彼の信心
朝早くから、ピタフの連中は大忙しだ。何せ今日は一年に一度の神事。宿屋の商人たちも、果物屋の婆さんも、神事でエイレーネ役を務める踊り子のミシアも、日が昇りきる前から動き始めていた。
おれももちろん、宿屋の主人としての仕事をしていたさ。厨房に指示を出したり、チェックアウトの処理をしたりね。
そんな中、あの吟遊詩人が杖をついて出てきた。
「おはよう、爺さん。よく眠れたかい」
「いい寝台だった。深々と眠ることができた」
「そりゃあよかった。……代金は、約束通り要らないよ」
「そうか……」
老人はそう言って、少し考えるそぶりをした。
「……どうしたよ、爺さん」
尋ねると、老いた黒豹は「足りない」と呟いた。
「何が足りないっていうのさ」
「このピタフで受けた恩に対する、わたしの語りが足りないと感じる。これでは、神々の前に立てぬ。……もう一つかふたつ、物語を吟じてもよいか。もちろん、皆のいる前で」
「そりゃあ、いいけどさ……」
「きみが取り計らってくれるとありがたいのだが」
言葉からは、おれへの信頼が感じ取れた。しかし、おれはしばらく忙しい。
「問題ないと思うよ。何せ、桶を用意するまでが長いんだ。神事の開始も正午だしな。その間に、聞きたい奴らを集めて話すといい。10時になったらおれも暇になる。それ以降なら聞きに行けるよ」
「……わかった」
老人は再びのろのろと歩き出した。おれは、その小さな背を見送った。
500年の時を生きた吟遊詩人……本気で信じたわけじゃない。そんなことあるわけがない。そう考える一方で、「本当にそうかもしれない」とも思う。本当かもしれない、と思わせる説得力が、あの話にはあった。
ふと、爺さんにかけた言葉を思い出した。
──神様を信じないクチなのか?
「神様、かぁ」
おれは密かに呟いた。
おれは「エイレーネの葡萄酒」の話だって作り話だと思ってる。そんなわけあるかよ!って。それに、昨日聞いた話も、本当かどうか、おれには判断がつかない。だけどこれだけはわかったんだ。気づいてしまったんだ。
おお神よ!なんて散々言っておきながら、今までおれは神様を信じてるつもりだったのかもしれないって。
神様なんか、信じていなかったのかもしれないって。
多分今、この町で一番神様を信じてるのは、あの旅の吟遊詩人だ。
爺さんに告げた約束の10時になると、ちょうどエイレーネの通り道とされている石畳の周りに人があつまっていた。爺さんはその人垣を見下ろせる位置にある石に腰を下ろして、ついていた杖を二度、カツンカツンと石にぶつけて鳴らした。
人々は振り返り、爺さんを見つめた。昨日宿屋まで来た子供たちが口々に叫んだ。
「吟遊詩人のおじいちゃんだ!」
「おじいちゃん!」
爺さんは頷き、声を張り上げた。
「今日のこの日、水の神に感謝を捧げる神事を前に、私が一つ物語を吟じよう。いまひとたび、耳を貸してはもらえぬか」
子供たちがわあっと爺さんの周りに集まってくる。昨日聞きそびれた物語を聞けるとあって大喜びだ。おれもその輪の後ろの方に立って、詩人に合図を送った。
おれも聞いてるぜ、ってね。
老人は頷き、子供たちの顔を順繰りに見つめた。
「みな、兄弟姉妹はいるかね。この物語は、とてもとても、仲の良い双子の物語──」
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