのだ。ただそれだけなんだ。全部脆い。別の人が生まれれば別の人が生きる。俺や誰かが死んでも世界は終わらない。人一人は塵のようなもの。

 生きる価値を見つけようとするのは、価値が無いからだ。

 父親のオナニーの数で全てが決まる。神がかり的にちょうどいい射精の配分のお蔭で俺が生まれてきた。新しい命はコウノトリが運ぶのではない。オナニーが運ぶのだ。世界の人類みんなそうだ。明るい奴も暗い奴も強い奴も弱い奴もクラスで一番可愛い奴もクラスで一番不細工な奴も男も女もオカマもみんなオナニーで全部成り立ってるんだ。例えば、いじめをして人を傷つける奴だって父親の射精の配分が神がかってたから生まれただけだ。弱い奴より強いから生まれたんじゃない。オナニーのお蔭で生まれたんだ。全人類が生まれた時は平等。オナニーだ。人生とはオナニーだ。自己満足。自己満足でいい。自分が満足すればいい。周りは見なくていい。

 今まで生きてきて、俺はどういう人間になれたんだ。

 周りの目ばかり気にして、どういう人間になりたいんだ。

 意味が無い。人生に意味が無い。

 探すこと自体無意味。

 でも意味が無かったら俺の生活があまりに虚しい。

 ただ座ってカチカチして終わる。

 本当に、それに全く意味がないとしたら……、










 ――俺は何を考えているんだ?










 気が付くと、二十分くらいずっと教室の前で突っ立ってぼーっとしていた。馬鹿か?

 教室に入ることが嫌すぎるあまり人生の価値を熟考してしまった。

 ただ入るだけ。

 一瞬注目されて、一瞬声を掛けられて、多分終わる。それだけ。

 人生の価値を考えるほどのことじゃない。

 いける、俺はシャーペンカチカチプレイヤーだ。シャーペンをカチカチするのが早い。カチカチに対する造詣が深い。

 だから教室に入るくらい造作も無い。普通に入れ。普通に。

 いける、いける。


 ……いけない。


 無理だ。

 教室に入ることができない。

 どうする。やっぱり帰るか。

 でもここまで来て帰るのか? でも俺が教室にいることに何の意味がある。父親が人生で一度でも多くオナニーをしていたら、俺はこの世に生まれてこなかったんだ。一度のオナニーで数億の精子が死滅すると言う。あんなにくだらない行動で数億の命が死ぬ。ただのオナニーに左右される程度の価値しかないんだ。そんな奴が教室にいたからって何になる。生きることに意味があるのだろうか。意味はない。意味はないから俺は今も教室に入る意味を探している。もう家に帰ろう。人生なんてそんなもんだ。俺は死ぬ。痛くない方法をググって自害する。それが無理なら引き籠る。一生ニートでいいや。もう知らね。きゃあああああああああああああああああああああああああああああ! びょびょびょびょびょびょびょびょびょびょ! ちぎぎいぎぎっぎぎっぎぎぎぎぎぎいぎぎぎぎぎい!


「――あ! 山田君だ!」


 唐突に後ろから声が聞こえた。


「」


 俺の心臓が死んだ。肩が跳ねた。

 しかもこの声は――。

 思考が消えて、全ての絶望が俺を覆う。振り返ることはせず、俺は無意識に声を発していた。


「kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk久保」


 唐突に現れたことにびびり、どもってしまった。


『気持ち悪い』『人間じゃない』


 俺は多分ガチで全員に嫌われている。嫌われている。この人にも。いや、大丈夫。人類は生まれた時はみんな平等。だから気にするな。何も気にするな。久保だって父親の神がかり的な射精配分のお蔭で生まれただけの存在。

 久保と言えどルーツは所詮金玉。

 恐れなくていい。敵じゃなくて人なんだ。問題ない大丈夫。ルーツは所詮金玉だから。恐れるな。俺が人を怖がるということは、つまりおっさんの金玉を怖がるのと意味は同じだぞ。おっさんの金玉のどこが怖いんだ。


「なに」


 間違いなく久保の声。久保が後ろにいる。俺の背後に。

 なんでここに。


「ルーツが金玉のくせして、どうしてここに」

「トイレ行ってた」

「そう」

「山田君こそなんでいきなり消えたの? みんなほんの僅かに心配してるよ。私だってほんの僅かにしてたから」

「元は全て久保のせいだ。立て続けにチクったな。人間のすることとは思えない」

「は? なんで私のせいにするの。私はあれが山田君が変わるきっかけになると思ってチクったんだけど。……携帯没収されてまで」

「ざまあ」

「え、ちょっと待って。山田君が明るくなった。この短時間に何があったの。もしかして私がちくった効果?」

「ハッ!」


 言われて気が付いた。俺が普通に恐れていた人間と話せている。

 言葉が自然に溢れた。

 佐藤限定で、そのうち終わる突然変異だと思っていたのだが、久保に対しても緊張が一切無いとは。どういうことだ。

 

「よかったじゃん。喋れるようになって。私のお蔭だ」


 それは分からないが、俺は久保に果たして嫌われているのか。相手の心は見えない。だが、本当に嫌いだったら声をかけることもしないのではないか。だが、仮に嫌われていたとしてもルーツは金玉。実家が金玉の奴なんかに嫌われても何も気にするな。

 気に食わなかったらこう言えば良い。


「うるせえ。金玉がルーツのくせに」

「は? 何言ってるの」


 言わない方が良い。


 ◆


「……」

「……」

 

 それから一分くらいが経った。

 俺はまだ教室に入ることができていなかった。

 すぐ後ろには久保がいる。

 嫌っているのかそうでないのか分からないが、気にしないことにした。ルーツが金玉だから。


 やがて、後ろから声がした。

 

「なんで入らないの? 怖いから?」

「うん怖い。だって俺はきっと全ての人間から嫌われている。どうでもいいあるいは死ねと思われているはずだ。三年間教室でずっと黙って座ってる奴なんて絶対嫌われてるに決まってるんだ。陰で笑われてるに決まってるんだ。絶対陰で馬鹿にされてる。俺はもう人と関わりたくない。もはや人で在りたくない。木と化したい。集団の中にいたくない。実在していること自体が憂鬱だ。戸籍なんていらない。嫌だ。自分という存在が鬱陶しい。根本的に人と接することが向いてない。話せない。怖い。もう死んだ方が良い。もう生きている価値が無い。未来に期待は無い。俺はもう、もう、もう――」

「うるせえ!!!!!!!!!!!!!」


 背後で怒号がした。背中を強く殴られた。

 たしかに滅茶苦茶うるさい。佐藤と話したときもこうだった。俺の辞書に学習という二文字は無い。

  

「ぐ!」


 変な声を出して前のめりになるも、扉に触るギリギリのところで止まってしまった。

 

「……はぁ」


 久保の溜息が聞こえた。

 自分が矮小に思える。

 どうせいつまで経っても入れないなら、勢いのまま突っ込めばよかったかもしれない。


「銘柄」

「え」

「だから、銘柄」


 体勢を立て直していると、突然後ろで久保が無機質な声でそう言った。銘柄とは、なんのことだ。頭を回転させても分からない。

 

「銘柄は何?」

「じゃ、じゃあ、一番安いの」

「解った」


 訳も分からずそう言うと、久保は突然暗い廊下を走って、足音だけ立てて消えた。


 ◆


 俺はひたすらその場で立ち尽くした。

 五分、十分、十五分。

 その間、教室からはみんなの声がした。

 俺の事を話していたらどうしよう。

 不安は消えない。

 幸い、便所とかで教室を出てくる人はいなかった。


 このままずっと独りだったらどうしよう。このままずっと世界が暗いままなのか。大体なんなんだ。この現象。災害? 何? 訳が分からない。


 帰ろうかな。


 と思った矢先だった。


 こつこつ足音が聞こえてきた。こっちに近づいて来る。それが久保だと分かった瞬間、銀の煌めきが俯いた俺の目に入った。

 

「はい、一番安いの」

「……」

「後払いでいいから」


 見渡しても深淵しかない中で、その銀の煌めきは、一縷の希望に見えた。

 この煌めきを見る瞬間まで忘れていたことがある。

 俺が一体誰かということだ。

 人間はみな、オナニーのさじ加減で生まれる。

 だから人生に価値は無いのかもしれない。

 生きている意味なんて無いのかもしれない。

 でも俺は――――




 ――――シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。




 俺は学校に来てから初めて笑顔を取り戻し、浮かべて呟いた。


「――108円払うの面倒だから、100円で良いか」

「良いよ。別に」


 俺は暗闇の中で手を伸ばす。銀の煌めきは、シャーペンの先端。

 それを手に取る。

 ああ、どうして人から貰ったシャーペンはこれほどまでに私物感が薄いのか。

 今なら分かる。私物では無いからだ。


「ありがとう」


 お礼を言ってシャーペンを受け取り、今日初めて久保の顔を見た。

 久保は笑っていた。

 嫌われていたのは被害妄想なのか事実か。それは分からない。だが笑っている。

 俺は笑っている。


「あれもう一回見せてよ。教室なんてもう、全部ぶっ飛ばしていいから。今度はチクらない。……山田君、ずっと窓割ってたのがばれてみんなに嫌われたと思ってるんでしょ。そのくらいじゃ誰も嫌いにならないから」


 俺は一度深呼吸し、教室の扉に向き直った。

 右手にはシャーペン。

 横には久保。

 未来には希望。

 大丈夫。問題ない。やれる。

 何故なら俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早いから。

 

「ドゥオルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ!」

 

 共鳴する俺とシャーペン。

 ずっと入りたくないと思っていた教室の扉は、引くほど簡単に真っ二つに折れ、やがて霧散した。

 ずっと聞きたくないと思っていた皆の声が引くほど明瞭に耳に入ってきた。

 皆の顔が見える。

 教室の中が崩壊していく。

 机と窓が吹っ飛ぶ。

 俺の体が閃光を纏う。

 何も怖くない。教室に入ることに何の抵抗もない。何故なら俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早いから。


「きゃあああああああああああああああああああああああああ!」

「ごめんねママ! 私今日で死ぬ!」

「ああああああああああああああああああああああ!」

「業者さん! 仕事だ!」

「あああ携帯飛んだ! モンスト課金したばかりなのに!」

「地獄の門が開いた!」

「あああああああああああああ!」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ!」

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「風がああああああああああああああ!」

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」

「レールの敷かれた人生を歩みたくない!」

「今だから言うけど俺は童貞だ!」

「あああああああああああああああああああああああ!」


 普段より気合を込めたカチカチ無双。教室の備品ほとんど全てが霧散していく。

 真っ暗な教室を俺の閃光だけが照らした。

 ――やがて、手に持っていたシャーペンは実体を失くし、ただの粉になった。久保から貰ったシャーペンは役目を終えた。俺は、廃墟同然の教室に入っていく。後ろから久保の足音もする。

