シャーペンカチカチ無双

Unknown

前半

【ユーザ情報】

ユーザID: 574753

ユーザ名: Unknown


【Nコード】

N5354CX


【タイトル】

シャーペンカチカチ無双


【作者名】

Unknown


【種別】

連載小説


【完結設定】

連載中


【年齢制限】

年齢制限なし


【ジャンル】

学園


【キーワード】

R15 シャーペン カチカチ 高校生 現代(モダン) 学園 孤独 シャーペンの芯 ぼっち


【あらすじ】

人と話すのが極度に苦手で、いつも組織全体から浮いていて、悩みばかりで、未来が見えなくて、生きる意味すら分からないけど、






俺はシャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶速い。





【掲載話数】

15


【初回掲載日時】

2015-10-09 17:14:20


【最終掲載日時】

2015-12-31 19:41:44


【感想受付】

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【評価】

総合評価: 311pt

評価者数: 22人

お気に入り登録: 50件

文章評価: 平均4.8pt 合計105pt

ストーリー評価: 平均4.8pt 合計106pt


------------------------- 第1部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

1話 音読しか口数を稼ぐ機会が無いのに、音読すると声が震えるから死にたい


【前書き】

1話の後半からカチカチします。





【本文】

 俺は何も取り柄の無い人間で、暗くて、クラスで浮いていて、悩みが多くて、生きる意味すらよく分からないけど――――シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い。


 今日も俺は雑念だらけの心にフタをして、登校した。

 俺と対比したような、雲一つない快晴だった。




 教室の扉の前に立つと、大きな喧騒が聞こえる。一つ一つが幾重に連なって、誰が喋っているのか分からない。多分、ほぼみんなが喋っている。


 みんな、毎日ずっと喋ってて飽きないのか?

 どうして大声で喋れるんだ?

 そもそも、なんで学校でコミュニケーションを図る必要があるんだ?


 俺は疑問を抱くと同時に、今この瞬間、一日で最も気分が沈んだ。


 入りたくない。


 みんなの声を聞くと、自分の世界が壊れる。


 ここに来るまで色んな妄想をした。


 学校に殺人鬼が現れて、休校になる妄想。

 通学の電車がジャックされて、永遠に駅に停車しない妄想。

 学校が火事になる妄想。

 台風が直撃する妄想。

 風邪を引く妄想。


 全て自分の世界。

 俺の心だ。


 でも、ここに立ってみんなの声が聞こえた瞬間に、世界が粉々に破壊される。


 心が霧散する。


 散った心を拾い集めるより先に、暗い気持ちが俺を突き刺す。


 俺はいつも一人ぼっち。


 今日も明日も明後日も明々後日も、学校……。

 それから先もずっと人生が続く。

 学校に行っても行かなくても嫌なことばかりあって、逃げ場がなくて、学校を卒後しても嫌なことはきっとある。


 毎日が今日の連続。


 しかしそれを倒しても、明日になればまた新しい今日が来る。同じ強さで俺の所に来る。

 良いことなんて何もない。

 嫌なことしかない。

 苦しまず死にたい。

 引きこもって生きたい。










 でも俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い――。







 ◆







 俺は教室の扉に手を掛けて、少し息を吸ったあと、扉を開いた。


「――」

「――?」

「――!」

「――」

「――!」

「――」

「――!」

「――」


 喧騒に飲まれた俺はただの背景と化す。人物としての価値はこの瞬間ゼロになる。いや、マイナスだ。生きている価値なんて微塵もない。今まで生きていていいことなんて無かった。この中の誰かを笑わせたことも、この中で笑ったこともない。もう駄目だ。終わっている。人々から需要が無い。

 だけど俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い――。


 この教室で交わされる全ての会話が、俺にかすらない。俺は浮いている。


 教室には既にほとんどの人がいた。その姿を見ると、恋とかではなく、胸が苦しくなる。集団の中に存在していることに落ち着かないのだ。


 下を見ながら流星のように一直線で自分の席へと向かった。

 人が沢山いるはずなのに何の弊害も無く着席できる自分が恥ずかしい。生きている価値がない。


 座った俺は、すぐに突っ伏した。


 視界には何も映らない。


 これが俺の生活。


 いつも突っ伏して時間を潰す。生きている価値が無い。


 友達が居ない。


 きっと陰口を言われてる。きっと嫌われている。居場所がない。


 あらゆる場面で笑われる。


 生きている価値が無い。ゴミだ。もう死んだ方がいい。そうしたら世の中のためにもなる。


 しかし俺は、シャーペンをカチカチするのが滅茶苦茶早い――。



「……」



 俺は顔を上げ、鞄に手を突っ込み、ペンケースを取り出した。


 そこから一本のシャーペンを取り出した。


 今日も、カチカチするか。


 俺は深呼吸をして、周囲を見渡した。みんな誰かと何かしらを喋っている。喋るということが、俺には難しい。

 喋ったら嫌われるんじゃないか。喋ったら心を全部見透かされるんじゃないか。喋ったら後で悪口を言われるんじゃないか。

 でも、みんな喋っている。喋ることが普通なんだ。だから喋ることが怖く感じる俺は普通じゃない。生きている価値が無い。

 しかし俺は――――



 手に握られたシャーペンを見る。


 何も変哲が無いただの、シャーペン。


 俺は、静かにノック部分に親指を置いた。耳にはみんなの声がする。軽く目を閉じ、集中する。


 そして――


 全力で目を見開き、全身全霊を込めてシャーペンをカチカチした――。


「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ!」

「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 ――シャーペンのカチカチ音と俺の声が、共鳴(キョウメイ)した。


 光の速さでノックされるシャーペン。

 光の速さで天上から下界へ降り注ぐシャーペンの芯。

 カチカチし始めた瞬間、閃光を纏った俺の全身。

 勢いよく降り注ぎ過ぎて、机に突き刺さる0,5の芯。


 全て現実。俺の現実。


 俺が光の速さでシャーペンをカチカチした瞬間、教室の中には烈風が吹き荒れ、天災が発生した。あまりに素早くカチカチしたことで風が生まれるのだ。


 窓ガラスは全て割れて、机は全て吹き飛んで、喧騒は叫びへと変わった。


 瞬間最大風速75966829――。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「あああああああああああああああ!」

「何だこれ!!!!!!!!」

「うわあああああああああああ!」

「もしもしママ! ごめんね、私今日で死ぬの!!!!!!」

「俺まだ死にたくない!!!」

「えーん!」

「俺童貞のまま死ぬのか!!」

「もうやだ!!!!!!!!!!」

「あああああ携帯飛んだ! モンスト課金したばかりなのに!!!!」

「みんな落ち着け!!!!!!!」

「あああああああああああ!!」

「ふざけんな!!」

「ああああああああああああ!」

「またいつもの風か!!!!」

「きゃあああああああああああああああああ!」

「なんで毎朝こうなるんだよ!!!!!!!」

「この辺の雲おかしい!!」

「雲死ねよ!!!!」

「最悪! 髪ぼさぼさになる!!!!!」

「があああああああああああああああああああああ!」


 荒れ狂う、教室。

 みんながパニックになって走り回る間にも、無心で俺は着席したまま、シャーペンをカチカチする手を止めなかった。

 俺の体全体には、黄金の光。

 力が集中する手元には、白い光。

 とうの昔にシャーペンの芯は全て放出され、骸となっている。

 それでも、カチカチは止めない。


「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチィィィ!」

「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 今だけは、俺の心からの叫び声も、シャーペンのカチカチ音と教室の烈風が掻き消してくれる。今しか叫べる機会はない。だから、声が掠れるまでシャーペンをカチカチして叫び続ける。

 負の感情を、全部シャーペンの芯と一緒に解き放ちたい。


「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ!」

「ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 気が付くと、何故か涙を流していた。どうしてだ。


 大丈夫。

 涙なんて、カチカチによって生まれた烈風が一瞬で乾かしてくれる。

 本当に、涙は一瞬でどこかに飛んで消えた。

 俺が泣くことに意味はない。泣くくらいなら、カチカチした方がマシだ。



 ――きーんこーんかーんこーん。



 一日の始まりを告げるチャイムが、烈風をすり抜けて微かに俺の耳に入った。


 今日は、これで終わりだな。


 約三十秒のカチカチ。まだカチカチしていたいが、これ以上やると教室を全壊させてしまう。せめて窓が割れる程度に力を留めておかなければ、まずい。


 俺は緩やかに、カチカチスピードを落としていった。


「カチカチカチィ」

「ああああああぁ」


 叫びもそれに合わせて、スケールダウンしていく。誰にも俺の声を聞かれたくなかった。だから喘ぎ声みたいな変な声を出してしまった。


「カチィ」

「あ」


 そして、ちょうどカチカチスピードが最低になった時、シャーペン自体が粉々になって机の上にぱらぱらと落ちた。

 黒い粉。

 これがついさっきまでは、ただのシャーペンだった。それを誰が信じるだろう。俺しかきっと分からない。

 お疲れ様。

 今日も、ありがとう。

 値段以上の物をシャーペンは俺の心にくれた。

 俺は黒い粉を僅かに手に取り、舌で舐めた。


「まずい」


 俺の人間性のような味がした。


 ◆ 


「おーおー、今日も酷いな。こりゃあ……」


 担任がやがて廃屋同然の教室に現れた。もう現存している席は俺の席しかない。後の席は全部倒れたり、遠くにある。俺はずっと座っていたから、机もそのままだ。


「よし、じゃあ週番。挨拶!」


 しかし、担任は何事もないように教壇に向かい、そう言った。


「起立、礼」


 日直も、何事もないように号令を掛けた。

 担任が視線を生徒に巡らせながら、流暢に喋り始めた。


「今日も嵐。これで一ヶ月連続で異常気象が起きてる。しかも毎回同じ時間帯だ。なんかもう誰かが作為的に起こしてるとしか思えない。でも、そんな事が可能だとも思えない。まぁよく分からないが、業者さんに今日も来てもらったから。みんなでお礼を言おう」


「ありがとうございます」


 教壇に立っているのは先生だけではない。担任の脇を固めるようにして、窓を取り付ける業者が真顔で立っている。


 この光景も、もはや日常だ。


 みんなは口々に業者にお礼を言ったあと、すぐに立ち上がり、それぞれの机や椅子を元の位置に戻し始めた。担任の指示が無くてもそうしている。


 一ヶ月も烈風が発生しているので、もうみんなの動きが洗練されているのだ。


 動きに一切無駄がなく、最短距離で机を運んでいる。


 そんな様子を、俺はずっと自分の席から見ていた。


 ◆


「では、いいですかね」


「はい、お願いします」


 全ての生徒が自分の席を取り戻し、着席したたのを確認してから、二人の業者がすごいスピードで窓を取り付け始めた。


 俺は心がすっきりして、机に突っ伏した。


 今日も、一日が始まる。ほとんどの人が知らない日本のどこかの高校で。


 ◆


 一時間目は国語だった。こころをやった。音読したら声が震えた。そのとき丁度Kが自殺した。俺も便乗して死にたい。死ぬ気はない。



【後書き】

予告 2話はカチカチしません。


------------------------- 第2部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

2話 文房具屋さんに咲き誇る、笑顔の花


【本文】

 今朝のカチカチ無双で、一本の心(シ)象(ャ)投(ー)影(ペ)機(ン)を他界させてしまったから、放課後、学校帰りに古い文房具店に向かうことにした。


 そこで新たなシャーペンを補充するのだ。


 今日の分で筆記用具は無くなってしまった。ついでに消しゴムでも買おう。


 俺が目指すのは、老夫婦が個人で経営している店だ。

 目立たない場所にあってほとんど人が来店しないから、俺はよく通う。

 風情はあるが売っているのはどこにでもあるシャーペンだ。だから文房具通みたいなのは来ない。来るのは俺のような人間だけ。俺がもし店主をしていて来る客が俺だけだったら店を畳む。


 平日の四時台、帰り道には学校帰りの高校生ばかりいた。

 同じ高校の人や他校の人、高校生は多種多様だ。


「――!」

「――」

「――?」

「――」

「――」

「――!」

「――」


 なのに、ほとんどの人が二人以上で帰っている。多い人は五人や六人。信じられない。

 どうしてみんな喋ることが怖くないんだろう。

 どうしたら、気負わずに話せる間柄に発展させられるんだろう。

 

 自分の心の壁の壊し方が分からない。


 複数人で歩いてる人は、俺からしたらまるで神だ。

 

 周りの人が複数で歩いているところを一人で歩いていると、途端に劣等感が浮上した。


「……」


 大丈夫。誰も俺のことなんか気にしてないし見てない。別に嫌われてない。堂々と歩いていいんだ。俺は。もっとはっきり歩け。気負わなくていい。一体何にびびってるんだ。


 自分にそう言い聞かせるのが、辛かった。


 俺は劣等感を消せぬまま、あまり高校生には目を配らせず、足元を見ながらゆっくり歩いた。


 周囲の喧騒は雑音。トラックが走る音や、テレビの音や、雨音と種類は一緒。

 

 今日も何事もなく。学校が終わった。


 明日も学校だけど、ひとまず今日はお疲れ。

 

 何もしてないけど、よく頑張った。存在しただけ頑張ったよお前は。毎日よくやってる。誇っていいよ。嫌になったらまたカチカチ無双ですっきりすればいいじゃん。


 俺は自分で自分を慰めた。


 ――あれ、そんなに何が辛いんだっけ。別に一人でいるなんてよくあることだよな。そんなのどこにでもいる。


 自分で自分を慰めると、途端に自分が小さい人間に思えて、恥ずかしくなった。


 世の中もっと辛いことを抱えている人ばかりだろう。だから俺程度がとやかく言うあれは無い。この程度ではまだまだ嘆く資格は無い。


 もっと楽しいことを考えよう。陰毛が縮れる理由とか。


 俺はやがて駅のある方向から逸れて、小さい道に入っていった。ようやく視界から高校生が消えた時、ようやく劣等感は消えてくれた。


 劣等感の代わりに、陰毛が縮れる原因を考察した。多分大事な部分を守るために縮れさせてクッション性を持たせているんだろう。


 人体はよく出来ている。

 よく出来てないのは心だ。未熟なのに剥き出しだから、心にも陰毛があればいいんだ。


 ◆


 俺は一瞬立ち止まってから、文房具店に入った。自動ドアは、俺の影が薄いからかあまり反応してくれない。

 今日も相変わらず寂れている。

 店内に人がいる様子はない。

 ほとんどの照明が明滅している。これは店としてどうなのか。

 一応店として存在しているんだから、蛍光灯くらいちゃんとすればいいのに。

 と思ったが、そういうところがまともだったら俺はここに来なかったかも知れない。

 ここは人を寄せ付けないような雰囲気があって入りやすいのだ。


「……」


 俺は無心でシャーペン売り場へと向かった。

 中は広くはない。


 シャーペンの場所は入り口からすぐそばにある。


 多様なシャーペンがあるが、俺は心(シ)象(ャ)投(ー)影(ペ)機(ン)の消費量が半端ないので値段だけで選ぶ。

 たまには1000円以上する高いシャーペンを教室で全力でカチカチして、安物との感覚の違いを楽しみたいという願望がある。人間だから欲はある。

 でも、さすがに1000円はどうだろう……。


 カチカチするために買うのって、メーカーに失礼じゃないか?


