物語「神官の息子たち」
500年以上前の話だ。とある砂漠の集落は死に支配されていた。雨の神が機嫌を損ねてしまった日には皆が死を覚悟した。夜の神の吐息にそのまま連れて行かれてしまうものもいた。炎の神に灼かれて倒れる者もいた。日照りの日々が続く中、頼みの水源が枯れ果て……誰もが、水の神を求めていた。
──生贄の血を捧げれば、糧を得た水の神が微笑むことがある。
そう、彼らは信じていた。生贄の血を大地に振り撒けば、時折雨の神が微笑み、水の神が現れる。
桶いっぱいに満ちた血を、渇いた砂に撒くことによって、雨を呼ぶことがある。彼らは、……我々はそう信じていた。
今となってはとんだ迷信だろうがね、当時は信じられていたんだ。
生贄は、弱いものの中から選ばれた。病気のもの。老いたもの。
さきの「エイレーネの葡萄酒」の桶。あれは首を斬り、血を搾るための桶だ。「神の盃」。首を置くために凹ませたその縁に、生贄の首を乗せ、切る。頭がごろりと落ちて、血が溢れる。神に捧げるための飲み物は、もとは人の血であったのだよ。あれは注ぎ口ではない、断頭台のようなものだ。
エイレーネの話の林檎はその名残であろう。さすがに、生首ではいけないからな。……ほら、言ったろう。あの話を信じたいものは聞くことを薦めないと。
そうして、血を撒いて数日して雨が降れば、その生贄は神の一部となった。
正しくは、水の神に連なる神なのだが、ここでは神と呼ぼう。神となった同胞を祀るための祠は、その頃に建てられたものだ。
……まだあるとは思わなんだ。神々はとうに忘れ去られたものだと思っていたが……。丁寧に祀られていて、安心したよ。
いや、話が脱線した。
──雨乞いがうまく行かないこともある。3人捧げても雨が降らないこともある……日照り続きで渇きに苦しんだ集落では、さらに次の生贄が求められていた。候補はもう既に決まっていたのだが、なかなか、どちらにするか決まらなかった。
候補は神官の息子たち……双子の兄弟。兄のイアコス。弟のアレース。
父親は生贄の首を切らねばならぬ。自分の立場を利用してなんとか息子たちを守ってきたが、今度ばかりは無理そうだ。集落の中にはもはや、双子より弱いものはおらなんだ。
イアコスは生まれつき脚を病んでいた。そしてアレースは、やんちゃが過ぎて片目に傷を負っており、そこから入った菌で定期的に熱病に臥せっていた。
困り弱り果てた父親は双子に、全てを委ねることにした。二人で話し合えというのだ。愛する息子たちのどちらかを殺さねばならないことに、父として耐えることができなかったのであろう。父は……優しい男だったから。
それに対して双子はこう答えた。
片方は「死にたくない」
もう片方は、「兄弟に死んでほしくない」と。
かくして、次の生贄が決まった。
わたしは、盃に押しつけられる彼を見ていた。
彼は、盃の前に跪いたまま、わたしを見ていた。
どうしてわたしは「死にたくない」と言ってしまったのか。
今となっては昔のこと。よく覚えていないのだ。後悔していた。自分が生贄になると言えばよかった。そうすれば優しい兄が犠牲になることはなかった。
自分が生贄にと、今すぐ飛び出して父に申し出ることもできた。でも、足が動かない。足が。兄と違って自由なはずの足が動かない。
──死にたくないのだ。わたしは死にたくなかったのだ。
けれども兄は微笑んでいた。わたしの全てを見透かすように。わたしと同じ黒い毛並みで。
「兄弟。気に病むな。大丈夫だ」
「でも、兄弟。ぼくのせいで」
「違う。おれが、望んだのだ」
次の言葉は、父親には聞こえぬよう、唇の形だけで伝えられた。
「愛している。生きてくれ」
父は
ごろりと頭が落ち、血飛沫がそれを汚していく。盃に溜まっていく赤黒い血は、わたしの血でもあった。わたしは叫んでいたように思う。だれかに羽交締めにされていた。それでもその腕を掻い潜って走った。
父が泣きながら盃を抱えようとするのを、わたしは必死に止めた。そして兄の首を取り上げ、その顔に頬を寄せた。
「イアコス」
目を伏せた兄はとても美しかった。わたしはまた、彼を抱きしめた。
父がイアコスの血を撒こうとした瞬間──そこに大粒の雨が降ってきた。雨はイアコスの血を、私の体を、イアコスの首を洗い、流れて川をつくった。民たちは家からまろび出てきて雨を浴び、歓喜し、父は滂沱の涙を流しながら盃を取り落とした。
イアコスが死んだから雨が降ったのか。
イアコスを殺すのが、もう少し遅ければよかったのか。
父は地面に突っ伏し、わたしはイアコスの遺体を抱きしめた。
雨は長く長く降り続き、水溜りを作り……やがてその水溜まりは泉となった。こんこんと湧き出る水に人々は歓喜し……イアコスはついに「神」になった。
「水の神イアコス」。聞いたことはあるか。
ないだろうな。わたしもこの話を人前で披露するのは初めてなのだよ。なにせ、自分と、その兄のことだからね。
そして。神官たる我が父は、神のもたらしたあの美しい泉に、こう名前をつけたのだ。
「
それ以後、人身御供として首を切られるものはいなくなった。……それからの歴史は、君達が知っているものとそう違わないはずだ。そうだろう?
〜〜〜〜〜
誰一人、声も出ずに話を聞いていた。おれもその1人だった。どうにかして絞り出した声が、掠れた響きで食堂に響いた。
「ピタフじゃなくて、エピタフ……」
老人は青い目を細めた。
「呼ばれるうちにそうなったのだろう。これからもピタフでよい」
「……とんでもない話だ。あんたの話が本当なら、あんたは500年近く……」
「そうだな。とんでもない。生きるか死ぬか、いつ死ぬかと思っていたらこんなに長生きしてしまった。……神のご加護かもしれん」
老人は葡萄酒をくっと飲んだ。葡萄酒のグラスは、あまり減っていなかった。
「しかし、血の代わりに葡萄酒とは。洒落ている。神々も喜ぶに違いない」
「……爺さん。その神事、明日だけどさ」
彼は顔を上げておれを見た。
「わたしも参加していいだろうか」
「もちろんだ。そう言おうと思ってたところだ」
老人はそれっきり、グラスの中の液体を見て黙り込んだ。おれは彼の思索の邪魔をさせないよう、残っていた客を部屋に戻し、テーブルの上を片付け始めた。
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