 久保無しでは俺は教室に入ることができなかった。

 やがて俺は深呼吸し、呟いた。


「――心象投影機神速奏者(シャーペンカチカチプレイヤー)、推参」

「先生、山田君が教室を全壊させました!」

 すかさず後ろから久保が叫んだ。

「業者死ね!!!!!!!!!!」

 俺も乗じて叫んだ。


「僕は生きる。この中で出会いを探したい」

「我々二人は社内で嫌われてるからあまり戻りたくない。実は今転職先を探している最中でね。それが決まるまでは今の会社に居座る。空白期間は作りたくないから」


 教壇のある辺りから、二人の業者の声がした。

 お前らまだいたのか。


【後書き】

性的な表現が出てきます。苦手な方は気を付けてください。


------------------------- 第12部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

X+3話 シャーペンカチカチ講座


【本文】

「あ、山田君だ」

「山田君じゃん」

「山田君」

「あれ、早退したんじゃないっけ」

「山田君だ」

「山田君」

「下の名前なんだっけ」

「光ってるじゃん」

「ちょっと光ってる」


 ――俺は、カチカチしているとき体全体から発される閃光に持続性があることを初めて知った。

 カチカチを終えて十秒程経過した今も、俺の体は薄く発光していた。豆電球程度の、ちょうど個人を判別できる明度である。

 クラス全員が着席し、俺を見ている。


「……」


 思わぬ事態に頭が真っ白になる。

 みんなの顔を見渡す。俺の方を見ている。みんなの視線が俺の目を貫通して心臓に刺さる。息をすることを忘れた。

 そして最悪の考えが再び脳を埋め尽くす。

 見られた。プロジェクターで見られ、そして現物を見られた。嫌われたんじゃないか。引かれてるんじゃないか。死ねと思われたんじゃないか。


『そのくらいじゃ誰も嫌いにならない』


 佐藤と久保の言葉。


 ――本当か?


 建前じゃないのか。


 俺は今、本当に間抜けなことをしてしまったんじゃないのか。

 消えたい。この場から今すぐ。死にたい。全員の脳から俺の記憶だけを消したい。絶対気持ち悪い。俺は気持ち悪い。人間じゃない。何調子に乗ってるんだ。


「どうしたの」


 すぐ後ろで久保の声がした。

 勢いで入ってしまったが、これほどまでに教室を出たかったことは無い。絶対こんなことするべきじゃなかった。馬鹿だ俺は。人間の前で調子に乗るなよ。俺は人間じゃないんだから。俺は人間っぽい外殻に覆われただけのゴミだ。

 俺は頭を真っ白にして突っ立った。空気中のどこかをぼーっと見て。

 三秒くらいそうしてから俺は踵を返した。



『また逃げるのか』



 俺が昔、心の中に押し込んで殺したはずの“人間”がそう囁いた。



 俺は人間じゃない。ゴミだ。

 人間は全員金玉が実家だが、俺はシャーペンカチカチプレイヤーなんだぞ。

 金玉なんて怖がらなくていい。

 金玉から生まれた人なんて、怖がらなくていい。

 でも俺も金玉から生まれたただの人間だろ。

 

 今日の俺は何故か喋れる。だから行ける。


「毎朝シャーペンで窓割ってました。迷惑かけてすいません」


 俺は視線の嵐の中で謝罪した。それは、俺の人生の中では歴史的快挙だった。

 教室の中で音読以外で声を出した経験すら数えるほどしかない俺が、人間的な感情と語彙を用いて発声している。俺の人生において、一番多くの勇気を消費した瞬間だった。

 

 ◆


 未だ俺は若干発光している。

 だからみんなの顔が見える。みんな俺を見ている。それだけは分かる。何を考えてるかは分からない。だがこれが生きるというなんだ。この圧倒的な謝罪感。圧倒的な不透明。視線に自分が押しつぶされるような感覚。

 脳がぐるぐるする。

 

「すいません」


 みんなが何も言わないので、念を押した。

 

 それから少しが経った頃、


「……山田君ずっときょどってるぞ、誰か反応してやれよ」

「いや俺一回も話したことないし」

「俺も」

「僕も」

「某も」

「おいどんも」

「拙者も」

「わしも」

「朕も」

「我輩も」

「うちも」

「私も」

「あたしも」

「私も」

「俺も」

「うちも」

「朕も」

「俺も」

「うちも」

「朕も」

「私も」

「俺も」

「朕も」

「朕も」

「俺も」

「私も」

「朕も」

「朕も」

「我輩も」

「朕も」

「朕も」

「朕も」

「朕も」

「朕も」

「俺も――」


 朕多くね。

 

「お、今日は全員出席か」


 やがて、教壇付近の担任が呟いた。

 知らぬ間に俺の謝罪が出欠の役割を果たしていた。いつの間にかクラス全員が声を発していた。

 つまりクラス全員ほとんどが、俺と全く喋ったことが無い。


「ねえ山田君って本当は喋れるんだね。あいうえおって言ってみて」


 と、名前の知らない女子が突然ぽつんと呟いた。


「あいうえお? そんな知的じゃない台詞言いたくない。せめてiPS細胞とかにして」

「じゃあiPS細胞って言って」

「iPS細胞」

「「「「「うぇええええい!!!」」」」」

 

 俺がみんなの前で普通に喋れている?

 しかもこの反応は何なんだ。俺はそんな嫌われていないのか? 

 


「ほら。気にしすぎだったんだって」



 俺の後ろで久保の声がした。


「………………」


 ああ、呆気ない。本当に呆気ない。

 

 何か、思い悩む必要とかあったのかって感じだな。

 勇気を出して言ってみれば、こんなに呆気ないものなのか。

 ずっと悩んできて、ずっと悩んできて、何年もずっと自分を自分の中に閉じ込めてきて、それがこんなに呆気なく終わってしまうのか。

 喪失感。

 自分の中の何かが消えたような気がした。

 俺はずっと誰とも喋らないでここまでやってきたのだ。


「……」


 ……何だ。この感覚は。


 虚しい。


 ◆

 

 その後、担任は職員会議か何かで教室を去った。そのまま二度と戻ってくるな。

 俺は自分の机に座った。

 世界が終わったように感じて、あれだけの思いで早退したのに、戻ってくれば、なんということはなかった。特に話しかけられるというわけでもない。嫌悪されない。いつもと全く同じ。

 あんなに怖がっていたのが本当に馬鹿みたいだ。

 

「――ねえ山田君、あれってどうやんの」


 五分くらいずっとぼーっとしていると、前の席の人が振り返ってそう言った。名前は知らない。


「あれって?」


 俺は予測していなかったにも拘わらず平然と返せた。どうしてこんなにあっさり返せるようになったのか、今でも分からない。

 呆気ない。


「あれだよ。シャーペンで窓割るやつ。俺らやることなくて暇だったから、視聴覚室で一時間くらいずっと山田君の姿リピートしてた。うけたわ」

「へえ。よかった。エンターテインメント提供できて」


 勝手に見んな。みんなでしりとりでもしてろよ。


「あれのやり方教えてくんね? 俺もやってみたい」

「いいよ」

「まじで? ありがとう」

「あれは指ぱっちんとかと同じでさ、繰り返してればできるようになるから」


 格の違いというものを見せてやる。

 俺でさえカチカチできるようになった理由は分からないのだ。

 努力なんて全く報われないということを教えてやる。世の中天才が勝つようにできてるんだ。搾取する側とされる側。カチカチできる側とできない側。世の中そうやって動いてる。俺は、カチカチできる側だ。


「じゃあちょっと俺一回やってみるから。何が駄目か指導して」

「うん」


 そいつは椅子ごと俺の方を向いて、シャーペンをカチカチした。一般人のそれだった。センスは全く感じられなかった。

 

「どう? 山田君? 俺ぶっちゃけセンスあるでしょ」


 暗闇の中で、名前も知らない男の白い歯が光る。

 

「……カチカチ以前って感じだな。なんか、信念が無いカチカチってすぐばれるんだわー。俺クラスともなるとさ、『とりあえず風起こせればいいやー、とりあえず閃光纏えればいいやー』みたいな適当な気持ちが出てんのがすぐ見えちゃうわけだ。まずはそこを隠すようにしようか。技能的な指導はそれからだな。やれやれ、これだからゆとりはよぉー」

「突然どうした」


 俺は調子に乗って適当なことを並べた。上から言うのって滅茶苦茶楽しいな。将来、教習所の教官になろうかな。


『君さー、どうしてこんなこともできないの? 他の教習生は言われなくてもできるんだよ? 教本とか読んでんの? やる気ある?』

『すいません』

『すいませんじゃないよ、やるんだよ。できるようにならないとー。言われてからやったんじゃ遅いんだよ。言われる前にできないといつまで経っても上手くならないよー?』

『……』

『返事は?』

『はい』

『はいじゃないよ、できるようにしなよ。教本を読んで復習しておくとか、イメージトレーニングをしておくとか、それだけでだいぶ違うんだから。ああほらほら、また速度超過ー。ここは40キロに留めておくんだよ。今ここ何キロ制限か分かる?』

『40キロ』

『全然違う! たった今50キロ制限になっただろお? ちゃんと自分でやれよー。自分の意思を持って物事に取り組め。全て俺の指示頼りってのは人間としてどうなんだ? 俺に言われてからじゃ遅いんだよー? ねえ? 真剣に取り組まねえとほんとにハンコやらねえぞ。おい』

『すいません、ちゃんとやります』

『じゃあ、そこの信号左ねー』

『はい。……巻き込みよし』

『ああああああああまたそこ! 違う違う! 減速チェンジだって言っただろー。言われてからじゃ遅いよ。ちゃんと減速しながらギアをチェンジするんだよ! 今チェンジしなかったろ? それとちゃんと目視したか? 何が巻き込みよしなんだ?』

『……自転車とか』

『あと人だろ? 大事なのは自転車よりも人だー。特にお年寄りがいないか。そういうことをちゃんと目視で確認してから、巻き込みよしって言えよー』

『はい』

『……君はさー、高校生だろー? 将来の夢とかある?』

『え。いや、特に無いです』

『だろうね』

『』


 うわあ、なんか変な想像を働かせてしまった。

 教習所なんて行きたくねえ。 

 教官になるのもやめよう。

 