 100円なら別に許容されるだろうけど、1000円はメーカーの気合も100円のものと違うだろう。


 1000円は、道徳的にちょっと買えない。


 高いシャーペンへの憧れを募らせながらも、俺は100円のシャーペンが陳列された場所に立ち、物色を始めた。

 正直言って値段さえ決まれば、後は何でもいい。

 だってすぐ粉々になってしまうのだ。

 俺はとりあえず無難なデザインの物を手に取った。黒い、どこにでもあるようなやつ。

 あと消しゴムも手に取った。


 よし、さっさと帰ってゲームしよう。


 レジを本能的に見やる。


「いない」


 人がいない。

 そういえば、気になっていたのだ。

 いつもは言われるのに今日はいらっしゃいませって言われなかったことを――。


 ――いらっしゃいませって言ってくれないのは俺の影が薄いからか。それとも、「お前みたいな終わった客は正直要らない」という拒絶の意思表示か。だったらいいよ。帰るよ。でも、嫌だったらそんな遠回しじゃなく直接言ってくれよ。その方が整理が付くんだよ。全部そうだよ。陰で本人がいない場所で、本人に分からないようにこそこそされるより、直接言ってくれた方が良い。


 とまで考えていた。


 俺を無視していると断定してしまっていた。


 でも良かった! 俺を無視してるんじゃなくて、いないだけだった!


 きええええええええええええええええええええええい!!!!!


 俺はポーカーフェイスを保ちながらレジに向かった。レジの奥は多分普通に家なんだろう。

 今は多分油断して休憩中なんだろうけど、待っていればそのうちレジに来るはずだ。

 自分で呼ぶという選択肢は毛頭ない。

 

「……」


 ◆

 

 そのまま十分くらいが経っても来なかったが、こんなに時間が経ってしまったら逆に呼びづらい。

 ドアが開いた気配なかったのに、いつから待っていたの? もしかしてかなり待った? という話になるし、逆に気を遣わせてしまう。

 別に俺は店の人を呼ぶほどシャーペンが欲しいわけじゃない。家にもある。ましてや100円のシャーペンだ。別にガチ感を出すような場面じゃない。

 

 なら、ここはレジの前で立っているより、文房具を物色するフリをしていた方がよさそうだ。


 そうすれば自然な流れで全てが進む。


 俺はレジから離れて、万年筆の場所に向かった。


 台の上に試し書き用のメモがある。


 そこには、子供らしい字で『うんち』と書いてある。うんちのイラストも添えて。


 微笑ましい。


 俺にもうんこに夢中になるような時期があったな。幼稚園くらいか。


 ことあるごとに「うんこ」って言う時期があった。


 ――今では言葉すら発さなくなったけどな。


 よし、俺もなんか書こう。


 俺は万年筆を手に取った。そして無意識に、「うんち」のすぐ横に「んちん」と継いで書いた。








「ははははは!」








 俺はあまりに自然に笑っていた。

 思いもしなかった。

 ――まさか自分が高校三年にもなって「うんちんちん」ごときで笑うなんて。

 笑いの壺どうなってんだ。

 ずっと一人でいたから絶対どこかおかしくなったんだ。退行してる。もう駄目だ。

 俺は自分自身に衝撃を受けた。

 

「……」


 やがて、万年筆を静かに元の位置に戻した。

 

「――山田君……?」


「え」


 直後、俺のすぐ横から、深刻なトーンの声がした。

 

 ◆


 俺の頭は瞬時に真っ白になった。

 この店内に人がいない前提でずっと生きていたから、その大前提が覆されたことにより、真っ白になった。

 ひとりでに笑っている姿を見られるという、最悪の事態。


 ああああああ死にたい! 

 

 真っ白になった頭は、それしか考えられなくなった。


 しかも聞いたことがある声だった。関わったことが無いから名前と顔は一致しないが、聞き覚えはある。教室で一番多く「それな」って言ってる奴の声だ。


 俺の名字を知っているということは、クラスメイトで間違いない。


 いつの間に……。

 

「……」


 顔が真っ赤になるのが手に取るように分かった。

 思わず走って逃げたくなったが、体ががちがちに強張って、結局棒のようになってしまった。

 


「へー。山田君って、笑えるんだね。笑ってるとこ初めて見た」



 俺とは極力関わりたくないという意思を感じる口調だ。

 とても横なんて見れなかった。だからひたすら真っ直ぐ、試し書き用のメモをぼーっと見ていた。――早く帰れ早く帰れ。


「何書いてたの」


 ――この時の俺は、思考が停止してしまっていて、正常な判断が下せない状況にいた。笑っているところを目撃された時点で、全部どうでもよくなった。


「……」


 俺は隣の人が試し書きのメモを見やすいように、少し横にずれた。


 その時、初めて視界にその姿を捉えた。


 同じ高校の女子の制服を着ている。


 後ろ姿でクラスメイトだと分かった。名前と顔が一致しない分、恐ろしい。


 今日は最悪だ。早く解放されたい。


「え。うんちんちんって……」


 そう言って、女子が振り返ろうとする。


 俺はその瞬間、自分の行動の全てがばれたことを察し、絶望した。どうしてさっき素直に少し横にずれてしまったのか。


 俺は女子が振り返るより早く、俯いた。


 俺はゴミだ。


 暗いのに真面目ですらない。なんだ、うんちんちんって。そういえば宿題とか一切出さないしな。もう死んだ方が良いんだ。シャーペンをカチカチするのが速いからって何だよ。将来役に立つのかよ。


「まぁいいや。そのシャーペンと消しゴム、買うの?」


 ――え?


 俺はその飄々とした声色に拍子抜けし、現実に引き戻された。

 言われて気付いた。

 俺は手に、100円のシャーペンと50円の消しゴムを握っている。


「……け、消しゴムは別に」


 頭がパニックになって、俺は何故か消しゴムを床に置いてしまった。


「なんで置いたの」


 女子は溜息をついたあと素早くしゃがみ、消しゴムを拾い、慣れた手つきで消しゴムを元の配置に戻した。一体何者だ――。


「じゃあレジ来て」


 女子は颯爽とレジに向かいながら、俺に背を向けてそう言った。


「……え?」


 俺が困惑していると、女子はレジに向かって歩きながら衝撃の一言を口にした。


「ここ私の家だから」


 嘘だろ。あのお年寄りの夫婦は?


「今日はおじいちゃんとおばあちゃんどっちも町内会の旅行でいないから。私が店番。あー最悪、カラオケ行きたかった」


 全ての謎が解けた。

 だが、この人が二人の孫だともっと早く知っておきたかった。そうしたら今日、全てを目撃されることもなかったのだ。


 ◆


「108円」

「……」


 俺はストレス発散に一万円を出した。

 女子は困惑した口調で、俺に問いかけた。


「えっと、山田君小銭無い?」

「ない」


 嘘だ。本当はかなりある。


「そっか」

 

 だが、今日はこういう悪事を働きたくなる気分だ。自暴自棄になった。

 女子は慣れた手つきでおつりを渡してきた。


「面倒だから9900円でいい?」


 俺は9900円を財布にしまい、走って帰った。


 ――この店には、二度と来ない。


 ――どうしよう……俺が今日したことがSNSで拡散されて、明日からクラス全員に馬鹿にされたら…………。


 机にうんちんちんって彫られてたら不登校になろう。


 領収書は道の途中でくしゃくしゃにして投げ捨てた。風に乗って俺の知らないどこかに飛んでいった。俺も便乗して飛んでいきたい。ドローンになりたい。

 


【後書き】

予告 3話はカチカチします。




------------------------- 第3部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

3話 うさぎ組VSシャーペンカチカチプレイヤー(世界ランク34258位)


【本文】

「――!」

「――」

「――?」

「――!」

「――」

「それな」

「――」

「――!」

「――!」

「――?」

「――」

「あー分かる、それな」

「――」

「――」

「――!」

「――!

「うん、ほんとそれ」


 今まであまり意識してなかったが、喧騒の中から、「それな」だけがかなり目立つ。他の話し声ははっきりと聞こえない。 

『それな』の声量が大きいからか、それとも俺が強烈な畏怖を抱いているからか。

『それな』と言っているのは、昨日俺に接触してきたあの女子である。名前は知らない。


 俺は今、朝の教室で自分の席に突っ伏している。


 教室に入る時は、本当に怖かった。


 うんちんちんがクラス全体に広まっていると思うと若干吐き気がしたし、クラス全体の笑い声が俺を嘲るものに思えてしまった。視線が怖かった。

 最悪「お前の席ねえから」と言われることも覚悟していた。


 ――しかし、表立って何かが変わった様子は感じ取れなかった。


 もしかして、昨日の女子はあれを何とも思っていないのかもしれない。


 そうだ。そうだよ。冷静に考えて、クラスでいつも一人でいる奴のことなんてどうだっていいだろ。だから気にするな。大丈夫大丈夫。何も問題ない。昨日のことは忘れるんだ。きっと向こうももう覚えてないから。


「――?」

「――」

「それな」

「――」

「――!」

「――」


 まずい。

 無意識に女子の集団の会話に聞き耳を立てている。

 ていうか、一人でいると結構聞こえてしまう。聞きたくないものまで。

『山田君って全体的にやばいよね』とかはこの前聞いた。

 だから今日も聞いてしまうかもしれない。

『山田君が昨日、一人で笑っててかなりあれだった』と。


 こういう時は、昨日買ったシャーペンに名前を付けるに限る。

 何かして気を紛らわさないと、精神が蝕まれそうだ。


 俺は鞄からペンケースを取り出し、昨日買ったばかりの100円のシャーペンを手に取った。


 しかし、よくある黒くて無難なシャーペンだったから、名前を付けようにも困る。せめて名前だけは輝かせてやるか。


 おちんちん……、


 違う。駄目だ。


 うんちんちんから離れられない。


 あああああああああああああああ!


 どうしてこんなに気にしてしまうんだ!


「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」「それな」


 やめろやめろ。もう聞くな。何も聞くな。俺の耳。


 俺はすぐに耳を塞いだ。


「それな」


 それでも聞こえた。今度は、俺の呟きだった。


 ――――まずい。逆に俺がはまってきている。


 ていうか、それってどれだ。


 自分の言葉で言えよ。勝手に俺が笑ってるとこ見やがって! 108円なのに9900円渡すなよ! おつりちゃんと計算しろカス!


 シャーペンを握る手が、震えていた。あまりに強く動揺したことで、震えたのだ。


「ふぅ……」


 深く溜息をつく。少し落ち着こう。


 ごめんな、名前もまだ付けてないのに痛めつけて。


 お前の名前はフェルナンデスだ。


 由来は無い。


 でも名前がないよりマシだろ。名前があったってことは、この世界に存在していたってことだから。存在していないものなんてこの世にいない。誰だって死なない限り生きている。


 だが今は生きている心地が無い。


 俺はシャーペンを優しくさすりながら、ゆっくり周囲を見渡した。俺を見ている人はいない。

 大丈夫、問題ない。


 視線は、やがて昨日の女子の所で止まった。


「……」


 今一瞬こっち見た……。

 まずい、もう終わりだ!

 行け! フェルナンデス!


