18 雪混じりの闇の中で


 吹きすさぶ雪混じりの風が樹氷の間を渡り、泣くような音を立てる。


 風に混じって聞こえるのは、ふぉ――んと鳴く氷狐の声だ。


 夜空には千切れたような雲が浮かび、月の光さえ、雪と氷に閉ざされたこの森では差し込んだ途端に凍りつくのではないかと思われる。


 凍りついた枝が途切れ、わずかに開けた雪の上。十数匹もの氷狐に囲まれて端然たんぜんすのは、氷の魔霊であるレシェルレーナだ。


 雪よりもなお白い肌。氷片を散りばめたように輝き、風に揺らめく銀の髪。微笑みを浮かべる人外の美貌は彼女が恐ろしい魔霊だと知っても、見惚れる者が後を絶たぬだろう。


「そう。今年もヴェルフレムがわたくしの氷狐を……」


 うっとりと呟き、一番そばでお座りする氷狐の頭を撫でていたレシェルレーナの細く白い指先が、不意に止まる。


 ロナル村に放っていた氷狐も雪も、すべてヴェルフレムに跡形もなく融かされた。


 けれど、融かされ流れた水は、ふたたび雪となってレシェルレーナのところへかえってきて、伝えるべき情報を伝えてくれる。


 ヴェルフレムが想像している以上に、レシェルレーナはラルスレード領の状況を把握しているのだ。氷狐が見、感じたものは、レシェルレーナも経験したことと言って過言ではない。


「……なんですって? また聖女が?」


 レシェルレーナの呟きに、同意するように氷狐がふぉーんと鳴く。


「ヴェルフレムとともにロナル村へ来ただけでは飽き足らず、彼の外套を着て、たくましい腕に抱かれて……」


 呟くにつれて、白い繊手せんしゅが氷狐の頭にゆっくりと沈んでゆく。


「許せないわね」


 言葉と同時に、氷狐の頭が握り潰される。氷狐が鳴き声ひとつ立てずに雪と化して、ばらばらと崩れ落ちた。


 だが、レシェルレーナはまなざしひとつ投げかけない。


 氷狐など、氷の魔霊であるレシェルレーナにとってはいくらでも創り出せる使い捨ての存在に過ぎない。


 どれだけヴェルフレムに燃やされようと融かせられようと、痛くもかゆくもない。


 ただ、金の瞳が氷狐を通してレシェルレーナを見つめ、ヴェルフレムの炎がレシェルレーナをかき抱くように氷狐を融かしているのだと思うと。


「ふふ。うふふふふ……」


 凍りついた身体にもかかわらず、芯に熱が宿る心地がする。


「ヴェルフレムったら、ひどいわ」


 口元に笑みを浮かべ、レシェルレーナは歌うように呟く。


「わたくしというものがありながら、ほんのわずかな時間しか生きられない聖女なんかにうつつを抜かすなんて」


 氷と炎。同じ魔霊でありながら、決して相容あいいれない存在。けれど。


 三百年前、ヴェルフレムの炎に融かされ、北の地に追いやられてからずっと、レシェルレーナの心には、真紅の炎が灯っている。


 それを恋と呼ぶのか、執着と呼ぶのか……。そんなことはどうだっていい。


 ただ、ヴェルフレムの心からレシェルレーナが消えぬように、毎年、収穫前の大切な時期に彼が大切に守る領地にちょっかいを出し、彼の炎を味わい……。


 彼の心が自分へ向けられるのをたのしんでいるというのに。


「また、『聖婚』の聖女が……」


 今まで、何人もの聖女がヴェルフレムに嫁いできた。


 それらの中にはヴェルフレムとともにラルスレード領を巡る者もいた。彼と親しげに言葉を交わし、微笑みあう者も。


 けれど、ヴェルフレムが抱き上げていた者はいただろうか。氷狐がいる村へわざわざ連れてきた者も。


 いや、もしかしたらこれは。


「……わたくしが、聖女を害してよいということかしら……?」


 うふふ、とレシェルレーナは形よい唇に笑みを刻む。


 ヴェルフレムが、一定の距離を置きながらもいつも礼儀正しく接していた聖女達。レシェルレーナがいるというのに、さも当然の顔をしてヴェルフレムの『妻』として居座る聖女達が、いつも腹立たしくて仕方がなかった。


 人と魔霊はその身に宿す時が違う。儚い人の身では、悠久の時を生きる魔霊に添い遂げられるわけがないのに。


 分不相応な座にのうのうとおさまっている聖女をこの手にかけたら、どれほどすっきりするだろう。


 怒りに満ちた金の瞳がレシェルレーナを射貫くかと思っただけで、身体の芯が喜びにぞくぞくと震えてくる。


 そうだ。ヴェルフレムはレシェルレーナのものなのだから。


 燃え盛る真紅の炎にこの身を融かされ――。だが、同時にヴェルフレムも無事では済むまい。


 あらがおうとする炎を己の身の中に閉じ込め、最後の炎が消えゆくのを見守るのは、どれほど甘美だろうか。


 考えるだけで、抑えきれぬ笑みがこぼれ出る。


「本当に、楽しみだこと……」


 レシェルレーナの笑い声に氷狐の鳴き声が重なる。


 雪混じりの風にさらわれ、深い闇の中へ散る声を聞くものは、無言で夜空に座す月と星々しか、いなかった。


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