「あれ? 山田君どうしたん。ぼーっとして」

「あ、ああごめん。はい、じゃあもう一回やってみて」

「しゃあ!」


 男は再びカチカチした。見た感じさっきと何も変わっていない。そもそも俺はカチカチに関する専門的な知識を全く備えていない。ただカチカチが早いというだけだ。


「さっきより改善されたね。方向性としては誤ってない。でも、まだ君の中で『俺ならすぐできそう』っていう驕り高ぶってる感情が拭いきれてないのもまた事実だ。俺には分かる。専門的な知識だってあるしね。どう? 驕り高ぶってない?」

「え、あ、まあ少し」

「うん。それじゃあ駄目だわな。なんつうか、今度は『これが駄目なら俺は痛くない方法ググって死ぬ』っていうくらいの意気込みでやってみ。絶対いい方向に転がるからよ」

「なんか山田君めっちゃ喋るな」

「知らね」

 

 その後、名前を知らない少年はしばらく俺にカチカチを見せた。

 はっきり言って俺には全く違いが分からなかった。


「オッケーオッケー。気持ちの面は問題ない。カチカチが何なのか、分かってきたね。つまりそういうことね。俺が言いたいのは。まあ感覚的なことで分かりづらいと思うけど」

「……なんか、早くなってる感じが全然しねえんだけど。これから早くなる?」

「うん」


 多分、十分くらいカチカチしていた。この人は暇なのだろうか。

 

「――おーい小池、便所行こうぜ。俺のうんこをお前の目に焼き付かせてやるから」

「……あーめんどくせ」


 目の前の男が、溜息と共に、小さな声でそう呟いた。

 この人小池っていうのか。初めて知った。


「あの人呼んでるし、一旦トイレ休憩にする? 小池君」

「いや、よかったら休憩なしで教えてほしい。あいつ自分のしったうんこを俺に見せて記憶させて書かせるから」

「へえ、じゃあ続きやろうか」

「――私にも教えてくれない?」


 俺の横から突如久保の声がした。


「別にいいよ。カチカチする上で信念があるなら」

「やったー」


 ……そういえば久保って友達いるのか?

 顔は普通だが、いつも女子の会話でも「それな」くらいしか言ってないし、金魚のフンっぽい立ち位置なんじゃねえのか。そうでもなかったらわざわざカチカチを早くする方法なんて会得したがらないだろう。それに今知り合った小池君もおかしい。うんこを書かせるような奴とつるむなんて。嫌なら断ればいいのに、断れないんだろう。二人ともろくな人間関係築けてないんじゃないか? 若いのに可哀想だぜ。

 やがて、久保が椅子を持って俺の机の横に座った。

 良い匂いがした。

 

 ◆


「ああああああああああああ!」

「カチィカチィ」


 小池君がカチカチした。

 

「駄目だ、シャーペンが泣いてるわ。叫べばいいってもんじゃないよ。叫ぶのは心技体が全て備わってからだ。形から入っても、中身が無かったら意味ない。死ね」


「あああああああああああああああああああああ!」

「カチカチカチカチ」


 今度は久保がカチカチした。

 一般の範疇を出ないが、小池君よりは素質があった。

 

「んー。そうだな、親指をトップの位置からインサイドアウトに振り下ろせ。その軌道じゃ風は起こせない。あと、カチカチ前のテイクバックをしっかり取ったほうがいい。常に最短距離でカチカチすることを心掛けるんだ。それとよくノック部分を見てカチカチすること。そうすればフォームが安定し、自然と速度も増す。分かったか久保」

「長えよカス」


 その直後、小池君がぼそぼそ呟いた。


「……え、指導が俺と全然違くね? なんで専門用語が出てるの」

「それは、小池君が男だからだ。……あ」



 ――俺はこの瞬間、教習所の教官になってJKを指導しようと決意した。


 

 その後も、小池君と久保を交えたシャーペンカチカチ講座が続いた。

 そのうち、段々人が集まってきて、最終的に10人くらいになった。

 楽しかった。


【後書き】


教習所は嫌な思い出が沢山あります。俺に風当たり強い教官が、女子高生とかにはずっと笑顔で接するんです。美少女に生まれたかった。

それで自撮り棒使って自分の写真撮ってツイッターとかに上げたい。


------------------------- 第13部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

ガチ最終話 Unknown補完計画発動


【本文】

 教習生が久保と小池君の二人だったのが、今や十人の受講生を抱えるまでになってしまった。

 

「ねぇ、俺のどう?」


 見知らぬ誰かが俺に問う。


「カチカチ前のテイクバックをちゃんと取った方が良い。それ以外は大丈夫。自信持っていい。まぁ、カチカチっていうスポーツは八割が準備で決まるから。ゆうて俺も色んな大会で結果収めてきたし。カチカチの心得なら俺に聞け」

「うるせえ」


 現在十人の教習生を抱えていたが、俺はそつなく教習をこなせていた。

 俺の机の周辺で十人くらいがずっとカチカチしている。

 久保を除いて全員男である。

 もしかしたら教える才能が俺にはあるのかもしれない。カチカチの知識なんて全く無いが、それっぽい用語を並べるだけで教習生が増えた。詐欺だ。

 事業に発展させようかな……。


「あ、彩香こんなところにいたの?」

「ほんとそういうところすっとこどっこいだよね」

「どうして勝手に消えるの」


 俺が調子に乗っていると、俺の横の久保の頭上から三人女子の声がした。

 

「ごめん、山田君にカチカチ教えてもらってた。みんなもやる?」


 かくして教習生が十三人になった。




 その後も、俺は適当な専門用語をどや顔で放ち続け、悦に浸っていた。

 

 何故か、今は普通に喋れる。


 俺はずっと誰かと喋りたいと思っていた。

 寂しかった。

 ただ仲良くなりたかった。

 人に臆しない人が羨ましかった。複数人でいる人に嫉妬していた。帰り道、誰かと一緒に帰ってる人が神に見えた。いつも一人で帰った。寂しかった。周りにどう見られているか、気になってしょうがなかった。一人でいる自分がゴミだと思えた。そのうちゴミとしか思えなくなった。

 ずっと喋ってみたいと思っていた。本当の自分は無言のつまらない人間ではない。本当の自分はこれじゃないとずっと思っていた。

 普通に憧れていた。 

 普通になりたかった。

 ……でも勇気を出していざ喋ってみたら、別にそんなに感動なんてなかった。呆気なかった。別に嫌われてもない。ずっとみんなに嫌われてると思っていたけど。

 呆気なかった。

 何だか気分が晴れなかった。

 

 ――俺は、もしかして最初っから一人が好きなんじゃないか?


 本当に寂しいのか?


 言うほど寂しいか?


 言うほど誰かと一緒にいたいか?


 一人でもよくないか?

 

 そんなに駄目か?


「――どう? 俺のカチカチ。ちょっと早くなった?」


 小池君の声が俺の思考を引き裂く。

 みんなのカチカチの違いなんて全く分からない。そもそもカチカチって何だ。資格になるのか。就職の役に立つのか。意味はあるのか。そもそも就職したから何だ。幸せになるのか。

 そもそも、なんでみんなカチカチしてるんだ?


 ――ていうかなんで俺の周りに人が13人もいるんだ。


 俺が哀れだから? さっきクラス皆の前であんなにきょどって謝ってたから、それがあまりに可哀想で集まってきてくれたのか? 介護的な?


「俺小池君にさっき死ねって言ったのになんでまだいてくれるの? 嫌いになってないの? もし俺に死ねって言った奴がいたら、俺はすぐそいつのこと嫌いになってそのまま一生関わらないけど」

「え」

「なんでいるの? 俺のことが哀れだから? 逆にそうじゃなかったら何。何でここにいるの。おかしいでしょ。早くどっか行け。え? ていうかみんな何? なんでカチカチしてるん。俺別にカチカチのこととか一切詳しくないし。カチカチってそもそも何だよ」

「いきなりどうしvtvjs目jfぁcJヴィRcgbmd㎝v毛svk、G背jfwhdtjfgvch、絵fvファmslgへrうgへtgじぇfghjtvvgjsdsfhうぇあうfhrつhdjふぇvg日rcgjさwrhふぇうkshgtjhbtfj目SdghれfghrgjれcJ話FwじぇrJ毛rjg背jgjfhtrjgrjでhふぇfhgjhjれjfhghgjhtjrjふえhghthrtdじぇfjrhgthcふぇhふrhgbtfgcjdsjfへsfhsふぇfvhvrgじぇgヴぇfじぇjvgscjjふぇxjぎrjhtjjふぃじcじvgjrgjvgjvgjrfvcSXmcJBFんhvjcdンsddchんdcgvhbxvchsbgbtdjvkfmdscghgvhcdsfjdwkfcjxfzsンdvfh微づygfyfdxsfじぇksjんmっすdsxdfbっぐjjjふhhcgふぇwbgdwchxjcrgvjchjjfんhxせchdhfkhcふぇjfjfhvrgへちぇれhthbjヴぇwhfhrfhヴぇchghふぇhfcrgjg

 

 俺には価値が無い。

 だからシャーペンをカチカチするんだ。


 でもシャーペンをカチカチしない可能性もあったのだ。シャーペンをカチカチしていない自分も存在しているのだ。


 俺は自分のことが嫌いだ。


 でも、俺は自分のことを好きになれるかもしれない。好きになっていいのかもしれない。

 俺は俺でしかない。

 俺は俺だ。

 俺でいたい。


 俺はここにいる。小説なんて書かなくてもここに生きているんだ。だからいくら唐突に最終回を迎えてもいいんだ。別に良いことを書こうとしなくてもいいんだ。伝えなくてもいいんだ。面白いこと思いつかないのに面白いことを書こうとしなくてもいいんだ。人を笑わせようとしなくてもいいんだ。自分の気持ちを書かなくてもいいんだ。俺はここにいるんだ。小説なんて書かなくても、ここにいる。

 俺はここにいていいんだ。




 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。




「ありがとう」


 


 ―完―



































------------------------- 第14部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