「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチィ!」

「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 俺はデスボイスで叫んだ。


 ――シャーペンよ、烈風で今までを全部無かったことにしてくれ。

 

 きっと、あいつは俺が昨日やった事を話す寸前だったんだ。俺と一瞬目があったのはそういうことだ。だから少しカチカチさせてくれないか。


 煩わしいもの全部壊してくれ。

 窓ガラスを割ってくれ。

 机を薙ぎ払ってくれ。

 みんなの会話を中断してくれ。

 鬱陶しいから俺の心も一緒に飛ばしてくれ。


 俺は今日も、いつもと同じようにカチカチした。いつものように烈風が発生し、俺の体は閃光に包まれた。

 いつもみたいに、窓ガラスが全部割れた。

 いつもみたいに、俺以外の机が全部吹っ飛んだ。

 いつもみたいに、みんなの会話は叫びに変わった。


 だからいつもより何倍も必死になってカチカチした。


 でも俺の心だけは、いつもみたいに、一ミリも変わってくれなかった。


 俺は何故かいつの間にか泣いていた。


「カチカチカチカチカチカチカチカチィ!」

「あああああああああああああああああ!」


 涙はすぐにカチカチの風によって乾き、どこかに霧散する。

 しかし泣いた事実は消えない。

 このままじゃいけない。このままだとずっと一人だ。

 そう思う。

 でも怖いんだ。

 自分の中の何かを変えることが。



 そして今日もいつもみたいにチャイムが鳴って、業者が窓ガラスを取り付けて、みんなが席を元に戻して、一日が始まった。

 何も変わらない一日。

 何も変わらないから、永遠に俺は自分の自意識に悩み続けるのかもしれない。

 器用に生きたい。

 シャーペンをカチカチするくらいじゃ、何も世界は変わらない。自分自身を変えなきゃ意味がないんだ。今が嫌ならそれしかないんだ。でも怖い。




 ――昨日買ったシャーペンはただの灰になった。


 ◆


 昼休み。

 教室で弁当を食った後、寝たふりで時間を潰していると、聞きたくもないのに自然と会話が耳に入ってきてしまった。


「――」

「――」

「それな」

「――」

「――」

「そういえば昨日――君が――」


 もう俺は昨日の女子の声だけ抽出してしまう現象を受け入れていた。うんちんちんの拡散を恐れるあまり、昨日の女子の声しか聞けないのだ。

 俺の脳がいかれている。


「えっとなんて書いてあったんだっけな……」


 ふいに、はっきり聞こえた。


「……ッ!」


 終わった。もう終わった。

 これで俺の事はばれて、クラス全員から馬鹿にされる未来が確定した。

 俺は絶望を確かにするために、机に突っ伏して寝たふりをしたまま、脚だけを小刻みに動かして、女子の集団に近づいた。例えるとナウシカのオームみたいな動きだった。

 高校生活で寝たふりをしまくっていたからこそできる、匠の技だ。


 そのままオームみたいに移動していると、徐々に距離が狭まってきたため、女子の会話が耳に入るようになってきた。


「――メモになんて書いてあったの?」

「んー、なんだっけな。うん……うん、」

「うん?」

「あれ、ごめん。ちょっと忘れちゃった」

「えー! ほんと彩香ってそういうところすっとこどっこいだよねー」







 しゃああああああああああああああああ!!







 俺は高速で動かし続けていた脚を止め、ポーカーフェイスのまま狂喜した。


 ――昨日の女子は俺が『何を書いたか』を忘れている。


 つまりまだ、修正が利く。


 これは好機だ。


「あ、そうだ。彩香、今日もカラオケ行けない?」

「うん、また店番しないと……」

「そっかー、それっていつまで?」

「今日までだよ」

「じゃあ、明日みんなで遊ぼう」


 今日もか。

 なら今日の放課後、あの女子より早く昨日の文房具屋に向かい、うんちんちんの後にこっそり「電車」と書き足せば、ちんちん電車っぽくなって印象が薄れ、全て丸く収まる。

 それが済んだら、最初にうんちと書いた元凶を捜索し、説教したい。

「万年筆でうんちなんて書いてたら将来ろくな人間にならないよ」と言いたくてしょうがない。

 どうやら今日の放課後は、血で血を洗う闘争に――――


「――――あれ、そういえば山田君の席ってこんな近かったっけ!?」

「なんでうちらの輪の中心にいるの!?」

「うわーきしょい」

「いつの間に……?」

「まさか、私たちに接近しつつ寝てるの?」

「それとも、うちらが寄ってるの?!」

「きゃあああああああ!」

「怖いこと言わないで!」


 まずい。

 影が薄いのをいいことに調子に乗って接近しすぎた。

 気がつくと、女子たちの声は五十センチくらい前で、かなり鮮明に聞こえる。それどころか、全方位から聞こえる。

 輪の中心にいつの間にか入ってしまったようだ。




 ――下手すれば、うんちんちんより遥かにやばくないか?




 俺は突っ伏して寝たふりをしながら、女子の中心で絶望した。

 どうしたらいい?

 今起きたら確実に今までの会話を盗み聞きしていたのがばれる。そして引かれ、やがてクラス全員に嫌われる。


「ねぇ、山田君起きてると思う?」

「逆に起きてたら犯罪者じゃね。今までの会話全部聞いてたってことだよ」

「でも寝てたとしたら、寝たままどうやってここまで移動してきたの?」

「夢遊病みたいな?」

「どっちにしろきもいね」

「それな」


 それなじゃねえよ。

 お前のせいで俺は今こうなってるんだ。

 うんちんちんと書いたメモを、お前が強奪したせいでな!


「ねぇ男子! どうして山田君がこんな位置にあるか、分かる人いるー!?」


 俺は慄然とした。

 突然、女子の誰かが、鋭い声で男子全体に問いかけたのだ。


 ◆


 女子が男子に問いかけたが、案の定ろくな返事は一つもなかった。


「よっしゃルシファー当たった!」

「は? お前俺より全然ランク雑魚のくせにルシファー当てんなよ!」

「うるせえな。課金しろ課金」

「俺は絶対課金しないって決めてんだよ!」

「バイトしろよ」

「バイトめんどくせえ!」

「うんきょくで行くわ」

「山田君、今日初めて見たわ。なんで女子に囲まれてんの」

「もしレアガチャで山田君出てきたらどうする? 強化に使う?」

「いや、あれを合成されるモンスターの身にもなれよ。多分モンスターも嫌がってすごい勢いで吠えるぞ」

「お前らあんま山田君いじめんなよー。かわいそうだろー!」

「ははは」


 みんなモンストにはまっている。


 しばらく経って、かなり近くにいた一人の女子がぽつんと呟いた。


「可哀想、山田君ってガチで一人も友達居ないんだね…………」


 ガチで居ねえ!!!

 早く帰りてえ!!!!!


 ◆


 その後、周囲にいた女子は自然と教室を去っていった。

 やがて男子もみんな去った。


 次の時間が体育だからだ。


 俺は、一人になってからようやく立ち上がり、机を元の位置に運んだ。


 体育クソめんどくせえな。


 今日マラソンだし。


 ……もう全部どうでもいいや。もういい。今日は疲れた。


 俺は保健室で寝ることにした。


 保健室でサボって、1日は終わった。


 ◆


 放課後、正直あまりモチベーションは高くなかったが、走って昨日の文房具屋に向かった。

 うんちんちんより、女子の中心に位置してしまったことの方が罪がやばかったかもしれない。

 だが、とりあえずうんちんちんを、うんちんちん電車に変えよう。そこから全部やり直そう。

 そういう意味を込めて、俺は全力で走った。


 走ったこともあり、すぐ文房具屋に着いた。


 ゆっくり自動ドアを通ると、どうやらこの中には誰もいないようだった。


「あの女子は、まだ来てないか……」


 息を荒げながら呟く。


 よし、早くあのメモに電車って付け足そう。

 ちんちん電車に運命を捻じ曲げるのだ。

 俺は勝つ。


 俺は走って試し書きメモの場所に向かった。


「ッ!!!!!!!」


 その姿を見たとき、俺は衝撃のあまり衝撃を受けた。


 試し書き用メモの前に向かうと、そこには嬉々として万年筆を走らせる、小さな男の子がいたのだ。


 その子は俺に気付かず、ペンを走らせている。


 まさかと思い、俺はそっと上から覗き込んだ。


『きょうはようちえんのといれでうんちをしりました。うれしかったです。あと、おおきいこえでせんせいにあいさつしたらほめてくれました。うれしかったです。うんちをしりたいです』


 やべえ絶対この子だ。


 俺は確信した。


 そして、僅かに口角を吊り上げた。


 仕方ない。

 俺が君に、大人の世界を教えてやるよ。


 俺は今、全く緊張していない。

 小学生くらいともなると、物心もだいぶちゃんと付いてしまうので、話すのは怖い。

 だが、この子くらいの幼さであれば行ける。

 ……俺もまだ、人と話せるんだ。


「こんにちは!」


 俺は、できるだけ不信感を与えないように明るいトーンで挨拶した。

 すると、男の子はすぐに振り返った。きょとんとしている。

 俺は自然と笑っていた。


「あらゆる挙動が初々しいね。君はまだ挫折と孤独を知らない無邪気な幼稚園生?」


「うん。うさぎぐみ」


「そうか。じゃあ、今回の件は仕方ないね。今日は大目に見てあげる。でも、君の未来のために少し注意するからよく聞いてね」


「うん」


「君は今、この試し書き用のメモに、なんて書いた?」


「うんちのこと」


「そうだよね。それがどういうことだか分かる? このメモは君だけのものじゃないんだ。このお店に来た全員のものなんだよ。そこにうんちって書いてあるのを見つけた人は、どんな気分になるかな?」


「……いや」


「そうだね。嫌な気持ちになるよね。でも君はとても偉い。自分で自分の失敗を認めるのは、大人でも難しいことなんだ。でも君は、それをうさぎぐみで出来ている。本当に偉い」


「ありがとう」


「でも、そんな君だからこそ、偉い君だからこそ、厳しいことを言うよ。うんちなんて書いてたらね、ぶっちゃけ将来ろくな人間になれないよ」


「――ちんちんってかいたひとにいわれたくない」




 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 今日初めて人間と喋れたのに幼稚園生の方が正しい!

 大体、なんで高三なのに高三と話せないんだ? あかんでほんま。

 



「なんで、俺がちんちんって書いたこと知ってるのかな」


「きのうおねえちゃんがいってたから」


「……お姉ちゃん?」


「おねえちゃんが言ってたよ。変な人がメモにちんちんって書いたって」


「変な人っていうヒントだけで俺だって分かったんだね。俺ってそんなに変かな。自分では結構普通だと思ってるんだけど。そもそも普通って何だろう。何がどうなったら普通じゃないの? 俺には分からないんだ。一体何をどうに変えたら、俺は普通になれるの。ねえ、なんで人は生まれたの? なんで人は争うの? なんで彼女は手首を今日も切るの? 俺たちはどうすれば幸せになれるの? 教えてくれよ。誰か、ねえ!!!」 


「おねえちゃん、この人怖い!」



 ――――え。



 怯えた男の子は突然叫び、俺の横をすり抜けて、走っていった。


 男の子が走った方向に、『おねえちゃん』がいるのか――。俺の後ろに。


 振り向きたくない。


 未だかつてこんなに振り返りたくなかったことは無い。


 体中が熱くなる。


 またか。


 またこの裂けるような恥ずかしさか。


「……ずっと後ろで見てたけど山田君って普通に喋れるんだね。学校でも喋ればいいのに。なんで誰とも喋らないの? もったいないよ」


 ああああああああああああああああああ!


 後ろから、昨日と同じ声がした。


「弟と遊んでくれてありがとね」


 俺は遊ばれただけだ。


 俺は一体、何がしたかったのだろうか。


 余りの恥ずかしさに振り返ることができず、俺はその場で硬直した。


 ◆


 しばらく、空間を沈黙が支配した。


「おねえちゃん。なんでこのひといきなりしゃべらなくなったの。さっきまであんなにしゃべったのに!」


「うーん、なんででだろうね」


 本当になんでだろうね。なんでうさぎ組の子は怖くなくて、同じくらいの歳の人が怖いんだ。

 人の、何が怖いんだろう。なんで教室で一言も喋れないんだろう。

 俺はよく分からなくなった。

 もうずっとそうだから。なんで喋れないかも忘れる程、喋らないことが俺には普通なんだ。

 

 でも喋りたくないわけじゃない。本当は喋りたいんだよ。


 でも怖くて無理なんだ。

 何が怖いのか、自分の中で言葉には出来ないけど。

 人と関わることが怖いんだ。

 

「――またきてね」


 突然、俺の視界に小さい子が現れた。上目づかいで俺の目を見てくる。

 俺はすぐに目を逸らした。



 分かった/嫌だ

「…………」

 俺は怖気づいてそんな簡単なことすら言えない。



 何が怖いんだ。何も怖くないよ。別に話したくらいじゃ嫌われないよ。世の中そんなに悪い人ばかりじゃないよ。

 頭では分かっていても心が付いてこない。


 俺は逃げるようにしてその場から走り去った。


 誰とも目を合わせなかった。


 ガチでここにはもう来ない。


【後書き】

お疲れ様でした


------------------------- 第4部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

