吟遊詩人の語り


「……そしてそのエイレーネの桶が!神の盃が!明日にはちゃあんと、神事に使われるってわけだ。ピタフのやつならみんな知ってる」


 おれは語りを終えて、老人を見やった。彼は食べるのを終えて、空の皿を前に腕を組み、片方のみとなった眼差しで、おれをじっと見ていた。


「食べおわったかい、爺さん。前座はおれがやったから、あとは頼むぜ」

「……ふむ」

 人々の眼差しが吟遊詩人に向く。老人は深々と何かを考え込んでいるようだった。老人は、空になった皿と、おれの顔と、子供たちを見回して、時計を見た。時間は夜の9時を回っていた。


「子供たちは寝る時間だね。早く寝なさい。ここからは子供には聞かせられないお話だ」

 成人した連中からギャハハと笑い声が上がり、子供たちは不服そうに頬を膨らました。

「ええー!」

「ひどい!子供だけ聞けないなんてずるいー!」

 そう言いつつも、親に連れられて幼い子供たちは退散していく。行儀のいい子たちだ。宿に残ったのは、商人連中と、暇な大人たちと、おれだけ。


「大人だけ残すなんて、どんな過激な話を聞かせてくれるのかな」

 おれがニヤニヤしながらそう言えば、老人は思いのほか沈んだ眼差しで、食べ終えた空の皿を見下ろした。


「──エイレーネの葡萄酒の話は、あながち嘘ではない」


 おれはきょとんとした。言い伝えに嘘も本当もあるものか。

「どういう意味だい」

「神が贄を求め、贄がそれに応じた。その原型が、そのように形を変えたのだな。柔らかく優しく、……よい神話になった」

「話が見えない」

おれは爺さんの向かいに座った。

「エイレーネの物語は確かに作り話だけど、なんでそれをあんたが……」


 老獣人の青い瞳が、おれを見た。

「本当の話を聞きたいか。きみには、一宿一飯の恩がある」

「本当の、話?」

 おうむ返しをするおれをよそに、老人は周りにも目を向けた。

「本当の話を聞きたいものだけが残るといい。……エイレーネの物語を信じたいものは、悪いことは言わん、これを聞くのはやめておけ、」

 しかし誰もその場から動こうとしなかった。「本当の」という彼の言葉が皆を惹きつけて離さなかった。

 誰も退出しないのを確認して、老人はおれにこう言った。


「葡萄酒を一杯、もらえるだろうか」

 俺はすぐさま、葡萄酒を彼のグラスに注ぎ入れた。老人はそのグラスに静かに手を合わせた。


「いただきます」


 そうして一口のワインを口に含んだ詩人は、朗々と語り始めた。

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