真:最終話 前編 


【本文】

 気が付くと、俺は立っていた。


 ――教室で教習生たちのカチカチを指導してたところまでは覚えている。


 だが、それ以外何も分からない。頭がこんがらがって記憶が無い。

 寝起きのような感覚。

 全身がぼやけている。目から頭に入る情報が全部ぼやけている。

 しばらくして、それが見覚えのない場所だと気付いた。

 汚い・狭い・臭い・暗い・寒いのファイブツールが揃ったクソ部屋。ファイブツールプレイヤー。

 俺の部屋じゃない。

 どこだここ。

 誰の部屋だ。


「……」


 ようやく意識が覚醒してきた。だが頭が痛い。知らない場所にいる恐怖を頭の痛さが悠に上回る。正常に思考が働かない。それでも、俺が何故か右手に一本シャーペンを握っていることだけは分かった。それが分かると少し楽になれた。


「……」


 頭痛に耐えながら部屋を見渡すと、狭い部屋にはゴミが散乱していた。そのゴミに混ざって、多くの小説や漫画が床を埋め尽くすように転がっていた。本棚に入れないのか。

 ただでさえ狭い部屋がさらに狭く見える。

 全体的に汚い。小さいテレビは埃を被っている。俺の足元のゴミ箱からは異臭が漂う。だが、馴染みのある異臭だ。ゴミ箱に直接出してるのか。俺以外にそのタイプがいたとは。

 部屋が暗い。カーテンは閉めきってある。隙間からしか光は入ってきていない。この日差しの感じは朝か。

 日差しがあっても寒い。頭痛。車が通る音がする。鳥が鳴く声がする。嫌な音。朝。学校に行かなきゃ。今日も行かないと。あーめんどくせえ。あー死にてえうんこうんこうんこ。だるい。

 朝というだけで、耳や目から入る情報の全てが俺の頭をしっちゃかめっちゃかにさせる。今までそうだった。

 でも、今はそれが不思議と全く無い。

 俺は近くにあったストーブをすぐに押すが、給油のテーマがコミカルに流れるだけだった。ちゃんと灯油入れろよ。

 そして、一番見たくないものが、部屋の隅にあった。今まで無意識に視界に入れていなかったもの。

 ――ベッド。

 人が潜っているのだろう。布団が盛り上がっていた。布団が生き物のようにゆっくり上下している。幸い、寝ている。頭も布団を被っているから姿は見えない。だが、なんとなくそれが男であることは確信できた。ゴミ箱から出る異臭が決め手だった。

 それだけではなく、何だかこれは“俺の部屋”に似ている。

 間取りは全然違う。

 部屋の閉塞感。給油になっても灯油を入れない。カーテンを閉め切る。小説や漫画を本棚に入れずに床に散らかす。

 そういった根底の部分が似通っている。

 この部屋にいるのが俺でないにしろ、まともな人間ではないのは分かる。


「……なんで」


 数分して冷静になっても、なんでこんなところに自分がいるのか全く把握できなかった。恐ろしい。嫌悪感が募るだけだ。早くここから抜けよう。どこだここ。もうこんな場所にいたくない。きしょい。

 俺はすぐにここを出ようとした。

 だが、どうやってここに来たのか分からないから、怖くて動けなかった。何もわからない。

 そのまま立ちすくむ。

 寝てる人が起きる前に行動しないとまずい。でも、何故か一歩も動けなかった。頭が痛い。頭痛が俺の身体中を縛っているような気がする。

 そのうち、ベッドのふくらみの中で、目覚ましが大音量で鳴ってしまった。

 俺は全部諦めた。

 溜息が出た。


 ◆


「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! ゴルァ!!!! アアアア糞がよぉ! 死ぬ!!! 死ぬ!! ガアアアアアアアア!!! ヴァアアアアアアアアアアアア!!」


 俺は慄然とした。

 寝起きに叫ぶところまで、俺と被っている。しかも、叫びのスタンスがほぼ同じ。

 どういうことだ。

 俺が疑問を抱いたのとほぼ同時に、その人物が布団を剥いでベッドから起き上がった。

 思考を介さず目だけ合う。


「え」

「え」


 俺は驚いて床にへたりこんだ。俺と目を合わせた人もベッドにへたりこんだ。

 俺と目が合ったのは、俺だった。


「あ、え、え、な、うぇ、え? なん……えぇ? え? あ、え?」


 “俺”はベッドにへたれこみ、瞬時に布団で顔を隠してよく分からない言語を小声で矢継ぎ早に発した。さっきあんな猛々しい叫びをあげて起きていたのが信じられない落潮。

 それを俺は床から茫然と見ていた。

 少し引いた。


「大丈夫ですか」

「……」


 俺が思わず声を掛けると、“俺”は一言も発さなくなった。

 ただ布団で顔を隠しているだけだ。

 そのまま五分くらいが経った。

 “俺”は何も言わない。

 あまりに何も言おうとしないから、俺はフランクに話題を提供した。


「なんでゴミ箱に直接出してるんだ。この部屋臭いよ」

「……」


 依然何も言わない。この無言感、本当に俺みたいだ。

 だが、当然の反応だ。起きたら突然人がいたらびびる。


 でも俺はそんなにびびってない。一体なんなのか。

 そもそもどうして俺はこんな部屋にいるのか。

 目の前にいる奴は俺なのか?

 だとしたら、なぜ俺なんだ?

 誰だ……?


 それに、今ようやく気付いたが、世界が普通に明るい。さっきまで10時10分で止まっていて真っ暗だったはずだが。何もかも分からない。分からない。全部分からない。謎。

 とりあえずこいつと喋らないことには始まらない。


「……どうして、ゴミ箱に直接出すんだ?」

「……」


 彼は布団で依然己を隠している。バリケードのようにピンと張られた布団がぶるぶる震えている。俺は今、何も怖くないのに、“俺”は人を怖がっている。見ているこっちが悲しくなる。


「どうしてゴミ箱に直接出す?」

「……」


 言わない。

 三回聞いても言わない。布団が震えている。

 大抵ならここで会話を諦める。それか話題を変える。だが、これが本当に俺なら、聞き続けた方がいい。

 百回でも千回でも一億回でも不可説不可説転回でも聞いた方が良い。

 永遠に聞き続ければいつかは答える。目の前にいるのが俺なら。

 俺はもう知っている。俺が本当は喋れることを。勇気を出せば声が出ることを。ただの人間だということを。

 だから何回も聞く。


「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

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「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

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「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

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「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

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「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「……」

「どうして、ゴミ箱に直接出すんだ」

「母親に……」

「うん」

「……一回母親に普通に見られて、それ以降ゴミ箱に出すことに抵抗が無くなった。行為そのものを普通に見られてるなら、別にゴミ箱に出すくらいどうでもいいと思った」

「何を見られたんだ? 隠さなくていい。自分を閉じ込めなくていい。言っちゃいけないことなんてこの世には一つも無いんだ。恥ずかしいことなんて何もない。だから言おう。何もかも全部俺に言ってくれ。無礼講だ」

「……」

「何を見られたんだ。正式名称を含めて、言い直してくれ」

「半年くらい前母親にオナニーを普通に見られた。それ以降、ゴミ箱に直接出すことへの抵抗が無くなった。オナニーそのものを見られてるなら、別にゴミ箱に直接出して、部屋が臭くなろうがどうでもいいと思うようになった。オナニーに関する感情を失った」

「どうして母親に見られたんだ」

「……イヤホンしてて、部屋に入られたことに全く気付かなかった」

「話してくれてありがとう。今の言葉ではっきり分かった。“君は俺”だ。確認にもう一つ聞くが、何か月か前にオナホールのパッケージも母親に見られなかったか?」

「見られた」

「場所は?」

「洗面所」

「見つかった時どう思った」

「オナニーそのものを事前に見られていたから、そんなにダメージ無かった。半日したらどうでもよくなった」

「差し支えなければ、オナホールの名前を教えてくれ」

「初々しい妹」

「……嘘だろ。完全に……俺と人生が一致している?!」


 俺は全身が震えた。総毛立った。

 間違いなく俺だ。

 目の前にいるのは間違いなく、俺だ。俺自身だ。母に直接オナニーを見られた数か月後に初々しい妹のパッケージを洗面所で見られた人間なんて日本に数える程だろう。完全に俺だ。全部が俺だ。


「……」


 やがて、彼は布団のバリケードを取り、顔をこちらに向けた。

 その顔はやはり俺そのものだった。

 目が合った。

 鏡を見ているようだ。

 だが、やがて“俺”が先に目を逸らした。


「質問していいですか」


 俯いた“俺”が今日初めて自発的に喋った。俺は少し驚いたが、“俺”の変化にほっとした。


「名前はなんていうんですか?」

「山田」


 俺は即答した。

 すると、“俺”は一瞬だけ少し驚いたような顔をして、すぐ真顔になった。そして、再び淡々と声を並べた。


「下の名前は?」

「……」


 俺は、その質問に答えることが何故かできなかった。下の名前……。下の名前?

 下の名前。

 下の名前。

「」

 下の名前――に関する記憶が無い。俺は、自分の下の名前を答えられない。どうして答えられないんだ。どうしてだ?


「……ごめん、全然思い出せない」

「……分かった」

「あ、じゃあ、そっちの名前は?」


 と、俺が訊ねた瞬間だった――。


『Unknownー! 起きないと遅刻するよー!』


 一階から、母親の声がした。俺が知る母親の声。

 Unknown。俺とは全然違う名前。


「俺の名前は、Unknown」

「そうなんだ」


 俺はあたふたしてしまった。頭の中で整理が付かなくて、何が何だか分からなくなってきたのだ。

 俺がそうしていると、“俺”の方まで動揺し始めた。


「……ごめん。ちょっと下行ってくる」


 Unknownはそう言い残して、部屋を去った。声が小さすぎて何を言ってるのか分からなかった。

 しかし、さっきゴミ箱に直接出す理由を何万回も聞いたことで少しは打ち解けられた実感がある。

 何もすることが無い。

 俺の右手にはシャーペンがある。

 シャーペンをいじって時間を潰した。


 ◆


「――ごめん、俺、学校行かないと」


 五分くらいして、部屋にUnknownが戻ってきて、呟いた。声が小さくてなんて言ってるのかよく分からなかった。

 造形が全く同じで変な気分になる。

 Unknownはそのまま床を見て数秒固まり、やがて無言で部屋を去った。


 俺はどうすればいいのだろうか。


 しばらくそのまま部屋にじっとしていたが、結局Unknownを尾行することにした。あれは他人ではない。完全に俺だった。ていうかあいつはよくあんなに冷静でいられるな。普通起きて自分が増えてたらもっと動揺しないか?