4話 鳥と新聞配達とデスボイス


【本文】

 ソロで高笑いしているところに加え、幼稚園生に本気の説教をしているところを目撃された。しかも幼稚園生の方が普通に正しかった。


あの女子は、今まで俺の事をただ暗いだけの人間だと思っていただろう。

今まで俺は人との接触に怯えるあまり、自己紹介と音読以外の感情表現をただの一度もしてこなかったのだ。

教室で人間に何を問われようとも「あ、うん」「あ、はい」で済ませてきた。

私語を幾星霜も慎み続けて、今の俺がある。

だが、俺の化けの皮が完全に剥がれた今、俺はきっとただの暗い人間だと思われていない。









――確実に頭がおかしい奴だと思われている。









俺の高校生活はきっと今、転換点にある。

ただでさえクソみたいな歯車が、更に狂い始めた。

自分でもこれ以上狂うとは思っていなかった。


その日の夜。


眠くても、全然寝る気にならなかった。

いつも寝るのは大抵三時だ。しかし、今日は五時になっても寝る気にならず、ひたすらベッドに横になってスマホを弄っていた。死ぬほど眠いのを我慢して。

一日の内容があまりにゴミなので、できるだけ夜更かしをして『今日』を引き伸ばし、少しでも充足感を得たい。少しでも楽しい時間帯が欲しい。学校から帰ってすぐ寝てしまったら、すぐ学校に行かなきゃいけない。それが嫌だ。

つまり、明日を迎えることが嫌なのだ。 

永遠に今日に留まりたい。

家にいたい。制服を着たくない。教室にいたくない。

でも、そんな抵抗は、五時にもなればボロクソになって終焉を迎える。






「ほーほー」

 鳥が鳴き始めた。


「ぶろろろーん」

新聞配達のバイクが通り始めた。


「ああああ……ぅぁああ……嫌だ嫌だ…………もう朝だ……死ぬ死ぬ……誰か、酒……を、酒をくれえええええええええええ! ヴァアアアアアア……!」

俺がベッドの上でデスボイスで呻いた。



【鳥・新聞配達・デスボイス】の三つどもえ。


様式美である。





――夜は終わった。

抵抗した分、全部自分に跳ね返ってきた。


この瞬間、俺は一睡もしなかったことを途轍もなく後悔する。


なんで寝なかったんだろう……。馬鹿じゃねえの!? 一日中ずっと眠いじゃん。ああもう最悪だ。


……明日学校行きたくねえな。いや、もう今日か……。


『うぇーい! もう五時だぜ。あと二時間しか寝られない! ざまあああああ! ほら、そんなに眠ければ今からでも寝ろよゴミ! 一睡もしないとかきっしょ! うわー引くわー! 学校の何がそんなに嫌なん!? お前の同級生、今みんな寝てるよ。起きてんのお前だけだよ』


鳥が俺にそう言ってる気がする。

この理由から、俺は鳥が好きではない。鳥はカスだ。


朝になるまで起きてしまったなら、どうせなら一睡もしないで学校に行ってやる。

あ、でもそうすると、学校から帰ってすぐ寝てしまう……。

それは最悪だ。

あー、なんで今日寝なかったんだよ……。


「――」


俺は、光が差し込み始めた天井をぼーっと見上げながら、思った。


――そもそも、なんで毎日こんなに学校に行きたくないんだろう。


言葉で言い表せるような辛いことがあるわけでもない。むしろその辛いことを避けるために、心に壁を作って一人でいる。人から逃げている。


なら無駄な事を考えず、機械みたいに通えばいい。


そしたら、いつか絶対終わるのに。


俺にはそれが出来ない。


 ――――――考えてしまう。見てしまう。比較してしまう。


周りには自分という人間がどう見えているだろう。


他人を避けて生きているくせに、他人の視線を異常に気にしてしまう。


なんて馬鹿なのか。



――学校がめんどくさい。

朝を迎えた今、それしか思うことは無い。



でも、このままでは寝てしまいそうだ。もう限界が近い。


シャワーでも浴びて眠気を取ろう。

そしてそのまま、学校に行こう。


「よっこいしょおおおおおおおおおおおおおお! ゴルァアアアアアアアアアアアアアアアア!」


ベッドから立ち上がった時、叫んでストレスを発散した。でも二秒後には、またストレスが俺を包んだ。

何故なら今日はまだ水曜日。

土曜日は遥か彼方だ。

でも、いつかきっと俺が迎えに行くから。

絶対俺が守るから! それまで待ってろよ! 土日!!!



 シャワーを浴びた後、俺は、あの女子のことを思い出した。

 今思い返しても、顔が真っ赤になる。

 むしゃくしゃしてシャーペンの芯を食った。

 バリバリ音を立てながら咀嚼していく。

 まずいじゃがりこみたいだ。


「シャーペンの芯美味しいな。多分フライにしても美味しい」


俺は揚げて食った。


「わーこんがりきつね色。こんなん絶対うまいに決まってますやん」


食った。


「うまあああああああああああああああい!!」


 俺は泣きそうになりながらシャー芯を食った。まずかった。終わり。


 ◆


 その後、しばらくリビングでゲームをして過ごしていると、母が起床してきた。


「うわっびっくりした、もう起きてたの? 早いね」

「うん」


 眠気に殺されそうになりながら、返事した。

 ……日が登る。

 飯を食って歯を磨いて制服を着て、シャーペンを持って学校に行った。


 ◆


(――大丈夫だ。友達が一人もいないという時点で、充分周りからはおかしい奴として認知されている。だからこれ以上おかしい奴だと思われてもそんなにダメージない。超然と寝たふりをしろ)


 今では、そう教室で自分に言い聞かすようになってしまった。


 自分がおかしいこと前提で言い聞かせなければならないので、言い聞かせることによりむしろメンタルが蝕まれるようになった。何も意味がない。


 今日も、俺は教室の中央で、自分の席に突っ伏して寝たふりをしている。


 紹介が遅れた。


 俺の席は教室のど真ん中だ。よろしくな!


 ◆


「おはよう」

「おはよー。なんかこの教室臭くね」

「分かる。慢性的に臭いよな」

「誰が臭いんだよ」


 ――もしかして俺?


 俺は突っ伏しながら、自分を嗅いだ。


 無臭だ。


 だが、ネットで見たことがある。体臭は決して自分では気付けないと。


「……」


 俺は無意識にシャーペンを手に取っていた。


 もし俺が臭いなら、今すぐカチカチして、全部無かったことにしたい。


「田中、お前だよ!」

「は? 俺臭くねえし!」

「臭いよ。朝練したら着替えろよ。くっせえなあああああああ」

「しょうがねえだろ。着替え持ってくるの忘れたんだから」


 良かった。俺じゃなかった。

 俺は押す寸前だった親指を、ゆっくり離して、シャーペンを机に置いた。


 まぁ、特に理由もないが、もう一か月以上も続けてきたし、カチカチするかな。


 今日寝てないしな。全部吹き飛べ。学校なんてクソくらえだ。


 俺は、机に突っ伏しながら今日も本気でカチカチした。体を閃光が包み、窓ガラスが割れ、机が吹き飛び、みんなが叫ぶ。気持ちいい。



「――!?」

「――!」

「――!」

「――!?」

「――!」

「ねぇ、なんで山田君の席だけいつも飛ばないの? なんでいつもこの時間帯だけ体が光ってるの!? なんか知ってるんでしょ!? 変だよ!」 

「――!」

「――!」

「――!」

「――!」

 

 俺の耳元で、あの女子の叫び声が鮮明に聞こえた。

 

 ――思わず、カチカチ無双を反射的に中断した。


 頭がまた真っ白になって、俺の世界の中でシャーペンだけが音を立てて、ころころ転がって、床に落ちた。


【後書き】


行頭がガタガタですいません。



------------------------- 第5部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

5話 シャーペンカチカチプレイヤーの本懐


【本文】

「うわああああああああああ!!! ……あ?」

「もしもしママ!? ごめんね私今日で死ぬの! ……ん? あれ、ごめん。やっぱり生きる。うん、うん、じゃあ切るね。はーい」

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!! ……あれ?」

「きゃああああああああああああああ!!! は……なんで?」

「やばいスマホ飛んだ! モンスト課金したばかりなのに!! ……あれ、飛んでない」

「あああああああああああああああ! ……は?」

「また嵐かよ! ちくしょおおおおおおおおおおおお! ……おい、なんだこれ」

「もう一ヶ月連続だぞ! 何がどうなってんだよ! 俺たちが何か悪いことしたのかよ! なあ! 神がいるとしたら俺たちの問いに答えてくれよ! ……ん?」

「俺童貞のまま死ぬのかよおおおおおおおおおお! ……え、止まった?」


 俺が衝動的にシャーペンを床に落としたことにより、烈風は志半ばで消失した。

 ――それと同時に、クラス中の叫びは止んだ。

 本当に一瞬で教室全体が静寂に包まれた。

 一方俺は、ただ生命活動を続けるだけの肉体と化した。感情はもはや無い。遂に、遂に……ばれた。

 カチカチ無双が……!

 俺のすぐそばに、奴はいる。

 どうしようどうしようどうしよう!


 俺が絶望の渦中に突っ伏す中、静かな教室の中では、人間達の会話の応酬が繰り広げられた。


「え、お前って童貞だったの。俺に偉そうに『女っていうのは肯定してもらいたい生き物なんだよ。だから悩みとか相談されたら具体策を言うんじゃなくてとりあえず大変だねとかそうなんだ、って言っておけば間違いねえよ。ただ愛は忘れるな』って言ってたのに!?」

「……そうだよ。童貞だよ。女子となんて目を合わせたことも無いよ。てかお前も人のこと言えねえだろ! 何だよ。俺たちの問いに答えてくれよって」

「うるせえカス! 風にかき消されるから、恥ずかしいこと大声で言っても平気かな、みたいな感じになるだろうが誰でも!」

「さやかっていつも風が起こるたびにお母さんに電話してたの……?」

「う、うん……だって怖いし」

「通話料もったいないからやめたほうが良いよー。だって、いつも人に被害は出ない程度の嵐しか起きないじゃん。何故か」

「で、でもっ、怖いんだもん……」

「かわいー! 生後二ヶ月のモルモットみたーい!」

「どうして今日はこんなに早く風が止んだのかな……」

「ほんと、なんでだろうね」

「なんか風の時間が短くて寂しい。私、叫ぶために学校来てたようなもんだし。単位とか要らねえし」

「俺もだわ。風でかき消されるから、別に意味はなくても叫んじゃうよな」

「なんか調子狂うよね。机と椅子吹っ飛ばないと張り合いがないわ」

「今日宿題出てたっけ」

「古文」


 こんなにはっきり人々の会話が聞こえるなら、これは夢じゃない。

 現実だ。

 さっき、あの女子は俺になんて言った?

 烈風でよく聞き取れなかったが、明らかに俺を疑ってる口調で、なんか言ってたぞ……。


 あ、そうか。俺は疑われているだけで、確信されたわけじゃない。




 ――だったらまだ修正が効くッァゥ!!!!




 まだいける……。


 今、俺はコンマ数秒の間に、全てを賭ける覚悟を決めた。初めて教室の中で、自分から声を出すという覚悟を。

 あの女子にカチカチの容疑を掛けられている恐怖に比べれば、一瞬の恥なんて気にすることない――。







「風が強い」







 俺は突っ伏したままそう呟き、机ごと思いきりダイナミックに横に倒れた。

 声は小さい上に棒読みだったが、その分、転倒に力を込めた。

 容疑を晴らすため、自分なりには声を張り上げたつもりだ。

 なら、その結果が呟きであったとしても、悔いは無い。

 前に進んだ失敗は、九割成功だ。


 俺は今、自信に満ちて床の上にいる。


 これで、俺が風によって転倒した感を演出することに成功した。

 目立つのは恥ずかしいが、風を起こした容疑が固まるより全然いい。


「山田君、なんで風が完全に収まってから倒れたの?」


 えらく静かになった教室の中。

 きつく目を閉じて倒れていると、頭上から小さな声がした。


「――え」


「今、完全に風が無くなってから倒れたよね」


 嘘だと言ってくれ。

「嘘」

 俺じゃない。


「ん? 何が嘘なの、山田君」


「え、あの、いや、その、ああ……」


 俺はうつ伏せになり、最大二文字で戸惑った。視界には床しかない。


 教室はとても静かだ。

 ここに、俺とこの女子の二人しかいないんじゃないかと思うほどに。


 しかし――


「山田君が、喋った」

「山田君が喋った」

「喋った、山田君が」

「あの山田君が喋った」

「声、初めて聞いた」

「声帯、あったんだ」

「嘘、だろ」

「『風が強い』ってちゃんと言ったぜ。あの山田君が」

「山田君、今日学校来てたんだ」

「口があるところ初めて見た」


 ――ざわついていた。


 倒れながら、顔が真っ赤になるのを感じる。

 最近、真っ赤率が高い。

 俺はただ床をぼーっと見た。

 時間が流れることだけに希望を託し、努めて無感情であろうとした。

 だが頭のすぐ上で、人の気配がする。呼吸音が聞こえる。

 それだけで空間が凍結されたような気がした。


「倒れるタイミング遅いよね。なんで」


 俺にしか聞こえないであろう、噂話のような声量だった。

 耳がこそばゆくなる。


「……」


 俺は何も言わない。


 やがて、俺の耳には別の声が入ってきた。


「ねえ彩香。なんで全然驚かないの?」


 その問いに対し、俺の頭上にいた人は平然と答えた。


「だって山田君普通に話せるもん」

「え、そうなの?」


 そうだ。

 俺はもう何度もこいつに恥をかかされてきた。

 彩香っていうのか。

 どうでもいい。


 そんなことを考えていると、やがて俺と彩香という人の近くに、もう一つの足音が近づいてきた。


 それは、俺のすぐそばで停止した。


 圧迫感がすごい。

 早く帰りたい。




「ねぇ山田君。あいうえおって言って」




 強制されると言いたくない。

 あいうえおって何だ?

