物語「エイレーネの葡萄酒」


 あるところに、葡萄踏みの娘がいた。娘の名はエイレーネ。葡萄を摘み、その葡萄を桶に入れて踏む、葡萄酒づくりの仕事をしている娘だ。お陰で足は爪まで紫色。でも彼女の作った葡萄酒はとても美味いと評判だった。


 ある朝、エイレーネの耳に、乾いた老人の声が聞こえてきた。


『喉が渇いた、喉が渇いた。美味しい葡萄酒が飲みたい』


 エイレーネはそれを神様の声だと思った。神様は、少し遠くにある、砂漠の祠にいらっしゃるのだと、信心深いエイレーネは信じていた。


「わかりました。どれくらいの葡萄酒をご用意すればいいですか」


 しわがれた声は応えた。


『桶いっぱいの葡萄酒を。桶いっぱいの葡萄酒をくれ……』


 エイレーネはすぐさま、家にある桶の中から一番立派なものを引っ張り出してきた。それは彼女の家に代々伝わる、縁に注ぎ口のついた石造りの重たい桶だった。作りたての葡萄酒をなみなみとそれに注いだ彼女は、その細腕で抱えきれぬほどの重たさになってしまった桶に途方に暮れた。


「神様。とても運べぬ重さになってしまいました」


エイレーネが告げると、神はこう言った。


『少し地面に捨てるがよい。軽くして持ってきてくれ』


エイレーネは言われた通り、ちょっとだけ中身を家の前に撒いた。

少しだけ桶は軽くなった。エイレーネは桶を持ち上げることができるようになった。

しかし、やはり非力なエイレーネは、それより先に進めなくなってしまった。


「神様、神様。重たくてとても運べません」


『少し地面に捨てるが良い』

やや若くなった声が、はっきりとそう言った。エイレーネは、やはりちょっとずつ、葡萄酒を砂の上にこぼしながら、前へ前へと進んでいった。


 オアシスの林檎の木の下に差し掛かると、ちょうど熟れた林檎がエイレーネの持つ桶の中にパシャンと落ちてきた。エイレーネは驚き、桶をひっくり返しそうになった。大量の葡萄酒がこぼれたが、まだ少し残っていた。


「神様、神様、神様! 林檎が入ってしまいました」


『構わぬ、そのまま持って参れ』

神様の声はどんどん若々しく張りを取り戻していった。

エイレーネが葡萄酒の入った桶を神様のもとに届ける頃には、葡萄酒は半分も残っていなかったし、桶の中には林檎も泳いでいたが……。


 祠の前には若く美しい男が立っていて、エイレーネを迎えた。

『よく持ってきてくれた。エイレーネよ』

 神様は、林檎を食し、重たい石の桶から葡萄酒をごくごくと飲み干した。

 するとたちまち神様の足元から水が溢れだし、エイレーネの足を洗った。葡萄の紫色もたちまち洗い落としてしまうほどの、美しい清らかな水であった。

 さらにエイレーネのこぼしてきた葡萄酒のあとは、栄養を含んだ土に変わって、そこに青々とした草が生えてきた。

 そしてエイレーネは、神様に見初められ妻となり、その美しい泉に「ピタフ」と名前をつけた。

 神様は彼女を空の星にし、常に彼女がこの地を見守れるように取り計らった。

 女神の見守る地には、動物が集うようになり、人が集まるようになり。ピタフは泉から、街の名前になった。


 エイレーネは葡萄酒の女神。南のはての星になって、いまも我々を見守っている。


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