 俺はゆっくり部屋を出て、階段を静かに下り、玄関で適当な靴を履いて外に出た。幸い誰にも見つかることは無かった。


「……」


 家を出る。辺りは全く知らない場所。

 そういえば、俺はどこに住んでたんだっけ。

 思い出そうとするが、何故か記憶が無かった。色々あって頭がおかしくなっているのかもしれない。


 俺は学校の制服を着ていた。


 しばらく辺りを見渡すと、通学・通勤中の人や自転車に混ざってふらふら歩く私服のUnknownを見つけた。全く知らない場所。Unknownを見失ったら行動できない。俺は歩くスピードを上げて、距離を詰めた。

 Unknownのすぐ後ろについた。

 しかし、彼がそれに気付く気配は皆無。下を向いて歩いている。ほとんど全ての人に抜かされるほど遅いスピードで歩いている。その姿から負のオーラが漂っている。

 それでも、やがて駅を前にすると、Unknownは少しの間立ち止まり、結局駅の中に入って行った。

 人に混じって改札を抜けていくUnknown。

 俺は適当な切符を買って改札を抜けた。

 まずい。

 人が多すぎて見失ってしまった。

 と思ったら、Unknownは構内の端の椅子に腰かけてぼーっとしていた。

 ひたすら空気中をぼーっと見ている。人が流れていく。

 俺は遠くからじっとその様子を見ていた。気がつくと、二時間くらいそうしていた。


 そこで俺は気がついた。


 Unknownが学校に行ってない。


【後書き】

何度も最終回を迎えてきた本作ですが、ガチで次話で最終回です。今回はガチです。綺麗さっぱり終わります。


------------------------- 第15部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

最終話


【本文】

「学校行かないのか」

「……」


 二時間が経過した頃、俺は椅子に座るUnknownに思わず接近して声を掛けた。朝でも昼でもない半端な時間。もう駅はだいぶ空いている。学生らしき人間はほぼ皆無。

 Unknownは俺の存在に気付いていたのか驚いた様子はない。流れるように俺の顔を一瞥したあと、流れるように俯いて深刻そうに呟いた。


「ここ最近、一週間くらいずっと無断欠席してる」


 さっき俺がゴミ箱に直接出す理由を数万回聞いていたからか、彼に緊張した様子はなく、流暢に返答した。

 すっかり打ち解けた。

 人間と打ち解けるためには、ゴミ箱に直接出す理由を何万回も聞くだけでいいのか。なんだ。その程度のことで人間と人間は親しくなれるのか。今までの十数年間の悩みは何だったんだ。

 俺は衝撃を受けた。


「そうなんだ。無断欠席界の貴公子だね」


 俺もこの人に対しては、何故か全く緊張が無かった。


 ◆


「それより、俺は今のこの状況が理解できない」


 俺が二人いる。

 学校どころではない。

 この駅も知らない場所。

 持っているのはポッケの中のシャーペン一本。携帯も無い。


「俺にもよく分からない。あなたは誰なんだ。何歳?」

「山田。17歳。高三」

「俺の一個下か。何処から来たの?」

「教室にいたはずなのに、気付いたらあの部屋に立ってた。それ以外は、全然思い出せない」

「記憶喪失?」

「いや、今までの記憶はちゃんとある。謎なのは、どうしてここにいるかってことだけ」

「……余計分からないな」


 そう言って、目の前の男が溜息をついた。

 俺の一個上ということ以外、何も分からない。

 万事休して、その場で固まることしかできなかった。

 それからしばらく経った時、Unknownの全身が突然びくんと跳ねて、均衡が破れた。


「うわあ最悪だ。学校から電話がかかってきた。電源切っとけばよかった」


 ポケットから携帯を取り出す手が震えている。

 そのまま彼は人差し指と親指でつまむように携帯を持って、画面を凝視し始めた。まるで汚物を扱うように見えた。


「出なくていいの?」

「絶対出たくない」


 彼はそう答え、手を震わせながらずっと画面を見ていた。

 それから一分くらいが経ったが、未だに携帯はぶるぶる震えていた。


「早く切れろよ……」


 彼の願いは届かず、携帯の振動が全然止まない。

 さらに一分くらいした時、ようやく学校側は彼とのコンタクトを諦めた。これだけ長時間振動する携帯を見たのは生まれて初めてだ。

 こいつ本当に一週間無断欠席してるのか……。

 俺は嫌でも学校に毎日行ってるのに。


「……」


 彼は携帯の電源を切り、ポケットにしまい直した。その顔が蒼白になっている。呼吸が荒くなっている。きっと色々考えるところがあるんだろう。俺からは彼が何を考えているか分からないが、多分色々考えている。この人も大変だな。

 俺は話題を振った。


「そういえば、さっきまで時間が10時10分で止まってた。電車に乗ってたら突然辺りが真っ暗になって、何も見えなくなったんだ。でも、気付いたらあの部屋に立ってて、時間も動いていた」


 彼は俯いている。十秒くらい経って、尚も俯きながら返答した。


「そうなんだ。今は10時半くらい。他に何か手がかりみたいなのは無い?」

「あとは、何でか分からないがシャーペンがポケットに一本ある」

「シャーペン?」

「ああ。紹介が遅れた。俺は、天下無双のシャーペンカチカチプレイヤーだ。よろしく」


 右手を差し出してそう言った途端、彼は勢いよく顔を上げた。その顔は茫然としていた。青天の霹靂を食らったみたいな顔だ。そのまま彼は目を見開いて俺の全身を凝視してきた。様子がおかしい。

 そのまましばらく凝視された。しばらくすると彼は何かに納得したような顔をして、俺の右手を静かに握る。握手したその手が震えている。

 震えた手のまま、彼は呟いた。


「もしかしたらと思ってたけど、今の言葉ではっきり分かった。君が誰なのか、どこから来たのか、全部分かった。ちょっと着いてきて」

「え」


 ◆


 その後、すぐ彼に連れて来られたのはネットカフェだった。

 駅から徒歩十分くらいの場所にあった。

 その間、互いに言葉を発することはなかった。俺はこの人に聞きたいことが沢山あるはずなのに、声を出そうとすると喉に詰まって出てこない。

 なんとなく、聞かない方が良いような気がした。

 彼も、俺に一言も言おうとしなかった。

 そのままネットカフェに辿り着く。俺は一つ疑問に思って呟いた。


「あれ、俺今何も持ってないよ。身分証明できるもの。こういう場所って会員にならないと使えないんじゃ……」

「俺影薄いから二人同時に入っても絶対ばれない」


 ばれるだろ。

 と思ったが、全然ばれなかった。悲しかった。


「席はどうなされますか」

「あ……えっと……に、29……」

「19番ですね。ごゆっくりどうぞ」


 ちゃらい男の店員がUnknownに伝票を渡した。

 明らかに俺とUnknownが二人で入ったはずなのに、店員は気付かない。

 伝票を持ったUnknownについていった。俺はネットカフェに来るのは初めてだ。

 彼は何事もなかったように19番に入っていった。声が小さいのが悪い。

 俺も続けて入る。

 本来一人しか入れない空間に二人入ると狭かった。

 一人掛けのリクライニングチェアに彼が座り、俺は後方に突っ立った。これから何をするのか何も言われていないので、そうする以外なかった。


「これから俺が言うことは頓珍漢なことだから、信じられないかもしれない。俺も驚いている。でも、明らかに被りすぎてる。全部同じなんだよ」


 彼はパソコンの画面を見ながら無機質な口調で呟いた。

 俺は何も飲み込めず、とりあえず質問をする。


「何が同じなんだ?」

「俺が書いた小説の主人公と、君が」

「は?」

「本当に同じなんだよ」


 彼はそう言ってキーボードを軽快に叩き始めた。

【小説家とやりたい】と打ち込んで、エンターキーを叩いた。


 バシコーン!!!!!!!


 こいつエンターキー滅茶苦茶強く叩くタイプか。俺は優しく叩く人が好きだ。と思いながら画面をぼーっと見ていると、今度はそのサイトにアクセスした。サイトの名前からして小説投稿サイトらしい。今度はそこから、【シャーペンカチカチ無双】と打ち込んでエンターキーを叩いた。


 バシコーン!!!!!!!!!!!!!!


 検索結果1件。

 そこまでしたところで彼がゆっくり立ち上がり、俺の目を見た。


「これ、最近まで俺が書いてた小説なんだけど、読んでみてほしい。何言ってるかよく分からないだろうけど、とにかく読んでみて。途中で書くのやめてるから、多分ちょっとの時間で読める」

「あ、分かった」

「そういえばこのサイト知ってる? 小説家とやりたい」

「知らない」

「そうか。まぁいいや。――ちょっと俺には行かなきゃいけない場所があるから。行くよ」


 そう言い残して、彼は足早にブースから出ていった。

 そして便所に向かった。

 いや、学校だろ。お前が行かなきゃいけない場所は。


 ◆


 それから二十分程度でシャーペンカチカチ無双を読み終えた。

 読み終えて、Unknownがこれを読めと言った理由は全部分かった。

 たしかに、何もかもが“俺”だった。

 考えたこと、やったこと、出てくる人物、喋った内容、言われた内容。何もかもが俺の記憶と同じだった。

 俺は下の名前を思い出せないのではない。下の名前なんて最初から存在していないのだ。住んでいた場所を思い出せないのも、元から住んでいた場所なんて無いからだ。何も思い出せないんじゃなくて、最初から無いんだ。何も。