 そんな頭悪そうな台詞言いたくない。せめてiPS細胞とかにしろや。


 何も言わない俺を見かねたのか、彩香という人が溜息をついて、ぽつんと呟いた。


「昨日弟とあんなに喋ってたんだから、あいうえおくらい言いなよ。本当は喋れるんだから」

「そうなの?」

「そうだよ。普通に喋るよ」

「へぇ」


 言えない。

 言えるはずがない。

 あれは幼稚園生だから全く緊張しなかっただけだ。

 同年代となれば話は違う。

 

「……」


 俺は黙った。


「変なの」


 そう呟いて、あいうえお女子は去って行った。

 気が付けば、もうほとんどの人が席に着いて談笑している。床だけを見ていてもそれは分かった。

 安心した。別に、風が止んでから『風が強い』と言って思いきり横に倒れても、気にする人なんていないのだ。よかった。俺は考えすぎだったんだ。

 そして今、初めて気が付いた。

 ――みんなの机が微動だにしていないことに。ちゃんと全ての列がある。倒れているのは俺だけだ。馬鹿か?

 

「そもそもなんで倒れたの?」


 彩香と言う人が俺に問う。

 

 本当になんで倒れてしまったのか。

 若気の至りだ。

 焦りすぎて倒れてしまった。


 俺は咄嗟に立ち上がり、机と椅子を元の位置に直した。

 

 立ち上がった時、初めてその顔を見た。


 どこにでもいそうな普通の顔をしている。

 

 やがて目が合った。


 俺から見ただけでは何を考えているのか分からない目をしている。


 普通の目。


 俺はすぐに目を逸らした。

 目を見るのは苦手だ。

 多分頑張れば見ることはできる。でも、そこからどのくらいの頻度で目を逸らすのが適切なのか分からない。ずっと目を合わせてるのは奇妙だし、全く合さないと印象悪い。

 目を見たら人に失礼なのではないか。

 最終的にそう思う。


 俺が目を下に逸らすと、尚も女子は俺の目を見ながら、周りに聞こえない小声で呟いた。

 

「なんでシャーペン落としたら風が止んだんだろう……。どうして山田君は不自然に倒れたんだろう。いつも山田君の席だけは飛んでなかったはずだよね?」

「……」

「何か後ろめたいことがあったから倒れたのかなぁ。すごい怪しいよね。毎朝体が光ってるのも変だし。絶対何かあるんだよ。そういえば山田君に声かけたら風が止んだね」

「……」

「もし山田君が何かしてるんだったら先生にちくっちゃおうかなぁー。毎朝迷惑だからちくっちゃおうかなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああどうしようかなああああああああああああああああああああああああ」


 間違いなく言えるのは、

 ――逆効果だった。

 倒れたことは、逆効果だったということだ。

 倒れ損だ。

 全国の高校を探しても、これほどの倒れ損は多分無い。

 

「反論しないってことは……?」

 

 やばい。

 このままだとちくられる!


 俺は反射的に女子の目を再び見た。

 

 ――女子は笑っていた。


「……いや、何もしてない……」


 咄嗟に漏れた言葉は、ホームルーム開始のチャイムに丸ごと被さって、自分すら何を言ってるのか聞き取れなかった。

 声量がゴミだ。

 チャイムに負けるとかもう生きてる価値ないだろ。


「今何か言った? まあいいや。チャイム鳴ったから席につこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっと!!! どうしよう! このあとすぐちくっちゃおうかなああああああああああああ!! ぴゃー!!!!」


 そう言って、女子はスキップして自分の席に向かった。そういうキャラだったのか。


 もう勝手にしろ。

 

 ちくられたら多分退学だろうな。

 それだけ悪いことを俺はしてきた。それが矯正されるだけのことだ。

 悪は淘汰される。当たり前だ。中退したら高認とって大学行ってニートになろう。

 窓代、何円弁償することになるんだろう……。

 それだけが嫌だな。


 俺は、金に絶望しながら席に着いた。



 でも、何故か心は少しだけ軽かった。

 

 ◆


「うわあ、今日も酷い荒れようだ。これで異常気象は一か月連続だな。学校側としても今必死で対策練ってるところだから我慢してくれ。教室の引っ越しも検討して…………え?」


 担任は教室に入って少ししたところで固まった。


 そして、破顔して両手を上げて叫んだ。


「うぇーーい!!!! うぇーーーーーーい!!」


 普段物静かな人なのに、テンションがおかしい。絶対うぇーいとか言う種類の人ではない。もうすぐ定年だ。

 だが、それだけ、カチカチ無双はみんなにとっても日常の一部だったのだ。


 ――そしてそれは、担任に限った話では無かった。


「嘘、だろ……」

「嘘だと言ってくれよ。なぁ……」


 担任の後に続いて教室に入ってきた、若い二人の業者。

 彼らは、まるで世界が終わったかのような絶望に満ちた顔をして、崩れ落ちるように膝をついた。


「え、なに?」

「どうしたん」

「ん?」

「なになに」


 あまりに深刻そうに崩れ落ちたので、クラス全体の注意も業者に向かった。俺も業者を思わず見た。

 

 喜んでいた担任は咄嗟に業者へ駆け寄り、二人の肩に手を置いた。


「すいません。仕事、今日は無くなってしまいました」


 担任がそう言うと、二人の業者が、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、歩きはじめた。

 ――やがて業者は勝手に教壇に上がった。

 業者は泣いていた。


 ◆


「――僕は学生時代に友達がいなかったんです。

 いつも学校早く終わんねえかなあって窓の外の景色ばかりを眺めている人間でした。それで窓の外ばかり見てたらそのうち窓が好きになって、窓とかで抜くようにもなり、窓を扱う仕事に就きたいなって思うようにもなりました。そして業者になった。最初はうまくいかないことばかりで、上司に舌打ちとかされまくって、ロッカーにゴミとか入れられてて、それでも窓が好きだから! ……僕はこの仕事を続けました。

 そんな時、この学校で嵐が起き始めた。

 そして、毎日ここの窓を替えるようになった。その時思ったんです。

 こんな僕でも学校に居ていいんだなって。生きてても良いんだなって。この教室の窓を変えるようになってから、そう思うようになりました。まるで失われた学生時代を取り戻したようでした。僕が皆さんの第二の担任だと言っても過言ではありません。皆さんのことが好きです。大好きです。本当に好きです。窓以上に好きです。

 でも、もう、嵐は起きてくれないみたいだ……。なら僕に生きる価値は無い。今日で僕この仕事辞めて無職になります。みんな、お元気で……」


「こんな不器用な俺らだけど、本当に窓が好きです。今までありがとうございました」

 

 二人の業者は並んで泣いている。

 教室はしんみりしていた。

 泣いている理由が何であっても、泣いているというだけで場はある程度のしんみりさに包まれる。

 誰も声を出す人はいない。

 そんな中、業者は揃って嗚咽を上げ始めた。


「えーん!」

「えーん!」


 大の大人が泣くなよ。

 生きてていいんだよ。

 生きる価値が無いとか言ってるが、生きてちゃいけない人間なんていないんだよ、業者――。


「えー、今日の一時間目は予定を変えて、業者さんを送る会をやろう。なぁ、みんな」

 

 教室に業者の涙が染みていく中、担任が明るい口調で言い放った。すると、歓声が上がった。


「やろうやろう」

「業者今までありがとう」

「業者ー! 俺らの事忘れんなよー!」

「業者最高!」

「送る会って何やるの」

「業者のライン教えてー」

「業者に感動した」

「やばい、泣いちゃった。今日は泣かないって決めてたのになぁ」


 みんなが暖かい言葉を掛けていく。

 教室が暖かい。

 すると業者は更に泣く。これで終わりなんだと、すべて終わりなんだと泣いている。別れは寂しい。終わりは切ない。


 なんだよ。


 なんだよもう。






 ――俺がシャーペンをカチカチするしか、ねえじゃねえか……!!






 俺はもらい泣きをしそうになりながら、床に落ちているシャーペンを拾い上げ、深呼吸した。

 

 ――業者、お前らを送る会は、また今度の機会にしようぜ。お前らはもう立派なクラスメイトだから。

 

 親指をノック部分に乗せる。

 あとはカチカチするだけ。

 それだけで業者は涙を流さなくてよくなる。

 嗚呼、業者。

 お前らの笑顔が見たい。


「……?」


 ふいに、視線を感じて横を見る。



 ――にやけながら、あの女子が俺を見ていた。なんだあのにやけ方は。常人のそれではない。しかもスマホをこっちに向けている。動画を撮って証拠をきっちり押さえるつもりだ!



 まずい……これでカチカチしたら、もう確実に俺が犯人だとばれる……。

 そしてちくられるのだろう。

 そして退学、弁償。

 四面楚歌。

 カチカチしても地獄。カチカチしなくても地獄。

 

 ――けれど俺は、例え危機であろうとも、泣いてる人をほっとくことはしたくない。自分のために何もできない分、他人のために何かする。そういう人間でありたい。

 

 俺のこのシャーペンは、そのためにあるんじゃないか?

 そうにしたいのに、そう生きられずに一人でいたから、俺はカチカチの度に泣いていたんじゃないか?


 この力を、他人のために使おう。


 自分のためじゃない。


 他人のために!


 吹っ切れた俺は、彩香と名の付いた女子の持つスマホに一瞬だけ微笑み、今までになく全力でカチカチした。


「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチィ!」

「業者アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 ――共鳴する、カチカチと俺。

 業者へ届け。

 この思い。


 俺の体は閃光に包まれた。


 そして、烈風が教室を駆け巡った。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「うわああああああああああああああああああああああああああ!」

「風だああああああああああああああああああ!!」

「あああああああああああああああああああああ!!!」

「俺は童貞のまま死ぬのかあああああああああああああああああああああああああ!」

「もしもしママ! ごめんね私今日で死ぬの! 今度はほんと!」

「かわいー! 生後二か月のモルモットみたーい!」


 窓が割れていく。皆の席が飛んでいく。誰もが烈風に乗じて叫ぶ。

 風が俺の視界を遮る中、業者の笑顔が視界に入った。嬉しそうに笑っている。

 良かった。

 人は笑った顔が一番だと思った。


 これで、担任にちくられても悔いは無い。


 ああ、悔いは無い。




 俺は、教室で初めて笑った。

 

 



------------------------- 第6部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

6話 人生最大の危機


【本文】

 吹き荒れる風が火照った頬を引き裂くように走る。

 慟哭に似た叫びが教室を埋め尽くす。

 机と椅子が生き物のように飛び交う。

 教室の治安がやばい。


 気が付いた頃には、カチカチしていた得物はただの粉塵と化していた。

 掌から堕ちてゆく、シャーペンの亡骸。


 俺は心を恍惚で満たし、ぽつり、と滴り落ちる水滴の如く流麗な声色で独り言を残す。


「成った……心(シ)象(ャ)投(ー)影(ペ)機(ン)超絶(カチカチ)乱舞(むそう)――――」





 カチカチを終えた後、窓の外の静かな景色を見て、ふいに過去のことを思った。


 シャーペンカチカチプレイヤーとして過ごしてきた高校生活――。


 内容がうんち過ぎて記憶に無い。


 クラスの友達はシャーペンだけ。ラインの友達は公式アカウントだけ。

 ラインをとりあえずインストールしておかないと、常人感が失われてしまう気がする。時代にはぶかれてるような気がする。

 それが怖くて、意味もなくインストールしたが、全く必要ない――。

 教室で過ごす休み時間。

 一人でいると、他人の目ばかりが気になって、自然に生きることができない。

 あまりに気になりすぎて、ラインの設定画面から通知音を最大音量で鳴らしまくった。ラインが来まくっていることを装い、常人感を演出した。

 その度に心に通知が届いた。


『ちょっと辛い』


 望まない場所に生きていると何度も思った。

 本当の居場所はここじゃない。

 本当はもっと明るく誰かと話せるはずだ。家族とは明るく話せるんだから。

 それでも、人が怖くて仕方なかった。

 声が出なかった。

 普通に話す人がいて、普通に遊ぶ人がいる。それが普通の高校生。

 だったら、それが一人もいない俺は普通じゃない。 


 ――普通じゃない。


 一人を受け入れようとする自分がいた。いつしか、普通を諦めていく自分がいた。何かが折れる音がした。


 性格の問題だ。しょうがない。人と関わるのが怖いならずっと一人でいよう。

 俺は普通になれないゴミだ。

 高校生として終わっている。人間としても終わっている。



 でも、終わっているだけであって、決して“間違いではない”と、業者の笑顔を見た今なら思える。



 俺が生きていることは、終わってはいるが、間違いではないのだ。

 自分が望んだ位置から遠く離れていても、間違いじゃない。

 笑うことは出来るんだ。誰かを笑わせることは出来るんだ。

 それで充分じゃないか。

 業者、ありがとう。二人の笑顔を見て気付きました。大事なことを気付かせてくれて……本当にありがとうございました……。あなたたちへの感謝は一生忘れません――。


「先生! 山田君が窓を割りました!」


 業者死ね!!!!!!!!!


 ◆


 あの女子は俺の予想以上に一瞬でチクった。みんなの前で。

 心はあるのか?

 それが人のやることか?

 高校三年にもなって、チクるよって言って本当にチクるか?

 普通もっと泳がせるだろ?


