神の盃
紫陽_凛
ピタフの訪問者
ピタフのオアシスといえば有名だ。渾々と湧き出る大きな泉の周りに、青々と茂る草木。土がいいのかよく木の実は生るし、木の実が生るから動物が寄り付いて、動物が寄り付くから人だって獣人だって暮らせる。何たって貿易のかなめとして大賑わいなもんだから、あの周りは小さな街だ。
砂漠のど真ん中に見えるから蜃気楼じゃないかって、勘違いする旅人も多い。でもピタフだ、近づいてみりゃわかる。ピタフは本物だ。渇きと飢餓が見せる幻なんかじゃあない。旅人の多くはピタフに着くとこう言うんだ。
「おお、神よ感謝します」
こんな時ばかりはどんな神様に願っても自由。なにせここは、自由な街ピタフだから。人間も獣人も等しく商人として成り立つ素敵なところだぜ。かく言うおれも、一軒しかない宿屋で一儲けの真っ最中。
砂漠を渡ってあちこちから運ばれてきた品物は一度ピタフで止まる。そしてそこでサッと取引が行われ……素早く方々へ散っていくのさ。一部例外を除いて。
例外ってのは葡萄だ。
「神様」に捧げる葡萄酒を作るのに、必要なのさ。一年に一度、決まった時刻に捧げることになってる。両手に抱えきれないほどの大きな器、「神の盃」になみなみ注いで、地面にのませてやるんだ。ごくごくとね。昔っからそういうことになってるんだ。今年は明日!そう明日だ。お陰で商売繁盛中ってワケ。
神様に捧げる葡萄酒は年がら年中醸造中。ピタフに命からがらたどり着いた旅人の多くが、この「葡萄酒」を口にする。ピタフの神のご加護を受けることができる。その上美味いって評判だ。
ま、ちょおっとばかりお高いんだがね。なにせ神様のお酒だからさ。──なかなか、商売上手だろ?
ところで。
沢山のターフがはためくピタフの細い路地を、杖を片手に行く男がいる。いかにも貧相な体つきで、砂色のオンボロのマントを引っかぶり、顔は窺い知れない。しかしここはピタフの街、よそ者を追い出すことなどしない。
「よお爺さん。ピタフの街は初めてかい」
声をかけると、フードの人影はふらりと顔を上げた。思った通りの爺さんだ。しかも、黒豹の獣人ときている。老いた顔には飢えが滲み、今にも倒れそうだ。
「若いの。……水を一口くれんかね」
「水と言わず、食べ物も葡萄酒もあるぜ。金次第だが」
「あいにく、持ち合わせがない」
老獣人はしわがれた声で言った。片目が盲いているのが見てとれた。
「持ち合わせがないが、わたしは吟遊詩人をやっている。物語なら聞かせてやれる。200……あるいは300ほど、物語なら、幾らでも」
おれの頭は算盤を弾きまくっていた。
これは珍しい客だ。吟遊詩人なんて滅多にお目にかかれない。
おそらくこの爺に奢ったとしても、その詩だか物語だかを喧伝してピタフ中の奴らを呼び寄せ、そいつらからちょっとずつ観覧料を取れりゃあもとは取れる。なにしろ、ものめずらしい吟遊詩人だ。商人の噂話とは訳がちがう。たとえ話の内容がまったくの見当違いでも、200以上なら数で誤魔化せるだろう。
「ああ、なら俺の宿屋に来るといい。飯と水と、寝床を手配する。そのかわり、俺の客に取っときの面白い話を聞かせてやってくれないか」
「それで、よいのなら、ありがたい」
老人はそこでよろめいた。おれは彼の肩を支えてやった。そしてふと、思いついたように聞いてみた。
「……じいさん、神様は信じないクチかい?」
「なぜそんなことを聞くのだ」
「大抵の旅人が、おれの申し出に大喜びして、神様に感謝するからさ」
老獣人は一瞬黙り込んだ。
「信じていないのではない。神はそこにおわすのだ。……もちろん、感謝しているとも。君にも、神々にもね」
〜〜〜〜〜
吟遊詩人の話を聞きに、子供たちが訪れる。その母親と父親も。噂好きの果物屋の婆さんも。その晩宿に泊まることになっていた砂漠の商人たちも。
しかし当の吟遊詩人は静かに食事の真っ最中だ。
最初、老人は皿の前で手を合わせた。それから肉を丁寧に切り分け、口へ運ぶ。スープにも手を合わせ、スプーンで掬って飲む。その一連の動作がひどくのろのろしているようにおれには思われたが、客人の食事のスピードに文句をつけるわけにもいかず、腹が満たない詩人に何か吟じてみてくれと頼むわけにもいかない。
「美味いか、爺さん」
「ああ、とても」
「……そろそろ、お客がいっぱいになってきたんだがねえ、」
「もう少し、待ってはくれないか」
そう言われちゃ、仕方ない。
「おはなし、まだなの?」
「まーだー?」
子供が騒ぎ始めた。おれは内心舌打ちをして、「もうちょっと」と彼らを宥めた。
爺さんはといえば、野菜にまで手を合わせている。手を合わせないと食事を始められないと言う決まりでもあるのか?
仕方ない。
「吟遊詩人の方はまだお食事中だから、ツナギに俺が何か話そうか。何がいい?」
子供たちは口々に言った。
「葡萄酒とエイレーネのお話!」
「僕もそれがいい!」
俺はえへん、と咳払いをした。
「では、『エイレーネの葡萄酒』にしよう」
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