 それが分かると少し泣きそうになった。

 悲しいわけではない。虚しいわけでもない。ただ頭がパンクしそうだ。脳のキャパシティを越えている。

 俺は誰なんだ。


「……」


 最後まで読み終えて茫然としていると、やがて後方から足音が近づいて来るのが分かった。俺は身構えた。

 予想通り、足音は俺のすぐ後ろで止まった。


「全部読み終わった?」

「うん」


 後ろからの問いかけに、パソコンの画面を見ながら答える。

 返事をすると、それからUnknownは一言も発しなくなった。元から失われている言葉が更に失われたのだろうか。

 三十秒程沈黙が続いて、気まずくなってきたから、俺はUnknownに質問した。


「これ、なんで7話で止まってるの? 明らかにまだ話の途中なのに」


 ごめん、と前置きしてから、Unknownが言った。


「ぶっちゃけなんかもう7話の時点で書くのが嫌になった」


 シャーペンカチカチ無双は7話で更新が停止している。もう何ヶ月も書かれていないようだ。


 7話 鉄筋コンクリートに怯える

 思っていたことが何もかもうまくいかず、全員にカチカチを見られて情けなく電車に乗って早退し、最終的に不登校になるのを決意する話である。

 俺にとってはまるで世界が終わったように感じた日。


「あ」


 頭で整理しているうちに“それ”に気が付いて、俺は思わず声を漏らした。


「突然暗くなって時間が止まったんだ。俺が無断で早退して、電車に乗ってる時――」


 俺は今まで自分のことを人間から生まれたただの人間だと思ってきた。今もそう思っている。だが、言葉だけが事実を伝えるために溢れるように出てきた。冷静だった。


「俺が居た世界の時間が止まったのは……この7話が終わった瞬間からだ」


 俺は椅子に座りながらゆっくり後ろに振り返り、Unknownに呟いた。

 彼は何を考えているのか分からない無表情をしていた。その顔を見ながら続けた。


「電車に乗って時間が止まったあと俺は、佐藤っていう人と一緒に学校に戻った。それで久保と話して、久保にシャーペンを貰って、教室の扉を壊して中に入った。そのあと勇気を出してみんなに今までのことを謝った。でもみんなは全然俺がしたことなんて気にしてなくて。全部俺の自意識過剰だったんだ。俺が一人で勝手に終わってただけなんだ。みんな本当に俺のことなんて何とも思ってなかった。嫌ってなかった。久保もシャーペンくれるいい人だった。そのあとクラスの何人かと話してみたけど、別に思ってたような感動は無かった。ずっと人と話すことに憧れてたけど、多分俺は本当は一人が好きだったんだ。それに気付いたあと、なんか突然ここにいた」


 そう。気付いたらUnknownの部屋に立っていた。


「……そういう話は書いてない。俺が書いたのは7話まで。それで終わり。途中でもなんでもそこで終わり。それ以来何も書いてない。もう何ヶ月も何も書いてない。小説を書くこと自体馬鹿馬鹿しくなった。結局全部作り物だから。小説なんて全部時間の無駄だよ。パソコンの前で一人でカタカタ文章打って、それで何がどうなる。目の前の嫌なことは何一つ消えない。嫌なことを小説の中の俺にどんなに乗り越えさせたって現実は何も変わらない。嫌なことは永遠に消えない。まず俺は生きること自体向いてないわ。女子更衣室に生まれたかった。

 ていうか小説とか全部うんこだ。例えば、村上春樹の小説ってセックスばかりしてるけど、実際に書いてるのはダンディ気取ったじゃがいもみたいなスワローズファンのおっさんなんだよ。おっさんが書いた小説を好きになるってことは、おっさんの指を好きになるってことだと思っている。もし文庫本を買ったら、それはおっさんの指の動きを何百円かで買ったってことだ。おっさんのタイピングで生まれた、ただの字の集合体。小説の中の世界に入りたいと思うのは、つまりおっさんの指の中に入りたいってことだよ。かなり馬鹿馬鹿しくないか。それに気付いてから小説読むのが超苦痛になった。まあ村上春樹の小説一冊も読んだことないけど。村上春樹に限らず、どんな小説も全部現実の人間の指のタイピングから生まれてるんだ。都道府県のどこかに属してる人間が一人で部屋にこもって間抜けな体勢でカタカタ打ってるんだ。それは絶対だ。どんな小説もみんな同じだ。生まれ方に差なんて全く無い。ベストセラーもネット小説も同じ。結局何が言いたいかというと、現実には良いことなんて何も無い。小説の世界は何もない現実から生まれてる。現実にいいことがあれば、小説みたいな架空の世界を作ってまでいいことを起こす必要が無い。現実には何もない。小説みたいに起承転結が無い。何も見えない。どれが合っててどれが違うかなんて一つも分からない。ただぼやけた将来があるだけだ。でも俺も19才になってちょっとだけ見えてきた。うんこ色の未来が。このままいったら多分うんこに染まる。まあそれでもいいかと思ってる。今まで特に良いこととか無くてもそれなりに生きてるから」


 Unknownがよく分からないことを、抑揚のない声でぼそぼそ呟いた。蚊より声が小さかった。なのに話が長い。

 俺は彼から目を逸らして、前のパソコンの画面を見ながら、全く別のことを喋った。


「そういえばなんか、時間が止まってからいきなりコミュニケーションに支障が無くなったよ。人が全然怖くなくなったんだよ。本当に別人みたいになっちゃって。人とも余裕で話せた。人格自体変わったような気がした。多分それって、小説っていう枠から外れたからなんじゃないかと思う。今考えると」

「俺が小説書くのをやめた瞬間、設定が意味を持たなくなったのか。まぁよく分からないけど、小説とか全部うんこだよ。麻痺させるためのものでしかない。何も無い自分を麻痺させるだけの存在だ。うんこうんこ」

「……」


 思案した。

 俺が本当に小説の中の人間だとしたら、俺がコミュニケーションを取るのが苦手なことは性格ではなく設定だ。

 だから小説としての世界が終わった瞬間、小説としての俺の人格が変わったのではないか。設定が振り払われて、あの世界に生きる俺としての本当の人格がああして現れたのだ。

 という仮説を立てた。

 本当に合ってるかどうかなんてどうでもよかった。

 大事なのは俺が俺の中で納得に近づけるかどうか。

 自分が小説の中の人間だなんて、非現実的で、最初から受け入れられるわけない。それでも、もう受け入れるしか道は残されていない気がした。俺は、自分の下の名前も、住んでいる場所も、小説の埒外の出来事も、何も思い出せない。最初から何一つ無いからだ。記憶や思い出は無い。

 何も最初から無いから、次第に、俺の頭の中にもやもやが広がる。

 それは徐々に怒りのような形になる。


「ていうか小説書くのが馬鹿馬鹿しく感じるなら、なんで小説なんて投稿してるんだよ。大体俺の前でうんことか言うな。勝手に作られて勝手に馬鹿にされるって何だよ」

「ごめん。本当は寂しくて書いただけだ。別に何もうんこじゃない。村上春樹最高。村上春樹に掘られたい」


 その小さい声を聞いて、怒りがどこかに消えた。瞬時にどうでもよくなった。

 俺は別のことを喋った。

 聞くまでもないことを聞いた。


「……“俺”が今までの生活の中で嫌だと感じてたこととか、苦痛とか、悩みとか、その全部は最初から何もかも他人に用意されて、仕組まれてたことなのかな」

「そうだよ。7話まで全部“俺”が一人で書いたんだから」


 即答された。

 不思議な気分がした。

 俺の今まで感じたあらゆる苦痛は、俺だけの、俺にしかないものだと思っていた。

 でもそうではなかった。

 俺の生活における全ての懊悩は、人から分け与えられたものだったのだ。

 俺は孤独に悩んでいた。だが、俺が今まで感じていた孤独すら、俺の目の前の一週間連続無断欠席糞野郎、Unknownから分け与えられた概念なのだ。

 俺の孤独は、Unknownから分けられた孤独。

 つまり俺は、俺の人生は、物語が始まった最初の一行から一人なんかじゃなかったのだ。


「俺今まで仲の良い友達とか全然いたことないけど、もしかしたら友達ってこういう感じなのかな」


 俺はパソコンの画面を見たまま、脈絡なく呟いた。

 俺は、Unknownに友達がいない人間として作られた。なので当然友達がいない。友達の感覚もよく分からない。

 やがて、Unknownが答えた。


「分からない。冷静に考えたら、仲の良い友達とかいたことないから。ていうかいなくても今まで生きてきた。闇属性として。高校の頃学校嫌で不登校になって、専門学校に進んだ今ですら学校嫌で不登校になったけど、それは俺が闇属性だから、という言葉で全部説明がつく。こういうのはもはやしょうがないと思う。学校が嫌だって気持ちはいくら小説にしても絶対消えない」

「不登校とか甘えるな。俺は学校が嫌でも毎日学校行ってるぞ」

「それは、小説だから」

「現実でもちゃんと行ったほうがいいよ」

「それは分かってる。でも無理。一週間無断で休んだんだ。今更行きづらい」

「まぁ自分の人生は自分の好きにしなよ」


 こいつが学校に行こうとサボろうと、俺には直接関係のないことだ。仮にニートになろうと、俺にはあまり関係が無い。


「そういえば初めてだ。人とこんなに緊張しないで話せたの。多分初めてだ」


 Unknownが後ろからぽつんと呟いた。

 それを聞いて俺は何も言えなくなった。何だか虚しくなってきた。


 俺はふいにパソコンの画面を見た。


 シャーペンカチカチ無双。

 俺のいた世界。その名前。

 形にすればこんなに小さい。わずかな文字数。

 この世界は何も無い現実から生まれた。

 現実にいいことは何もない。

 小説の世界の中にいたはずの俺の生活にもいいことは無かった。良いことは何も無い。

 でも俺は――

 それでも俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早いのだ。何も良いことなんて無い。劣等感ばかりある。現状に満足したことはない。将来の事を考えると落ち込む。未来が見えない。うんこ色が透けて見える程度だ。嫌な事ばかりが浮かぶ。生きている意味があまり分からない。だから仮に今この瞬間死んだとしても、走馬灯はゴミクオリティだと確信している。それでも俺は、シャーペンをカチカチするのが、この世に生きる全人類の中で一番早い。


 どうして生きているのか。

 よく分からない。


 もう何年かして少し大人になったら、そんなことどうでもよくなるのかもしれない。あと一時間したらどうでもよくなるかもしれない。それどころか、今の段階でもう徐々に生きる意味なんてどうでもよくなり始めているのかもしれない。今俺が脳で考えることの全部を鼻で笑えるくらいになれるのかもしれない。

 でも、“今”の俺が思ってきたことは、全部事実だ。 

 今ここにいる俺が、生きる意味を考えたという事実は、どんなに時間が経っても消えない。


 小説の中の世界の俺は、ずっと生きる意味を考えていた。

 そんなものが最初から無いことも知っていた。


 ああ、学校なんて嫌な事ばかりだ。今日も浮いた。毎日浮いた。浮き輪の擬人化。生活がうんこ。嫌だ。全部に意味が無い。自分に価値がない。何もしたくない。良いことが無い。なのに母親にオナニーを見られたことがある。最悪だ。得る物が無いのに何かを失い続けている。不審者に追われて殺される夢をよく見る。童貞のまま死ぬ気がする。アマゾンでオナホールを買ったあの日、俺の中で一線を越えた気がした。使ったオナホールを洗面所で洗っているとき、鏡に反射した自分を見た。機械のような無表情。なのにどうして性欲はあるんだ。音読でしか声を発さないのに、どうして何時まで経っても感情は消えないんだ。滑稽だ。鏡の向こうでオナホールを洗う自分がゴミに見えた。深夜四時、俺がオナホールを一人で洗っていた最中にも、この世のどこかで誰かが産まれている。おめでとう。今日は君の誕生日だ。