 俺が業者の存在価値を取り戻し、悦に浸っていたのも束の間、一転して人生最大の危機が訪れた。


 動悸がする。汗が流れる。


 俺がチクられたのは、みんながそれぞれの席を元の位置に戻し終わり、業者が窓の取り付けに着手する寸前だった。

 なのでチクられた時、教室は静かになっていた。その声は誰の耳にも届いたはずだ。


「先生! 山田君が窓を割りました!」


 念を押した。

 信じられない。

 さっきので充分届いただろ……。


 俺は吐きそうになりながら、思わず声がする方向を見た。


 みんなが席に着く中、あの女子は一直線に起立し、俺と担任をどや顔で交互に見ていた。あんな圧倒的などや顔は今まで生きていて見たことが無い。


 ふいに目が合う。

 そして俺の目を見ながら、


「――先生、山田君が窓を割りました」


 ――俺の目をちゃんと見た上で、更にチクった。駄目だ。もうこいつはそういう人間なんだ。口が滑ったわけではなく、純粋に俺をチクっているのだ。


 汗が止まらない。やばい。帰りたい。多分滅茶苦茶怒られる。

 そのあと親に連絡されて、停学か退学になり、多額の弁償が待っている。

 何より、クラスでの俺の立ち位置が、無関心から嫌悪へと変わる。それは間違いない。


「うわぁ、停学かよ。あいつやばくね?」

「将来犯罪者になりそう」

「既に犯罪者だろ。器物損壊で」

「冷静に考えて生きてる価値ないよね」

「いるだけで場が盛り下がるし」

「あいつ毎朝風起こしてたの? 何の為に? 頭おかしくね」

「目障りだからそのまま死ねや」

「山田って誰だっけ」

「社会のクソ」

「あ、思い出した。あいつか」

「クソで思い出すなよ。今は亡き山田君が可哀想だろー」

「どうに生きたらああいう人格になるのか分からん」

「いつも一人できもいよね」

「夜中に藁人形に釘打ってるオーラ出てる」

「自分で自分のこと闇属性とか思ってそう」

 

 ……嫌な予感しかしない。だけど、俺はあの女子を責める資格が無い。


 いつも一人でいる奴なんて、周りの空気を乱すだけだし、嫌われて当然なのだ。


 それに、俺はあの女子がチクることを事前に知らされ、承知していた。

 その上でカチカチしたのだ。だからチクられるのは仕方ない。






 ――――全部業者が悪い。






 人の良心に訴えかけやがって!

 生きてる価値ねえよカス!


 俺の右手は業者への怒りに震えた。今ここにシャーペンがあれば、確実にカチカチし、死傷者を出していたであろう。


 教室は突然のチクりに、ざわついている。


「山田君がどうしたの?」

「彩香、いきなりどうしたの?」

「え、なになになに」

「何が起きた?」

「何だいきなり」

「ん?」

「何かがおかしい」


 知ろうとするなよ。人類はいつもそうだ。知らないことを知ろうとし、時代を発展させ、豊かにし、歴史を紡いできた。

 このゴミのような生活の一秒一秒もいつか、俺を紡ぐ歴史になるのだろうか。

 なったとしても黒歴史なのではないか。

 そんなものを紡いだところで、それに何の意味があるのか。

 紡ぎたくない。

 何も。

 

 早く帰りたい。


「――何言ってんだ久保彩香。真面目な山田がそんなことするわけないだろ。それに、今窓を割るなんて不可能だ。いつもの異常気象だよ。立ってないでさっさと座れ」


 しゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!

 そうだ、そのまま俺を疑わずに全て終われ。

 普段ずっと黙ってれば、それだけで大抵の先生は勝手に『真面目』にカテゴライズするからな。

 こういう時だけ得をするんだ。

 だからチクったところで意味ない。 

 ざまあ。


 俺は有頂天になった。

 

 ――業者さん、さっきは死ねとか思ってすみませんでした。本当に感謝しています。僕は今の僕が嫌いだけど、僕は、今のままでも良いんだなって。業者さんの笑顔が、『君が生きることは間違いじゃないんだよ』って言ってくれたような気がして、本当に救われました。僕はこれからも生きます。ありがとうございます。


「――先生がそう言うと思ったので証拠もあります」


 業者死ね!!!!!!!!!!!


 ◆


 俺が有頂天でいられたのは、せいぜい二秒だった。

 再び絶望感に包まれる。


「え!? 証拠? なになに! やばくね!」

「山田君が窓割った?」

「山田君、ずっと席にいたじゃん!」

「うぇーい!」

「やべえな。わくわくしてきたわ」

「こういうの小学校以来だわ」

「なんか楽しい」


 みんながざわつく。

 生きている心地が無い。

 今まで高校生活を送ってきて、こんなに俺がクローズアップされた経験はない。

 突然、近くの席の人達が話しかけてきた。


「山田君。マジなん?」

「おはよう、山田君!」

「山田君って下の名前なんて言うの?」

「窓割った? ガチで窓割った?」

「どうに割ったん!? 凄い気になる!」

「いや、割るわけないよね。山田君が」

「割るわけないじゃん」

「現実的に考えて無理だろー。な、山田君」


 一斉に話しかけられると何が何だか分からない。

 こういう事態を人生で想定して生きていなかったから、全く対処できない。

 話したこともない人まで、俺に声を掛けている。

 頭が真っ白を通り越してパンクした。

 

「え、あ、え、あ……」


 やばい!!!

 挙動不審になりながら、群衆にヒントを与えてしまった――。

【air】

 空気振動。

 常軌を逸したカチカチによる空気振動で割っていることを、教えてしまった……!!

 ああああああああああああ!! もう終わった! 死ぬ! もう死ぬ! この中に探偵が居たら終わりだ!


「おい山田君困ってるだろー。いじめんなよー」

「わりいわりい、山田君!」

「ごめんね」

「割ってるわけないよな」

「ははは、ごめん山田君」


 ……俺に話しかけることは、いじめに見えるのか?

 話しかけられてちょっと嬉しかったんだけどな。


 やがて、みんなそれぞれの話し相手との会話に戻った。


 一瞬の、嵐のような出来事。


 話しかけられる前に、3,2,1ってカウントでも頭上に表示されてれば、対処できたかもしれない。

 でもそんなものはない。


 いじめとか言うなよ。いじめられてないから。でも、周りからしたら友達が居ないのっていじめと同レベルなんだろうな。全然違う。俺はいじめられてない。自分で勝手にこうなっただけだ。でも周りはそういう目で見てるんだろうな。もう手遅れだわ。


「――」

 



 凹んだ。




「――お前らうるさい。久保の声が全然聞こえないから全員黙れ」


 担任の鋭い声が、俺を凹みの螺旋から連れ戻す。

 しかし、連れ戻された場所は絶望である。

 結局凹んだ。

 ……なんでカチカチしたんだろう。

 カチカチしてなければ、そのまま卒業できたのに。


 やがて、教室が無音になる。業者は窓を真顔で取り付けている。別に今思えば、業者が職を失おうと、どうでもいいよ。

 後悔しかない。


 久保と呼ばれた人間は、依然真っ直ぐ立ったまま、どや顔で俺と担任を交互にちらちら見ている。


 今、初めてフルネームを知った。

 

 もしかして久保彩香は心に闇を抱えているのではないか。

 そうじゃなかったらここまで熱心にチクらないだろう。

 逆に闇が無いとしたら何なんだ。何があそこまで掻き立てるのか。分からない。


「で、証拠ってなんだ。ただの言いがかりだったら山田に謝れ」


 いいぞ担任。今のところ俺が優勢だ。全てはお前が俺を疑うかどうかに掛かっている。頼むぞ。あとはもうお前だけだ。頼みの綱はもう、お前だけだ。

 

「言いがかりなんかじゃないです。ちゃんと割ってるとこ動画に撮りましたから。山田君、ちゃんとカメラ目線で笑いました。完全に割ってます」


 久保彩香がポケットからスマホを取り出し、担任に向かって勢いよく掲げた。

 

 その瞬間、

 

「はい没収ううううううううううううう!! はい携帯使ったあああああああああ!」


 担任が嬉しそうな顔で叫んだ。

 思わず久保が表情を凍らせる。

 

「い、いや! これは違います! 違うんです!」


 手を振り、狼狽する久保。

 久保に近づく担任。

 ざわつく教室。

 ゲンドウがよくやる姿勢で微笑む俺。


 完全勝利――。


 この高校は携帯に関する校則がかなり厳しい。授業中、休み時間問わず、携帯の使用が発見された場合、携帯は没収され、職員室の金庫に厳重に保管される。

 そして、教員の一覧を渡され、その一覧を全て教員のハンコで埋めない限り永遠に携帯は戻って来ない。

 俺もラインの通知音をぽんぽん出して常人感を出してたら、先生に取られた。二週間かかった。

 噂によれば、出張などの兼ね合いで、ハンコの回収に一か月かかる者もおり、中には諦めて新たな携帯を買う者もいるとか。

 異常だ。

 しかし、この異常な校則が功を奏した。天が味方した。

  

 業者さん、ありがとう。あなたたちが笑ってくれて僕のカチカチは報われた。僕は生きてていいんですね。死ねとか思ってすいませんでした。もう、思いません。ありがとう。

 

「え? ちょっと待って? え、ガチ? 先生違うの! 今のは違うから!」

「何が違うんだ。ほれ、今ポケットにしまった携帯を差し出せ」

「やだやだ! ほんとに無理! 携帯ないとか無理だから!」

「今のは完全に校則違反だからなあ。気の毒だが、没収だ」

「…………」


 担任が久保に近づく。

 久保はうなだれて意気消沈している。さっきまでの覇気はどこ吹く風である。ざまあ。

 人をチクると自分に返ってくるんだよ。いい勉強だ。久保。

 俺は勝利を手にし、喜んだ。


「ほれ、携帯」

「先生はそれでいいんですか……」

「ん?」

「携帯を見せるのは、窓を割るより悪いことですか!」

「……ッ!」


 担任の手が、久保に向けられる途中で、ぴたりと止まった。

 それに畳み掛けるように、久保が流暢に言う。

 

「証拠を撮ったんです。完全に割ってます。今まで誰も気付かなかったけど、異常気象なんかじゃないんです」


 業者死ねやおら!!!!!

 

「割るのはいけませんねー」

「もー、仕事増やさないでくださいよー」


 窓を慣れた手つきで付けながら、業者がそう呟いた。

 は? お前らの為に割ってやったんだが?


「――え、まじで割ったの?」

「どうに?」

「山田君、まじで?」

「なんかやばくね」

「は?」

「いやいやいや」

「本当なの?」


 教室全体がざわつく。


 ああ、帰りたい。

 こんなに帰りたかったことは今までない。

 本当に帰りたいときに帰れなくて、何が帰宅部だよ。

 無力だよ。帰宅部は。

 本当に。

 何もかも。

 

「――そこまで言うなら、久保が撮った証拠を見せてみろ。没収はそれからだ」

「え……結局没収するの?」

「没収に決まってるだろうが。お前なあ、考えがゲスだよ。罪で罪を薄めようとするな。薄めるのはカルピスだけでいい。でも薄めすぎるな。人に飲ませた時、薄過ぎたら『あ、こいつんち貧乏だ』と思われるからな」

「…………は? 没収かよ……最悪なんだけど」


 俺も最悪なんだけど。


 大人しく携帯没収されろや……。ほんとお前って奴はもうあれだわ……。

 絶対ばれるわ……。

 自首した方が罪軽くなるかな?


 そんなことを思っているうちに、久保が希望の無い目をしながら携帯を横にした。それを担任が覗きこむ。

 他の人も動画が気になるのか、久保と担任のところに集まってくる。クラスの殆どが集まった。

 座っているのは俺しかいない。

 すごい人口密集率だ。東京みたいだ。

 すると、担任がそれを大声で払いのける。

 

「邪魔邪魔! 見れないから寄ってくんな」

 

 俺にも見せろ、私にも見せて。


 そう言った類の言葉が声高に発せられる。

 俺はそんな様子を希望の無い目でぼーっと見ていた。

 

 ◆


 一度起きた騒ぎはなかなか鎮まらず、いつまで経っても席には俺しか着いていなかった。

 その様子を見かねた担任は、衝撃の言葉を残した。


「じゃあプロジェクターで見るか。一時間目は予定変更して、視聴覚室移動な! うぇーい!」


 ……は?


 その動画に映ってんの俺だぞ。著作権は? 俺のプライバシーは?


「ほれ、さっさと移動しろ!」


 担任は悪魔のような笑みを浮かべている。

 こいつが一番のクソじゃねえか。


「よっしゃあああ!」

「行こうぜみんなァ!」

「待ってろ視聴覚室!」

「俺、視聴覚室の匂い好きなんだよなあ!」

「うぇーい!」

「あ、私、視聴覚室に忘れ物してきたかも」

「何を忘れたの?」

「夢、かな」

「かわいー!」

「きゃあああああああああ!」

「視聴覚室の馬鹿やろー!」


 みんな、大声で何か言いながら教室を出て行く。

 俺は、絶望に潰されて席から立てなかった。机に突っ伏した。目には何も映らない。

 すぐ、教室には誰の声もしなくなった。

 がらんどう。

 ……なんで。

 なんで、全部が最悪の方向に転がってしまったんだろう。プロジェクターで見るとか、もうクラス全員に行き渡るじゃん。俺は、そんなに悪いことをしただろうか。したな。

 でも、それは純粋に窓を割りたかったからじゃなくて、もっと別の感情で――


「山田君、ごめん」

 

 思考を遮って弱々しい声がした。

 突っ伏している中、突然聞こえたのは久保の声だった。

 

「正直、全然こんなに大きくするつもりなくて……」


 言い訳に思えて、ふつふつと怒りが立ち込めた。それでも声を出す気にはなれなかった。


「山田君ってあんなに普通に喋ったり笑ったりできるのに、ずっと一人ぼっちでいるの見て、なんか勿体ないと思って……だから、ああいうのが何か変わるきっかけみたいなのになればいいかな、なんて」


 ぼろを出さないように、言葉を選びまくっているのが伝わる、しどろもどろな口調。


 どうせ、そんなこと思ってもいないんだろう。

 裏があるんだろう。

 人なんてみんなそうだろ。

 大体、三回もチクっておいてそう言われても説得力が無い。

 どうせ裏がある。裏がある。


 ――でも、もしかしたらこいつ俺の事好きなんじゃね。毎朝シャーペンをカチカチする姿を見て、惚れたんじゃね。


 俺は今、話しかけられて舞い上がっている。


 話しかけられてちょっと嬉しい。

 さっき大勢に話しかけられた時も、本当は嬉しかった。それが本当の気持ちだ。


 裏があるんじゃないかと疑う自分と、話しかけられて喜ぶ自分。


 どっちの自分が良いか? 


 自分に聞く。


 俺は机から顔を上げた。

 目の前にいる、何を考えてるか分からない表情の久保と目を合わせる。


「ありがとう、俺の為に」


 俺は、話しかけられて喜ぶ自分を取った。





 ――もうすぐ、視聴覚室で俺の裏が上映される。




------------------------- 第7部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

7話 鉄筋コンクリートに怯える


【本文】

「え。気持ち悪い」


 そう言い残して、久保は走り去った。

 驚くほど淡白に。



 ◆



 教室に独りになった瞬間、高校生活最大の後悔の波が押し寄せてきたことは言うまでもない。

 あんなこと言わなきゃよかった。言わなきゃよかった。なんで言ってしまったんだ。馬鹿か?



『ありがとう。俺の為に』



 そんなの、教室で一言も言語を発さない人間が言う台詞じゃないだろ……。話したことも無いのに、いきなり飛躍しすぎだ。何で数秒前の俺はそんなことも分からなかったんだよ。馬鹿か。

 いつもみたいに「あ、うん」って言っとけば全部済んだだろうが。なんでそんなことも分からないんだよ。いつも死ぬほど「あ、うん」って言ってるだろ。そう言えば良かった。今日に限って何で言わなかった?

 

 高揚していた何かが瞬時に死んで、再び深い絶望が俺を飲み込む。


 今日だけで何回絶望すればいい。

 絶望が俺を求めているとしか思えない。

 人間に求められたい。

 絶望とではなく人間とやりたい。

 そんな普通の感情は全てここに捨てた方がいいかもしれない。

 全然普通の人間じゃないのに普通に憧れるせいで、苦しむのだ。

 期待をするせいで絶望するのだ。

 いつも黙ってる奴なんて気持ち悪くて嫌われてるに決まってるだろ。ただ嫌いだからチクられただけに決まってるだろ。他に意味なんてない。何を期待してるんだよ。

 

「……くぅうううううううううう!」


 今は誰もいない教室を見渡しながら、喉を締め付けて変な裏声で叫んだ。

 そして机をばんばん叩いて、その反動で椅子から落ちて、床の上で思い切りのた打ち回った。まるで無理矢理海から陸に上げられた魚だ。


「あああああああああああああああ……死にたい死にたい、俺はなんであんなこと言った……馬鹿だ馬鹿だ、死にたい。気持ち悪い、あああ……」


 それはシャーペンカチカチプレイヤーの鳴き声。誰かに届くことの無い、鳴き声である。

 勝手に溢れ出してきた声。

 でも教室だと、家みたいな大声は出せない。

 勝手に溢れるものにすら制限をかけてしまう。どうしてだ。

 今、みんな視聴覚室に移動してる。だから声を小さくする必要なんてないんだ。みんなもういない。 


「あ」


 しかし俺から放たれた声は、教室にいるというだけで、無条件に塵のように小さくなった。情けない。

 学校なんてただの建物だろうが。

 何が怖いんだよ。

 建物なんかに怯えるなよ。

 建物は何も喋らない。何も怖くない。

 

「あ」


 それでも小さい声しか出なかった。

 建物の中。

 俺の耳にしか入らない言葉。


 今、日本中の俺以外の人間は何を聞いて、何を見て、何を思って、何を言っているのか。

 

 誰もいない空間に一人で悶えて「あ」と呟く、シャーペンのカチカチが上手い高校生、俺以外にもいるといいな。一人は嫌だ。


 少なく見積もって二、三人はいるかな。

 その二、三人も俺と同じような気持ちを抱えているといいな。

 見えない場所に期待した。

 

 ◆


 埃だらけの床でのた打ち回ったので、制服が汚れだらけになった。

 それを手で落としながら、視聴覚室へ続く廊下を歩く。

 知らないクラスの授業中の教室を通るとき、なんとなく早足になった。なんとなく怖くて俯いた。

 それを繰り返しながら、やがて階段を上って、四階の視聴覚室に着いた。

 俺の制服のポケットには、一本のシャーペンが入っている。

 スペアだ。

 不慮の事態でカチカチしてももう一回カチカチできるように、常時ストックを備えているのだ。それを使わなくてはならないかもしれない。

 もう、使うしかないだろう。


 ――この状況をひっくり返す力。


 それが俺にはある。

 シャーペンをカチカチすれば、俺は誰よりも強くなれる。全てを無かったことにできる。


 ◆


 視聴覚室の扉の前に立つと、そこから足が鉛になって動かなくなった。

 

『え。気持ち悪い』


 さっきの言葉が扉に隙間無く、びっしり貼り付けられている気がした。

 入りたくない。

 帰りたい。それだけがしたい。

 部屋の中から、みんなが騒ぐ声がする。

 みんな、学校でも大声を出せる。学校とかいうコンクリートの塊なんかに萎縮してるのは俺だけだ。どうしてみんな学校で大声を出せるんだ。

 俺の声帯が終わってるだけなのか。

 

『え。気持ち悪い』


 俺は純粋に嫌われていたのだ。

 好かれる要素なんてどこにもない。嫌われる要素しかない。勘違いも甚だしい。少し話しただけで調子に乗ったのが悪い。

 俺にはもう、シャーペンしかない。


 俺は、音を立てないようにゆっくり視聴覚室に入った。


 無意識に呼吸も止めていた。

 部屋の中は既に暗い。

 席は自由なのか、万遍なく散っていたが、運よく存在を気付かれたり視線を向けられることはなかった。

 一番後ろの端の席に着く。すぐ目の前に人がいるが、多分気付かれないだろう。

 

「――これで大丈夫ですね」


 ふいに、業者の声が前方から聞こえた。

 それと同時に、視聴覚室に歓声が上がる。


「業者かっこいい!」

「さすが業者さん!」

「業者、てめーは俺らの仲間だ!」

「業者って彼女いるの?」


 前の奴の背中がでかくて何も見えない。

 何事かと思い立ち上がると、業者がにやけながら頭をかいていた。

 何を業者がしたのか、いまいち飲み込めない。

 そのまま少し経つと、業者の横にいた担任が大声でこう言った。


「スマホの動画をパソコンに移してくれた二人の業者さんに、皆でありがとうございましたって言おう」


 ――は? 

 お前らは永遠に窓の事だけに携わってればいいんだよ。無駄なことするな。なにしてんだクソ。

 どうして俺は業者の為なんかにカチカチしたんだろう。俺の為になることを本当に何一つしてくれないのに。

 

『ありがとうございました』


 クラス全体がお礼を言う。

 何のお礼だ? 全員死ね。

 

「いやー、ほんと一時はどうなる事かと思いました。あと彼女はいません。18歳以上の人誰か僕と付き合ってください」

「プロジェクターで見れないんじゃないかな、という一抹の不安がよぎりましたが何とかなってよかったですね」


 業者が講評をしたあと、担任が遂にパソコンを操作し始めた。

 これで、あとは見るだけ。

 久保に向かって一瞬微笑んでカチカチする姿がみんなに見られる。


 無意識にゆっくりポケットからシャーペンを取り出し、握る。

 手が汗に滲んで震えている。落ち着け。シャーペンがあれば何でもできる。

 大丈夫だ。

 俺は前方の画面に釘付けになる。この担任が操作する画面が俺に切り替わった瞬間、この視聴覚室は阿鼻叫喚の地獄と化す――。

 

「――先生! 動画パソコンに移し終ったじゃん。携帯返して!」


 予期せぬ声を聞いたとき、俺の体がびくんと震えた。思考は中断された。

 久保の声だ。

 俺は視線を無意識に久保の方に向けた。久保はパソコンを操作する担任のすぐ横に立ち、きゃんきゃん騒いでいた。

 それを担任は見向きもせず、淡々と返す。


「往生際が悪いなあ。抵抗せずにさっさと没収されろ」

「無理」

「ちょっとは山田の往生際を見習え。あいつ、ここまでしても文句一言も言わねえんだぞ。お前もああいう往生際になれ」

「……」


 いきなり俺の名前が出るとは思ってなくて、びっくりした。

「ここまでしても」ってなんだよ。俺にひどいことしてる自覚を持った上でこうしてるのか。あいつ一番の糞だな。


「久保、お前携帯依存症ってやつか? それとも携帯が無いと人間関係が保てないのか?」

「は?」

「携帯が無いくらいで壊れる人間関係なら最初からその程度でしかない。だから安心して没収されろ」

「そういうのじゃない。今時携帯持ってない人なんていないし、無いと生活できないから」

「そうか。ちょっと前に山田の携帯を没収したとき、あいつはお前と違って一言も言わなかったけどな」

「あれは人間じゃないもん」

 

 久保がそう言った瞬間、周りに笑いが発生した。

 何も聞きたくなくて、俺は耳をふさいだ。目を閉じた。

 そうだ。俺は人間じゃない。

 人間じゃない。 

 人間がみんな人間だと思うな。

 俺は自分に言い聞かせた。

  

 ◆


 それからずっと目と耳を閉じて、無を作っていたが、しばらくして目と耳を開けると、もう担任の横に久保はいなかった。

 担任は久保に何を言って、久保を諦めさせたのか。

 少し気になったがどうでもよかった。

 どっちにしろ、もうすぐ全てカチカチで吹き飛ぶのだ。

 

「それじゃあ見るか」


 担任が再生しようとする。間もなく、この空間は廃屋と化す。 

 俺はシャーペンを右手に持ち、親指をノック部分に乗せ――――


 無い。

 

 キャップが無い! 消しゴムも無い! なんで! 何で無いんだよ! 


 俺は何度も親指の腹で感触を確かめ、何度も目で確かめる。何度確かめても無い。キャップも消しゴムも、どこにも無い――。

 嘘だろ。何で無いんだよ。

 どこで落とした。

 ああああああああああああああああああああ!

 嫌だ、嫌だ!

 誰かに言って、シャーペン貰うか。……でも誰かって誰。

 

『え。気持ち悪い』


 その声が、俺の体を再び鉛に変えた。人には借りられない。もし奪ったとして、その後なんて言えばいい? 大体、この中の誰とも話したこと無い。

 

 シャーペンのキャップか消しゴムが無いと全力でカチカチできない。全力でカチカチすることができなければ、風なんてまず起きない。

 プロジェクターを壊すこともできない。

 いや、待て。

 爪を立てて、カチカチすればいいだけじゃないのか。親指の腹でカチカチするスタンダードなフォームでは、ろくにシャーペンをノックできない。だが、爪を立てれば深部まで行き届き、ノック可能だ。

 一か八か。

 俺は爪を立てて、ノック部分に置いた。

 これでカチカチすれば、ぎりぎりプロジェクターを壊す程度の烈風は生じるかもしれない。しかし、生じたとしても普段の二割程度のクオリティであることは確定している。長年カチカチしてれば、キャップも消しゴムも無いこの状況が過去最大に絶望的であることは解る。

 でも、立ち向かうしかないのだ。生きるなら。

 

「じゃあみんな、10からカウントしよう。0になった瞬間再生するからな」

『gれvbへうhぅchrvしgjぃjすぃmcふぃcx!!!!!!!!!!!!!』


 歓声が大きすぎて、誰が何を言っているのか分からない。カウントダウンで、視聴覚室は年越し並みに盛り上がった。

 喧騒が半端ない。いくら俺がおちんちんと叫んでも誰の耳にも届かないような気がする。

 叫んでみてえ。おちんちんと叫んでみてえ。

 

『10!』

『9!』

『8!』


 数が小さくなるのに反比例して増す声量と心拍数。

 手が震える。

 果たして上手くいくのか。

 保証はない。

 もし全く風が起こらなかったとしたら、どうなるんだ。想像したくない。

 今日、俺は何度も絶望に飲まれてきた。

 その度に期待し、その度に絶望した。

 でもその度に、強くなった気がする。

 俺は今日、自発的に声を発し、感謝の言葉さえ発した。

 よくやった。俺は今日頑張った。

 

 これがきっと最後だ。


 様々な絶望を乗り越えてきた俺なら、できる。


『3!!』

『2!!!』


 俺は銀河系最強の――


『1!!!!!!!』


 ――シャーペンカチカチプレイヤーだ!!!!!!!!!!