 そんなのどうでもいい。学校めんどくせえ。電車に乗りたくねえ。今日も朝が来る。

 四時になると『おはよん』とかいうニュース番組が始まる。明日が来るのが嫌でまだ寝てない。結局寝ないで学校に行く。眠い。

 学校から帰ってくれば『ニュースエブリィ』。七時近くになると天気予報。ソラジローと木原とガキとその保護者。その空間に奇声をあげて全裸で乱入したい。大声で何度も「まんこ」と叫びながらソラジローをぶん殴りたい。伝説になりたい。だってまた明日も学校だ。教室に入るんだ。ああ。もういいよ。そんなことしても2ちゃんとかで少し話題になるくらいで、何も生活は変わらない。

 明日も明後日も。

 もしかしたら死ぬまで、何も変わらないかもしれない。なんで生まれたんだ。


 何で生まれたんだっていうけど、大体、何がそこまで嫌なんだ。

 そんなに何が嫌なんだよ。いい加減に慣れろよ。充分幸せだろう。世の中見渡せ。戦争飢餓テロ。

 それがないだけ恵まれてることに気付け。

 そうだ。俺は恵まれている。今の時点で幸せなんだ。

 いや違う。そうに言い聞かす時点で何か違うんだ。

 理由なんて分からないけど俺はこの生活が全部嫌なんだ。死のうとは思わないけど、目に映る全部がクソ以下なんだ。心が満たされてないんだ。ぶっちゃけ知らない国の戦争の勝敗より、母親にオナニーを見られたことの方が俺にとっては一大事なんだ。

 今日も朝が来る。色々考えても意味なんて無い。俺は大層な人間じゃない。ただの根暗。ちんちんぶらぶらソーセージ。嫌だ。全部嫌だ。















 ――だけど俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。















 シャーペンをカチカチするのが、滅茶苦茶早い。

 そう。シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早いんだよ。俺は!!


 気が付くと俺は、ポケットの外側から、シャーペンの輪郭をゆっくり辿っていた。これがシャーペン。俺のシャーペン。俺だけのシャーペン。ここにある現実。

 輪郭を辿る手を見る。

 ソラジローとか色々なことをぼーっと考えているうちに、勝手に高揚して、叫んでいた。

 全部鬱陶しい。全部壊したい。もう全部。

 俺はもっとやれるよ。


「Unknown。お前さっきから小説がうんこだの現実がクソだのごちゃごちゃ小さい声で呟いてたけど、これから俺が本当の“現実”を見せてやる。現実がクソじゃないことを教えてやる。お前の全てを変えてやる。だから現実を俺に委ねろ。全部俺が変えてやる。俺がお前を変える。だから俺についてこい」

「え!?」

「え!? じゃねえぞクソが。お前、俺を誰だと思ってる。俺は銀河が誇る史上最強のシャーペンカチカチプレイヤー、山田。神に寵愛されし男。物語の主人公。選ばれし者。覇道を歩む者にして、高三の童貞。下の名はまだない。永遠にない。それでいい。何故なら俺は、何故なら俺は――シャーペンをカチカチするのが本当に滅茶苦茶早いからな!!!!! ハハハハハハハハ!!!!!! ハッハッハッハッハッハッハッハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!! ゴルァアアア!!!!」


 俺は椅子から勢いよく立ち上がり、全力で叫んでUnknownの顔を見た。

 何を考えてるのかよく分からないゴミのような顔で突っ立っていた。 

 俺は、Unknownの手首を思いきり掴み、全力で走って一緒にネットカフェという牢獄を抜け出した。

 会計という概念すら超越し、自動ドアを光速で走り抜けていく。ちゃらい店員が何かを言っている気がした。でも聞こえない。今の俺は光。現実をクソから変えてやる。今は小説の中の人間じゃない。誰にも操られていない。俺は、俺だ!

 もう、何にも縛られていない! 自由なんだ!!


「え、金払わないと……」

「金ェ!? そんなの払うな! もういい! お前はもう苦しまなくていい! お前はこれからクソのような現実から抜け出すんだよ! ついてこい! 俺がお前の事全部ぶっ壊してやるから!! ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! ぎああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 俺がUnknownの手首を掴んで走りながら叫ぶ。

 ネットカフェを光速で置き去りにする。そのまま潰れて職を失って死ね! クソ店員!


「お前が一週間連続で無断欠席するほど行きたくない学校はどこだ! ゴルァアアアアアアアアアアアアアア!!! オラアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!! まんこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!! 答えろや!!!!! あああああああ!!!!!! 死にてええええええええええええええええええええええ!!!!」


 俺がUnknownの手首を掴んで走りながら叫ぶ。あらゆる通行人が俺をガン見してくる。そうだ見ろ。俺を見ろ。俺をもっと見ろよ。本当の俺を見ろよ。ゴミの俺を讃えて伝説にしろ。あああああああああソラジローぶん殴りたいよおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! 天気予報に全裸で乱入してソラジローをぶん殴りてえんだよ俺は!!!!!!! それだけが将来の夢なんだよ!!! それ以外は何もねえぞこの野郎!!!!!! はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!?!!? 


「ここ、こ、この横断歩道を渡って、ずっと左に真っ直ぐ行けば、学校」

「声が小せえんだよクソ虫!!!!!!!!!! お前それでも生きてんのか!!!!!!! 生きてるなら一回くらい死ぬ気で声張ってみろやああああああああああああああ!!!!!! まんこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」


 俺はUnknownの手を離し、赤信号を無視して横断歩道を光の速さで走った。車に死ぬほどクラクションを鳴らされながら。


『あぶねえな! てめえ死にてえのか!』

「うるせえクソドライバー!!!! 今は俺が信号だ! お前が死ね!! お前なんて俺のシャーペンで一捻りじゃボケェ!!!! ファーーーーーーーック!!!!!!! ファックファーーーーーーック!!!!!!!!! ぎええええええええええええええええええええええ!」


 大型トラックの運転手の叫びに対し、中指を立てて、無意識に慟哭を上げていた。天地を揺らすほどの大声。全身の血管が全部ぶちぎれそうだ。体が沸騰したみたいに熱い。ああ、小説の世界の支配から解かれた俺は、本当はこんなにでかい声が出せるのか。

 最高だ。

 俺はそのまま横断歩道を駆け抜ける。

 シャーペンカチカチプレイヤーである、ということを自覚しているだけで俺は強くなれた。

 そのまま叫びながら信号無視した。真の俺は赤信号を超越できる。

 横断歩道を渡り切り、光速で後ろを振り返る。

 Unknownは無表情で突っ立って信号待ちしていた。死ねチンカス!!!

 俺はUnknownを置き去りにし、左に向かって全力で走り始めた。

 ここでようやく衣類に意識が向く。

 今まで毎日着てきた高校の制服。

 着るようにあらかじめUnknownに仕組まれていた制服。着る設定だった制服。

 毎日あんなに着たくなかった制服を、俺は今清々しい気分で着ている。自分の意思で着ている。今は小説の外だから脱ぎたければ脱げる。

 でもこれでいい。これが俺だ。

 生きている。

 俺は今生きているのだ。Unknownではなく俺自身の力で。

 俺は思わず飛び跳ねた。


「生きてる!!!! 生きてるうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!! やったあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!! ぎょぎょぎょ!!!!!!!」


 そのまま左に真っ直ぐ走り続ける。奇声を上げながら全力で走る。

 時々後ろを振り返る。

 Unknownが視界に入っては消え、入っては消える。

 それでも速度を緩めることなく全力で走り続けた。通行人にガン見されて、避けられた。野良犬に死ぬほど吠えられた。通報は時間の問題だろう。でもそれでもいい。俺の人生は俺が法律。

 そのまま五分くらい走ると、学校らしき建物が現れた。


「はぁ……」


 ようやく息をつく。

 ずっと全力で走っていたから疲れた。

 この学校で確定なのか分からないから、しばらく校門のそばで突っ立ってUnknownを待つ。

 しばらくすると、Unknownは走ってこちらに近づいてきた。

 俺は大きく息を吸い、天地を揺るがすぐらいの気持ちで叫ぶ。


「専門学校ここでいいのかゴルァ!!!!!!!!!! チンカス!!!!」

「はぁ、はぁ………………こ、ここです……」


 彼は肩で息しながら、かなり苦しそうに頷いた。


「声が小せえええええええええええええええええええええ!!!!!!!!! ここで良いのかよ!!!!!! ああああああああああああああああああん!!!!!!?」

「な、なんで突然……」

「現実が全くクソじゃないってことをこれから俺が教えてやる!! 学校ここでいいのかああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「……はい!」

「聞こえねええええええええええええええええええええ!!!!  ここで良いのか!!!!!」


 死にそうになりながら俺が叫ぶと、目の前のUnknownが大きく息を吸う。そして、腰を大きく逸らし、死にそうな顔で叫んだ。


「はい!!!!!!!!!!!」

「よし!!!!! 突入する!! ついてこい!!!!!! まんこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 俺は校舎には入らず、校舎のすぐ隣の駐車場に向かって走った。後ろからUnknownが走ってくる。

 一瞬で駐車場に着く。

 そして周りに遮蔽物が無いことを確認し、俺は制服のポケットから一本のシャーペンをゆっくり取り出した。

 それをUnknownに見せつけた。

 Unknownはただ茫然と立っている。


 俺はこっちの世界に来る際、何故か一本のシャーペンを保有していた。


 7話でUnknownがモチベーションを完全に無くし、俺の生きる世界が終わった瞬間、時の流れは止まり、俺に施されたあらゆる設定は無効になった。あれほど苦手だったコミュニケーションに何の抵抗も感じないほどだった。だが、そんな中でも、俺を俺たらしめる最大の設定は失われてしなかった。