 ◆



「うおおおおおおおおおおおおおおお!」

「カチ」


 ――俺は、第一カチカチをした瞬間、真の絶望に飲み込まれた。


 共鳴しない。


「あぁあああ……」


 絶望に負ける瞬間の、信じられない虚無感。

 風を起こせず落ちていく無力なシャーペン。

 プロジェクターで映し出される、間抜けな俺の微笑み。ぶん殴りたくなる顔だ。

 沸く視聴覚室。

 床に落ちていく血の雫。


「…………」


 俺は、真っ二つに割れた自分の爪を見て、抵抗を諦めた。

 割れた爪からは血が流れ出て止まらない。

 流れる。

 血に混ざって、俺が今まで心に封じ込めてきたものまで流れていく。


 俺はその場に立ち竦み、耳と目を塞いで無に逃げ込んだ。


 なんで学校なんて来てるんだ。

 こんな思いしてまで、学校にいる意味あるか?

 何もしたくない。もういい。ただ高校出たから何だって言うんだ。俺は何もしてない。

 俺がいることで、どの層に需要がある?

 働きたくねえ。学校で終わってたら、社会人になったらもっと終わる。生涯うんこだ。見下されながら、見下しながら、誰とも対等になれず生きていくのだ。

 学校にいたくない。

 なんでそう思う人間になっちゃったんだろうな。


『あれは人間じゃないもん』


 耳を塞いでも声が聞こえてくる。

 無の外でみんなが騒いでいる。

 爪からは血が流れる。

 

 俺は目を開けた。


 ほとんど全員が俺を見ている。


 笑っている。


 爪が痛い。今になってやっと痛くなってきた。



 俺は耳を強く塞ぎながら、走ってその場から逃げた。血以外何も出なかった。

 勝手に早退して、爪の痛みに耐えながら電車に乗って逃げるように家に引き返した。


 ――電車の中の人が別の科の動物に見えた。普通の顔をして誰かと誰かが話している人みんな、頭がおかしい人間に見えた。

 

『見て見て、あれ人間じゃないよ』

『ほんとだ、気持ち悪い』


 視線が怖い。みんなが、電車に乗る俺を見てそんな会話を交わしてる気がする。被害妄想。

 目のやり場が無い。俺は電車のどこを見ればいいのだ。



 俺は次の日から、学校に行くのをやめた。ただの鉄筋コンクリートに怯えた。その中の人に怯えた。


------------------------- 第8部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

最終話 永遠に流れないもの


【本文】

 今日も寝なかった。一分も寝ないまま朝が来て、母が寝ていない俺を起こしに階段を上る音がした。

 もう七時か。既にカーテンの隙間から日が差している。ずっと夜ならいいのに。

 俺は咄嗟にスマホを裏返しにして枕元に置き、いかにも弄ってない感を作って、天井をぼーっと見上げた。

 眠い。目がすごい疲れた。

 今、目を閉じたら、三十秒と経たないうちに眠れる気がする。


 やがて、母の足音が俺の部屋の扉のすぐそばで止まる。

 

 そして何秒か経った後、母がドアを開き、俺の部屋に入ってきた。

 俺は天井を見ている。


「今日はどうするの?」

「行かない」

「……はぁ」


 一瞬の間の後、母が溜息をつく。


 母は無言でしばらく突っ立っている。早く消えてくれないかな。


「もうこれ以上休んじゃだめだよ。辛いのは分かるけど、行かなきゃ。行かないと、全部終わっちゃう」


 きんきんした不快な声でそう言って、俺の上の布団を全て剥がしてきた。

 寒い。

 しかし、俺は布団を再びかぶる気にならなかった。

 母がここから消えた瞬間、かぶるが。まだここにいるときはそういう気にならない。もう今では僅かになった罪悪感がその気にさせない。


「ねぇお願い。お願いだから」

「……」


 やかましい。


 俺は母に背を向けて、この時間が早く過ぎることだけを祈った。


 母はまた無言になるが、しばらくすると俺の腕をつかんで、引っ張る。


「本当に。もう休めないんだよ。お願いだから」

「……」

「もうやめてよ。こんなこと。幼稚園生じゃないんだよ? 高三なんだよ?」

「……」


 腕が引っ張られる。俺は少し腕に力を入れて、抵抗する。


 俺は黙ってこの時間が過ぎるのを待った。母に泣きそうな声で何か言われても今では響かなくなった。

 二学期の終盤。十一月。


 ◆


 数か月前、俺は全てから逃げ出して、雑念に支配されて不登校になった。

 一度勇気を出して休めば、あとは信じられないような速さで俺は学校をさぼることへの抵抗を無くしていった。

 最初は演技をした。

 体調の悪いふりをして、親を騙した。

 でも、何日もさぼりが続くと演技はやめて、ただの不登校になった。


 母は泣き、父はそういう母を見て俺の部屋に来て、何時間も同じような話をループさせ、学校に行かせようとする。


 誰でも言えそうな当たり前のことを言って、学校に行かせようとする。


 両親は何度も学校に行かない理由を問いただす。俺は一度も学校に行かない理由を説明しなかった。言葉にするのが難しく、無言になるだけだった。言いたくなかった。


 俺を一番長く見てきたはずなのに、親は俺が不登校になった理由が分からない。


『昔からそういう性格だったから』『最初からずっとおとなしい子だったから』


 そもそも性格ってなんだ。

 その人がこの世に生まれた瞬間、全ての人間の性格は既に決まっているのか。それとも生まれた後の出来事や経験で決まっていくのか。

 先天性か後天性か。

 俺には分からない。

 親は元から俺がこうだったと言う。

 でも俺はずっと覚えている。遠い昔に父に殴られたこと。怒鳴られたこと。そんなこと普通だ。殴られても怒鳴られても明るい性格の人はいくらでもいる。元から性格が決まっているのなら、ガキの頃に何をされても関係ない。

 父と話すとき、目を合わせられない。母と話すとき、目を合わせられない。

 心のどこかで親を拒絶している自分がいる。

 心を通わせる気が無い。心から話せない。上辺だけになる。

 母とも父とも。

 どんな人とも。

 でも、嫌いになりたくない。だから嫌いだとは言わない。

 

 ネットで病気や障害の事を色々調べる。

 俺に当てはまる項目があると、「やった、俺は発達障害だ。不登校になったのは甘えじゃない」「やった、俺は対人恐怖症だ。不登校になったのは甘えじゃない」「やった、俺は回避性人格障害だ。不登校になったのは甘えじゃない」「やった、俺は社交不安障害だ。不登校になったのは甘えじゃない」と喜ぶ。

 

 ――公衆便所で隣に人が立っていると、小便が出ませんか?


 よし、全く出ない。やった。俺は対人恐怖症だ! 家にいるのは甘えじゃない! うぇーい!


 そうやって喜ぶ。心のどこかでほっとする。

 

 俺は、自分のことを自分のせいにしたくないのだ。生活が全て上手くいかないことを親の教育と人格のせいにして楽をしたいだけなのだ。自分ではコントロールできない病気や障害のせいにして楽をしたいだけなのだ。


 知恵袋で「いじめられてもないのに不登校になるのは甘えですか」と質問するのは、甘えている自覚が自分にあるからだ。


 いつだって何かのせいにしたいのだ。


 今すぐ学校に行かなきゃいけない。学校に行って、将来の為に勉強をして、勉強したら進学して、進学したら就職して、そうやって生きなきゃいけない。

 

 でも、楽をして生きたいのだ。


 今朝も、無言の母がすぐそばに立っている。布団を剥がされて、腕を引っ張られる、幼稚園児のような高三。

 

 ◆


 先日、担任が家に来て、両親と話し合った。

 俺はずっと部屋にいた。


 担任は二枚の紙を持ってきた。

 どの授業をあと何時間休めば単位が出なくなるか、というのが書かれた表だ。


 その日の夜、その表を見た俺は驚いた。

 もう自分がこれほど休んでしまったのか。案外すぐに留年になりかけるんだな。

 すぐに留年の現実味は帯びてきた。

 もう一週間くらいしか休めない。それ以上休んだら留年が確定する。


 担任は、もう一枚紙を持ってきた。ルーズリーフだ。


 それはおそらくクラス全員が俺に宛てた、寄せ書きだった。

 俺はそれを親に渡され、視界に入れた瞬間、裏返した。

 一秒も見ていられなかった。


 それでも、いくつかは見えてしまった。

 

『クラスの仲間が待ってるよ』『学校で待ってるよ』『頑張れ』


 担任に無理矢理書かされたんだろうな。

 俺は自分の部屋に戻った後、その紙をぐちゃぐちゃにして引き裂いてゴミ箱に捨てた。


 ◆


 その日、母はすぐに俺の部屋を出て、一階に戻った。

 その後、母が学校に電話する声が聞こえてきた。

 さっきの俺への口調とは全然違う。いつも通りの母だ。

 俺はさっき剥がされた布団をかぶり、スマホで「不登校 甘え」と検索する。他にも「コミュ障」「ぼっち」「根暗」「引き籠り」「自殺」といったワードを検索するのが大好きだ。

 こうしているうちにやがて眠気に限界が来て、勝手に眠ってしまうだろう。

 でも、何時間経っても寝られなかった。

 眠いのに寝られない。

 

 そのまま何時間か経って、十時ごろになる。


 すると、また階段を上る音がした。俺はすぐに弄っていたスマホを枕元に裏返して置いて、天井を眺めるふりをした。


 ドアを開いた人を見て、俺は驚いた。


 そこには父が立っていた。


 父は悲しそうな顔で俺を見ている。


 仕事を抜け出してきたのだそうだ。俺は驚いた。


『仕事なんかより○○の方が大切だから』と父は言った。


 今の父は俺を殴ることは無い。怒鳴ることも無い。


 父は母と同じような位置に立ち、俺に向かって話しかけてきた。


「学校に行こう。な?」

「……」

「辛いのは分かるよ。でも、行かないと」


 母と同じようなことを言う。何度も、何分も言い続ける。


 俺は黙る。


 やがて、父は俺の腕を引っ張り、起き上がらせようとする。


 母と同じことをする。


 俺は気が付くと泣いていた。


 今までで一番泣いた。涙が止まらなかった。


 俺が泣くと、父も泣いた。今まで泣いているところを見たことがなかった。いつも強い人だった。そんな父が初めて俺の前で泣いた。父は殴ることも怒鳴ることもせず泣いた。


 ◆


 何度も引っ張られて、何度も泣いているうちに俺はベッドから起き上がった。

 

 そしてシャワーを浴びて、腫れた目のまま学校に行った。


 車で学校まで送られた。


 久しぶりに制服を着た。久しぶりに鏡を見た。随分髪が伸びていた。違和感があった。


 久しぶりに学校に行った。玄関には担任がいた。俺を笑って受け入れた。いくら先生が笑っても、学校に来ることが何のためになるのか、全然分からない。

 でも父が顔をぐちゃぐちゃにして泣く姿は二度と見たくなかった。

 俺はそのうち学校を卒業した。


 ◆


 高校を卒業して進学した俺はある日、「シャーペンカチカチ無双」という小説を書いて、ネットに投稿した。


 俺に似た人間を最後まで学校に通わせて、何かに立ち向かわせて何かを救う、どこにでもある話にしたかった。


 でも、徐々に私情が混ざって、誰かに読ませることなんて考えなくなって、何かを救うどころか、主人公はかつての俺と同じように不登校になった。


 もうこれ以上は書けないな。


 そう思って、もう二度と俺がシャーペンカチカチ無双を更新することは無かった。


 そのまま、完結も更新もせず、連載なんて二度としないのに連載中と表示される小説になった。


 ◆


 シャーペンをカチカチしてみる。

 出るのはシャーペンの芯。ゆっくりとしか降りてこない。

 風なんて起こらない。

 何も起こらない。

 変わらない。

  

 そういう世界に俺は生きている。


 変わりたいと思うことはあっても、変えはしない。


 この世界が小説なら、「」を使ってすぐに大声を出せる。いつでも人に何かを言える。嬉しければ笑えて、哀しければ泣ける。好きなら好きだと言えて、嫌いなら嫌いだと言える。助けたければ助けられる。

 でも、現実は小説より遥かに難しい。




 小説の中で人間を操って何かを乗り越えさせて、その様子を誰かにディスプレイ越しに偉そうに見せて喜んでも、書いた俺の現実や読んだ誰かの現実は何も変わらないし、明日も明後日も来年も再来年も何も変わらず、嫌なことは訪れる。文を書いたり文を読んだりしたところで、俺や誰かの嫌なことは一つも消えないのだ。




 小説と違って「」なんて一つも見えないし、人の心の中も見えないし、そう簡単に次の日にならない。


 例えば誰かが俺という人間を小説にしたとき、その人は俺にまず、一体何を喋らせるだろう。

 この世界が誰かに書かれた小説だとしたら、俺はその小説に何行出られるんだろう。

「」を使う機会はあるだろうか。活躍の機会はあるだろうか。


 そういうことを考えているうちに、今日も一日が終わる。


 この文を書いた後も、この文を読んだ後も、多分誰も何も変わらない。


 寝て起きて職場に行く人がいたり学校行く人がいたり家にこもる人がいたりして、時間が流れる。


 そんな繰り返しの中にいることに少し嫌気が差しそうだ。


 小説みたいに全部世界をコントロールできて、自分を鮮やかに変えられる勇気を持てればいいのに。


 せめて永遠に流れないものがあればいいのに。





 〜後半へ続く〜

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