 シャーペンはここにある。

 僥倖だ。

 よく分からない色々な理論を超えて、俺はここにいる。

 どうして俺は小説の世界を抜けてここに来たのか。

 それは分からない。答えはない。分からないことを考えても永遠に分からない。そんなことどうでもいい。意味が分からない。

 俺が思うに、これは運命だった。主人公として、こうなる運命だったのだ。

 こいつに、決して現実がクソではないことを教える運命なのだ。その役目は主人公山田である俺にしか全うできない。

 7話で停止した世界をまた動かしていくために俺はここに来たのだろう。

 いや、どうでもいい。何もかもどうでもいい。深く考えなくていい。

 今俺が考えることは一つ。シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。それだけだ。


「これから俺が、この学校を全部消す!!! 現実は決してクソではない! 俺は今、小説の中ではなくお前の現実にいる! だから希望を持て! お前はいつでも一人じゃない! 俺がいる! ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 俺は駐車場の中央に立ち、叫ぶ。

 生きている。声が枯れた。

 右手にはシャーペン。

 これから、この学校を全て消す。

 今まで一個の教室の範疇で破壊してきただけに、どのくらいの力でカチカチすればいいのか分からない。決まっている。本気だ。

 俺が全てを賭けてカチカチする。

 理由など無い。

 俺はシャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。ただそれだけ。

 このカチカチで右腕が損傷しても構わない。

 何故なら俺は、シャーペンカチカチプレイヤーだから。 

 現実は絶対クソではないから。俺がクソから変えるから。


「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ!」


 ――魂で叫ぶ、俺とシャーペン。

 共振する。俺とシャーペンはいつも一緒。

 体は閃光に包まれる。そして雷が俺の頭上で発生する。何度も何度も雷は俺の頭に落ちてくる。脳がいかれる。脳が溶けて耳からドロドロ流れ落ちる。熱い。走馬灯が走る。母親にオナニーを見られた思い出。浮いた思い出。泣いた思い出。黙っていた思い出。やはり流れるのはクソのような走馬灯。

 それを更なるカチカチで打ち消す。感情はもはや無い。俺はただ生きている。生きているだけ。

 カチカチする右手親指の組織が、ボロボロに引き裂かれ、砕け、血が噴き出す。親指の肉が引き千切れる。神経が剥きだしになる。血が弾ける。神経でカチカチするのは初めてだ。死ぬ。死ぬ。死んだ方がマシだ。痛い。死ぬほど痛い。涙が出てくる。もう嫌だ。嫌だ。死にたい。死ねない。

 やがて嵐が俺の全身を包む。

 俺の全身に叩きつけられる雨の一つ一つが、弾丸のように俺の組織を破壊していく。

 現実が俺の体を突き抜ける。

 弾丸が止まない。

 俺に叩きつけられるこの弾丸は現実。

 カチカチする右腕が内部でぐちゃぐちゃになっているのを感じる。骨も肉も血も全部が壊れて、混ざらないのに無理に一つに混ざり合おうとして、死ぬほど痛くて、俺の頭にクソ走馬灯を走らせる。オナニー。オナニー。オナニー。おはよん。ソラジロー。オナニー。学校。朝。制服。オナホール。新聞配達。光景。後ろ姿。電車。いつもと同じ。ああ。

 くだらない。くだらない。普通の人生。どこにでもある人生。普通の人。何がそこまで嫌なんだろう。

 分からないけどなんかもう全部が嫌なんだ。満たされないんだ。

 もう小説の支配から解かれた。

 消えたくなっても、全力でカチカチし続ける。

 右腕の中で、剣のように鋭い骨がバキバキ砕けて折れまくって、肉と皮を貫いて、剥き出しになる。暴風が骨に直接当たって刺さる。寒い。全身が寒い。もう死んだ方が良い。死にたい。痛い。もう嫌だ。世界が俺に「死ね」と言っている。生きている価値が無い。痛い。存在が痛い。もう死んだ方が良い。意味が無い。存在自体が痛い。血が出る。体が終わる。

 でもカチカチし続ける。

 現実をカチカチし続ける。

 涙が流れる。

 血が流れる。

 空が裂けて砕けて割れて消える。空が刺さる。空が降りてきて俺を捻り潰す。大地が無になる。大地が全て空へ飛んでいく。空と大地が入れ替わる。平衡感覚が無い。空を飛んでいる。

 景色がぼやける。

 学校なんてもうとっくに粉になってしまってる。

 でもまだ足りない。まだ足りない。全然足りない。俺は教えてやらないといけない。現実が本当はクソじゃないことを。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」


 もう声が掠れきった。

 シャーペンはもう、粉になっていた。

 右腕が丸ごと消えていた。

 泣いた。

 現実との戦いが終わった。


 ◆


 俺は血を流しながら立ちつくし、無い脳で世界を見渡す。

 何も無い世界。

 見渡す限りの地平線。全てが無い。

 青い空。雲は無い。全身に染みるほど青い。優しい風が流れた。

 現実はクソではない。もうクソなんかじゃない。何もクソじゃない。俺がクソから変えた。

 人はいない。

 現実を作る人間がもういない。


「見ろよ。現実がクソじゃないよ。全部終わった」


 俺は呟いた。


「ありがとう」


 後ろから声がした。


 ◆


 それでも前から人がゆっくり数人が歩いてくる。見知らぬ人が俺たちを見て叫ぶ。


「生存者が二人だ!」


 遠くの方から声がする。


 全然駄目だったな。

 やっぱりクソのままだ。人がいる。でも、もういいや。現実はそういうものなんだろう。クソは何をしてもクソのままなんだ。それでも満足だ。


「これで、俺がやりたいことは全部終わった」


 そう言って後ろのUnknownに振り返る。

 相変わらず何を考えているのか分からないゴミのような顔をしている。目が合う。


「俺、7話の続き書くよ。その続きも書く」


 ぽつんと呟かれた言葉を聞いて、俺のカチカチは無駄じゃなかったことを確信した。

 俺は笑った。


「でも、パソコンが無いな」

「いや、何故かここに落ちてる。多分ネットカフェからたまたま一台嵐に乗って飛んできたんだと思う」


 Unknownと俺の間に、ちょうど一台デスクトップ型のパソコンが大地に突き刺さっていた。


「本当だ。でも使えるのか」

「よく分からない。多分使える」


 Unknownが大地にあぐらをかき、電源ボタンを押す。その様子は俺からではよく見えない。ちょうどパソコンに隠れている。

 俺は一歩も歩くことができない。

 現実感が無い。

 夢の中にいる時のように。

 歩こうとしても歩けない。

 気が付くと体はもう全然痛くなかった。右腕も何故か元通りになっていた。

 戸惑う。

 声を出そうとするが、声が出ない。


「――」


 Unknownが何かを言っている。よく聞こえない。どんどん遠くなる。


「――」


 何かを言っている。聞こえないが、キーボードをカタカタ叩いているのは薄ら見えた。

 ああ、パソコン使えたんだ。

 段々眠くなる。

 段々景色が見えなくなる。目蓋が重くなる。目を閉じる。眠りに就く。


 これからどんな未来が待っているんだろう。


 元の世界に戻ったら今の俺はどうなるんだろう。この記憶はどうなるだろう。俺が小説の中の人間だってことは、忘れるのかな。

 何に苦しんで何に喜ぶんだろう。どんな人間になってるんだろう。

 俺の人生は俺自身では何もコントロールできない。

 だからあまり気負わずに、その時を生きていこう。

 何があろうと大丈夫だ。

 俺はシャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。そして、俺はいつでも一人ではない。いつでも他人が俺の人生を作っているのだ。他人が無ければ俺は無い。他人がいるから現実がある。いつも一人ではない。













 ………………

 …………

 ……

 …












 俺は、揺れる電車の中で俯いて立っている。

 みんなにカチカチしてるところを見られた。耐えかねて無断で早退してしまった。

 もう二度と学校に行けない。

 俺は頭がおかしいかもしれない。電車の中の視線が怖い。人が怖い。

 ああ嫌だ。

 もう不登校になろう。

 思考がぐちゃぐちゃになっている。

 俺には価値が無い。

 学校すらまともにいけないなんて。終わってるだろ。将来どんな大人になるんだ。ニートかな。ニートとか絶対なりたくないわ。でもこのままいったらニートになってしまいそうだ。ああ。もう全部嫌だ。


 でも、俺はシャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。いざとなったらシャーペンをカチカチして――。


「あれ……?」


 何故か、俺の手はきつく握られていた。

 それにようやく気が付いた。

 手首を自分の方に向けて、ゆっくり開いてみる。 

 俺の手にあったのは、黒い粉だった。カチカチしたシャーペンの亡骸。なんで俺がこんなもの持ってるんだろう。

 疑問はあった。

 だが、それを見ると、俺の疑問はどこかに吹き飛び、心が満たされるような気がした。理由もなく充足感があった。分からない。意味が分からない。

 だがその黒い粉を見たら、不思議な高揚があった。


 本当に俺はこんな場所で早退して、終わるのか。


 俺はもっとやれる。

 現実と戦おう。

 今ここで家に帰ったら、きっと一生出て来られなくなる。

 俺は粉をポケットにしまった。

 やがて、途中で電車から降りた。

 そのうち学校に向かう方向の電車が来るだろう。それに乗って学校に行こう。また教室に行こう。きっと大丈夫。

 便意を催した俺は、駅の便所に向かい、大便用の個室に入った。そこでうんこをしっていると、横の壁に薄く文字が書いてあるのが見えた。


『さっきは助けてくれてありがとう。今度は俺がお前を助ける番だ。8話以降、神展開が待ってるから早く学校に戻れ。ガチで本当にすごいから。今まで苦しませてごめん。今までをチャラにするくらい、本当に神脚本だから。今すぐ学校戻ってくれ。頼む。


 Unknownより』


 何のことだろう。

 意味が分からない。


 そこから視線を下に落とすと、一本のシャーペンが落ちていた。


 よく分からないが、どうせなら俺も便乗して何か書いておくか。


 俺はうんこをしながらシャーペンを拾い、文字のすぐ下に、自分で文字を書いた。


『行ってきます!』


 俺はそう書いて、床に落ちていたシャーペンを、元の位置に戻した。

 シャーペンを持たずに、便所を出た。

 俺は意味もなく勝手に笑った。





 ◆





 これから8話が始まる。

 どんな展開が待っているのか。

 それはまだ、この世でUnknownしか知らない。






 シャーペンカチカチ無双 完






【あとがき】2022/11/12の俺より


この小説を書いたのは今からちょうど7年前で、俺は当時まだ10代だった。26歳になった今でも俺はこの小説が俺の最高傑作だと胸を張って言える。

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シャーペンカチカチ無双 Unknown @unknown_saigo

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